アンラッキーチョイス― 爆弾と猫と元刑事 ―
俺は昔から、人にこう呼ばれている。
世界一ツイてる男。
もちろん、褒め言葉として言われたことは一度もない。
たとえば高校時代、修学旅行の自由行動で迷子になった俺は、偶然にも地元テレビ局の街頭インタビューに捕まり、全国ネットで「鹿せんべいを自分で食べようとして鹿に囲まれた男子高校生」として晒された。
警察学校では、射撃訓練の初日に的ではなく、天井のスプリンクラーを撃ち抜いた。おかげで同期全員がずぶ濡れになり、教官から「おまえは犯人より先に署を壊す」と褒められた。いや、あれはたぶん褒め言葉ではない。
結婚生活では、結婚記念日に妻へサプライズをしようとして、予約したレストランを間違え、知らない老夫婦の金婚式に乱入した。妻はその夜、俺ではなく老夫婦に花束を渡して帰った。
現在。
俺は独身。
バツイチ。
子どもは別れた妻のところ。
そして職業は、しがない探偵――と言いたいところだが、正確にはまだ探偵ではない。
警察官である。
いや、だった。
今は、ちょっとしたトラブルにより、警察手帳と拳銃を課長に預けている。
世間ではそれを休職というらしいが、俺は人生における必要なアイドリング期間だと思っている。エンジンを温めているだけだ。決して停車しているわけではない。ましてや廃車寸前でもない。
部屋は、駅前雑居ビルの四階にあるワンルームだった。
表札には、手書きでこう貼ってある。
《ユーヤ探偵事務所・準備室》
準備室。
なんとも可能性に満ちた言葉だ。
まだ始まっていないだけで、失敗していない。
俺は昨日、近所のマンションやアパートのポストに、片っ端から自作のチラシを突っ込んでおいた。
チラシには、こう書いた。
《浮気調査・人探し・迷い猫・その他人生相談まで。元刑事の確かな捜査力。初回相談無料。ユーヤ探偵事務所》
我ながら完璧だ。
ただし、プリンターのインクが切れかけていたせいで、後半の文字は薄く、俺の顔写真は半分だけ緑色になっていた。まあ、個性だ。
そろそろ依頼人が来るころだろう。
なぜなら、俺は世界一ツイてる男だからだ。
ドンドンドン!
ほら来た。
俺はソファ代わりの折りたたみベッドから立ち上がった。
ちなみに朝食兼昼食兼夕食として、冷凍のローストチキンをオーブンに突っ込んである。刑事時代に身につけた時間管理能力のおかげで、焼き上がりまであと少しのはずだ。
玄関へ向かい、ドアを開ける。
「ご依頼ですか?」
そこに立っていたのは、鼻息の荒い管理人のおばさんだった。
目が怖い。
手には俺のチラシが握られている。
「あんたね! これ勝手にポストに入れたの!」
「宣伝活動と言っていただきたい」
「迷惑行為って言うのよ!」
「いや、しかし、地域密着型の――」
「今度やったら警察に言うからね!」
「元警察ですが」
「だから何よ!」
バタン!
言いたいことだけ言って、管理人は帰っていった。
まあ、こんなこともある。
クレームが来るということは、チラシが読まれたということだ。つまり宣伝効果はあった。ポジティブに考えよう。俺は前向きな男だ。
ドンドンドン!
また来た。
今度こそ依頼人だ。
俺は髪を手ぐしで整え、なるべく渋い顔を作ってドアを開けた。
「ユーヤ探偵事務所へようこそ」
化粧の濃い中年女性が、俺を押しのけるように部屋へ飛び込んできた。
香水が強い。
あと、声も強い。
「うちのシャルロットちゃんがいなくなったのよ! 早く! 早く探してちょうだい!」
「落ち着いてください、奥さん」
「奥さんじゃないわよ!」
「では、お嬢さん」
「それはそれでイヤミに聞こえるわね!」
難しい依頼人だ。
しかし、俺は元刑事である。現場にはいろいろな人間がいる。酔っ払い、怒鳴る上司、泣き崩れる被害者、なぜか全裸でコンビニに入った男。多少のことでは動じない。
「まず、シャルロットさんの特徴を教えてください。年齢、性別、最後に見た場所」
「年は五歳。女の子。ふわふわで、白と茶色で、ちょっと太めで、世界一かわいいの」
「お子さんですか」
「子どもよ!」
「写真は?」
「あるわ!」
女性はスマホを取り出し、画面を俺に突きつけた。
そこには、女性本人と、丸々太った猫が写っていた。
「こちらは……」
「シャルロットちゃんよ!」
「猫じゃないですか」
「うちの子よ!」
なるほど。
迷い猫。
探偵業の第一歩としては悪くない。
浮気調査や失踪事件より、むしろ平和でいい。猫は嘘をつかない。まあ、こちらの言うことも聞かないが。
