家忘れ病 10 完結
女性はゆっくり歩き続けている。
田んぼの横の道はまっすぐ続いている。
風が吹くたびに、稲が少し揺れる。
遠くで軽いトラクターの音が聞こえる。
空は広くて、雲はゆっくり流れている。
女性は道を歩きながら、さっき思い出した父とのことをもう一度考える。
あの夜のこと。
東京に行くと言った夜。
父の顔。
母の沈黙。
あのとき、自分は若かった。
ただ前に進みたいと思っていた。
この町から出て、別の場所で暮らしてみたいと思っていた。
その気持ちは強かった。
だから、父の言葉も母の心配も、
あまり聞こうとしなかった気がする。
女性は小さく息を吐く。
田舎の風は、東京よりもゆっくり流れている。
歩く速度まで少し遅くなる気がする。
実家はまだ思い出せない。
この道も、
この田んぼも、
この川も、
全部覚えているのに、
家の場所だけがぽっかり抜けている。
家忘れ病。
不思議なものだと女性は思う。
女性はゆっくり歩きながら、
遠くの道を見る。
すると前から、小さな子どもが歩いてくる。
まだ小学生くらいだ。
ランドセルを背負っている。
その手に、白いものを持っている。
丸くて、少し柔らかそうなもの。
女性は少し目を細める。
餅だ。
子どもは歩きながら、その餅を食べている。
口を少しふくらませながら、
ゆっくり噛んでいる。
その様子を見たとき、
女性の胸の奥で何かが小さく動く。
餅。
その白い形。
少し焦げた匂い。
柔らかい感触。
女性は足を止める。
頭の中に、ぼんやりした記憶が浮かぶ。
子どものころ。
よく食べていた。
餅を。
毎日のように。
朝だったり、
おやつだったり。
焼いた餅の匂い。
醤油の香り。
その記憶が、ゆっくり浮かぶ。
女性は子どもに声をかける。
「ねえ」
子どもは足を止める。
女性を見る。
「その餅、どこで買ったの?」
子どもは少し考える。
そして振り向く。
道の先を指さす。
「あそこ」
女性はその方向を見る。
少し先に、小さな建物がある。
古い店のような形。
屋根は少し色あせている。
入り口の前に、小さな暖簾が揺れている。
子どもは言う。
「あそこで売ってる」
そう言って、また餅をかじる。
女性は「ありがとう」と言う。
子どもは軽くうなずいて、
そのまま歩いていく。
女性はゆっくりその店の方へ歩く。
道は静かだ。
風が少し吹く。
店はだんだん近づいてくる。
古い木の柱。
小さな窓。
店の前には、長い間使われてきたような木の台がある。
女性はその店を見ながら歩く。
胸の奥で、何かが少しずつ動いている。
この形。
この入り口。
この屋根。
見覚えがある。
女性は店の前まで来る。
暖簾が風で揺れている。
白い布に、少しかすれた文字がある。
そのとき、胸の奥にあった霧が少し動く。
この店。
昔からある店。
餅を売っている店。
そして女性は気づく。
ここは。
自分の家だ。
自分が生まれて育った家。
父と母がやっていた店。
毎日餅を作っていた店。
子どものころ、
自分もよく店の奥に座っていた。
餅を食べながら。
その記憶が静かに戻ってくる。
女性は暖簾の前に立つ。
家忘れ病は、
静かに消えていく。
暖簾の向こうから、
かすかに餅の匂いがする。
女性は少しだけ息を吐く。
そして、ゆっくり口を開く。
「餅、ください」




