4th Synchronization
わたしは歩いた。舗装された道は果て、草木生い茂る小高い山を上った。分け入っても分け入っても青い山。木の根に足を取られながら、草木に股を切られながら、両手の裾を土気色に緑に汚しながら、進む。
時計をみる。始業まで残り二分。遅刻は確定。でもわたしの心は、自分でも怖いくらいに落ち着いていた。
この先にわたしの人生を変えるであろう何かがあることを信じて疑わなかった。
「近い……」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
におい。何か動物のにおい。獣のようなにおいじゃない。しかし魚類のような生臭さもない。その中間のにおい。丁度爬虫類の、冷たさが感じられるにおい。周りの空気に溶け込んだにおい。
……わたしは、この時点で先に何があるか、分かっていたと思う。
だからだろう……わたしの瞳が地面に寝そべる巨大な〝竜〟を捉えて、冷や汗を流し、恐れおののき、立ち竦んでも、なお、冷静にその全体の像をしっかりと眺めることができた。
「竜……」
細長い、いわゆる東洋的な竜。
巨大。
全長は十メートルは超えるだろう。長細いと言ってもそれはあくまで竜の全長に比してであり、胴の高さはわたしの背の高さより少し小さい程度ある。全身は硬そうなごつごつとした緑色の鱗に覆われている。ねじれた小さな角が、瞳の後ろ側にちょこんと備わっている。
これが……竜。
この街の空を守り続けてきた、竜。
蛇の突然変異種といわれているが、からだが細長い以外、あまり蛇らしさが感じられない。髭があり、鱗も巨大な鯉のもののようだった。わたしが近づくと、ぎょろりと瞳を見開いた。人の頭ほどの大きさのある瞳だ。ただ、その瞳は灰色で、焦点もしっかりとは定まっていないようだ。
竜は、わたしを見つめ、のっそりと起き上がり、ぐぐぐっと顔を近づけてきた。わたしは身を仰け反らせた。逃げられなかった。からだが硬直してしまった。不用意に近づきすぎた。もしも口を開ければ、人間なんて軽く飲み込んでしまいそうだ。
竜は舌をチロチロと飛び出させた。その、二叉に分かれる舌先は、確かに蛇らしさを主張していた。
「…………人間の……女か」
喋った……。低くからだじゅうに響き渡るような声だった。息が止まった。竜が人語を解した、そればかりじゃない。その声が、先程頭の中に響いたものと同じものだったからだ。
同じもの……? さっきの声に、高いも低いもあっただろうか。いや、信号のように感じただけだったはずだ。まるで、文字を読んでいるような感じだったはずだ。でも、実際この竜の声を聞くと、先程『まったく勝手なもんだぜ』と頭に直接流れ込んできたそれは、この竜の声以外には考えられなくなってしまった。この声に固定されてしまった。
「あなたは……」
「……オレを追ってきたわけじゃなさそうだなァ」
竜はまたからだを地面に預け、わたしを虚ろな瞳で捉えながら、チロチロと舌を出し動かしていた。そして……
「おい、学校はいいのか」
その問いはあまりに予想外だった。まさか、あの〝竜〟からこんな所帯じみた言葉が聞けるだなんて。
答えられなかった。流石に、並の人間じゃ無理だろう。わたしは残念ながら並の人間だ。
しかしそれ以上に気になって仕方ないのが、竜の瞳だ。依然焦点のしっかり定まらない視線で、寝ぼけたような瞳でわたしを見つめてくる。
「……あなた……目が……?」
竜はわたしの言葉を肯定するように、からだをにゅるにゅると動かした。少し動いただけで、からだを押し付けられた傍らの木がミシミシと悲鳴を上げた。
「けぇっけっけっ! まさか人間なんぞに心配されるとはなァ? あぁッたく、オレも落ちぶれたもんだ。ちょっと前まで敵無しだったってのに、情けねぇ……。そうさ。オレは目が見えねぇ。近づけば、見えねぇこともねぇが、ま、空を飛ぶにゃちぃと無理があるな。けぇっけっけっけ! なンなら触れ回ってもいいんだぜ? あの完全無敵の竜は、目が見えなくなって山で隠居してるってなッ! ま、信じてもらえるかは分からねぇけどな! けぇけっけぇけっけ!」