「わかりました。引き受けましょう」
「ほんと!? よかった! 警察に言っても、猫は事件じゃないって!」
「警察にも都合がありまして」
「元警察なんでしょ? だったら何とかしてよ!」
元警察という言葉が、こんなに早く役立つとは。
俺は胸を張った。
「お任せください。シャルロットちゃんの行動範囲、好物、性格、過去の脱走歴などを――」
そこで、女性が急に鼻をひくつかせた。
「ねえ、なんか焦げ臭くない?」
「俺は金がなくても風呂には入ってます」
「そういう臭いじゃないわよ!」
焦げ臭い。
その言葉で、俺の脳内にひとつの映像が蘇った。
オーブン。
チキン。
設定温度二百二十度。
焼き時間、適当。
「アアアアアアアッ!」
俺はキッチンへ走った。
オーブンの扉を開ける。
中から、黒い物体が現れた。
かつて鶏だったもの。
今は、炭素に近い何か。
煙がもくもく上がっている。
「よかった……」
「どこがよ!」
「火事になっていない」
やはり俺はツイている。
爆発もしなかった。
部屋も燃えていない。
チキンは死んだが、俺は生きている。
人生とは、そういう取捨選択の連続だ。
「シャルロットちゃんはどうなるのよ!」
「もちろん探します。まずは聞き込みを――」
ピンポーン。
今度はチャイムが鳴った。
探偵事務所らしくなってきた。
依頼が連鎖する。
成功者の匂いがする。
俺は女性に手のひらを向けた。
「少々お待ちを。新しい依頼人かもしれません」
「猫より優先する気!?」
「依頼は順番に公平に扱います」
ドアを開けると、宅配業者の青年が立っていた。
「お荷物でーす。サインお願いしまーす」
依頼人ではなかった。
だが荷物はありがたい。
差出人を見る。
空欄。
宛名は俺。
品名の欄には、こう書いてある。
《花火》
花火。
季節外れだ。
しかし、もらえるものはもらっておくのが俺の主義である。
サインをして荷物を受け取り、部屋へ戻る。
「それ、今開ける必要あるの?」
女性が眉を吊り上げる。
「あります」
「なんでよ」
「差出人不明の荷物は、中身を確認するのが元刑事の習性です」
「なら警戒しなさいよ!」
正論だった。
しかし、俺は段ボールを開けた。
中には、丁寧に梱包された木箱と、封筒が入っていた。
封筒を開ける。
紙には一行だけ。
『花火は好きか?』
「粋だな」
「不気味でしょ!」
「たしかに、食べ物のほうがよかった」
俺は木箱の蓋を開けた。
その瞬間、部屋の空気が変わった。
箱の中には、ドラマでしか見たことのないものが入っていた。
デジタル表示。
赤い数字。
束ねられたコード。
筒状の物体が数本。
点滅するランプ。
どう見ても、時限爆弾だった。
残り時間。
00:00:42
女性が息を吸った。
「ば、ばばばばばばくだん!」
「落ち着いてください」
「落ち着けるわけないでしょ!」
「大丈夫です。俺は元刑事です」
「爆発物処理班だったの!?」
「いいえ。生活安全課です」
「終わったわ!」
失礼な。
生活安全課は市民の平和を守る重要な部署だ。
ただし爆弾処理はしない。
俺は箱の中を覗き込んだ。
42秒。
41秒。
40秒。
カウントダウンは律儀に進んでいる。
「奥さん」
「だから奥さんじゃない!」
「逃げてください」
「言われなくても逃げるわよ!」
女性はバッグを抱え、ものすごい勢いで玄関へ走った。
去り際に振り返る。
「シャルロットちゃん探してよね!」
「今それ!?」
ドアが閉まった。
部屋に俺と爆弾だけが残された。
いや、正確には丸焦げのチキンもいる。
37秒。
俺は額の汗を拭った。
こういうとき、人間の本質が出る。
逃げるか。
解除するか。
俺は元刑事だ。
市民の安全を守る男だ。
たとえ警察手帳と拳銃を課長に預けていても、魂まで預けた覚えはない。
それに、爆発すればこのビルだけでは済まないかもしれない。隣の部屋には、いつも爆音でゲームをしている大学生がいる。上の階には、毎朝五時に掃除機をかける謎の老人がいる。下の階には、妙に愛想のいい整体師がいる。
みんな、少しだけ迷惑だ。
だが、死んでいいわけではない。
「やるか」
俺は膝をついた。
こういう爆弾は、赤か青のコードを切ればいい。
映画で何度も見た。
問題は、コードが多いことだった。
赤。
青。
黄。
緑。
白。
黒。
ピンク。
七本。
ラッキーセブンだ。
ツイている。
確率は七分の一。
宝くじよりずっと当たりやすい。
ただし外れたら死ぬ。
