7.真夜中の捜索
「……あれ?」
「どうかしたか?」
「……いや、たぶん気のせいだ」
近くにあった自販機の陰へと咄嗟に身を潜めたのが功を奏し、刑事の視線は再び水面へと戻っていった。
「そんで、なんの話だっけ?」
再び二人の会話が始まった。
片方の男があくび混じりに尋ねる。
深夜二時過ぎ、刑事も人の子である以上、眠気を覚えるのは致し方がないことである。おしゃべりの一つもせねば起きているのも大変なのだろう。
彼らはやる気なく川面を眺めているようだった。
周囲を見回すが、川沿いには等間隔に制服警官が配置されており、街灯に照らされた彼らは始終周囲を警戒している様子だ。
猫一匹にさえも機敏に対応できそうなほどに彼らは熱心である。
それに引き換え彼らのやる気のなさと言ったら。二人してぼうっと突っ立っている。
と、刑事が「だからさ、」とぼやく。
「……今回は流石にちゃんと調べるよな? って話」
今回は流石に?
成人は息を殺して聞き耳を立てた。
「どうかね……、調べるかねぇ。俺ァ詳しくは知らんけど……、まあ、素行はよくないクソ野郎だったって話じゃねえか。ここだけの話、横領疑惑があんだろ? 上はそんなの隠しておきたいだろうよ」
ああ、そういうことか、と合点がいく。
彼の言葉から察するに、つまり何人かの不良警官が不正を働いたとか、そう言う話だろう。
そしてそのうちの一人が今回、何らかの原因で死んでしまった。
死んだことで仕方がなく上層部も重い腰を上げた——、もしかしたら彼らは川に落としたと思しき横領品の行方を探しているのかもしれない。
それにしても「今回は」ということは、既に数件の類似事件が起きていると考えていいだろう。
警察内部の事件ならば一件目からしっかりと調べるべきではないか。
しっかりしてくれよ。
そうは思うが、それは成人にはさほど興味を抱けぬ話だった。
汚職、横領……、思ったよりも面白くはない話、よくある話だろう。
「じゃあ何か? お前は薬物だと思ってるってこと?」
そのまま立ち去ろうと考え、成人は腰を浮かせた。
ただの死亡事件だの横領だの——、聞こえてきた薬物もそこに追加される——、は専門外だ。
ゴシップ誌ならばスクープとも言える事件だろうが、しかし残念ながら成人はオカルト誌のライターである。
事件に人並みの興味は抱きはするが、夜中にリスクを犯してまで盗み聞きをしたい内容ではなかった。
こんなところまでノコノコやってきて、損をしてしまった。
そんなことを考えながら、膝を立て、そっと腰を浮かせた。刑事の会話はなおも続いていく。
「じゃあねえの。じゃなけりゃあんな死に方しねえだろ」
まったく、警官の風上にもおけやしない、と再びあくびまじりに刑事が言う。身内の恥だ、と憎々しさを隠そうともしない。
「……」
「……なんだよ」
「いや、本当に薬物なのかな、って」
「おいおいやめろよ、あんなのただの与太話じゃねえか。何よ、お前信じてんの?」
「与太話っていうか……、これで……、四件目だろ、ああいう風になってるの。実際にさ……」
「だーかーら、同じヤクやってたんだろ」
「でも……夕方見た時は普通だったんだろ? 他の奴らが言ってた」
「……薬中警官が死んだ。それだけの事件だって」
突如突風が吹いて、刑事の皮肉めいた微かな笑いが風にかき消される。落ちていた汚れた空き缶がカランカランと音を立てて成人の前を通り過ぎていった。
四件目。
成人は自身の推測に彼らの会話とのズレを感じた。
最初に聞いた『今回は』との言葉に、成人は事件はすでに複数回起きていると認識していた。おそらくそれは間違いがないだろう。
問題はそのあとだ。
死体が上がったらしい、との前提から『今回は』という言葉と『流石に調べるよな?』の間には「ついに死人が出たのだから」が含まれていると成人は勝手に解釈していたわけだが、実際には「今回は警官が死んだのだから」だったのではないか、と考えたのだ。
つまり他三件は警官ではなく、一般人。
