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婚約者が“妹みたいな女”と密着ゲームをしていたので、誕生日会で破滅を贈りました

作者: 熾星
掲載日:2026/06/25

 


 1.港区のタワーマンションで見た誕生日のサプライズ



 周囲の反対を押し切って、私は東京本社で半年かけて進めていた大型契約の最終交渉を部下に任せた。上場企業から届いた破格のオファーも断り、海外出張を予定より早く切り上げて、その日の夜、東京へ戻った。


 すべては、五年間婚約していた恋人、久我怜司の誕生日を祝うためだった。


 港区の高級タワーマンションの前に立ったとき、私はまだ、彼が喜ぶ顔しか想像していなかった。スーツケースを引いたまま玄関のドアノブに手をかけた瞬間、部屋の中から甘ったるい女の声が漏れてきた。


「罰ゲームのくじ、怜司兄さんの負け。正直に言って。私と、あの仕事人間の婚約者さん、どっちの声が好き?」


 声の主は、橘莉乃だった。


 莉乃は、久我家が一時期預かっていた遠縁の娘だ。怜司とは血のつながりなどない。それなのに、彼女は昔から当然のように「怜司兄さんの妹分」を名乗っていた。


 次の瞬間、怜司の低く甘やかな声が、扉の向こうから聞こえた。


「やめろよ。澪と比べるものじゃないだろ。莉乃は、俺が小さい頃から守ってきたお姫さまなんだから」


 莉乃は、くすくすと笑った。その声には、選ばれている者だけが持つ、残酷な余裕がにじんでいた。


「澪さんって、本当に怖いよね。私なんてまだ男女のこともよく分からない子どもなのに、この前、怜司兄さんの背中をお風呂で流してあげただけで、すごい顔で警告してきたんだよ。子どもの世界はきれいなのに。あの人は、何を見ても汚く考えるんだね」


 私は扉の前に立ったまま、ドアノブを握る指に力を込めた。


 地球の半分を越えて帰ってきた私は、彼に驚いてほしかった。


 けれど彼のほうが先に、私へ大きな笑い話を用意していたらしい。


 私は扉を開けた。


 リビングでは、莉乃が怜司の腰に両脚を絡めていた。身につけているのは、先月、私が怜司に買ったペアのルームウェアだった。


 怜司の顔色が一瞬で変わった。彼は慌てて莉乃を離し、ソファから立ち上がった。


「澪、違う。説明させてくれ。俺たちはただ、マーダーミステリーの罰ゲームをしていただけだ。カードに、恋人役として一分間くっつくって書いてあったんだよ。先月だって、休みを取って海外まで会いに行っただろ? 俺の気持ちは分かっているはずだ。莉乃とは本当に兄妹みたいなものなんだ。もし俺に別の気持ちがあるなら、とっくにそうなっている」


 彼はそう言いながら近づき、私の腰に手を回そうとした。


 その目には、いつもの深情そうな表情が浮かんでいた。過去の私は、何度もその顔にだまされてきた。


 莉乃は、わざとらしくルームウェアのボタンを二つ外した。胸元に残る歯形が、はっきりと見えた。彼女は私に見せつけるように、少し胸を張った。


「澪さん、変に考えないでくださいね。これも罰ゲームだったんです。ちょっとかゆかったから、怜司兄さんが口で助けてくれただけ。妹分を気遣っただけなのに、そんなに怒ることですか? 澪さんは仕事ばかりで忙しいでしょう? 私が代わりに怜司兄さんを温めてあげただけです」


