10th Restoration
朝のニュース番組では竜のことが取り上げられていた。できればテレビを切って欲しかったけど、両親がともに居間で堂々と見ていたのだから仕方が無い。なるべく見ないようにはしていたけど、耳には自然と入ってしまう。
高い知性が認められるために、《準ヒト》として一定の人権が付与される竜……。
考えてみれば、どうして高い知性があると分かったのだろうか。当然、すでに誰かが接触していたはずだ。
と、そこで全国ネットに切り替わった。途端に、竜の話題はなくなってしまった。どうやら騒いでいるのはあくまで、ローカルな規模らしい。
……なーんだ。
「ごちそうさま。いってきます」
お母さんから愛妻弁当の余剰分を受け取って、玄関を出る。
「やっほー桜。ごきげんよう」
そこに待ち構えていた元気な挨拶の主は、笑顔でわたしに向かってひらひらと手を振ってきた。ひとと距離を取りたがる人間も、このように懐には入られてはどうしようもない。
「おはよう百合」
「びっくりした?」
「いつかはこんな日が来ると思っていたから、あんまり」
「あらー、読まれちゃってたかー。残念。でも次はこうはいかない」
「次があるの?」
「高橋先生の次回作にご期待ください」
「無いの!? どっち!」
「桜、あんたノリが良いわね。ちょっと引くわ」
「引かれた!」
「うんうん、わたしの見込んだ通り」
「……」
百合は満足げにうんうんと頷いた。どう見込まれていたんだろうか。
「桜ねぇ……」
男の子の声。ふーくんの声。彼はこちらから少し距離を取ったところで、もじもじとしていた。
いつもなら元気な笑顔を見せてくれるのだけど、無理もない。昨日、空走族――つまりあの生きる価値のないゴミども――に絡まれて、どんな顔をすればいいのか分からないんだろう。
その上、今日はお邪魔虫まで引っ付いている。ふーくんは家庭の事情もあってか、女の人が苦手だ。
「おはよう、ふーくん」
わたしはできる限りの笑顔を見せた。昨日は何もありませんでした。と全身全霊をもって表した。
「おはよう……」
ふーくんははにかみながら笑って見せてくれた。かわいいなぁもう。このかわいさは、世界の物理法則を破壊しかねないぞ。大丈夫か世界。がんばれ世界。
百合はわたしの視線の方向に振り向いた。仕方ない。ふーくんの姿を拝見することを、特別に許可しよう。さあ、しかと見るがいい。そして確信しろ、天使の実在を。
「あれ、ニーナじゃない」
「え、木槿のお姉さん!?」
「へぁあ!?」
ふたりの意外すぎる反応に、女の子として出しちゃいけない声が出ちゃった。
「お、ぅお知り合い?」
「桜、これそんなに動揺するところだった? 弟と仲がいいらしくて、ニーナ、ときどきうちに遊びに来るのよ」
「……………………」
「絶句するほど!?」
百合は驚いた後呆れて、そしてわたしを見て意味ありげに目を細めた。
「ニーナ、あんた、弟と共謀してわたしのパンツ盗もうとしたことあったわよね」
「ぐぅぁがべぇえええ!?」人間としてあり得ない声が出た。岩鬼正美か。
「あ、いや、その、あれは違うの! あれは木槿が!」
「なーにが違うのよ。あんなに嬉しそうな顔してたくせに」
「してない! 多分!」
「しかもしっかり使用済み狙いやがって」
「いやほんとあれは木槿が……」
「詳しく話しましょうか、芙蓉君」
「敬語!? 何で敬語! 違うの桜ねぇ! そんな目で見ないでお願い!」
「そーよー、ニーナ君だってケンゼンな男の子だもんね」
「違う、そうじゃない! 桜ねぇ、そんな目で見ないでお願い!」
「……はぁ。いいよ別に。怒ってなんかないから」
「ほ……本当に?」
「うん。どうせ、どっかの誰かさんがたぶらかしたんだろうし」
わたしは百合を睨みつけた。百合はきょとんとした瞳を返した。とぼけよって。
「……………………………………ふぇ!? わたしのせい!?」
「当たり前でしょ」
「当たり前!? え!?」
「ふーくんが自分の意思でそんなことするわけないもん!」
「ちょっと待てコラァー! わたし被害者! 物事を自分に都合良く解釈すんじゃない!」
そして百合はふーくんを睨みつけた。
「あんたも何か言いなさい……って目ェ逸らすなゴルァ!!」
「そんな汚い言葉浴びせないで! ふーくん怖がってるでしょッ! まったく百合は、そんな人だったなんて信じられない!」
「わたしをどんな人だと思っていやがるのかなゴルァ!」
さっきから自慢ばっかりして! わたしだってふーくんにパンツ盗まれたい!
