02 私、何かしたっけ。
時は一カ月前に遡る。
午前の光が差し込むオフィスで、メイは書類の山に埋もれながら、ひとつ深いため息を落とした。
紙の端が指先に触れる感触が、妙に冷たく感じられる。
「どうした?」
不意にかけられた所長の声に、メイは顔を上げた。
視線が合うと、所長は眉を寄せてこちらを覗き込む。
「え?」
「なんか今日はため息が多いから」
その言い方があまりに素直で、メイは思わず苦笑した。
「え、うそ…」
「なんかあった?」
「いやぁ、週末だからちょっと疲れてるんですかね」
軽くおどけてみせた笑顔は、いつも通りのはずだった。
けれど胸の奥では、言葉にできない重さが沈んでいる。
――そう、なんか、あった。
図星だった。
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その朝、ポストの蓋を閉めた瞬間、メイの動きは止まった。
冷たい金属の感触が手に残ったまま、しばらくその場に立ち尽くす。
昨日が自分の誕生日だったことを、ようやく思い出した。
そして同時に、アザレアからの連絡が一度もなかったことにも。
忙しさに紛れて気づかなかった自分に、少しだけ呆れ、
それ以上に、胸の奥に小さな穴が開いたような感覚が広がった。
肩が自然と落ちる。
朝の空気は澄んでいるのに、どこか遠く感じられた。
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職場のデスクの上を片付け終え、メイは椅子を押し、立ち上がった。
「じゃあ、お先に失礼します」
いつも通りの声で挨拶し、オフィスを出ていく。
その背中を見送りながら、所長がぽつりとつぶやいた。
「やっぱ話してくれなかったなぁ」
リリィが苦笑しながら肩をすくめる。
「ふふふ、まあ、メイさんですし」
「俺、信用されてないのかなぁ」
所長の落ち込みように、リリィは慌てて言葉を添えた。
「いや、心配かけたくないんだと思いますよ」
シルビアも静かにうなずく。
「まあ、もう少し様子を見ましょう」
所長は腕を組み、困ったように眉を寄せた。
「展示会の件でまた話すと思うから、注意して見とくよ」
その声は、誰に向けたものでもなく、ただ空気に溶けていった。
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夜のライブハウスは、熱気と光の粒で満ちていた。
ステージの照明が観客の頭上を切り裂くように走り、ギターの音が床を震わせる。
メイはその人波の中にひとり紛れ、リズムに合わせて身体を揺らしていた。
笑顔は自然に浮かんでいた。
けれど胸の奥では、別の波が静かに渦を巻いている。
音に身を任せれば任せるほど、思考の断片が浮かんでは沈み、また浮かび上がる。
――どうして、連絡がなかったんだろう。
――私、何かしたっけ。
――もしかして、あの件?なんで?
鼓動とベースの低音が重なり、心のざわつきが音に紛れていく。
誰にも気づかれないまま、メイはひとりで感情の底をさらっていた。
ライブが終わると、夜風が肌に触れた。
帰り道、ふと立ち寄った店で小さな料理をひと口だけ味わう。
温かさが喉を通る瞬間、張りつめていた何かが少しだけ緩んだ。
側から見れば、仕事帰りに寄り道して、音楽を楽しんで、美味しいものを食べただけの夜。
けれど実際には、心の奥に沈んだ澱みを、誰にも見せずにそっと流し出すための時間だった。
メイは歩きながら、深く息を吸った。
夜の街は相変わらず賑やかで、彼女の静かな疲れを知らないまま、明かりを灯し続けていた。