 私は何も言わなかった。


 スマホを取り出し、久我家の親族グループへビデオ通話をかけた。


 怜司の顔色がさっと青ざめる。莉乃はソファにもたれたまま、私が取り乱すのを待っているような顔をしていた。


「怜司。カメラを向けて。あなたたちの美しい兄妹愛を、久我家の皆さんにも見てもらいましょう」


 通話がつながると、怜司の母、久我貴子の顔が画面いっぱいに映った。美容クリニック帰りらしい艶やかな顔に、わずかな不機嫌が浮かんでいる。


「澪さん、こんな時間にどうしたの。急ぎの用事かしら?」


「はい。怜司さんが、最新の兄妹のスキンシップを実演してくださっているので。とても斬新な家族愛ですから、皆さんで学ぶべきだと思いまして」


 私はカメラを反転させた。


 ソファの上で衣服を乱した二人が、画面に映る。莉乃は隠れようともしなかった。それどころか、歯形を見せつけるように胸元を上げた。


 怜司は真っ青な顔で、私のスマホを奪おうと飛びかかってきた。


「早川澪、おまえ、何をしているんだ。切れ!」


 私は一歩下がり、静かに彼の手を避けた。


 莉乃はカメラに向かって、無邪気そうに笑った。まるで、自分こそが傷つけられた側だと言わんばかりだった。


「貴子おばさま、こんばんは。怜司兄さんが、澪さんは仕事で忙しいから、私にそばにいてほしいって言ったんです。でも澪さん、なんだか怒っているみたいで」


 画面の中で、貴子の表情が険しくなった。隣からは、怜司の父、久我正臣の低い声も聞こえてきた。


 彼らは、怜司がなぜ血のつながらない女と衣服を乱しているのかを問わなかった。


 ただ、私がそれを親族の前に出したことだけを責めた。


「澪さん、あなたも大きな会社の社長でしょう。もう少し落ち着いて行動できないの?」


「莉乃は昔から怜司に懐いているんだ。血はつながっていなくても、家族同然だ。将来の妻になるなら、そのくらい大きな心で受け止めなさい」


「こんなものを夜中に親族へ見せるなど、久我家の恥だ。すぐに通話を切りなさい」


 久我家の人たちにとって、血のつながらない妹分が婚約者のルームウェアを着て、彼の膝の上に乗り、胸元に歯形を残していることは、微笑ましい兄妹愛らしい。


 そして正当な婚約者である私は、久我家の恥。


 その瞬間、五年間守ってきたものが、心の中で音を立てて崩れた。


 私は通話を切り、そのまま親族グループを抜けた。


 怜司は私の手からスマホを奪い取り、厚いカーペットの上に叩きつけた。スマホは割れなかった。けれど、彼の怒りはもう隠しようがなかった。


「澪、おまえはどうして、何でもこんなふうに大事にするんだ。長辈の前でこんなことをして、俺の面子をどう考えている」


 私は冷たく彼を見た。


 面子。


 彼は、自分と莉乃が一線を越えたことについては、少しも悪いと思っていない。私が彼のために何度も尻拭いしてきたことも、当然だと思っているのだろう。


「あなたの面子なら、さっき莉乃の下に敷かれていたわ」


 莉乃がソファからゆっくり立ち上がり、怜司の腕に甘えるように絡みついた。自分が何をしたのか分かっているくせに、顔には無垢な笑みを浮かべている。


「怜司兄さん、見て。澪さん、すごく怒ってる。私、何度も言ったのに。まだ子どもだから、大人のルールなんて分からないって。澪さんがそんなに気にするなら、このルームウェア、脱いで返しますよ。私も襟元がきついと思っていたし」


 そう言って、莉乃は私の目の前でボタンに手をかけた。黒いレースの下着が、開いた胸元からのぞく。


 拙い挑発だった。


 けれど、その悪意だけは十分すぎるほど伝わった。


 怜司が慌てて彼女の手を押さえた。


「莉乃、もうやめろ」


 彼は振り返り、私に向けて声をやわらげた。五年間、彼が私を丸め込むときに使ってきた、あの声だった。


「澪、今日は俺の誕生日だ。仕事を切り上げて帰ってきてくれたことは、本当にうれしい。でも、どうして帰ってきて早々、そんな顔をするんだ」


「そんな顔?」


 私は彼を見つめた。


 婚約してから五年。私は久我実業の資金繰りを助け、取引先との関係を修復し、取締役会で彼の立場を守ってきた。


 それなのに彼の中で、私はただの「機嫌の悪い女」らしい。


「怜司。五年間、私があなたのためにどれだけ後始末をしてきたと思っているの? あなたが住んでいるこの港区のタワーマンションは、私が一括で買ったものよ。あなたが乗っている輸入車も、私が贈ったもの。そこであなたは、妹分を抱いて親密ゲームをしていた。それを私の機嫌の問題にするの?」


 怜司は一歩近づき、また私を抱こうとした。


 私は嫌悪感を隠さず、横へ避けた。彼の手が宙で止まる。怜司の顔が少しずつ険しくなった。


 それでも彼は、本能のように莉乃をかばった。


「だからゲームだと言っているだろう。どうしておまえは、いつも莉乃に敵意を向けるんだ。あの子は昔から俺に懐いていた。熱を出したときも、俺が抱いて寝かしつけた。俺にとって、莉乃は代わりのきかない家族なんだ」


「家族なら、お父さまに口でかゆみを止めてもらえばいいでしょう。お母さまにも、あなたの腰にぶら下がって一分間の家族ごっこをしてもらえば?」


 怜司の顔が鉄のようにこわばった。


 莉乃は横で大きく目をむき、とうとう無邪気な仮面を脱ぎ捨てた。勝者のような傲慢さを声ににじませ、私を見下ろす。


「澪さん、言い方がひどすぎません? 私が本気で怜司兄さんを狙っていたら、あなたが婚約指輪なんてつけられたと思います?」


「狙っていないのね。あなたはただ、人の使い古しを拾うのが好きなだけ」


 莉乃の顔が真っ白になった。悲鳴のような声を上げ、私の鼻先を指さす。


 私はもう彼女に興味がなかった。


 床からスマホを拾う。画面の端に細いひびが入っていた。それは、怜司に残っていた最後の感情によく似ていた。


「怜司、婚約は解消する」


 そう告げて、私は踵を返した。


 背後から怜司の怒鳴り声が響いたが、私は足を止めなかった。玄関の扉を開け、吐き気のする部屋と、あの二人をまとめて閉じ込めるように、強く扉を閉めた。


「澪! 今日この扉を出たら、俺たちは本当に終わりだぞ!」



 2.置き去りにされた夜



 廊下の空気は、骨にしみるほど冷たかった。


 私はスーツケースを引き、ひとりで地下駐車場へ向かった。ヒールの音がコンクリートに反響し、遅すぎた葬列の足音のように聞こえる。


 しばらく歩くと、背後から乱れた足音が追ってきた。


 怜司が私の腕をつかんだ。息を切らしながら、もう片方の手には上品なギフトボックスを持っている。


「澪、待ってくれ。ホテルまで送る。俺も一緒に行く。これは、昔おまえが好きだったローズの香水だ。空港へ迎えに行けなかったお詫びだと思って受け取ってくれ。もう怒るな。明日、銀座に行こう。前に見ていたダイヤのネックレスを買ってやるから」


 私は、目の前の整った顔を見つめた。


 その顔は、見慣れているはずなのに、ひどく知らない人のものに見えた。


 ふと、創業して間もない頃のことを思い出した。私は徹夜続きで投資家回りをし、急性胃出血で倒れた。あのとき怜司は、半年かけて準備していた海外研修を取りやめ、豪雨の中、病院へ駆けつけてくれた。


 一か月間、病室のそばを離れなかった彼の目には、確かに痛みと心配があった。


 けれど、いつからだろう。


 その心配は雑な慰めに変わり、約束は私を黙らせるための道具になった。


 私は手の中の箱を見下ろし、遠くから聞こえるような声で言った。


「怜司。私はもう二年、香水を使っていない。人工香料で重いアレルギーを起こして、喘息発作で救急搬送されたことを話したでしょう。あのとき、あなたは何をしていた?」


 怜司は言葉を失った。目の奥に、ほんの一瞬、空白が浮かぶ。


 彼は覚えていなかった。


 その事実だけで、もう十分だった。


「俺……会議中だったかもしれない。メッセージをちゃんと見ていなかったんだ」


「あなたは莉乃と北海道へ雪を見に行っていた。私の緊急連絡が、温泉の邪魔をしたって不機嫌になっていたわ」


 怜司は口を開き、言い訳を探した。


 彼はいつもそうだった。間違えたあとで理由を探し、最後には深情そうな顔でごまかそうとする。


「澪、たしかに俺は、時々おまえをないがしろにしたかもしれない。でも、愛しているのはずっとおまえだ。莉乃は昔から不安定で、俺しか頼れる人間がいない。結婚するからといって、家族同然の相手を捨てろと言うのか?」