「へぇあ!?」驚くふーくん。
「あ、あ、あ、あんたこそ何言ってやがる! 信じられない!」顔を真っ赤にしてわたしを批難する百合。
……あれ、声に出てた? 口動かしてた!? ど、ど、ど、どうしよう!
「朝から騒がしいね桜。学校はまだいいの?」
後ろから優しげな声。振り向けば……わたしのお兄ちゃんの姿。やや細めで、背が高く、またわたし同様目が尖っているため恐い人だと思われがちだけど、柔らかな声と物腰で途端に誤解を解いてしまう、わたしの自慢の、ユッカお兄ちゃん。
「あ、お兄ちゃん、もう学校行くの?」
「あ、ユッカにぃ、おはよう」ふーくんは軽く頭を下げた。
「おはよう芙蓉。図書館行っていろいろ調べようと思ってね。電子化されていない本、特に専門書には結構多いんだよ。……で、そっちは見ない顔だね」
ユッカお兄ちゃんは百合を見て首を傾がせる。百合は……途端に元気いっぱいです的な笑顔になって、
「初めまして❤ 桜さんの友達の高橋百合でぇす♪」
ハート……音符!? 媚びるような声でユッカお兄ちゃんとの距離を詰める。
「どうも初めまして。桜とどうか仲良くしてやって下さい」
お兄ちゃんも、口の端を緩め優しげな笑みを見せる……が、わたしは知っている。これは、面倒臭くなって、相手を適当にあしらうときの表情であることを。昔はわたしにもこの笑みを向けられた。まー四六時中追っかけてたからなぁ……。
その証拠にユッカお兄ちゃんは、
「じゃあ、ぼくは行きます。桜も、遅れないようにね」
と即座に立ち去ろうとした。
「はい♪ またお会いしましょうね、お兄さん❤」
百合の言葉に適当に手を振って、わたしたちの目指す方とは別方向へ歩いた。
で、わたしたち三人も歩き始めた。さっきは助かった……。あのままいってたら、わたしの人生スタッフロール出てた。流石お兄ちゃん。
わたしは何も叫ばなかった。いいね?
「ねえ、あんたのお兄さん、大学生? けっこーかっこいいじゃん? 優しそうでわたし好み。アプロ~チしちゃおっかなぁ~?」
「…………」
百合はそう言いながら目を細めわたしを見ると、途端に真顔になった。
「な、ななな、何? 待ちなさいアンタ、目が恐い! 怒ってんの?」
「オコッテナンカナイヨー」
雌め。
……って、いかんいかん。ついインスタントに殺意が。しかしそんなに恐い顔をしてたのかな。今はわたしは高校生。いつまでもお兄ちゃんお兄ちゃん言ってちゃ駄目なんだ。お兄ちゃんと結婚できないって知って泣き腫らしたあの頃……中学一年の夏のままじゃ駄目なんだ。三年前か。結構最近で、自分にビビるな。
「桜ねぇ、昔ユッカにぃに彼女ができたって聞いて、三日間寝込んだもんね」
「ふーくんそれ言っちゃ駄目!」
「ブラコンか! 兄も弟もアリなのかッ!」
「……ユッカにぃも、三日で振っちゃったんだよねぇ。自分から告白したのに」
「え!? そうなの?」
そう、ユッカお兄ちゃんは基本真面目でストイックな割に、そこら辺の倫理が甘いというかなんというか。振った理由も、合わなかったとか、飽きちゃったとか……。
お兄ちゃんに彼女ができるのは、もう慣れた。というか、見る度に違う女の人と歩いていたり違う女の人を家に連れてきたり……そんなお兄ちゃん相手に繊細になっていられない。
「そっかー……でも、それはそれでいいかも……」
「あなたもあなたで、格好良ければ良いの?」
これはこれで凄い。
「あ、そういえばさ……」と百合は思いついたように話を切り替えて、「みんな知ってるでしょうけど、〝竜〟の大復活! いやー、びっくりしたわよ! あの竜が空を飛ぶ姿、久しぶりに見て興奮しちゃった! そのこと一刻も早く話したくってあんたに会いに来たのに、忘れてたわ! あんたは見てた? 父親も母親もあの時間仕事で見てなかったらしいんだけどねー」
