1.新宿にて
あとどれくらいここにいればいいのだろう。
眠いし、眠いし、眠い。
おまけに皮膚がひどく痒かった。
さっさとバイトを切り上げてサクッと帰宅する筈だったのに、福部成人はもう三時間も、ただぼうっとそこに立っていたのだ。
こっそりと痒みのひどい皮膚をかきながら、成人は舌打ちをしたいのを堪えていた。
まったくクソのような人生である。
徹夜明けの謎の寝付けぬテンションのまま、珍しく隙間バイトなんぞに応募してみたらこのザマである。
成人はいつもこうなのだ。何もかもが上手くいかない。たぶん人生における運のようなものが、著しく人より少ないのだろう。いつも抱いている、得体の知れない焦りのような、気鬱のような、そんなものがそうさせているような気がしないでもない。
とにかく、今の成人にはできることが何もない。ただ、自身の目の前を慌ただしく行き来する人々を見やるしかない状況なのだ。
「まったく、最近の火舞鬼町はどうなっちまってるだよ。もう、」
「おい、余計なことを言うな」
小声で喋る男たちを横目に、成人はあくびを噛み殺しつつ、なんで隙間バイトなんかに応募しちゃったんだろうな——、と自分自身に向かって何度目かとなる悪態をついたのだった。
外は雨。ホテルの前に集まった複数のパトカーは、赤色灯をチカチカとさせたまま停車していた。
まああれだ、事件である。
成人は行き来する紺色の制服に身を包んだ人々をぼんやりと眺めていた。
ちょっとした緊急事態、ではないようだ。
東洋一の繁華街と称される街ではそう珍しくもない事件ではあるが、つまりはそう、事件だ。
死体を伴う事件。
変死体が出たようなのだ。
新宿区の華未知通り、そこから少し奥まった場所にあるラブホのホテルシレナに成人はいた。外は雨。絶好のお出かけ日和である。
成人の目の前を忙しくなく行き来するのは警察官。お揃いの制服が実にチャーミングだ。
こんなことなら家でゴロゴロしていた方が余程有意義だった。そんなことを今頃考えたところで遅いが、朝の自分に文句の一つを言うことくらいは許して欲しい。
ちくしょう、お前のせいだぞ、と成人と奥歯を噛み締め自分自身へと悪態をつく。無駄な行為である。
成人が原稿をようやく仕上げたのは——、成人はフリーライターだ——朝の十時のことだった。
書くことで生計を立てている、などと言えば聞こえはいいが、寄稿先はチンケなオカルト誌。真っ当ではない陰謀論やら都市伝説やらを、さもこの世の真理のように書き立てる雑誌だ。
その雑誌の原稿を仕上げ、さて寝るぞと寝床に横たわったものの、どうにも寝付けない。
例の、徹夜明けにはよくある「謎に高いテンション」だ。アレは絶対に脳内で何かが分泌されているだろう、と成人は時折考える。いや、それはどうでもいい。そう、どうでもいいのだ。
成人がそのどうにも眠れない自分にウンザリとして、どうせ眠れないのならと隙間バイトに申し込んだのは午前十一時頃のこと。清掃のバイトである。
ホテルシレナはラブホであるから客と顔を合わせることがない。それならば自分のような者にもできるだろうと、成人は踏んだのだ。
そこから数時間後の午後六時、シレナに到着した時には既にこの有様だった。
断続的な雨に街が満たされる中、何台もの警察車両がシレナの前へと到着していた。
ぞろぞろと中に入る警察官たちは、呆気に取られて固まっていた成人を押すようにしてホテルに入っていった。その拍子に巻き込まれたのは成人だけではなく、何人かの間抜け——、つまり隙間バイトの男たちもまた、一緒にもみくちゃにされながら、気づけば同じ状況だったのである。
最後尾の警察官が怪訝な顔で「あれ? え、君ら何?」というので誰かが「えっ、ええと、タイマネから来ました……」としどろもどろに自己紹介をしたが、その警察官は失礼にも「えっ、隙間バイト? なんで入ってきちゃってるの」と心の底から面倒くさそうに言ったのだった。
いやいや、押したのはあなたたちだが? などと言う者はなぜか一人もおらず、また誰かが「何かあったんですか?」と質問すると、警察官はあっさりと「死体だよ、死体。死体が出た。だから君らもそこにいて」と言い放ち、そして今に至ると言うわけである。
死体が出た、ねえ。と性格のあまりよろしくない成人は少しだけワクワクしてしまったものだが、それから三時間も経てばそのワクワクも賞味期限切れだ。
ここは新宿。あまり治安が良い地域とは言えない場所。
背中や腕に鮮やかな絵画があるやつ、なんだかよくわからないものを摂取し正常な判断ができなくなっているやつ、そんなのばかりがいる界隈だ。
ラブホで変死事件が起きたところで誰も驚かない。
それは成人にとっても同じことで、この手の事件はありふれた存在であった。ゆえに早々に興味を失うのもまた道理なのである。
オカルト誌に寄稿し日銭を稼ぐ成人には、死体など面白みのない日常だ。発祥不明な新宿周辺の都市伝説でも追った方が——、これは成人の興味の埒外ではあるが——、余程金になるというものだ。