いや、それがなにか大きな意味に繋がるかは判らないが、なんとなく気持ちの悪い齟齬が生じている——、そんな気がしてならなかったのだ。
それに「ああいう風になってるの」とはなんなのだろう。
「だけど、四件だぞ……」
「薬物事件なら珍しかァねぇだろ。流行りのヤクってのがあるもんだ」
「お前……本気で言ってんの……? お前だって四件全部見ただろ! 遊歩道公園、クラブのトイレ、ホテル、そんでここ……! 薬であんな風になるって本当に信じてるのか!?」
「だから、ヤクが原因だっての。どうしちゃったん? お前ちょっとおかしいぜ。落ち着けよ」
荒げた声が周囲に小さく響く。
警戒にあたっていた制服警官も彼らに視線を移したようだった。
闇に溶け込んだ自身の姿が、彼らが手に持つ懐中電灯に照らし出されるのではないかと成人は身構えたがそれは杞憂に終わる。
持ち場を守る彼等は早々に刑事二人から視線を外していた。上の刑事の会話には口を挟まない——、そんなルールが彼らにはあるのかもしれない。
ホッとすると同時に、成人の頭に幾つかのワードが駆け巡った。
与太話、夕方見た時は普通だった、ああいう風になってるの。
ザワザワと、奇妙な感覚が背中を滑る。
これは単純な事件なのだろうか。本当に?
好奇心に引かれるように、自販機の陰から身を乗り出すようにしていた自身にようやく気づき、成人は再び闇へと溶け込むよう腰を低く落とした。
「お前たち、何を騒いでいる!」
橋の下からの怒号に二人が姿勢を正し「失礼しました!」と声を張り上げ謝罪した。
「とにかく、そんな馬鹿げたことがあるわけねぇだろ。ホント今日のお前、どうかしてるよ」
それきり二人の間には沈黙が訪れた。
ザブ、ザブという音がして、それが止むと「梯子を頼む」という指示が聞こえてくる。川沿いに立った警察官の中の一人が小さな懐中電灯で川を照らし、別の警察官が梯子を固定した。
ここにきて初めて成人は、投光器が一つもないことに気づいたのだ。
深夜、街灯の光だけでは心許ない現場だ。警察官が何人も川沿いに配置されているほどに捜査は大掛かりなのに、川面を照らすのは彼らが各々の手に持った懐中電灯だけなのである。
奇妙な光景だ。
——何を探していた?
二人の口ぶりから察するに、遺体は既に回収された後だ。だが、警察官たちはなおも何かを探しているのだ。
落とした横領品……、例えば薬物と考えるのが、彼らの会話から察するにもっとも自然だが——、しかし何かしっくりこない。
「警視庁の奴ら、何を探しているんだと思う?」
自身の思考と重なる問いに、成人はなぜかぎくりと身を固くする。
どうや捜査をするのは警視庁のようだ。
つまり、これは、重大事件として新宿警察署という枠を飛び越え捜査されていると言うことだろう。
「まだその話、続けんのかよ。いい加減にしろよ。ホントどうかしてるぜ、お前」
「赤ん坊だよ」
「……はあ? お前さあ、なにを、」
「赤ん坊を探しているんだよ、あいつの……、死んだ警官の腹にいた赤ん坊だよ」
制止を振り切るように言った声は、随分とはっきりしたものだった。
再び違和感が二つほど芽生えた。
成人は不良警官を男だと考えていたのだ。
だがこの刑事は、現場を捜査する警視庁は赤ん坊を探していると考えているようだった。
つまり彼の言葉に信憑性があるとしたら、死んだ警察官は妊娠していた女ということになる。
成人は不良警官をなぜか男だと思い込んでいたのだ。
そしてもう一つの違和感。誰の目にも妊娠中と判る女が、果たして薬物に手を出すだろうか、ということだ。
いや、そういうこともないわけではないのだろうが……、それ以前に、それ以前に、だ。
『まあ、素行はよくないクソ野郎だったって話じゃねえか』
女を野郎、と称するとこはあるだろうか。
何かがおかしい。
そもそも流れた——、「赤ん坊を探している」と発言した彼の言葉が正しく、つまり死んだ警官の体外に出てしまった赤ん坊、その遺体を探しているとしたら、なぜ投光器で照らし出さないのだろうか。
小さな違和感が積み重なっていく。