まさか竜の消えた原因が視力の低下だったとは。いつまでも無敵・最強のままではいられない。諸行無常の響きあり……。
しかしおかしな笑い方をする。また人間の事情によく精通しているような物言い。それでいて、竜の話し方があまりにも親しみやすかったので、わたしはすっかり無防備になってしまった。そして、近づいた。竜も、特に軽快する素振りを見せない。
「あ、怪我してる……」
竜のからだの一部分、鱗が取れかけて、血が滲み出ている場所がある。
「けぇけっけっけっけっ! 平気だ平気だ。たいしたこっちゃねぇ。そんなもん放っとけ放っとけ」
「でも……」
わたしは、つい、竜の体に触れてしまった。
その瞬間だった。――
わたしの突然変異種能力が暴走した。
わたしの感情が、記憶が、暴かれて、竜へ流れ込むのが分かる。
嫌だ。恐い。止めなきゃ。でもどうしようもできない。止められない。濁流の中に身を投じ足掻いているよう。水を掻いても掻いても押し寄せる波に任せるしかできない。
すると徐々に徐々に、足掻こうという気すら起きなくなる。感覚が溶けて消えて行く。意思が空に発散して行く。
そして、わたしごと吸い込まれた。
姿形が無になって、記憶だけの、感情も何もない存在になって、竜と一体化してしまった。いや、その言い方はおかしいかもしれない。竜の感覚は、記憶は、一切わたしに入ってこなかった。ただ一方的に、わたしはすべてを竜へ預けてしまった。
わたしは真っ暗な空間にいた。いや、その言い方もおかしい。わたしは感情も感覚もない、ただの記憶なのだから。光を感じることなんてできない。わたしに真っ暗という概念は無い。わたし、という言葉もおかしい。彼女? 彼? わたしはわたしを〝それ〟と呼ばなければならない。
〝それ〟は、真空の充ち満ちた空間で、竜の咆吼を記憶していた。まるで遠くの出来事のように。
見える、見えるぞッ!
竜の驚喜が記憶として送られてきた。〝それ〟は、〝それ〟の感覚が竜へ奪われたことを理解した。そのことが恐いとも嫌だとも、最早思うことができなかった。
〝それ〟は、何も感じず、何も思わず、ただ、竜の叫びに身を任せていた。
〝それ〟は時間という概念を失い、無限に伸びきった時の中を生きた。
はっと目を覚ます。耳に入る虫の声。むせるような緑のにおい。木々。木漏れ日。目の前には竜。その緑の鱗の感触。非日常の、しかし確かな現実の光景。
肩で息をして、全身から汗が噴き出している。拭う。長い自分の髪の、毛先までしっとりと濡れている。
理解できない。頭を整理できない。なんだったのか。何が起こったのか。
何が起ころうとしているのか。
「おい……お前……」
竜がしずかに顔を擡げる。その瞳は依然焦点が定まらない。
「お前、突然変異種だな?」
心臓が跳ね上がる。呼吸が止まる。
「オレは……お前がオレに触れたとき……いろいろごちゃごちゃと目も耳もうるさくなったが……同時になァ……確かに、〝見えた〟。オレの目で、じゃないが、多分、お前の目でもって、世界をハッキリと、見ることができた」
半分寝ぼけたような瞳が懸命にわたしを捉えている。
恐い。
感情がだんだんとよみがえる。思考がむくりと起き上がる。状況を何となく理解し、足ががくがくと震える。
脳内に染み込んでしまった、わたしが、わたしでなくなってしまうような体験。
「おい!」
竜が叫んだ。わたしのからだはびくっと弾かれた。
「お願いだ、オレの力になってくれッ! 頼む、オレはもう一度飛ばなきゃならねぇ! お前の力があれば、きっとまたオレは――」
竜の懇願を聞き終える前に、わたしは、わたしのからだは、その場を逃げ出してしまっていた。