家忘れ病 5
青年は歩き続ける。
夜の住宅街は静かで、家の窓からだけ生活の音が漏れている。
遠くでテレビの音。
どこかで皿の触れ合う音。
誰かの笑い声。
青年はゆっくり歩く。
一つの家の前で、足が少しだけ止まる。
窓のカーテンが少し開いていて、
中の様子が少し見える。
テーブルを囲んで、家族が座っている。
父親らしい人が何かを話している。
母親が笑っている。
子どもが口いっぱいに何かを食べている。
楽しそうな声が、窓の外まで小さく聞こえる。
青年は少しだけその光景を見る。
食卓の上には湯気が立っている。
皿が並び、誰かが箸を動かしている。
笑い声がまた聞こえる。
青年は目をそらし、また歩き出す。
夜の道をゆっくり進む。
さっきの家の光景が、頭の中に残っている。
別に特別なことではない。
どこにでもある、普通の家族の夜だ。
でも、なぜか少し胸に残る。
青年はまた角を曲がる。
住宅街の道が続く。
同じような家が並び、
同じような門があり、
同じようなポストが立っている。
しばらく歩いて、青年はまた立ち止まる。
目の前に一つの家がある。
玄関。
ポスト。
門。
全部見覚えがある。
胸の奥で何かが静かに動く。
ここだ。
その感覚ははっきりしている。
でも、青年はすぐには動かない。
玄関を見たまま立っている。
確かに知っている家だ。
でも、言葉にしない。
心のどこかで、まだそれを認めていない。
さっきの喧嘩がある。
帰る理由もある。
帰らない理由も、少しだけある。
青年はポケットに手を入れたまま、
家の前に立っている。
家忘れ病は、家を認識すれば治る。
それは分かっている。
でも、今はまだ曖昧なままだ。
青年は玄関を見て、また視線をそらす。
そのとき、ふと、さっきの家を思い出す。
窓の中の食卓。
笑いながら話す声。
皿の音。
湯気の立つ料理。
別に特別な光景ではない。
どこにでもある夜だ。
青年はもう一度目の前の家を見る。
窓の奥に、灯りがついている。
誰かが中を歩く影が少し動く。
その瞬間、胸の奥で静かに何かがほどける。
ここだ。
ここが、自分の家だ。
今まで曖昧だった感覚が、はっきり形になる。
青年はしばらく玄関の前に立っている。
家忘れ病は、風みたいに消えていく。
静かに。
青年はゆっくり玄関に近づく。
ドアの前に立つ。
ノブを見つめる。
少しだけ息を吐く。
そして、静かにドアに手を伸ばす。