「あなたは断れないんじゃない。二人の女が自分を中心に回っている状況を、楽しんでいただけよ」


 そのとき、怜司のスマホが鳴った。


 莉乃のために設定された特別な通知音だった。高く澄んだ音が、耳障りに響く。


 怜司は画面を見ると、ほとんど迷わず通話ボタンを押した。


「怜司兄さん! 山道でタイヤがパンクしたの。周りが真っ暗で、野犬みたいな声も聞こえる。怖いよ。早く来て!」


 電話の向こうから、莉乃の泣き声が聞こえた。


 怜司の顔色が変わった。彼は私への説明もそこそこに、踵を返した。


 香水の箱を私の腕に押しつけ、スマホを数回操作する。


「澪、莉乃が危ない。あの子は怖がりだから、きっと震えている。先にタクシーでホテルへ行っていてくれ。安全を確認したら、すぐに行く」


 私の返事を待つこともなく、彼は夜の中へ走っていった。


 地下駐車場の入り口から冷たい風が吹き込む。指先が冷えた。私は腕の中の箱を見下ろした。


 スマホの画面が光る。怜司から、五万円の送金通知が届いていた。


「機嫌直せよ。何かおいしいものでも食べて、待っていてくれ」


 それが、怜司だった。


 金で私をなだめ、迷うことなく、妹分のもとへ走っていく。


 私は受け取りボタンを押さなかった。駐車場の隅にあるごみ箱へ向かい、高価なローズの香水を、箱ごと叩き込んだ。


 私はひとりで、予約していたホテルへ向かった。


 スーツケースの中には、双子を妊娠していることを示す検査結果と、私がすでに署名した株式譲渡契約書が入っていた。


 今日、彼の誕生日に伝えるつもりだった。


 私はすべてを置いて彼と結婚する。早川ホールディングスの株式の一部も、誕生日の贈り物として彼に譲る。


 そして、私たちは父親と母親になるのだと。


 けれど今となっては、そのすべてが笑い話だった。


 ホテルの部屋へ入った直後、下腹部に鋭い痛みが走った。額から冷や汗が噴き出す。次の瞬間、温かい液体が下半身を伝い、米白色のワンピースを赤く染めた。


 私は壁にすがり、震える指で救急車を呼んだ。


 救急車のサイレンが夜を裂き、私は東京白石医療センターの救急外来へ運ばれた。


 救急担当の医師は検査結果を見て、それから血の気の失せた私と、血に染まった服を見た。表情が一気に厳しくなる。


「双胎妊娠で、切迫流産に大量出血を併発しています。長時間の移動、過労、強い精神的ストレスが重なっています。胎児の心拍もかなり弱い。すぐに処置が必要です。このままでは、あなたの命にも危険があります」


 私は処置台の上で、心電モニターの数字が乱れていくのを見ていた。


 医師は看護師に指示を出しながら、私へ向き直った。


「ご本人の同意で緊急手術に進めます。ただし、リスクの高い処置です。緊急連絡先に連絡できる方はいますか。可能なら、すぐに呼んでください」


 私はスマホを取り出し、怜司に電話をかけた。


 受話口から返ってきたのは、冷たい案内音だけだった。


「おかけになった電話は、現在応答がありません」


 私は機械のようにリダイヤルを押した。


 一度、二度、三度。


 夜が深まり、午前三時を回る頃には、下腹部の痛みで意識が遠のきかけていた。シーツは血で濡れ、私はようやく電話をかけるのをやめた。


 そのとき、莉乃のSNSに、三分前の投稿が流れてきた。


「愛されている子どもは、永遠に大人にならなくていい。私が暗いのが怖いって言っただけで、怜司兄さんは強い婚約者さんを置いて、山頂で一晩中星を見てくれる」


 写真の中で、怜司は莉乃の手を両手で包み、息を吹きかけて温めていた。


 背景は、野犬の鳴く山道ではない。東京近郊で有名な星空の展望台だった。


 写真の怜司は、世界一やさしい男のような目をしていた。


 私はその写真を見つめたまま、下半身からまた熱いものが流れるのを感じた。次いで、身体を引き裂かれるような痛みが襲う。


 医師と看護師が、救急機器を押して駆け込んできた。モニターの数値を見た医師が、重く息を吐く。


「二人とも、心拍が確認できません。出血量が多すぎます。今すぐ子宮内容除去術と止血処置に入ります。状況によっては、子宮を温存できない可能性もあります」


 看護師が同意書を持ってきた。


 私は涙を拭いた。


 ペンを受け取り、一画一画、力を込めて自分の名前を書いた。看護師は痛ましそうに私を見ていたが、私はただ、世界が静かになっていくのを感じていた。


「もう連絡しなくていいです。あの人は、死んだものと思ってください」


 手術室の灯りは、刺すように白かった。


 私は双子の子どもを失い、母になる未来も失った。


 集中治療室のベッドで夜明けの空を見つめながら、私は初めてはっきりと理解した。


 もう、戻ることはない。


 久我怜司。


 この瞬間から、私たちは終わったのではない。


 始まったのだ。


 あなたを、許さないために。



 3.誕生日会に贈る大礼



 怜司から電話があったのは、翌日の昼だった。


 声には二日酔いのかすれが混じっていた。そこに、私を責めるような当然の響きまで乗っている。


 まるで昨夜、病院で生死の境をさまよっていたのが、自分の婚約者ではなかったかのように。


「澪、昨日は何を考えていたんだ。何十回も電話してきて。莉乃が野犬に怯えていたから、山頂で日の出までそばにいてやったんだ。スマホの充電が切れていただけだろ。おまえはいつも大げさなんだよ。今夜は俺の誕生日会だ。六本木の高層階にある会員制ラウンジを押さえてある。東京の顔ぶれも来る。必ず出席しろ。ちゃんとした格好で来いよ。久我怜司が自分の女も扱えないと思われたら困る」


