05 メイさんが怒ってるなんて、全然思ってませんでした
展示会の準備は、朝から小さな混乱を抱えていた。
メイは散らかった書類を整えながら、展示スペースの入口に立つスノウの姿に気づき、眉を寄せた。
「大丈夫ですか?」
声をかけると、スノウはかすかに笑おうとしたが、その表情には疲れが滲んでいた。
「……ちょっと、今日はいろいろ重なってしまって」
スノウは椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。
その吐息には、朝から積み重なった重さがそのまま乗っているようだった。
スノウの部下のルックが書類を見落とし、重要な連絡を相手に伝え損ねたという。
届いていた手紙の封も切らず、結果として相手を怒らせてしまった。
スノウは急いで関係者全員に頭を下げ、なんとか事態を収めたらしい。
「私はあなたを責めたりしないけど、やりとりする相手に迷惑をかけるのは良くない。相手にも感情があるんだから」
その言葉は静かだったが、芯があった。
ルックは恐縮しながらも、「スノウさんが僕を責めるなんて思ってませんよ」と軽く笑った。
その無邪気さに、スノウは「そこが少しモヤモヤするのよね」と苦笑した。
メイはその言葉に、胸の奥がわずかにざわつくのを感じた。
似たような感覚を、最近どこかで味わった気がした。
「実は……」
メイは声を落とし、スノウにだけ聞こえるように話し始めた。
先月、アザレアと起きた小さなすれ違いのことだ。
メイはアザレアと、複数人での食事会を計画していた。
人数を確認し、全員に予定を伝えた直後。
電話口のアザレアは「え? ケールさんがなんで? えっ?」と混乱し、そのまま無言で通話を切った。
あの瞬間の、胸の奥に落ちた冷たい感覚を、メイはまだ覚えている。
深呼吸して考えた。
――もし問題なければ、あんな切り方はしない。
――きっと、ケールが来ることを想定していなかったのだろう。
そう察したメイは、周囲には「都合がつかなくなっちゃって」と伝え、計画を白紙に戻した。
他の人に迷惑がかからないように、ただそれだけを考えて。
アザレアは26歳。
結婚もしていて、社会人としてももう十分に大人だ。
それでも対人関係になると、突然フリーズしてしまう。
返事をしない、空白を作る、沈黙で相手に判断を委ねる――
そのたびに、メイが前に出て調整するしかなかった。
トラブルそのものは、表面上は穏やかに収まった。
けれど、その過程で疲れを抱えたのは、結局メイだけだった。
アザレアからは謝罪も説明もなく、
むしろメイが「私は怒ってないから大丈夫だよ」と気遣いを向けたとき、
返ってきたのは、
「メイさんが怒ってるなんて、全然思ってませんでした」
という、あまりに軽い言葉だった。
状況を理解するでもなく、ただ自分に都合のいい解釈だけをそっと差し出すような返事。
その無邪気さが、メイの胸に静かな重さを残した。
「世話されて当然」
「黙れば誰かが片づける」
その構造に、アザレアは無自覚のまま居続けている。
メイは、その一点に限界を感じていた。
話を終えると、スノウは静かに微笑んだ。
「なんか、私も腑に落ちた気がするわ」
その言葉は、慰めでも同情でもなく、
ただ事実を理解した人間の穏やかな頷きだった。
「そうですか……」
二人は短く目を合わせ、わずかに笑った。
メイの胸の中には、少しの安堵と、まだ消えきらない苛立ちが、
ゆっくりと混ざり合っていた。
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その夜も、メイはライブハウスにいた。
前と同じ場所、同じ光、同じ音。
けれど胸の奥に沈んでいるものだけが、前とは違っていた。
ステージの照明が観客の頭上を切り裂くように走り、ギターの音が床を震わせる。
メイはその波に身を任せ、笑い、手を叩き、声を上げた。
外側の動きは軽やかで、楽しげですらある。
だが、心の奥では別の音が鳴っていた。
低く、硬く、冷たい音。
怒りというより、もっと静かで、もっと深いもの。
――あのとき。アザレアが電話を切ったとき。もし私の誕生日に何もないと知っていたら。
ステージの光が瞬くたび、メイの胸の奥に沈んだ影がわずかに揺れる。
食事会のフォローも、あんなに自分を削らずに済んだ。
期待していたわけじゃない。
ただ、最低限の礼儀が返ってくると、そう信じていただけだ。
「この関係には、最低限の相互性があるはずだ」
「人としての礼は返ってくるはずだ」
その前提で動いてきた。
けれど、その前提は、事後にあっけなく崩れた。
怒りは、熱ではなかった。
むしろ、冷えた鉱石のように、胸の奥でゆっくりと固まっていく。
触れれば指先が切れそうなほど鋭く、しかし決して爆発しない静かな硬度。
――ふざけんな。
その言葉は叫びではなく、
むしろ“理解”に近かった。
状況を最も正確に要約した、ただの結論。
26歳。
結婚してて、長年世話になっていて、プレゼントは受け取って、調整は丸投げして、誕生日には何もしない。
数字と事実だけを並べれば、擁護の余地などどこにもない。
メイは拳を軽く握った。
ステージの光が観客の顔を照らし、誰もが音に酔いしれている。
その喧騒の中で、メイの心だけが静かに沈んでいった。
怒りは、相手を責めるためのものではなかった。
自分の中の“前提”が壊れたことを認めるための、最後の工程だった。
「バカバカしい。」
その言葉は、諦めではなく、
むしろ“境界線を引く”という静かな決意だった。
音楽が鳴り響くフロアの真ん中で、
メイはひとり、心の底に沈んだ鉱石のような怒りをそっと抱きしめた。
それは、彼女が“手放す”ための、必要な重さだった。




