06 この世で最も尊いもの
数週間後。展示会の前日。
会場は誰もいない静けさに包まれていた。
照明だけが展示物を淡く照らし、ガラスケースの中で光がゆっくりと呼吸しているように見える。
メイはその中央に立ち、ナーガ・コード・クリスタルの前で足を止めた。
深く息を吸う。
胸の奥には、準備を終えた達成感と、明日への緊張、そして――
かつて胸を刺していた苛立ちの名残が、薄い影のように沈んでいた。
背後から、柔らかな足音が近づく。
「お疲れさまです、メイさん。準備は順調ですか?」
スノウの声は、静かな会場に溶けるように響いた。
「ええ、ほぼ……でも、やっぱり少し緊張しますね」
メイは笑いながら答えたが、視線はクリスタルから離れなかった。
複雑に絡み合った結び目は、光を受けて奥行きを増し、まるで何かを語りかけてくるようだった。
スノウも隣で同じものを見つめる。
二人の間に、言葉ではない理解がゆっくりと流れた。
やがてメイは、静かに口を開いた。
「今日、クリスタルを見ていて……気づいたことがあるんです。
優しさって、こういう“お宝”みたいなものなのかもしれないって」
スノウは横目でメイを見て、穏やかに微笑んだ。
「お宝、ですか」
「ええ。人への優しさや気遣いって……価値がわかる人にしか、本当の意味が伝わらない。
わからない人には、ただ“綺麗だな”で終わってしまう。
大事にもされないし、守られもしない。
本当はとっても、尊いものなのに……。」
言葉にして初めて、胸の奥の影が形を持った気がした。
スノウは小さくうなずき、静かに言葉を重ねた。
「その通りです。価値を理解できる人には慎重に扱われ、大切にされる。
理解できない人の手に渡れば、雑に扱われる。
善悪ではなく、ただの理解の差ですね」
その言葉に、メイの胸の奥で、かつての苛立ちが一瞬だけ疼いた。
アザレアが連絡もせず、計画を丸投げしたあの日。
疲れと怒りに押し潰されそうだった瞬間。
あれは――価値がわからない人に起きる、ただの必然だったのだ。
スノウの声が、さらに深く染み込む。
「だから、説明しても無駄なんです。
与え続けても、期待しても、意味がない。
価値のわかる人にだけ渡せばいい」
メイはゆっくりと息を吐いた。
指先でクリスタルのガラスケースをそっとなぞる。
冷たい表面が、心の奥の熱を静かに吸い取っていくようだった。
「……価値がわからない人には渡さなくていい。
それで、いいんですよね?」
スノウは柔らかく笑った。
「ええ。展示でも同じです。
誰にでも触らせるわけではありません。
価値を理解できる人だけが、触れることを許されるんです」
その瞬間、メイの胸に残っていた苛立ちが、ゆっくりと溶けていくのを感じた。
怒りはもう、必要なかった。
説明も、期待も、もういらない。
クリスタルの光が、指先を優しく照らす。
二人はしばらく言葉を交わさず、ただ同じ光を見つめていた。
「わかる人には、わかるんですね……」
メイのつぶやきに、スノウは静かに応えた。
「ええ。きっと、きちんと伝わります」
展示会前夜の静かな会場に、二人だけの納得が満ちていく。
メイは小さく微笑み、胸の奥に残っていた影をそっと手放した。
「価値のあるものは、理解する人の手にだけ。
……これで、いいんだ」
その言葉は、クリスタルの光と同じように、静かで、確かな輝きを放っていた。