 私は点滴の針跡だらけの手の甲を見下ろした。


 青紫に腫れた皮膚が、ひどく他人のもののように見える。


「分かった。必ず行くわ」


 怜司は、私があまりにも従順だったので拍子抜けしたらしい。すぐに、与える側の得意げな声になった。


「そうだ。それでいい。女は女らしくしていればいいんだ。今夜、主賓席を空けておく」


 電話を切ったあと、私は手の甲から点滴針を抜いた。


 血がにじみ、白いシーツに落ちる。看護師が慌てて飛び込んできたが、私は弁護士に服と鎮痛薬、必要な書類を持ってくるよう連絡しただけだった。


 今夜は、誕生日会ではない。


 私が怜司のために用意した、公開処刑の場だ。


 午後八時。


 私は六本木の会員制ラウンジの扉を開けた。


 血の気のない顔を厚いファンデーションで隠し、冷たく見えるほど整えたメイクをしていた。黒のオートクチュールのコートをまとい、十センチのヒールで床を踏む。


 扉が開いた瞬間、室内の笑い声がぴたりと止まった。


 怜司の友人たちが、一斉にこちらを見る。


 会場の中心には、怜司の腕に絡みつく莉乃がいた。彼女が着ていた白のベアトップドレスは、先月、私がパリのオートクチュールで選んだウェディングドレスの候補だった。


 私を見ると、怜司の友人の一人が口笛を吹いた。


 莉乃は赤ワインのグラスを持ち上げ、楽しそうに笑った。私の場所に立ち、皆の視線を浴びることが、よほど楽しいらしい。


「澪さん、来たんですね。何百億円の契約のほうが大事で、怜司兄さんの誕生日なんて来ないかと思っていました」


「この二日、怜司兄さんはずっと私のそばにいてくれたんです。妬かないでくださいね。私、ただの妹分ですから。そんなに警戒しなくてもいいのに」


 怜司が立ち上がり、私の手を取ろうとした。私はさりげなく避ける。


 彼は声を低くし、私にだけ聞こえる音量で言った。その声は謝罪ではなく、命令だった。


「今日は東京の顔役も来ている。変な顔をするな。莉乃は口が悪いだけだ。子どもみたいなものに本気で腹を立てるな」


 私は彼を見た。


 口元だけに、冷たい笑みが浮かぶ。


 私は何も言い返さず、長いテーブルへ歩いた。バッグから黒いベルベットの箱を取り出す。


 怜司の目が輝いた。勝ち誇ったような笑みが浮かぶ。


「安心して。今日は、あなたに誕生日の大礼を届けに来たの」


「俺へのプレゼントか。やっぱり澪は、俺を捨てられないんだな」


 箱を開けると、中には総額一億円近いオーダーメイドのダイヤモンドリングが入っていた。


 莉乃はのぞき込み、嫉妬で目を赤くした。それでも、わざと大げさに笑ってみせる。


「すごい。澪さん、今度はお金で怜司兄さんを縛るつもりですか? 怜司兄さん、まだ遊びたいのに、仕事人間の奥さんに完全に捕まるなんてかわいそう」


 部屋の中に、同調する笑い声が広がった。


 怜司は少し気まずそうに笑い、場を取り繕おうとした。


 私は彼に演技を続ける時間を与えなかった。バッグから別の書類を取り出し、重いオークのテーブルに叩きつける。


「澪、指輪はうれしい。結婚の話はあとで二人でしよう。今日はまず飲んで――」


「急がなくていいわ。怜司、あなたはずっと、ご両親に愚痴を言っていたそうね。私が子どもを産もうとしないって。昨日の夜、あなたの双子の子どもは、いなくなった。私の身体も、壊れた」


 それは、双子の流産処置の診断書と、命の危険があったことを示す緊急手術の記録だった。


 室内が一瞬で静まり返った。


 怜司の顔色が真っ白になる。彼は白黒の文字が並ぶ紙を凝視し、唇を震わせた。


「澪……何を言っているんだ?」


 莉乃は大きく白目をむき、あからさまに鼻で笑った。


 彼女は信じていないし、信じる気もないのだろう。私を人前で辱められるなら、他人の生死など冗談の材料でしかない。


「澪さん、その芝居、下品すぎません? そのへんのプリント屋で紙を作って、流産したって言うつもり? お腹の中の誰の子か分からない子で怜司兄さんを脅すの? それとも、不幸ぶって同情を買いたいの? ドラマの見すぎですよ」


 彼女は立ち上がり、シャンパンで満たされたグラスを手にして私の前まで来た。顔は笑っていたが、その動きにははっきりとした侮辱があった。


 彼女はそのグラスを、私の口元へ押しつけようとした。


「もういいから、場をしらけさせないでください。今日は怜司兄さんの誕生日なんです。私が許してあげます。さっさと一杯飲んで謝れば、怜司兄さんも、あなたの嘘を追及しないでくれると思いますよ」


 私は避けなかった。


 ただ、手を上げた。


 乾いた音が、ラウンジの中に響いた。


 莉乃は頬を打たれて床に倒れた。手にしていたグラスは砕け、シャンパンが高価な白いドレスを濡らす。


 彼女は腫れ上がった頬を押さえ、信じられないという顔で私を見上げた。甲高い悲鳴が上がる。


 怜司が我に返った。彼は駆け寄り、私を突き飛ばして莉乃を背後にかばう。


「早川澪! 私を叩いたの?」


「澪、何をしているんだ。莉乃は冗談を言っただけだろ。どうして手を上げる!」


 私はよろめき、腰をテーブルの角に強く打ちつけた。


 手術を受けたばかりの下腹部に、鋭い痛みが走る。冷や汗が背中を濡らした。


 それでも私は身体を立て直し、目の前の二人を冷たく見た。


「怜司。私が今日ここへ来たのは、あなたに戻ってきてほしいからだと思っているの?」


 私はスマホを取り出し、準備していた動画フォルダを開いた。


 画面を二人に向ける。


 そこに映っていたのは、昨夜の港区の部屋の映像。そして、今このラウンジで続いている生配信の画面だった。


 怜司の表情が、画面を見た瞬間に固まった。


「あなたたち、人前で兄妹愛を見せるのが好きなんでしょう? なら、ネット中に見てもらいましょう。大人になれない妹分とは何か。人の金で暮らしながら浮気する男とは何か」


