正義が完成した日
霧は、この村の皮膚だった。
朝も昼も夕方も、白い膜が家々を包み込み、境界を曖昧にするが人の生活なのか、見ているだけでは判別できない。
私は、エレンという名でこの村に生まれた。
――いや、生まれ直した、が正しい。
前の人生の記憶は、はっきりしている。
一八八八年、ロンドン。石畳。霧。血の噂。
私は少女だった。名もない、取るに足らない存在で、それでも胸の奥には、強烈な憧れがあった。
切り裂きジャック。
誰にも理解されない、理解される必要もない、静かな狂気。
私は彼の行動を英雄視していたわけではない。ただ、衝動に従うことを選んだ存在として、心を奪われていた。
そして、死んだ。
理由は覚えていない。だが、死んだことだけは確かだ。
次に目を開けたとき、私はこの村の娘になっていた。
エレンは、良い子だった。
村人に挨拶をし、頼まれごとを断らず、笑顔を忘れない。
私は、その仮面を器用に被った。
――人は、思ったよりも簡単に信じる。
母は優しかった。父はいなかった。
村の男たちは、私を「可哀想な子」と呼び、女たちは「手伝いができる良い娘」と言った。
私は、観察した。
誰が誰を嫌っているのか。
誰が嘘をつくときに視線を逸らすのか。
誰が、他人の不幸を喜ぶのか。
それは、楽しかった。
胸の奥で、かつての衝動が、小さく蠢いていた。
まだ眠っている。まだ起きていない。
私は、それを急かさなかった。
衝動は、熟すまで待つものだ。
夜、窓の外で霧が濃くなる。
村は静かだった。
あまりにも静かで、息を殺しているようだった。
私は、笑った。
「……この村、きっと、綺麗に壊れる」
その言葉は、祈りのように、誰にも聞かれずに溶けた。
異変は、音もなく始まった。
最初は、小さな噂だった。
「最近、あの人を見ないね」
「どこかへ出稼ぎに行ったんじゃない?」
私は、その会話を、穏やかな顔で聞いていた。
村では、人が消える理由など、いくらでも作れる。
貧しさ。病。逃避。
誰も、深く考えようとはしない。
私は、よく人の相談に乗った。
愚痴を聞き、涙を受け止め、共感の言葉を返す。
「つらいですよね」
「あなたは悪くありません」
そのたびに、胸の奥が、じわりと温かくなる。
衝動は、暴力の形をしていなかった。
それは、理解だった。
受容だった。
そして――選別だった。
「この人は、いなくてもいい」
そう判断する瞬間が、はっきりと存在した。
ある夜、母が言った。
「最近、村の空気が変わった気がするの」
私は、紅茶を注ぎながら答える。
「そう? みんな、変わらず優しいよ」
嘘ではない。
人は、優しいまま壊れることができる。
霧が濃くなる夜が増えた。
村の灯りが、一つ、また一つと減っていく。
私は、数えた。
減っていく数を。
残っている数を。
それは、計画ではなかった。
ただ、自然な流れだった。
衝動は、もう隠れていない。
私の中で、堂々と立っている。
――切り裂きジャックに、名前はいらなかった。
同じように、私にも理由はいらない。
必要なのは、静かな確信だけだった。
「この村は、私を受け入れた」
「だから私は、すべてを受け取る」
霧の中、教会の鐘が鳴る。
誰のための弔いか、もう分からない。
私は、目を閉じて、深く息を吸った。
衝動は、完全に目を覚ましていた。
――ここから先は、早い。
村人たちは、気づき始めていた。
――いや、正確には理解しようとしていた。
恐怖は、正体不明のままでは耐えられない。
だから人は、理由を探す。原因を作る。名前を与える。
「狼かもしれない」
「外から流れてきた盗賊だ」
「呪い、という話もあるらしい」
どれも、悪くない。
私は、その会話を聞きながら、頷いた。
理解しようとする姿勢は、美しい。
――そして、最も壊れやすい。
夜の集会が増えた。
教会に人が集まり、互いの無事を確認し合う。
「エレン、君は一人で大丈夫か?」
「怖くないか?」
私は、少し困ったように微笑む。
「怖い、です。でも……みなさんがいるから」
その言葉は、彼らの胸を満たした。
守るべきものがある、という実感で。
――守る、という行為は、選別だ。
私は、村の中心に立っていた。
意図せず、自然に。
誰かが不安を口にすれば、私はそれを言葉に直した。
誰かが疑念を持てば、私はそれを柔らかく包んだ。
「疑うのは、悪いことじゃありません」
「でも、疑いすぎると、村が壊れてしまう」
皆が、私を見た。
正しいことを言う娘を見る目だった。
胸の奥で、衝動が笑っていた。
――ほら、始まった。
ある晩、男が一人、声を荒らげた。
「この村の中に、何かいるんだ!」
空気が張りつめる。
誰も、彼を否定しなかった。
私は、静かに言った。
「……でも、それを決めつけるのは、危険です」
視線が、私に集まる。
期待と安堵と、わずかな失望。
私は続けた。
「もし、誰かが疑われたら、その人は、もう村にいられなくなる」
沈黙。
誰もが、頭の中で想像した。
――自分が、疑われる側になる可能性を。
恐怖は、外にあるときは耐えられる。
内側に向いた瞬間、共同体は歪む。
その夜から、村人たちは互いを見始めた。
挨拶の間。
声の調子。
帰宅の時間。
私は、それを眺めていた。
人は、自分の恐怖を正当化するためなら、どんな論理でも受け入れる。
そして、一番安全な結論にたどり着く。
――悪意は、遠くにあるはずだ。
「外だ」
「よそ者だ」
そう信じることで、彼らは自分を保った。
私は、保たれていく村を見て、確信した。
もう、戻れない。
霧は、以前よりも濃くなった。
それとも、私の目が、よく見えるようになっただけか。
夜、独りで立ち、私は思う。
切り裂きジャックは、なぜ捕まらなかったのか。
答えは簡単だ。
人々が、理解したがったから。
私は、笑わなかった。
ただ、次を考えただけだ。
――次は、誰が「内側」になる?