「……お前何言ってんの? 正気か? 赤ん坊なんて……、」
「俺にはもう判らない……判らないんだよ……!」
「なあ、お前疲れてんだって」
「じゃあ署内の噂はなんだなんだよ……」
「そんなのただの噂じゃねえか。与太話だよ。なあ、よく聞けよ」
「……」
「少し冷静になれって。あれはただの噂だ。赤ん坊なんているわけがないだろ? あり得ないっての」
赤ん坊がいるわけがない。
どういうことだ? と成人は更なる混乱の渦へと落とされる。会話の内容が頭で上手く纏まらない。
死んだ警官は妊娠が継続された状態のままで遺体が引き上げられていた。だから赤ん坊が川にいるわけがない、ということだろうか。
だがもう一人の警官の口振から察するに、それはないような気がしてならない。なんというか成人の耳には彼の言葉が——、赤ん坊の存在そのものを否定しているような、そんな感じに聞こえたのだ。
例えば死んだ警官が出産を終えた直後だとか、妊娠していた様子がなかっただとか、はたまた警官が肉体的に妊娠が不可能であったことを知っていたような……。
だが出産後に子供を道連れに死んだ——、事故の可能性はないのだろうと、成人は二人の会話から断定した——、場合、片方の刑事の言う「死んだやつの腹にいた赤ん坊」という表現はおかしいだろう。
次に、妊娠していた様子がなかったのならまず最初に「あいつ妊娠してたの?」などの会話がなされるはずだ。
そして、刑事が警官を妊娠不可能だと知っておりすぐさま否定したのだとしたら、彼女の極めてプライベートな情報が、署内で共有されていたこととなる。プライバシーの保護に厳しい昨今、それはあり得ないはずだ。
ではなぜ彼はすぐさま否定をした、いや、否定できたのだろうか。
思考が方々に散らばっていく。
赤ん坊がいるわけがない。ありえない。妊娠していた、もしくしはしているはずがない——できない。
ふと、成人の脳にあり得ない仮定がふわりと浮かぶ。
——警官が、男だったとしたら?
それならば絶対にあり得ないと断定することもできよう。
ホテルシレナ。
成人が隙間バイトに赴いた先で見た遺体。それが思い出された。刑事は他三件の事件現場に「ホテル」を上げてなかっただろうか。
いいや、思考が飛躍しすぎている、と成人は首を振った。
赤ん坊の存在そのものを否定している、と感じたのは成人の主観だ。
そう考えるも、しかしあの遺体——、ラブホで見たあの腹が異常に膨れた男の遺体。あれが頭の片隅から何度も頭をもたげて存在を主張する。
噂話、与太話、既に起きている三件の類似事件。その類似性。
——それが男の腹に中身があった、というものだとしたら。
いや、と成人は首を振る。
大体、ラブホで見たあの遺体は「病変」の可能性が高いと結論づけたのだ。
成人が、あの遺体にオカルトライターとして一時的に興味を抱いたのは、あくまでも「急激に腹部が膨張した」という部分だ。
出血を伴うほどの肉割れが発生したその原因に「オカルト性」を見出したのである。
男の腹に赤ん坊がいるだなんて、あまりにも……、あまりにも荒唐無稽だ。確かに妊婦の腹みたいだ、と成人もの考えはした。
だが。
赤ん坊がいるはずがない、と刑事が即座に否定できたのは何故なのか、と再び同じ問いが頭を駆け巡った。
不良警官が定年間近の女、つまり妊娠が限りなく不可能な年齢であった可能性も捨てきれない、と成人は再度考えを否定する。
そう、何度も何度も、成人は否定材料を探すが、しかし同じようにあの光景がしつこいほどに浮かび上がるのだ。
こじつけ、思考の飛躍、妄想。
整理されない思考の巡りに頭がパンクしそうになる。
「なあ、落ち着けよ。お前ちょっと疲れてんだよ。な?」
「俺は見たんだ」
凛とした声だった。
自分は狂ってもいないし至極冷静だ。
そう主張するような、はっきりとした声だった。
「何をだよ。おいおい、いい加減にしようぜ、マジで」
「俺は見たんだよ、見たんだ、見たんだ」
刑事は淡々と見た、見た、見た、と続ける。