 私はスマホを裏返した。


 画面には、生配信中の表示が出ていた。


 同時視聴者数は、すでに三百万人を超えていた。



 4.全ネット配信の公開処刑



 画面のコメント欄は、恐ろしい速さで流れていた。


 さっきまでラウンジに満ちていた笑い声は、跡形もなく消えていた。怜司の友人たちは青ざめた顔で隅へ下がり、どうにか自分の顔を隠そうとしている。


「これが男女の区別もつかない妹分? 人の婚約者の服を着ておいて、子どもぶるの無理がある」


「かゆみを口で止めるって何。男も相当やばい」


「双子の手術を受けたばかりの女性を突き飛ばした? 血がにじんでない? 警察呼んで」


「久我実業ホールディングスの御曹司ってこの人? 東証スタンダード上場企業の後継者がこれなら、株を持っている人は逃げたほうがいい」


 怜司はスマホの画面を見つめていた。


 目の中の動揺が、少しずつ骨の奥まで届く恐怖へ変わっていく。彼はスマホを奪おうと手を伸ばした。


 私は一歩下がり、スマホを高く掲げた。


「これ以上、私に触れたら、傷害で被害届を出す。場合によっては、殺人未遂も視野に入れるわ」


「澪、頼む。配信を切ってくれ。話なら帰ってからいくらでも聞く。こんなことをしたら、会社が終わる」


 私は彼を見た。


 彼がようやく恐れているのは、私の痛みではなかった。子どもを失ったことでも、私を傷つけたことでもない。


 彼が恐れているのは、自分の手で久我実業を沈めることだけだった。


「莉乃をソファに押し倒して親密ゲームをしていたとき、会社のことを考えた? 大出血で苦しむ婚約者を置き去りにして、彼女と星を見ていたとき、自分の未来を考えた?」


 莉乃も、ようやく事の重大さに気づいたらしい。


 床から這い上がるように立ち、私のスマホを奪いに来た。けれど、彼女の歪んだ顔は、もうはっきりとカメラに映っていた。


「早川澪、これ違法でしょ! 警察を呼ぶから!」


「呼べばいいわ。ついでに警察にも見てもらいましょう。あなたがどうやって、人の婚約者の部屋で彼のルームウェアを着て、妹分を演じていたのか」


 ラウンジにいた友人たちは、もう誰も口を開かなかった。


 さっきまで囃し立てていた人間ほど、静かになっていた。こっそり出ていこうとした者もいたが、入口にはすでに私の弁護士チームが待機していた。


 怜司の目が、テーブルの上に置かれた血のにじむ診断書へ落ちた。


 震える手でそれを拾い上げる。時間を見た瞬間、彼は膝から崩れ落ちた。


「午前三時……緊急手術……澪、本当に昨日、集中治療室にいたのか?」


 私はバッグから分厚い病院の記録と、排卵誘発剤の投薬記録を取り出し、彼の顔に叩きつけた。


 紙が床に散らばる。


 それは、五年間かけて私が差し出してきた真心が、ばらばらに破れていく音に似ていた。


「この子たちを授かるために、私は半年間、注射を打ち続けた。お腹は針の跡だらけだった。昨日、本当はあなたに早川ホールディングスの株式の一部を贈るつもりだった。誕生日プレゼントとして。そして、父親になることも伝えるつもりだった。けれどあなたは、妹分の手を温めるのに忙しくて、私の電話に出る暇がなかった」


 怜司は顔を上げた。


 涙がこぼれた。


 本当に後悔しているように見えた。けれど、その表情は私をさらに吐き気へ追い込むだけだった。


 遅すぎる後悔ほど、安いものはない。


「知らなかったんだ……本当に知らなかった。澪、どうして言ってくれなかった? 電話したとき、どうして説明してくれなかったんだ」


「四十八回かけた。あなたは出た?」


 私は莉乃の投稿のスクリーンショットを開き、カメラの前に掲げた。


 写真の中で、怜司は星空の展望台で莉乃の手を温めていた。世界一やさしい男の顔で。


 その同じ時間、私は処置台の上で、自分の名前を同意書に書いていた。緊急連絡先につながる人間さえ、そばにいなかった。


「あなたは山頂で、彼女の手に息を吹きかけていた。彼女がSNSで見せびらかすほど、特別に愛されていることを証明していた」


 怜司はその画像を見つめ、唇を激しく震わせた。


 そして突然、莉乃を振り返った。その目つきの恐ろしさに、莉乃はようやく怯えた顔で後ずさる。


「おまえ、昨日、山道でタイヤがパンクしたと言ったな。野犬がいて怖いと言ったよな。どうして最後は展望台にいた?」


「怜司兄さん、私は……修理の人が来たから。そのあと気分が悪くなって、少しだけ一緒にいてほしかっただけで……」


「少しだけ? おまえが気分転換している間に、澪は集中治療室で処置を受けていたんだぞ! おまえは分かっているのか。澪を殺しかけたんだ。早川ホールディングスから久我実業に入るはずだった数十億円の追加出資まで、全部壊したんだぞ!」


 莉乃は怜司を突き飛ばし、ヒステリックに叫んだ。


 とうとう、無邪気な妹分の仮面が剥がれ落ちた。その下にあったのは、身勝手で醜悪な女の顔だった。


「怜司、私に怒鳴らないでよ。私があなたに電話を無視させたの? あなたが自分で言ったんでしょう。澪はもうつまらない、仕事しかしない機械みたいで、相手をする気にならないって。今さら出資が惜しくなったからって、全部私のせいにしないで」