ずしりと背中に岩でも背負ったかのように、からだにズッシリと言葉を乗せられた。ぬかるみにはまり込んだように足取りが重くなる。
「わたしは……見てなくって……」
気が滅入る。登校中この話をしなけりゃならないのか。そして、きっと学校でもいろんな人からこれを聞くことになるのだろう。
「えー、そうなのー? まあわたしの野次馬根性はあまり褒められたもんじゃないけど。でも凄かったわよー? ニーナはどうなのよ」
「うん、ぼく見たよ。でもお父さんが心配してすぐに家の中に入れられたけど」
ふーくんは目を輝かせた。竜が嫌いな男の子は、なかなかいない。いても、親が面倒臭い思想の持ち主でそれに媚びようとする子だったり……。
百合は自慢げに、
「凄かったわよ-。昔と変わらないあの立ち振る舞い。族どもをばたばた墜としてゆく姿」
「うん、ちょっと見た。……でも、テレビでやってたけど、背中に誰か乗ってたとか」
「ねー! 謎よ、謎だらけよ!! 姿を消した竜。何事もなかったかのように姿を現した竜。その背に乗った、謎の女!」
「女の人だと決まったわけじゃないけどね。外形エフェクトとかあるし」
「女よ、絶対女。その方が面白いと思わない? 竜の背に乗り、ともに戦う女子高生とか、面白いとか思わない?」
「いや、女子高生だとは……」
後悔。罪悪感。居場所を無くされたよな閉塞感。ひとときに押し寄せて苛まれる。
「絶対女子高生よ! 竜の背に乗り天を駆ける専業主婦とか、わたしは認めない! だけど将来なりたい専業主婦!」
「えっと、あの、なんて言ったら良いのか……。その乗ってた人が何かやったってわけでもなかったらしいけど……あれ、桜ねぇ? どうかしたの」
「あ……うん……」
「…………あ、そういえば桜ねぇ、この前勧められた本、ちょっと難しかったや。ごめんね」
「え? あ、うん。そうだよね。言葉を理解して神に挑む、なんて、まだちょっと早かったかなぁ」
ふーくんはまったく別の話を切り出した。
「えー? ちょっとちょっとぉ、何ふたりしか分からない話してんのよ。仲間外れ?」
「いや、そういうわけじゃないけど……。えっと、木槿のお姉さんは、どんな本読むの?」
「百合ねぇと呼びなさい?」
「えっと……百合さんは……」
「百合ねぇと呼びなさい」
「……百合お姉さんは、どんな本をお読みになるのでしょうか?」
「あれ、敬語? 距離取られたわね……。わたしは、歴史物ねぇ。戦国中心」
「へぇ、意外……」
「何? どーせ雑誌とかしか読んでないんだろうなー、とか思って聞いたでしょ?」
「そんなこと思ってないよ」
「お、おお……真顔で返されると、反応に困るわね。今の時代、日本史の授業じゃ徳川幕府以降しかやらないでしょ? もったいないわよー。ちょっと前までは、ちゃんとやってたって話なのにね」
そっから、他愛もない話が続いた。そこからは竜の話が一切上がらなかった。
……あれ、ふーくんもしかして、わたしの態度を察して話を変えたとか? 駅で別れる瞬間見せた大人びた笑みに、そう考えてしまった。
そのくらいのこと、平気でできてしまう子だ。流石に竜の背に乗った女がわたしだとは思わなかったろう。桜ねぇはきっと竜のことが嫌いなんだ、とでも思ったのだろう。
途端に、幸福になった。彼のことが、また一層好きになってしまった。わたしは手を振って後ろ姿を見送った。
「……どーせあんた、笑顔が眩しーとか思ってんでしょ?」
鋭い。わたしは観念して、
「百合って、実は隠れ突然変異種?」
「あんたは思考が顔からダダ漏れ。顔面テレパスってやつ?」
「至極失礼ッ!」
でも、途方もなくとろけた顔してるんだろうな、と思ったり。