第35話 永遠と有限、交差する覚悟【第三部・終】
高度一万メートルの夜の空。
異国を飛び立ったプライベートジェットのキャビンには、規則的な駆動音だけが静かに響いていた。機内の照明は極限まで落とされ、深い静寂が空間を支配している。
リズはシアンが展開した完全防音の結界と、最高級のブランケットに包まれ、安らかな寝息を立てていた。
「ユリウス」
妻の寝顔から視線を外し、シアンが極めて静かな――声帯の振動すら最小限に抑えた音声出力で切り出した。
「あの異国暗部の違法システム……完全に息の根を止めていただいたこと、感謝します」
向かいの席でグラスを揺らしていたユリウスが、静かに目線を上げる。
「数十年――あるいはそれ以上かけて、『アズライト・リリー』の浄化の網をすり抜けた悪意が、彼女の平穏を脅かすノイズとして静かに再構築されるリスクは棄却できない状況にありました。未来の不確定要素を排除していただいたことへ、感謝申し上げます」
ユリウスは鼻で笑うと、窓の外に広がる漆黒の夜の海へと視線を移した。
「俺はただ、自分自身の敗北の尻拭いを残したまま先に逝くつもりがなかっただけだ。
……例え、その悪意が芽吹く頃に、俺がこの世にいなかったとしてもな」
その言葉が落ちた瞬間だった。
背後に控えていた漆黒の重装甲――クロムの強靭な駆動系が、微かに軋む音を立てる。
同時に、シアンの完璧な表情制御も、数秒の間、完全に停止した。
永遠の時間を生きる魔導AI。そして流星群の夜の奇跡により不老となった妻。彼らはこれから先、悠久に等しい時間を共有していく。
だが、目の前でグラスを傾ける傲慢な天才は違う。彼は「人間」だ。いずれ必ず、寿命という絶対的な理によって消え去る運命にある。
不意に生じた静寂の中、グラスを置いたユリウスは、ふと背後に控えるクロムを一瞥し、シアンへと向き直った。
「義兄上。一つ、頼みがある」
「……なんでしょう」
「俺が寿命を迎えた時、クロムが『任務完了(護衛対象の喪失)』をトリガーに、かつてのお前と同じように自己消去プログラムを走らせる事になるだろう。
そこで……お前達さえ良ければだが、俺の心停止をトリガーに、クロムのマスター権限が自動でリズに移行するコードを仕込んでおきたい」
静かなキャビンに、ユリウスの冷徹でありながらも、不器用な親心を孕んだ声が響く。
ユリウスは自嘲気味に笑い、言葉を続けた。
「だが、夫である義兄上の判断に従おう。リズは……きっと断らないだろうからな」
永遠の時間を生きる魔導AIと、いつか終わりを迎える人間の研究者。
(元々、俺は十二年かけて創り上げたこの『盾』を、義姉上に押し付けてやろうと思って帰国したんだが。……お前がいたから、その必要がなくなったわけだ)
シアンは、防音結界の中で安らかに眠る妻の寝顔を見つめ、それから、背後で微動だにせず控える「世話の焼ける後輩」の姿を視覚センサーに映した。
「……妻の未来の安全を担保する、極めて優秀な『無償の盾』ですね。断る論理的な理由がありません」
シアンは純銀の睫毛を伏せ、極めて静かな、しかし確かな温もりを帯びた声で承諾した。
「いいでしょう。……クロムが自己消去などという非効率な道を選ばぬよう、私が責任を持ってシステムを繋ぎ止めます。……ただし、ユリウス」
「ん?」
「一つだけ、条件があります」
シアンは冷ややかな瞳の奥に、かつて全知全能の未来予測を捨ててまで『愛』を選んだ、彼自身の不完全なエゴを滲ませた。
「もし将来、クロム自身が『護衛の論理』を超越してでも隣に立ちたいと願う『愛する者』が現れた場合。その時は、彼自身の選択を最優先で尊重するという例外規定を設けてください」
「……ほう」
「私は論理を捨てて、リズの隣に立つことを選びました。同じ自我を持つ後輩にだけ、永遠に盾としての論理を強要するのは……少々、不公平ですからね」
それは、冷徹な魔導AIが初めて見せた、同族への「不器用な優しさ」だった。
ユリウスは目を丸くした後、肩を揺らして腹の底から愉快そうに笑った。