 怜司は痛いところを突かれ、全身を震わせた。


 次の瞬間、彼は莉乃の頬を打った。莉乃が床へ倒れる。


 そして怜司は私の前へ向き直り、大理石の床に膝をついた。這うようにして、私の足元まで来る。


「澪、俺が悪かった。本当に悪かった。おまえが妊娠していたなんて知らなかった。知っていたら、絶対に置いていかなかった。株も要らない。会社も要らない。俺にはおまえだけでいい。頼む。許してくれ」


 私は吐き気をこらえながら、彼を足で押しのけた。


 配信終了のボタンを押す。


 彼の謝罪は、私の心を一ミリも動かさなかった。思い出すのは、午前三時の白すぎる手術灯だけだ。


 あの二人の子どもは、彼の数行の懺悔で戻ってくるわけではない。


「怜司。あなたの謝罪は、排水溝のごみより安い。あの子たちがいなくなったのは、私にとって神様の最後の警告だったのかもしれない。今日をもって、私たちの婚約は破棄します。早川ホールディングスは、久我実業との資本提携を解消し、予定していた追加出資もすべて白紙に戻します」


 私はバッグを取り、出口へ向かった。


 怜司は転がるように追いすがった。声には、初めて聞くほどの恐怖がにじんでいた。


「澪、行くな。もう一度だけ、チャンスをくれ」


 私は足を止め、振り返った。


「怜司。私たちの間に残っているものは、もう何もない」


 私は扉を開けた。


 振り返らずに、ラウンジを出た。



 5.破滅フルコース、開始



 病院へ戻ると、私は改めて治療方針の説明を受け、同意書に署名した。


 白石医療センターの白石教授とチームは、私のためにできる限り積極的な治療計画を組んでくれた。身体の回復には長い時間が必要だった。心にも、縫い直さなければならない傷が残っていた。


 一方で、早川ホールディングスの弁護士チームは、久我実業との資本提携解消と債権回収の手続きに入った。


 怜司の連絡先は、すべてブロックした。


 あの配信の影響は、私の想像を超えて広がった。わずか一日で、動画、診断書の一部、久我実業ホールディングスの資金繰りに関する情報が、SNSと経済ニュースで拡散された。


 早川ホールディングスは、予定していた追加出資を正式に白紙化した。関連会社を通じた融資枠も停止した。


 主要取引先は一斉に距離を置き、銀行も融資姿勢を硬化させた。久我実業の株価は連日下落し、資金繰りは一気に悪化した。


 さらに、粉飾決算と不適切な資金調達、関連当事者取引の隠蔽が疑われ、証券取引等監視委員会の調査が入った。重大な虚偽記載の疑いがあるとして、刑事告発も視野に入ったらしい。


 莉乃は、誇っていた名士の集まりから完全に締め出された。今では、外へ出ることさえできないという。


 私は助理の報告を静かに聞いていた。


 胸の中には、何の波も立たなかった。


 小腹の鈍い痛みだけが、あの夜が悪夢ではなかったことを教えていた。


「当然の結果ね」


「早川社長、怜司さんはここ数日、あちこちへ頭を下げているようです。うちの本社ビルの前にも来て、土下座して面会を求めていましたが、警備が退去させました」


 私は白湯を口に含んだ。


 カップの温度が手のひらに触れているのに、身体の奥は少しも温まらなかった。


 私は怜司のことをそれ以上尋ねず、撤退手続きを予定通り進めるよう指示した。


 その後、私は取締役会に半月の休暇を申請し、スイスで療養する準備を始めた。


 その頃、怜司の日々は地獄のようなものになっていた。


 久我実業は民事再生も間に合わず、破産手続きへ進んだ。怜司名義の不動産は差し押さえられ、彼は古びた賃貸アパートへ逃げ込むしかなかった。


 久我貴子は、私の秘書宛てに何度も電話をかけてきた。すべて拒否されると、とうとう怜司のアパートへ乗り込んだ。


 扉を開けるなり、彼女は杖で怜司の背中を打った。


 かつて上品で高慢だった久我夫人は、借金と嘲笑に追い詰められ、体面を保つ余裕すら失っていた。


「この親不孝者! あなたが何をしたか分かっているの。私たちはもう本宅にも住めないのよ。あの奥さまたちが、みんな陰で笑っている。お父さまは心臓を悪くして、今も集中治療室よ」


 怜司は荒れ果てた部屋に座り込んでいた。


 髪は乱れ、身体からは酒の匂いがした。赤く濁った目を上げても、そこに久我家の後継者だった男の面影はなかった。


「母さん、澪が俺を捨てた。会社もなくなった」


 貴子は怒りで震えた。


 今になって、彼女は莉乃を恨み始めた。けれど、あの夜のビデオ通話で私を責めたのも、未来の嫁なら大きな心で受け止めろと言ったのも、彼女だった。


 怜司は母を見つめ、初めてこの家の冷たさを見たような顔をした。


「あなたに澪さんの名前を口にする資格があると思っているの。あの莉乃とかいう女と不潔な真似をしていなければ、こんなことにはならなかったのよ。私は昔から、あの疫病神とは距離を置けと言っていたでしょう」


「母さん、前は莉乃のほうが素直で、久我家の嫁に向いていると言っていたじゃないか」


「それは、あの子の父親が亡くなる前に多少の財産を残していたからよ。あんな浪費家だと分かっていたら、誰が庇うものですか。まともな娘が、夜中に人の婚約者の服を着て、他人の部屋で騒ぐわけがないでしょう」


 怜司は顔を覆い、急に笑い出した。


 その笑いは次第に大きくなり、最後には苦しげな叫びへ変わった。


 彼は突然立ち上がり、部屋を飛び出した。


 向かった先は、莉乃が借りている安アパートだった。


 莉乃はぼさぼさの髪で、賞味期限切れのカップ麺を食べていた。殺気立った怜司が入ってくると、彼女は魂を抜かれたように怯えた。


 かつて彼女が甘えきって呼んでいた「怜司兄さん」は、今や地獄から這い出した男のようだった。


「怜司兄さん、どうしてここに……」


 怜司は莉乃の首をつかみ、壁に押しつけた。


 指に力がこもる。彼の声は、紙やすりで削られたようにかすれていた。


 莉乃は彼の手に握られた果物ナイフを見て、顔色を失った。


「莉乃、正直に言え。あの夜、俺のスマホをおまえが切ったんだろ。澪から電話が来ていることを、知っていたんだろ」


「違う。知らなかったの。澪さんが大変なことになっているなんて、知らなかった。いつもの監視だと思っただけ。怜司、私を殺せないよね。私たち、ずっと一緒に育ったんだよ。私はあなたが一番かわいがっていた妹分でしょう」


