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6.サイレン

 暖かく安心できる場所だった。温もりの中に居た。

 何一つ心配のない、穏やかな場所。それは楽園のようだった。


 しかし、時折衝撃もあった。憎しみが雨のように降ることがあった。


 そこを除けば、そこは楽園だった。


 穏やかな時を過ごして安心してそれは眠っていた。

 だが、それは突然訪れたのだ。


 世界が()()()()()()のである。

 何が起きたかは判らないが、楽園が終焉を迎えたのだと、それは——、ただ、理解していた。




 

 晴れである。見事な晴れ。


 カーテンの隙間から差し込む日光は皮膚にひどい刺激を与えていた。

 痒いし時折痛む。

 まったく難儀な体に生まれたものである。


 扉の向こうで朔が動く気配がする。

 彼は夜職に就く割に日中にも活動をする。

 時折は昼寝のようなことをしているが、しかしまともな睡眠を日常的に取っているようには思えなかった。

 いつ眠っているのだ、と問うたことはあるが、本人曰く「ちゃんと寝ている」とのことだから、成人なるひとが知らないところで眠っているのだろう。


「ナル、起きた?」


 床に降り立ち伸びをしたところで声をかけられ、成人は「ああ、起きてる」と短く返事した。


 リビングへと移動すると壁掛け時計は十三時を示していた。

 少々寝過ぎたようだが、日差しの強さが体力を奪うせいか、成人の体は未だ眠りを求めていた。


 カーテンは閉ざされたままだ。


 天気のいい日、この家のそれは基本的に閉じられたままとなる。これは暗黙の了解というか、朔の気遣いである。


 窓の向こうで蝉の声がまばらにした。


 埼玉への取材からひと月が経っていた。暑さ寒さ彼岸まで、とはよく言うが、しかし日差しの強さが和らぐ気配はなく、成人は相変わらずうんざりとした日々を送っていた。


「おれ、今日はバーで仕事があるから」


「へえ。どこ?」


「新宿のガールズバー」


 新宿にはガールズバーは山のようにある。その中のどの店であるかは判らないが、朔は当然のように女性のフリをして働くようだ。

 単発の仕事であったりと、正規雇用ではないようではあるが、しかし借金は順調に返せているとのことだった。


 蝉がうるさく鳴いている。もう九月も後半だと言うのに元気なものだ。


 ああ皮膚が痒い、と成人は頭に鳴り響く蝉の声に眩暈を覚えながら考える。


 ミンミン、ジージー、ミーンミン。


「……から帰りが……、ナル? 聞いてる?」


 朔の声にハッとする


「……、ああ、悪い。聞いてなかった」


「だからさ、初めての店だから帰りがいつもより遅くなるかもしれないって話。なんか今日おかしくない? 大丈夫?」


「……大丈夫」


「大丈夫そうじゃないけどね」


 そう言った朔は立ち上がり、しかしそれ以上は成人に干渉する気はないようで、コップに水を注いで飲み干していた。


「……夢見が悪くて」


 気づいたら口をついてそんな言葉が漏れていた。


「夢見?」


「ああ。ここのところ、悪夢? ばかり見る」


「悪夢? ってなんで疑問系なの」


 尋ねられ、成人は唇を歪ませた。


「よく判らない。なんか罵倒されたり……、殴られたり? したかと思えば穏やかな場所にいるような気分になったり……、自分でもなんの夢を見ているのか判らなくて」


 およそ文筆行に身を投じる者とは思えぬ稚拙な表現で、恥ずかしいばかりであるが、成人は辿々(たどたど)しく己の悪夢について説明をした。


「へえ。いつから?」


「信号を見に行ったその夜から」


「あ、結構前からだ」


 そうなのである。つまり成人はひと月もの間、似たような夢を繰り返し見ていたのだ。


 成人自身にも夢で何が起きているのかが判然としない。

 ゆえにどうしても説明が抽象的となり、上手く伝えられているかどうかは判らなかった。

 しかし悪夢について話し始めたのは成人自身、となればとにかく洗いざらい話してしまうしかないだろう。


「色は? 付いてる?」


「付いているけど……、何も見えないと言うか」


「何も見えない? ……なんだろうね。悪夢というからにはやっぱり怖いの?」


「怖い……ああ、怖い感じはする。何かに吸い込まれて、ああ()()()なんだな、って思う。そこが一番怖い」


「……排水溝の夢?」


 朔は至って普通にそう言った。揶揄うような意図はないようだった。

 朔は更に考え込むような素振りで、それから埼玉、埼玉と繰り返しながら頭をくるん、くるんと回してみせた。


「埼玉に行った夜から、かあ……うーん……信号の怪異に当てられた?」


「なんだよ、怪異に当てられるって」


「さあ?」


 朔は首を傾げた。


「朔?」


「あくまでおれの考えた仮説だけど……、時間の巻き戻り。あれをおれたちは経験しただろ」


「ああ」


「だけどこれ、結構体に負担がかかっていたのかも」


「負担? 時間の巻き戻りが?」


「体にとっては『同じ時間を二度経験している』みたいな不自然な状況なのわけでさ。おれたちが経験した『消失した時間』って体、とりわけ脳がどんなふうに整合性をつけたのか判らない。夢って記憶の整理だっていうし、あったはずの時間の体験を、無理やり体が処理しようとして、それで脳も追いつかなくて変な夢を見てるのかもしれない」