33秒。
俺は周囲を見回した。
「ハサミ……ハサミはどこだ」
ない。
なぜ必要なときにハサミは消えるのか。
人類永遠の謎である。
しかし俺にはナイフがある。
さっきチキンを切るつもりで出しておいたナイフだ。
チキンは切る前に炭になったが、ナイフは生きている。
やはりツイている。
俺は爆弾入りの木箱を抱え、キッチンへ走った。
27秒。
ナイフを掴む。
どのコードを切るか。
赤。
俺の今日のシャツは赤だ。
赤は情熱の色。
勝利の色。
そして俺のラッキーカラー。
警察学校の教官は「おまえは赤信号も見落としそうだ」と言っていた。つまり赤は俺に縁がある。
決まりだ。
「赤だ」
俺はナイフを赤いコードへ当てた。
24秒。
手が震える。
こんなとき、煙草があれば渋く一服するところだ。
だが俺は禁煙中である。
決して金がなくて買えないわけではない。
22秒。
「世界一ツイてる男を、なめるなよ」
俺はコードを切った。
ブチッ。
数字が止まった。
00:00:07
「……止まった」
俺は笑った。
笑いが込み上げた。
やはり俺はツイている。
見たか、世界。
生活安全課でも爆弾は止められる。
課長に電話して言ってやろう。
いや、その前に動画を撮るべきか。
《元刑事、爆弾解除してみた》
バズる。
探偵業にも弾みがつく。
そのとき、爆弾が鳴った。
ピッ。
数字が動いた。
00:00:06
「おい」
ピッ。
00:00:05
「止まったんじゃないのか」
ピッ。
00:00:04
俺の脳が、一瞬で冷静になった。
爆弾を解除できないなら、選択肢はひとつ。
逃げる。
逃げ足には自信がある。
刑事時代、犯人を追いかけるより、課長の説教から逃げるほうが速かった男だ。
俺は窓を開けた。
風が入る。
外には夕方の街。
道路。
電線。
向かいのビル。
それから、地面。
遠い。
非常に遠い。
ピッ。
00:00:03
俺は思い出した。
ここは四階だ。
ピッ。
00:00:02
「……階段にすればよかった」
ピッ。
00:00:01
俺は爆弾を抱えたまま窓から飛び出した。
世界が斜めになった。
空。
ビル。
俺の部屋。
丸焦げのチキン。
遠ざかる窓。
そして、爆発。
ドーン!
炎と煙が背中を押した。
ガラス片が陽を弾き、コンクリートの破片が飛び、俺はまるでアクション映画の主人公のように空中へ投げ出された。
問題は、俺がアクション映画の主人公ではないことだった。
地面が近づく。
俺は叫んだ。
「やっぱりツイてねええええええ!」
だが、ここで終わらないのが俺である。
俺は世界一ツイてる男だ。
落下地点には、ちょうど引っ越し業者のトラックが停まっていた。
荷台には、ふかふかのマットレスが山積み。
俺はその上へ背中から落ちた。
ぼふん。
肺の空気が全部出た。
視界が白くなった。
だが、生きている。
全身は痛い。
耳は鳴っている。
髪は焦げ臭い。
けれど、生きている。
やはり俺はツイている。
トラックの脇で、さっきの管理人のおばさんが口を開けていた。
「ちょっと! あんた何やってんの!」
俺はマットレスの上で親指を立てた。
「宣伝活動です」
「警察呼ぶわよ!」
「元警察です」
「だから何なのよ!」
遠くからサイレンが聞こえた。
爆発の煙が、ビルの四階からもくもく上がっている。
俺の探偵事務所・準備室は、準備段階で廃墟になった。
だが、収穫もあった。
爆弾の送り主。
消えた猫。
妙にタイミングの良すぎる宅配便。
これは、ただの事故ではない。
事件だ。
そして事件があるところに、探偵の出番がある。
俺はマットレスの上で、ゆっくりと身を起こした。
そのとき、足元から「にゃあ」と声がした。
見ると、トラックの荷台の端に、丸々太った白茶の猫が座っていた。
首輪には、金色のプレート。
《Charlotte》
シャルロット。
依頼対象、発見。
爆発で吹き飛ばされ、四階から落ち、マットレスに助けられた直後に、迷い猫まで見つける。
これ以上ない成果だ。
俺は猫を抱き上げた。
シャルロットは不機嫌そうに俺の顔を見て、前足で俺の頬を叩いた。
痛い。
しかし、これも信頼のスキンシップだろう。
「ほらな」
俺は煙を上げる自分の部屋を見上げ、にやりと笑った。
「やっぱり俺は、世界一ツイてる男だ」
その直後、上から丸焦げのチキンが落ちてきて、俺の頭に直撃した。
意識が飛ぶ寸前、俺は思った。
夕飯まで降ってくるとは。
今日は、本当にツイている。