「ふざけるな。おまえみたいな女のせいで、俺は澪を失ったんだ。今日は、おまえを連れて地獄へ行く」


 狭いアパートの中で、二人は揉み合った。


 莉乃は生き延びるために、信じられない力を出した。テーブルの上にあった重いガラスの灰皿をつかみ、怜司の後頭部へ叩きつける。


 怜司が悲鳴を上げた。視界が血で染まる。


 莉乃はその隙に果物ナイフを奪い、狂ったように彼へ振り下ろした。恐怖と恨みをすべて吐き出すように、何度も、何度も。


「死ね。死んでよ、この役立たず。女一人つなぎ止められなかったくせに、私のせいにしないで」


 怜司は数か所を刺され、苦しみながら玄関へ這った。


 莉乃は完全に正気を失っていた。彼の背中を蹴り飛ばす。


 怜司はバランスを失い、古いアパートの急なコンクリート階段を転げ落ちた。嫌な音を立てて身体がぶつかり、最後に頭を鉄の手すりへ強く打ちつける。


 莉乃は血の海を見て、ようやく我に返った。


 ナイフを投げ捨て、悲鳴を上げて逃げ出したが、路地の入口で駆けつけた警察官に現行犯逮捕された。


 怜司は救急搬送され、一晩中処置を受けて命だけは取り留めた。


 けれど、彼の右脚は、もう二度と元には戻らなかった。



 6.遅すぎた懺悔



 半年後、私はほぼ日常生活に戻り、会社へ復帰した。


 早川ホールディングスの本社ビルに入ろうとしたとき、ひげだらけで痩せこけた男が、突然、柱の陰から飛び出してきた。


 私は一瞬身構えた。


 よく見て、ようやくそれが怜司だと分かった。


「澪」


 彼は半年で十歳以上老けていた。


 目は落ちくぼみ、服は汚れ、しわだらけだった。右脚を不自然に引きずっている。全身から、行き場を失った人間の匂いがした。


 私は眉をひそめ、一歩下がった。


「何か用?」


 怜司は私を見るなり、赤く濁った目を潤ませた。


 彼は本社前の歩道に膝をつき、周囲の通行人たちの視線を集めた。それからポケットから泥で汚れたジュエリーボックスを取り出し、両手で差し出す。


「澪、やっと会えた。頼む。許してくれ。俺は間違っていた。本当に分かったんだ。これは、おまえが欲しがっていたピンクダイヤだ。高利貸しから金を借りて買った。もう二度と莉乃には会わない。おまえのためなら、何でもする」


 私は、その地面に這いつくばるような姿を見下ろした。


 ひどく滑稽だった。


 かつて彼は、私が自分を愛していることにあぐらをかき、私の譲歩を当然のものとして受け取っていた。


 今、すべてを失ったから、土下座と涙で私を引き戻そうとしている。


「怜司。あなたは、自分が膝をついて惨めな顔をすれば、私が慈善事業を始めるとでも思っているの? 私が失った子どもたちは、そんな石ころ一つで戻ってくるの?」


 怜司の身体が震えた。涙が冷たい地面に落ちる。


 彼はまた説明しようとした。莉乃がスマホをいじった、あの夜は酔っていた、自分は知らなかった。


 けれど私は、もう遅すぎる言い訳を聞く気はなかった。


「澪、本当に知らなかった。あの日、俺は酔っていたし、スマホも莉乃に触られていた。わざと電話に出なかったわけじゃない」


「あなたは電話に出なかっただけじゃない。私が生死の境にいた翌日、あなたは当然のように、浮気相手を連れた誕生日会へ来いと命令した。ちゃんとした格好で来い、俺の面子を潰すな、と言ったのよ」


 怜司は必死に首を振った。


 彼は過去の話を持ち出した。五年前、私が入院したとき、病室で一か月付き添ってくれたことを。


 けれど彼は忘れている。


 人は一つの美しい過去だけで、その後のすべての傷を帳消しにできるわけではない。


「忘れていたんだ。あの頃の俺はどうかしていた。澪、五年前におまえが倒れたとき、俺がずっと病室にいたことを覚えているだろ。俺たちには、あんなに大切な時間があったじゃないか。それまで否定しないでくれ」