 どうかな、と朔は尋ねた。


 朔の言っていることは一理あるような気がした。

 成人はオカルトを「観察」したことはそれなりの数はあったが、しかし「体験」したことは殆どなかったのだ。

 体が慣れない経験に、あるいは初めての体感に驚いてしまっていたとしても不思議はなかった。


 しかし——。


「まあ、どっちにしろ正解なんて判らないんだけどね」


 朔はコップを片付けながらそう言った。


 その通りなのだ。

 たまたま悪夢を見始めたのが信号機の怪異を体験したその日であっただけで、原因がなにであるのかは誰にも判らないのだ。


 取材が関係しているのか、していないのか。


 一つだけ気掛かりなことと言えば、埼玉に出かけた翌日から例の「気鬱」の発生頻度が高まったことだろうか。


 こちらは朔には話せていない。


 以前一度だけ、同居を始めて暫くした頃に「焦りのような憂鬱のような、よく判らない気持ちに襲われることがある」と話したことはあるものの、そもそも朔がそれを覚えているかは定かではないのだ。

 なによりも肌のことでそれなりに気を配ってくれているであろう彼に、更なる負担はかけたくなかった。


「ナル?」


「いや、なんでもない」


 黙りこくった成人を見つめ、朔は気遣うのような顔をしてきた。

 朔はあまり成人に干渉しない割に、体調に関しては気に留めてくれることが多かった。

 同居人に依存して世話を焼かれるような関係は成人も望まない。

 自立した大人としてそれはあまりにも恥ずかしいことだった。


「天気がいい所為で肌が少しひりつくんだ。今日はゆっくり過ごそうと思う」


「そうだね。今日も暑くなりそう。雨の日は来週までないみたいだよ」


「来週……、そうか……、俺は部屋にいるから朔も仕事頑張って」


 夕方、朔の出勤時間に目覚めなかった場合を想定してそういうと、朔は頷きながら手をヒラヒラと振った。

 


 夕方に朔が出て行った音は確認していたが、成人は眠り続けたようだった。


 気づけば翌日の午前二時を回っていた。

 いくらなんでも眠りすぎだろう。それも目覚めは自主的に訪れたわけではなく、おそらく。


「サイレン……?」


 遠くでサイレンの音がしたのである。


 新宿も近いこの場所ではサイレンなど、救急車やパトカーであってもそう珍しいものではない。

 寝床から這い出るようにしてリビングに向かうが電気は点けられておらず、真っ暗だった。

 玄関に向かえば朔が出勤時に使うヒールはなく、つまり同居人は帰宅していないということを示していた。


 普段は気にならないサイレンだが、今日に限っては違った。

 数が妙に多いのだ。

 少なくとも二台は通過した。

 遠ざかるサイレンは、アパートの近く、山手通りを北上して行ったようだ。


 窓の外は深夜二時ということもあり、比較的静かだ。


 と、急にモヤモヤとした気鬱に襲われる。こんな時間に何だというのだろう。ままならない自分の身体と心に苛立ちを覚え、成人は嘆息した。


 またもやパトカーが通過した音がした。


「……」


 嫌な気持ちを振り払うべく、成人はパトカーを追うことにした。


 玄関を出ると空気は湿気ていた。大家が夕方の日課である打ち水をした水分が残っていたのだろうかと思ったが、どうやらゲリラ豪雨があったらしく、道路までもが濡れていた。


 湿気が心地いい。


 朝にあったカラリとした空気と日差しの強さは消え失せ、成人は気分よく夜の街へと歩き出した。


 静かな街だ。


 新宿は隣だがこちらはそう騒がしくない。

 生活の街、であるから当然と言えば当然だ。


 山手通りに出るとまたもやパトカーが通り過ぎる。やはりなにか事件があったのだろう。

 成人は足を早めてパトカーと同じ方向を目指した。途中脇道に入ったパトカーを追うようにして成人もそちらにいく。

 すると人々がこんな時間にも関わらず僅かに歩いているのが目に留まる。


「なに?」


「いや、事故? みたい」


「でも飛び込んだっぽいじゃん。それじゃあ自殺じゃね?」


 事故だ、自殺だという物騒な囁きを通り抜け、成人は足早に現場を目指した。

 奈賀井(なかい)駅前を北上すると、命抄事(みょうしょうじ)川に行き当たり、パトカーが何台も狭い通路へと並んでいるのが見えた。


 頭の片隅で「俺は何をしているのだろう」と自問自答するが、しかし答えはない。

 ただ、妙に気になったのだ。何が起きているのか、なぜ警察が集まっているのかが。


 アパートを出た頃には単なる気晴らしのつもりであったが今や成人は立派な野次馬だ。

 人だかりの合間を抜けて最前列を陣取る。夜の薄暗さの中、警察官が小さな懐中電灯を携え何かを探していた。警察官の声は聞こえるが、何を話しているのかはよく判らなかった。


「ちょっと! ここからは立ち入り禁止です! スマホ向けないで!」


 深夜にも関わらず集まっている野次馬を警察官が追い払う。


 人々はぶつぶつと文句を言いながらゆっくりと川沿いから離れていった。


 成人はもまたそれに倣い人の合間を抜けて、しかし今度は川の向かいへと回れる小道を探し出す。

 薄暗い闇に紛れ、橋の上で周囲を見回る二人の男にコッソリと近づいた。


 二人ともスーツ姿の若い男である。

 ということは刑事だろうか。

 都合がいい、なにか面白い話が聞けそうだ、と成人は立ち入り禁止のテープの近くへと身を屈める。


 その瞬間、片方の男がふと振り返った。


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