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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

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正義が完成した日

掲載日:2026/02/02

 霧は、この村の皮膚だった。

 朝も昼も夕方も、白い膜が家々を包み込み、境界を曖昧にするが人の生活なのか、見ているだけでは判別できない。


 私は、エレンという名でこの村に生まれた。

 ――いや、生まれ直した、が正しい。


 前の人生の記憶は、はっきりしている。

 一八八八年、ロンドン。石畳。霧。血の噂。

 私は少女だった。名もない、取るに足らない存在で、それでも胸の奥には、強烈な憧れがあった。


 切り裂きジャック。


 誰にも理解されない、理解される必要もない、静かな狂気。

 私は彼の行動を英雄視していたわけではない。ただ、衝動に従うことを選んだ存在として、心を奪われていた。


 そして、死んだ。

 理由は覚えていない。だが、死んだことだけは確かだ。


 次に目を開けたとき、私はこの村の娘になっていた。


 エレンは、良い子だった。

 村人に挨拶をし、頼まれごとを断らず、笑顔を忘れない。

 私は、その仮面を器用に被った。


 ――人は、思ったよりも簡単に信じる。


 母は優しかった。父はいなかった。

 村の男たちは、私を「可哀想な子」と呼び、女たちは「手伝いができる良い娘」と言った。


 私は、観察した。

 誰が誰を嫌っているのか。

 誰が嘘をつくときに視線を逸らすのか。

 誰が、他人の不幸を喜ぶのか。


 それは、楽しかった。


 胸の奥で、かつての衝動が、小さく蠢いていた。

 まだ眠っている。まだ起きていない。

 私は、それを急かさなかった。


 衝動は、熟すまで待つものだ。


 夜、窓の外で霧が濃くなる。

 村は静かだった。

 あまりにも静かで、息を殺しているようだった。


 私は、笑った。


 「……この村、きっと、綺麗に壊れる」


 その言葉は、祈りのように、誰にも聞かれずに溶けた。


 異変は、音もなく始まった。


 最初は、小さな噂だった。

 「最近、あの人を見ないね」

 「どこかへ出稼ぎに行ったんじゃない?」


 私は、その会話を、穏やかな顔で聞いていた。


 村では、人が消える理由など、いくらでも作れる。

 貧しさ。病。逃避。

 誰も、深く考えようとはしない。


 私は、よく人の相談に乗った。

 愚痴を聞き、涙を受け止め、共感の言葉を返す。


 「つらいですよね」

 「あなたは悪くありません」


 そのたびに、胸の奥が、じわりと温かくなる。


 衝動は、暴力の形をしていなかった。

 それは、理解だった。

 受容だった。

 そして――選別だった。


 「この人は、いなくてもいい」


 そう判断する瞬間が、はっきりと存在した。


 ある夜、母が言った。


 「最近、村の空気が変わった気がするの」


 私は、紅茶を注ぎながら答える。


 「そう? みんな、変わらず優しいよ」


 嘘ではない。

 人は、優しいまま壊れることができる。


 霧が濃くなる夜が増えた。

 村の灯りが、一つ、また一つと減っていく。


 私は、数えた。

 減っていく数を。

 残っている数を。


 それは、計画ではなかった。

 ただ、自然な流れだった。


 衝動は、もう隠れていない。

 私の中で、堂々と立っている。


 ――切り裂きジャックに、名前はいらなかった。

 同じように、私にも理由はいらない。


 必要なのは、静かな確信だけだった。


 「この村は、私を受け入れた」

 「だから私は、すべてを受け取る」


 霧の中、教会の鐘が鳴る。

 誰のための弔いか、もう分からない。


 私は、目を閉じて、深く息を吸った。


 衝動は、完全に目を覚ましていた。


 ――ここから先は、早い。


 村人たちは、気づき始めていた。

 ――いや、正確には理解しようとしていた。


 恐怖は、正体不明のままでは耐えられない。

 だから人は、理由を探す。原因を作る。名前を与える。


 「狼かもしれない」

 「外から流れてきた盗賊だ」

 「呪い、という話もあるらしい」


 どれも、悪くない。

 私は、その会話を聞きながら、頷いた。


 理解しようとする姿勢は、美しい。

 ――そして、最も壊れやすい。


 夜の集会が増えた。

 教会に人が集まり、互いの無事を確認し合う。


 「エレン、君は一人で大丈夫か?」

 「怖くないか?」


 私は、少し困ったように微笑む。


 「怖い、です。でも……みなさんがいるから」


 その言葉は、彼らの胸を満たした。

 守るべきものがある、という実感で。


 ――守る、という行為は、選別だ。


 私は、村の中心に立っていた。

 意図せず、自然に。


 誰かが不安を口にすれば、私はそれを言葉に直した。

 誰かが疑念を持てば、私はそれを柔らかく包んだ。


 「疑うのは、悪いことじゃありません」

 「でも、疑いすぎると、村が壊れてしまう」


 皆が、私を見た。

 正しいことを言う娘を見る目だった。


 胸の奥で、衝動が笑っていた。


 ――ほら、始まった。


 ある晩、男が一人、声を荒らげた。


 「この村の中に、何かいるんだ!」


 空気が張りつめる。

 誰も、彼を否定しなかった。


 私は、静かに言った。


 「……でも、それを決めつけるのは、危険です」


 視線が、私に集まる。

 期待と安堵と、わずかな失望。


 私は続けた。


 「もし、誰かが疑われたら、その人は、もう村にいられなくなる」


 沈黙。

 誰もが、頭の中で想像した。


 ――自分が、疑われる側になる可能性を。