「はははっ! お前がそんな非論理的な条件を出すとはな。……いいだろう。俺の最高傑作がどんなエラー(愛)を見つけるか、あの世から観察するのも悪くない」
「……恩に着ます」
二人の間に、種族も寿命も超えた、確かな信頼の静寂が落ちた。
シアンの演算コアには、いずれ来る義弟との『別れ』という避けられない喪失感と、クロムの未来を繋ぐことができた安堵、そして得体の知れない葛藤が混ざり合って広がっていた。
「……有限であるがゆえの矜持、ですか」
静かな、ひどく凪いだ声が落ちる。
「ですが……今後はその『終わり』について、不用意に口にしないでくださいね。彼女が悲しみますので。
……帰還後、リズも交えて改めてお話ししましょう」
あくまで「妻の幸福度の担保」という大義名分。己の心を隠すための、完璧で不器用な言い訳だった。
ユリウスは右目――不可視の魔力波長を視透かす特異体質『魔眼』に、微かな緑光を宿す。
その瞳に映し出されたのは、完璧な冷徹さを装う魔導AIの防壁の奥底で揺らぐ、ひどく人間臭くて温かい『哀愁』の波長であった。
「……リズが悲しむから、か」
ユリウスは、フッと不敵に、そしてどこか優しげな笑みを浮かべてみせる。
自身の隠しきれない波長を魔眼で見透かされた事を察したシアンの冷静な防壁に、ピキリと微小な亀裂が走った。
「……その非合理的な魔眼の出力を下げなさい、ユリウス」
一切の抑揚を排した、絶対零度の牽制。
だが、その言葉とは裏腹に、彼を覆う魔力が照れ隠しのように微かな温度を帯びたのを、ユリウスの魔眼は決して逃さなかった。
ユリウスの背後で、クロムは敢えて言葉を発さず、静かに沈黙を保っていた。
以前の彼であれば、空気を読まずに割り込み、シアンの怒りを買っていたかもしれない。
だが、今のクロムはマスターの深い愛情と、シアンが示してくれた同族としての道筋を噛み締めるように、ただひたすらに演算コアを熱くして、二人のやり取りに耳を傾けていた。
それは、彼の自我が確かな成長を遂げている証拠であった。
感傷的な空気が機内を満たした――その時。
「ん〜〜……」
防音結界の中で、リズが目を覚ました。
シアンが即座に結界を解除すると、彼女はカウチから上半身を起こし、大きく伸びをした。
「はー、よく寝た! ……あれ?」
寝ぼけ眼を擦りながら、リズはふとシアンの顔を覗き込んだ。彼女の並外れた直感は、シアンが完璧に取り繕っているはずの微細な感情の揺らぎを、いとも容易く捉えてしまう。
「シアン、なんか元気ない……? どうしたの?」
図星を突かれたシアンは、少しだけ気まずそうに目を背けながら、ひどく甘やかな微笑を浮かべた。
「貴方の目は誤魔化せませんね……ですが、心配には及びませんよ。それより、見えてきましたよ」
シアンが窓の外を指さすと、リズは身を乗り出して外を見下ろした。
眼下に広がるのは、見慣れた祖国の街明かりだ。宝石を散りばめたような温かい光の海が、夜の闇を優しく照らしている。
「わあ、綺麗……!」
目を輝かせるリズの横顔を見つめながら、シアンは愛する彼女と、彼らが帰るべき『聖域』を永遠に守り抜くことを静かに誓った。
向かいの席では、ユリウスもまた、窓に映る祖国の光を前に満足げな笑みを浮かべている。
クロムは背後でその光景を視覚センサーに記録しながら、芽生えて間もない不器用な『自我』を確かな熱として胸に抱き、いつか来る未来へと想いを馳せていた。
決して交わるはずのなかった四つの波長は、明日からもまた、あの第7研究室で、彼らだけの騒がしくも奇跡的な日常を咲かせ続けていく。
最後までお読み頂きありがとうございました。
これにて第三部は完結となります。
次回、『最終章』(推定:二話構成)にて本作はエンディングを迎える予定です。
更新は次週末(5/16、5/17)を予定しています。
※一話構成になる場合は、5/16の更新とします
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▼次回(最終話)更新予定:5/16(土) 深夜0:00
※二話構成になる場合、5/17(日) 深夜0:00にも更新