正義は、静かに始まった。
声を荒らげる者はいなかった。
叫びも、涙もなかった。
ただ、「確認」があった。
「昨日、誰と話しましたか」
「夜明け前、どこにいましたか」
「一人で行動していませんでしたか」
それは、問いという形をした選別だった。
私は、輪の外からそれを見ていた。
誰も、私を呼ばない。
呼ぶ必要がないからだ。
私は、いつもそこにいる。
疑われる理由が、ない。
「誰かが嘘をついているはずだ」
その言葉が出た瞬間、村は完成した。
――完成とは、閉じることだ。
人は、疑いを共有し始める。
個人の恐怖が、共同体の倫理に変換される。
「この村を守るためだ」
「正しいことをしている」
「間違っているのは、向こうだ」
私は、何も言わなかった。
言う必要がない。
正義は、自分で増殖する。
ある女が、輪の中心に立たされた。
理由は曖昧だった。
「最近、元気がなかった」
「視線が合わなかった」
「質問に、答えるのが遅れた」
すべて、もっともらしい。
そして、致命的にどうでもいい。
女は、震えながら言った。
「私じゃない……」
誰も、否定しなかった。
誰も、肯定もしなかった。
沈黙が、判決だった。
その夜から、家々の灯りは減った。
扉は早く閉まり、窓は固く塞がれた。
誰もが、正しくあろうとした。
正しく振る舞い、正しく怯え、正しく疑った。
私は、祈りの場で言った。
「みなさん、よく耐えています」
それは、事実だった。
彼らは、本当によく耐えていた。
――だから、壊れる。
正義は、疲労を許さない。
疑いは、休息を与えない。
「次は、誰だろう」
誰かが、呟いた。
声は小さかったが、確かにあった。
私は、その声を拾い上げなかった。
拾えば、矢印が生まれる。
矢印は、必ず向きを持つ。
夜、霧の中で、私は考える。
切り裂きジャックは、刃を持っていた。
でも、本当に人を裂いたのは、恐怖だ。
ここには、もう刃はいらない。
村は、自分で自分を削っている。
私は、静かに微笑んだ。
――もうすぐ、全員が「正しい」。
村は、静かだった。
声がない。
足音がない。
問いも、答えも、もう存在しない。
正義は、すべてを終えたあと、必ず沈黙する。
私は、教会の鐘楼に立っていた。
朝霧が、村全体を薄く包んでいる。
ここからなら、すべてが見える。
見えるけれど、動くものはない。
「みんな、正しくなった」
私は、そう呟いた。
誰に聞かせるでもなく。
そして今、完全な結果を迎えている。
――でも、それだけでは足りない。
村は、自壊した。
だが、「完成」はしていない。
完成させるには、最後の確認が必要だ。
私は、鐘を鳴らした。
重く、鈍い音。
朝の空気を切り裂く、唯一の振動。
それは合図だった。
生き残っていた者たちが、家から出てくる。
顔色は悪く、視線は泳いでいる。
彼らは、互いを見ない。
見ると、疑いが再発するからだ。
私は、静かに言った。
「集まってください」
誰も、逆らわない。
逆らう理由が、もう存在しない。
広場で、私は確認した。
人数。
位置。
距離。
そして、私は一歩前に出た。
「これで、終わりです」
その言葉は、救いのように受け取られた。
何人かは、安堵の息を吐いた。
――だから、簡単だった。
私は、事前にしておいたほんの小さなことを思い出す。
水源の管理。
食糧庫の配分。
夜間の当番表。
全部、私が整えた。
善意として。
秩序として。
結果として、村は自分で自分を殺す構造になっていた。
最後に残った人々は、
もう動けない。
疑えない。
助けを呼べない。
私は、広場の中央で言った。
「確認は終わりました」
それだけ。
誰も理解しなかった。
理解できる余地を、私は残していない。
霧が晴れる頃、
村は「とある村」になった。
地図からは消え、
記録にも残らない。
ただ、事実だけがある。
――全員、正しかった。
私は、血のついていない手を見下ろす。
切り裂きジャックは、刃を振るった。
私は、仕組みを置いた。
それだけの違いだ。
鐘楼を降りながら、私は思う。
次は、もっと大きな場所でもいい。
最後に、私は笑った。
この村で、
最初に狂っていたのは――
私だけではなかったのだから。




