家忘れ病 1
風が通り過ぎる。そんな感覚で、僕の頭の中も揺れた。
駅の階段を降りる途中で、急に胸の奥がひりひりする。
「…家は、どこだ?」
自分の言葉に、自分の耳が驚いた。思考が途切れ、視界の端で通り過ぎる人々の顔は誰も僕を見ていないように思えた。
家の記憶が、すっと消えたのだ。
住所も、扉の色も、玄関先の植木鉢も、何も思い出せない。
ただ、今ここにいる自分だけが確かで、周りの空気は冷たく、どこか遠い。
駅前のベンチに座った。手のひらを見つめる。手のひらにある皺も、今の僕にとっては異物のようだ。
周囲の人々は、僕を無視して忙しそうに歩く。
「家…」
思い出そうと口をつぐむ。しかし、何も浮かばない。ただ、空の色が淡く青く、風が顔を撫でていく。
立ち上がる。
とにかく歩くしかない。歩けば、どこかに家はあるはずだ。
歩道の線路沿い、古いビルの谷間、狭い路地、ひび割れたアスファルトの隙間に、僕の家は隠れているかもしれない。
足は自然と街を進む。
小さな公園を通り抜ける。ベンチに座る人々はスマートフォンを見つめ、僕を無視する。
僕は家の匂いを思い出そうとするが、匂いもまた消えた。
風だけが、淡く顔に触れる。
日が傾く。
街灯が点灯し、影が長く伸びる。
僕は路地を曲がり、知らない商店街を歩く。
窓ガラスに映る自分の姿は、知らない人間のようで、どこか滑稽だった。
「自分の家は…どこだ」
声は小さく、ただ風にかき消される。
ふと、古い小道の角に、似た匂いがあった気がした。
懐かしい、と言えば懐かしいかもしれない。
それだけで、足を止める。
しかし、角を曲がった先には見覚えのある扉はなく、ただ薄暗いアパートの入り口があるだけだ。
胸が痛む。だが、歩き続けるしかない。
家は自分で探すしかない。
探さなければ、この胸のひりひりは消えない。
夜が深まる。
街の明かりは少なくなり、風が冷たくなる。
僕は一人、街の迷路をさまよい続ける。
知らない家の前で立ち止まり、扉の色や表札を一つ一つ確認する。
しかし、どれも違う。どれも、自分の家ではない。
けれど、歩くことをやめられない。
歩けば、どこかで必ず、記憶の片隅に触れる匂いや形が、家への道標になるかもしれないから。
足が疲れ、体が重くても、歩き続ける。
淡々と、ただ風のように。
朝の光が街に差し込み、僕はまた歩き始める。
胸の奥にあるもやもやは消えない。家の記憶はまだ戻らない。
ただ、歩くしかない。歩けば、きっと見つかる。
路地を曲がると、小さな家が立ち並ぶ住宅街。
窓から子どもたちの声が聞こえる。
「朝ごはんだよ」
と呼ぶ母親の声。家の扉は開き、笑い声が外に漏れている。
僕は立ち止まり、少しだけその光景を眺める。
温かい。けれど、僕の家ではない。
さらに歩く。
古いアパートの前では、老人が新聞を読んでいる。
隣の家では、犬が小さく吠え、飼い主に叱られる声が響く。
窓越しに見える家具やカーテンの色、生活の匂いは、どれも懐かしいような、違うような、不思議な感覚を僕に与える。
歩き続ける。
道の途中で赤い自転車が倒れていて、子どもが泣いている。
家の中から父親が顔を出し、子どもを抱き上げる。
その光景を見て、僕は少し胸が痛む。
僕の家にも、かつてはこんな朝があったかもしれない、と思う。
しかし、思い出せない。思い出せないのだ。
昼が過ぎ、街は昼下がりの静けさに包まれる。
住宅街の細い道を歩き、庭先の花を眺め、猫が塀の上で丸くなっているのを見る。
誰も僕に関心はなく、ただ僕は淡々と歩く。
家は、まだ見つからない。
街を歩く。
住宅街の角を曲がり、古い商店街を抜ける。
歩く足は重い。胸の奥のもやもやはまだ消えない。
家の記憶は、霧の中に溶けたままだ。
細い道を曲がると、人影が見えた。
歩く速度はゆっくりで、でも、確かに僕を見ている。
「…あなた」
低く呼ぶ声。振り返ると、妻だった。
妻は驚きもせず、ただこちらをじっと見つめて立っている。
「街で、何してるの?」
声に力はなく、でも静かに問いかける感じだ。
僕は答えられず、ただ立ち尽くす。
胸の奥のもやもやは、わずかに揺れる。
妻は僕の前に歩み寄り、少し間を置いて言った。
「一緒に、家に帰ろう」
言葉は簡単だ。
でもその言葉が、歩き続けた疲れた足に少しの力を与える。
僕は黙ってうなずき、二人で歩き始める。
住宅街を抜け、街路樹の下を通る。
風が葉を揺らす。通りの端で子どもが走る声がする。
僕は家のことをまだ思い出せない。
でも、妻と一緒に歩いていると、胸の奥の霧が少し薄くなるような気がする。
しばらく沈黙が続く。
歩道の隙間に咲く雑草、小さな猫が塀の上で丸くなる姿、車のライトがゆっくり通り過ぎる様子。
僕は淡々と歩く。妻も淡々と歩く。
言葉は少ない。二人の歩幅は自然に揃い、静かな街の景色の中で時間がゆっくりと過ぎていく。
角を曲がるたび、僕は見覚えのない家を眺める。
窓のカーテンの色、玄関先の植木鉢、郵便受けの形。
どれも懐かしいような、違うような。
胸の奥にまだ、空っぽの感覚がある。
妻はときどき、何かを指で示すでもなく、ただ前を歩き続ける。
「…味噌作ってあるんだ」
その言葉は最後に、やっと訪れる。
静かな、でも確かな声で。
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
扉の色、玄関の匂い、台所の光。
記憶が一気に戻る。
歩き疲れた足も、霧のように消えた胸のもやもやも、すべてが穏やかに戻った。
家はここだ。
自分の家はここにあった。
妻と一緒に玄関をくぐると、味噌の匂いが温かく迎える。
鍋の中には、朝に仕込んだ味噌が静かに湯気を立てている。
風のようにやってくる「家を忘れる病」は、家を認識することで、静かに消えるのだと、僕は胸に刻む。
二人で台所の光の中を歩き、椅子に腰を下ろす。
外の風はまだ街を通り抜けている。
でも、僕はもう迷子ではない。