 過去の恩を使って、私を縛ろうとしている。


 私は彼を見下ろした。


 五年前のことを、私は否定しない。けれど、それはもう、この五年間の傷で使い果たされた。


「怜司。五年前の恩なら、私は五年かけて百倍にも千倍にもして返した。最後には、半分の命まで差し出した。私たちは、もうとっくに清算済みよ」


 そのとき、長い指が私の肩にそっと置かれた。


 振り返ると、白石奏多が立っていた。


 彼は私の主治医だった。けれど、私の治療が終わるまで、彼は決して一線を越えなかった。担当医ではなくなってから、私たちは少しずつ友人として会うようになった。


 白衣を着た彼は、清潔で静かな圧をまとっていた。目は穏やかだが、そこには無視できない強さがある。


「早川さん。お困りですか」


 怜司は、白石の手が私の肩にあるのを見て、目を真っ赤にした。


 地面から立ち上がり、白石を指さして怒鳴る。


 その嫉妬に歪んだ顔を見て、私はようやく確信した。


 彼は、本当の意味で反省などしていない。


「おまえは誰だ。俺の妻に触るな」


 白石は彼の怒声を受け流し、私を静かに背後へ庇った。


 声は高くなかった。けれど、周囲にいる人々にもはっきり聞こえた。


「この方は現在、独身です。これ以上、私の元患者に対する迷惑行為を続けるなら、警備員を呼びます。その後、警察にも相談します」


「澪、おまえ、もう次の男を見つけていたのか。だから俺にあんなに冷たかったんだな。こんな医者と、とっくにできていたんだろ」


 私は迷わず手を上げた。


 怜司の頬に、乾いた音が響く。周囲から小さなどよめきが上がった。


 私は手を下ろし、少しも感情を込めずに言った。


「怜司。あなた自身が腐っているからといって、他人まで同じだと思わないで」


 私は白石に目で合図した。


 白石は軽くうなずき、私を守るようにしてビルへ向かう。怜司は追いすがろうとしたが、入口の警備員に止められた。


「白石先生、行きましょう。狂犬の相手をしていると、気分が悪くなります」


「澪、そんなふうに俺を捨てるな!」


 彼は冷たいガラス扉の向こうで、私の名前を叫び続けた。


 私は振り返らなかった。


 その瞬間、久我怜司という男は、完全に私の人生の外へ締め出された。


 その後、一か月ほど、怜司は毎日のように会社の下に現れた。


 雨の日も、風の日も、彼はそこに立っていた。まるで滑稽な待ちぼうけの像のようだった。


 社内でも噂になり、白石は警察へ相談するよう勧めた。私は弁護士を通じ、警察に記録を残した。


 警察はストーカー規制法に基づく警告を出し、怜司を呼び出して厳重に注意した。彼はしばらく姿を見せなくなった。


 けれど、完全に諦めたわけではなかった。


 今度は毎日、何百通ものメールが届くようになった。


 内容は、過去の思い出と、遅すぎる後悔ばかりだった。


 彼は、毎晩悪夢を見ると言った。私が病室で管につながれ、血の気のない顔で横たわっている夢を見るのだと。


 莉乃は精神科病院に送られた。久我家の本宅も売られた。自分にはもう何も残っていない。ただ一度でいいから会ってほしい。


 私はメールフィルターを設定した。


 それ以降、彼の言葉は一文字たりとも、私の世界へ届かなくなった。



 7.新しい人生



 一年後、私は本社から正式な辞令を受けた。


 早川ホールディングスのアジア太平洋地域CEOに就任することになったのだ。


 辞令が出た夜、白石奏多は東京湾の夜景が見えるレストランを貸し切り、私を祝ってくれた。大きな窓の外には、東京の夜と、遠くにきらめく湾岸の灯りが広がっていた。


 彼はグラスを掲げた。


 深い瞳の中に、私の姿が映っている。


 この一年、彼は医師としてではなく、ひとりの友人として、私が最も苦しかった回復期のそばにいてくれた。私が少しずつ立ち上がるのを、急かすことなく見守ってくれた。


 私たちはまだ関係に名前をつけていない。


 それでも、どちらも遠くへは行かなかった。


「早川さん、おめでとうございます。よく、ここまで戻ってきましたね」


「白石先生、ありがとう。命を救ってくれて」


 この一年で、私の生活は大きく変わった。


 身体の痛みを乗り越え、会社も新しい段階へ進んだ。かつて私を過去に縛りつけようとした人たちは、もう私の人生へ影を落とす資格すらない。


 怜司の消息は、ときどき経済ニュースの片隅で見るだけだった。


 久我家の破産後、彼は巨額の債務を抱え、クレジットカードも止められ、まともな賃貸審査にも通らなくなったらしい。今は日雇いの仕事で食いつないでいるという。


 莉乃は、精神科病院で本当に心を壊した。毎日枕を抱きしめて、「怜司兄さん」と呼んでいるそうだ。


 私は、少しも気にならなかった。


 あの人たちは、もう私とは関係がない。


 海外本社へ赴任する前日、私は母校へ立ち寄った。


 白石も一緒だった。二人で、陽光の降る並木道を歩く。校舎の間を抜ける風には、久しぶりに嗅ぐ草の匂いが混じっていた。


「手続きは、すべて終わりましたか」


「ええ。個人名義で、母校の理工学部に新しい研究棟を寄贈することにしたの」


 私は横を向き、これからの計画について話そうとした。


 そのとき、視界の端に、見覚えのあるようで見知らぬ影が入った。


 少し離れた池のそばで、杖をついた男が、古びた釣り竿を手に座っていた。


 色あせた清掃員の制服を着て、右脚を不自然に引きずっている。全身から、落ちぶれた気配と、死んだような空気がにじんでいた。


 久我怜司だった。


 彼も私に気づいたらしい。手にしていた釣り竿が、ぱたりと地面に落ちた。


 彼は数十メートルの距離を挟んで、私と、隣に立つ白石を凝視していた。


 いつの間にか、雨が降り始めていた。


 彼は反射的に私へ駆け寄ろうとした。けれど、もう忘れていたのだろう。自分がかつての、身なりの整った久我家の後継者ではないことを。


 右脚が泥水に引っかかり、彼は無様に地面へ倒れた。


 通りかかった学生たちが、奇妙なものを見るような目を向ける。けれど、誰一人として手を貸さなかった。


 怜司は地面に這いつくばったまま、必死に顔を上げた。唇が動いている。声にならない声で、私の名前を呼んでいるようだった。


 白石が私の視線を追い、わずかに眉をひそめた。


「警備を呼びましょうか」


 私は視線を戻し、静かに首を振った。


 あの人は、かつて私の人生で一番大切な場所にいた。


 そして、私が最も柔らかく守っていたものを、自分の手で壊した。


 けれど今の彼は、雨の中で転んだ、ただの知らない人だった。


「いいえ。ただの、関係のない人です」


 私は白石と並んで、雨の中を歩き出した。


 もう二度と、振り返らなかった。


 怜司の余生は、後悔と未練の中で、彼自身が選んだ泥沼に沈んでいくのだろう。


 それが、彼の結末だ。


 そして私の新しい人生は、ここから始まる。


 雨が上がると、空に虹がかかった。


 私は雨上がりの澄んだ空気を深く吸い込み、白石の隣で、一歩ずつ前へ進んだ。





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