 恐怖は、外にあるときは耐えられる。

 内側に向いた瞬間、共同体は歪む。


 その夜から、村人たちは互いを見始めた。

 挨拶の間。

 声の調子。

 帰宅の時間。


 私は、それを眺めていた。


 人は、自分の恐怖を正当化するためなら、どんな論理でも受け入れる。

 そして、一番安全な結論にたどり着く。


 ――悪意は、遠くにあるはずだ。


 「外だ」

 「よそ者だ」


 そう信じることで、彼らは自分を保った。


 私は、保たれていく村を見て、確信した。


 もう、戻れない。


 霧は、以前よりも濃くなった。

 それとも、私の目が、よく見えるようになっただけか。


 夜、独りで立ち、私は思う。


 切り裂きジャックは、なぜ捕まらなかったのか。

 答えは簡単だ。


 人々が、理解したがったから。


 私は、笑わなかった。

 ただ、次を考えただけだ。


 ――次は、誰が「内側」になる?


 正義は、静かに始まった。

 声を荒らげる者はいなかった。

 叫びも、涙もなかった。


 ただ、「確認」があった。


 「昨日、誰と話しましたか」

 「夜明け前、どこにいましたか」

 「一人で行動していませんでしたか」


 それは、問いという形をした選別だった。


 私は、輪の外からそれを見ていた。

 誰も、私を呼ばない。

 呼ぶ必要がないからだ。


 私は、いつもそこにいる。

 疑われる理由が、ない。


 「誰かが嘘をついているはずだ」


 その言葉が出た瞬間、村は完成した。

 ――完成とは、閉じることだ。


 人は、疑いを共有し始める。

 個人の恐怖が、共同体の倫理に変換される。


 「この村を守るためだ」

 「正しいことをしている」

 「間違っているのは、向こうだ」


 私は、何も言わなかった。

 言う必要がない。


 正義は、自分で増殖する。


 ある女が、輪の中心に立たされた。

 理由は曖昧だった。


 「最近、元気がなかった」

 「視線が合わなかった」

 「質問に、答えるのが遅れた」


 すべて、もっともらしい。

 そして、致命的にどうでもいい。


 女は、震えながら言った。


 「私じゃない……」


 誰も、否定しなかった。

 誰も、肯定もしなかった。


 沈黙が、判決だった。


 その夜から、家々の灯りは減った。

 扉は早く閉まり、窓は固く塞がれた。


 誰もが、正しくあろうとした。

 正しく振る舞い、正しく怯え、正しく疑った。


 私は、祈りの場で言った。


 「みなさん、よく耐えています」


 それは、事実だった。

 彼らは、本当によく耐えていた。


 ――だから、壊れる。


 正義は、疲労を許さない。

 疑いは、休息を与えない。


 「次は、誰だろう」


 誰かが、呟いた。

 声は小さかったが、確かにあった。


 私は、その声を拾い上げなかった。

 拾えば、矢印が生まれる。


 矢印は、必ず向きを持つ。


 夜、霧の中で、私は考える。


 切り裂きジャックは、刃を持っていた。

 でも、本当に人を裂いたのは、恐怖だ。


 ここには、もう刃はいらない。


 村は、自分で自分を削っている。


 私は、静かに微笑んだ。


 ――もうすぐ、全員が「正しい」。


 村は、静かだった。


 声がない。

 足音がない。

 問いも、答えも、もう存在しない。


 正義は、すべてを終えたあと、必ず沈黙する。


 私は、教会の鐘楼に立っていた。

 朝霧が、村全体を薄く包んでいる。


 ここからなら、すべてが見える。

 見えるけれど、動くものはない。


 「みんな、正しくなった」


 私は、そう呟いた。

 誰に聞かせるでもなく。

 そして今、完全な結果を迎えている。


 ――でも、それだけでは足りない。


 村は、自壊した。

 だが、「完成」はしていない。


 完成させるには、最後の確認が必要だ。


 私は、鐘を鳴らした。


 重く、鈍い音。

 朝の空気を切り裂く、唯一の振動。


 それは合図だった。


 生き残っていた者たちが、家から出てくる。

 顔色は悪く、視線は泳いでいる。


 彼らは、互いを見ない。

 見ると、疑いが再発するからだ。


 私は、静かに言った。


 「集まってください」


 誰も、逆らわない。

 逆らう理由が、もう存在しない。


 広場で、私は確認した。


 人数。

 位置。

 距離。


 そして、私は一歩前に出た。


 「これで、終わりです」


 その言葉は、救いのように受け取られた。

 何人かは、安堵の息を吐いた。


 ――だから、簡単だった。


 私は、事前にしておいたほんの小さなことを思い出す。


 水源の管理。

 食糧庫の配分。

 夜間の当番表。


 全部、私が整えた。

 善意として。

 秩序として。


 結果として、村は自分で自分を殺す構造になっていた。


 最後に残った人々は、

 もう動けない。

 疑えない。

 助けを呼べない。


 私は、広場の中央で言った。


 「確認は終わりました」


 それだけ。


 誰も理解しなかった。

 理解できる余地を、私は残していない。


 霧が晴れる頃、

 村は「とある村」になった。


 地図からは消え、

 記録にも残らない。


 ただ、事実だけがある。


 ――全員、正しかった。


 私は、血のついていない手を見下ろす。


 切り裂きジャックは、刃を振るった。

 私は、仕組みを置いた。


 それだけの違いだ。


 鐘楼を降りながら、私は思う。


 次は、もっと大きな場所でもいい。


 最後に、私は笑った。


 この村で、

 最初に狂っていたのは――

 私だけではなかったのだから。

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