彼は一体何を見たというのか。相棒の刑事の張り詰めた緊張が、成人にも伝播し指先から冷えていく。
「なあ、お前いい加減に……!」
「あんなの普通じゃない」
「だからさ、あれはただの噂だろ?」
「お前はアレを見なかったからそんなことを言えるんだ」
「なんだってんだよ、お前。マジでおかしいぜ。あんなの与太話、」
「臍から何か黒いモノが出てきた。それが床を這い回ってたんだよ」
捲し立てるように彼は言った。
ヒュッともう一人の刑事が息を呑む僅かな空気が成人の耳にも届いた気がしたが、それが事実なのか成人の緊張が生み出した幻聴なのかは判らない。
刑事が自分を誤魔化すように、ハハハ、と渇いた笑いを漏らす。
「——は、あ? お前何言ってんの……?」
急に胡散臭さの増した話に成人の思考も追いつけずにいた。
いや、成人は既に……、最初から追いつけていないのだ。
この場にいる誰よりもオカルトを信じながらも、その実、誰よりもオカルトに疑いを持っているのは他ならぬ成人本人である。
冷静になる必要があった。
話に追いつけていないのは、興奮か、あるいは恐れから冷静さを失っているからだろう。
じっとりした空気を振り払うように、成人は首を振った。
そう、まずは黒いモノの正体だろう。
喉元に触れながら、成人は可能性として現実的な答えを探していた。
まず這い回る、という表現から真っ先に思い浮かぶのは寄生虫妄想などだろう。
つまりこれはオカルトの話などではなくて、病んだ刑事が患った何かしらの精神の、あるいは脳の疾患という、ごく単純な話。
それならば、その黒いモノやら赤ん坊とやらの話も彼にとっては疑いようのない現実なのだから、いちいち真剣な口調にもなるというものだろう。
そう、すべでが現実的ではない。
臍から出てきた黒いモノ、など存在するはずがない。
ないのだが。
ただ、与太話という言葉——、現実的で真っ当な社会を形成しているであろう警察署内で密かに囁かれる与太話、その存在が成人は気になった。
余程衝撃的な『何か』が起きなければそんなモノは発生しないはずだ。
つまり、与太話が発生しうるような、現実にしては異常な、いや、異常すぎる何かは確かにあったと見るべきなのだろう。そう、既に三件も。
成人はその場で考え込んだ。
いずれにしても確定的な判断を下すには判断材料が乏しい。
現段階で判明しているのは、死んだ警官が夕方までは普通だったということ——、何が普通だったのかは判然としない——、と、薬物の可能性、別の事件のようだが臍から出てきた這い回る黒いもの。それから、彼らの言葉から赤ん坊の遺体があるかもしれないということ。そして不可思議な点としては、警察官たちが投光器を使用していないこと。
一つずつ考えていかなくてはいけない。
まず、普通だった、の意味を考えるべきだと成人は考えた。
冷静に、あくまで客観的な視点で思考するべきだ、と成人は自分自身へと念を押す。
普通だった、とはつまり流産は起きておらず、妊娠が継続されていた、ということだろうか。
ところが回収された遺体には流産の痕跡が残されており、子供だけがいなかった——、それならば赤ん坊を探しているのだと刑事が言ったのも納得ができる。
しかし、だがもう一人の刑事は『赤ん坊などいるわけがない』とすぐさま断言をした。
つまり、二人の刑事の会話から推測するに、そもそも赤ん坊など最初からいなかったと考えるのが妥当であろう。
先ほど成人が結論づけたように、赤ん坊がどうのというのは刑事の妄想。
その結論から導き出されるのは、警察官らが探しているものは薬かなにか。
夕方まで普通だったとは、死んだ警官が『珍しく薬の影響がなくまともな様子で勤務していた』ことを指すのかもしれない。しかし、薬が持ち出された痕跡があったため、遺体回収後も何かを探している。
赤ん坊云々は刑事の妄想。
いや、と成人は再び考え込む。薬……、薬じゃなくとも横領品などを探しているならば、尚更のこと、投光器を使って効率よくそれを探すはずだ。
