03 ナーガ・コード・クリスタル
翌日。歴史美術館のトイレは、朝の来館者がまだ少ないせいか、ひんやりと静まり返っていた。
メイは蛇口をひねり、流れ落ちる水に手を差し出す。
冷たさが指先から腕へと伝わり、ぼんやりしていた意識が少しだけ引き戻された。
鏡を覗くと、そこには思っていた以上に疲れた顔が映っていた。
目の下の影、わずかに下がった口角。
自分でも気づかないうちに、こんな顔をしていたのかと、胸の奥が少しだけ痛む。
メイは両手で頬を包み、モニョモニョと揉みほぐす。
皮膚の下の筋肉がじんわりと温まり、呼吸が深くなる。
ふう、と大きく息を吐き、鏡の前でゆっくりと笑顔を作った。
「よし。」
その声は小さかったが、確かに自分を立て直すための合図になった。
⸻
展示会の打ち合わせ。
会議室に入ると、学芸員のスノウが柔らかい笑みで迎えてくれた。
白い資料の束と、静かな空気。
スノウの落ち着いた雰囲気は、メイの緊張を少しだけ和らげた。
打ち合わせがひと段落した頃、スノウがふとメイのバッグに目を留めた。
「それ、ナーガ・コード・クリスタルですよね」
「あ、そうか」とメイは思い、バッグのキーホルダーを指先でつまむ。
光を受けて、小さな結び目が淡く輝いた。
「そうです。学生の頃、今回と同じ展示会に行ったんです」
「5年前の?」
「はい、すごく楽しかった記憶があります」
スノウは目を細め、懐かしむように微笑んだ。
「ナーガ・コード・クリスタルを使ったグッズは人気ですよ」
「そうなんですか。」
メイの胸の奥に、大学時代の記憶がふっと浮かぶ。
展示会のショップで、アザレアと並んでどの色がいいか迷っていたあの時間。
あの頃は、ただ楽しくて、ただ嬉しかった。
「はい、出土品の中でもとても華やかで大衆ウケしやすいので」
スノウの言葉に、メイは少しだけ躊躇いながら口を開いた。
「…でも私は」
「はい?」
「あ、いえ、何でも。……綺麗です。」
スノウは首をかしげ、優しく促す。
「いえ、思ったことがあるなら、私も聞きたいです」
その穏やかな声に背中を押され、メイはゆっくりと言葉を探した。
「展示で、ナーガ・コード・クリスタルを初めて見た時、綺麗だなと思いました。でも説明を読んだ時に、この結び目に意味があって、言語や文字が初歩的な時代に、色んなことを伝えていたとわかって。それがすごく素敵だなって思いました。だから売り場で見つけたときは、わあ欲しいって…あ、すみません」
スノウはふっと笑った。
その笑みは、メイの言葉を否定するどころか、むしろ大切に受け取ってくれたようだった。
「ふふふ、いいじゃないですか。メイさん、優しい方でしょう?」
「…えっ!?」
「メイさんがこの展示会の担当で良かったって、今思いましたよ。大切な目線を持っていらっしゃる」
メイは思わず背筋を伸ばした。
胸の奥に、少しだけ温かいものが灯る。
「いえいえ、こちらこそ、これからよろしくお願いします」
その言葉は、先ほど鏡の前で作った笑顔よりも、ずっと自然に感じられた。