答えを導き出すには圧倒的にピースが足りない。
噂とはなんだ、黒いモノとは? なぜ彼らは投光器を使わないのだろう。
黒いモノ、が刑事の妄想であると結論づけても、まだ『署内で囁かれる噂』が残る。
つまり、どんな噂であるのか追求できなければすべてがすっかりとクリアになることはないに違いない。
情報が細切れすぎて霧が立ち込めたままだ。
状況から察するに、これは成人の領分である可能性三、寧ろゴシップ誌の領分である可能性が七と言ったところだろうか。
「……あのよ、お前が何にそんなに拘ってるのかしらねぇけどよ、大丈夫だって」
「……」
「ただの薬中だ。あんなのただの噂だ。お前も、ちょっと疲れて幻覚が見えちまっただけだよ」
刑事の声がなぜか少しだけ震えていた。
ふと成人は気づく。
なぜ自分はこんなに必死でオカルト性を否定しているのだろう、と。
「……」
「体があんな風だったのだってよ、ただの薬の副作用だって」
確かに成人はそういう姿勢のライターではある。
だがなぜかそこに一滴の「恐怖心」が存在しているような、そんな気がしたのである。
事象そのものを恐れているのではなく、自分がその渦中に置かれたような、そんな恐怖心だ。
自分は何を恐れているのだろう。そう思うが恐れの正体は判然としない。
刑事の会話は勝手に進んでいく。
「おめでたいな、お前」
刑事は侮蔑を含んだような、冷ややかな声でそう言った。
「何かが起きてるんだ。お前だって必死で否定してるけど本当は、」
「やめろって!」
「……赤ん坊だよ。あの黒いのは赤ん坊になれなかった何かだ。あれは生きていた」
「お前おかしいぜ! いい加減にしろや!」
「署内での噂は本当だ」
「なあ、マジでやめろって!」
「男の腹に子宮があった」
成人の動きが止まる。世界が凍りついたような、奇妙な感覚だった。
男の腹に、子宮?
脳内で言葉を反芻するが、しかし飲み込みきれない。
それは個体差、つまり生まれ持った体の特性なのではないか。
そんなことを考えるが、事態は明確にその推測を否定していた。
署内で囁かれる噂だ。類似事件は既に三件も起きているのだ。
個人的な体の特性、などでは決してない。
「あの噂は……、きっと事実だ。今回の事件も同じだ。前の三件と同じように子宮があると俺は思う。中身はもう出て行ってるかもしれないが」
「……お前……、」
刑事は言葉そのものを忘れてしまったかのように、押し黙った。
地獄の釜、その蓋がこじ開けられたような、そんな感覚なのかもしれない。
「夕方までは腹は膨れてなかった。夕方以降に何かがあったんだよ。アレが薬? お前本気で言ってる? そんなわけがないだろ。なにか……何かが起きているんだよ。ここで」
呼吸が浅くなる。地面を踏み締める足の指に、力が籠る。
何か、異常事態が起きている。
それはきっと、成人の手には負えない何かなのだろうという確信があった。
その何かは人々の生活を蝕むように、少しずつ侵食しそしてある日突然にその日常を食い破る。そんな気がしてならなかった。
何かが起きている。でも何が?
成人は自問自答するが答えは出ず、ただ恐怖心ばかりが成人の背を這い上がり、そして細胞ひとつひとつに入り込んでいくような感覚があった。
成人は気付けば立ち上がり、そしてそろりそろりとその場を後にしていた。
その人生で初めて、湿度の高い空気を煩わしく思っていることに成人は気づいていない。
ただただその場から逃げ出したかった。
少しでも遠くへ逃げようとするかのように、足を必死で動かした。
だが足も手も、自分のものではないかのように、上手く動かないのだ。肌を撫でる空気さえもが足を引っ張るような、奇妙な感覚があった。
もつれる足を奮い立たせ、アスファルトを蹴り、暫く行ったところで、ようやく恐る恐る、命抄事川を振り返った。
空が白んできている。
鳥が鳴いていた。
人間には理解できない何かは間違いなくひっそりと起きていて、そして少しずつ蝕んでいるのだ。
この街——、そう、新宿を。