ホテルに変死体。これが何かの儀式の残骸だとでもいうのなら多少の興味が沸くのだが、それもないとなれば、まったく無駄な時間だ。ため息しかでない。
「これ、いつまで掛かるんスかね……」
こっそりと隙間バイト仲間が言った。
まったく同意であるが、初対面の彼が話し掛けたのは他二人の隙間バイトであって、成人にではない。なので成人は返答は差し控えることにする。
成人に話しかけられても迷惑だろう。
成人は己の、変色しミミズ腫れだらけの腕を見下ろした。腕と言わず、顔までが成人はこの調子だ。感染性のものではなく稀な遺伝による病気だが、まあ、この見た目では避けられるのも仕方ない。
彼らは成人とはご丁寧に一メートルほどの距離を開けて立っている。ここまで来るといっそ清々しい。
成人も慣れっこで壁と同化していた。床の大理石に描かれた模様か何かだと思ってくれ。そんな心もちである。
「つかさあ、給料出るんかな……」
働いていなのだからそれは無理だろう。
空気を読まずにそう言いかけたが成人は口を噤み外を見た。
それにしても皮膚が痒かった。
「盲点だったな……」
呟きは警察官たちの話し声にかき消されていく。
二人暮らしのアパートでは、同居人の喉が弱いこともあり加湿器をつけている。しかしここは空調がよく効いたホテルである。
乾燥にも日差しにも弱い成人の皮膚は、ホテルの乾き切った空調にたちまち不調をきたしていた。
どうせなら隙間バイトをしよう、などとインドア派の成人が意気込んだのには理由があった。本日が一日を通して雨天であり、比較的皮膚の調子がよいだろうと踏んでのことだった。だが結果はこの通りである。
失敗した。そうは思うがそんなことはお首にも出さず成人は突っ立っている。
隙間バイトがチラリと成人を見るが、すぐに視線は逸らされ、そしてまた三人での会話が始まる。
まあ、慣れっこだ。慣れっこであるが、あからさますぎやしないかと若干の苛立ちが生まれるが、それもまた成人にとっては日常でありふれた出来事なのであった。
成人の皮膚を厭うことなく接する物好きは同居人の永瀬朔くらいだろうか。朔は成人の目からしても少し変わった男であるが、ゆえに成人に普通に接することができるのだろうと思う。
妙に生白い皮膚で、男にしては華奢な腕。夏の日差しの下、冬の冷たい風の中、悠然と笑む朔。
ぼうっとした脳内に、朔の幻影が踊る。
古典文学が好きで、特に好んでいるのはフランツ・カフカの変身とゲーテのファウストだとか言っていただろうか。そんな風変わりな男。
彼が最も変わっているところといえば、その顔だろう。
彼の顔は、恐ろしく整っているのである。
漆黒の双眸を縁取るのは長い睫毛でそれらは深い影を落とし、彼の性別を曖昧にさせた。肌は陶磁器のようで、どこか妖しい美しさを讃えていた。
記憶の中の朔が揺らめいた。
「ねえ、まだっスかねえ。俺、流石に疲れてきちゃいましたよ」
隙間バイトの一言が、幻影の朔を吹き飛ばす。
——大変、大変同意である。そろそろ間抜け四人がこうして棒立ちとなり三時間半が経過した。
無駄な時間。何のために成人たちがこうして拘束されているのかまったく判らない。
死体、というのが事件によるものなのか事故によるものなのか、はたまた病死なのかは知らないが、発覚後にここへと訪れた成人たち隙間バイトが拘束されていること自体がおかしなことなのだ。
いい加減帰りたい。そう成人が考えたとき、ようやくストレッチャーが運ばれてきた。
と、突如「わっ」と声が上がり、と同時にガシャンと派手な音がする。
成人が何事かとそちらを見ると、ストレッチャーがバランスを崩していたところであった。
「おい!」
警察官の一人が、ボリュームを落とした声で怒鳴った。
まったくぞんざいな扱いだ。どうやら格子状の特殊な壁の溝に、ストレッチャーを引っ掛けてしまったようなのだ。あまり広くない通路であるし、仕方がないのかもしれないがもう少しやりようというものがあるだろう。
しかしそこで成人の視線は一瞬、それを凝視し、思考は停止した。
成人の瞳は男の上半身を捉えていた。
勢い余って床へとまろび出たのは男。そう、男の体だ。
ラブホテルという場所柄、どうも裸のようだった。それは別にいい。いや、よくはないが、まあ、おかしくはない。
だが。
——なんだあれは。
あれは、そう……、いや、あれは……、なんだ?
頭が混乱した。
成人は動揺を悟られぬよう、咄嗟にさも「興味はございません」という顔で、と視線を目の前の壁へと戻した。
「おい、早くしろ!」
小声で警察官の一人が捲し立てている。
視界の端で、刑事たちが慌てた様子で遺体の覆いを直すのが見える。
ラブホで発生した事件、そして死体。
決して珍しいものではない。
だが、あれは——。
当たりを引いたかもしれない。などと成人は不謹慎なことを考えた。
警察官たちが、慌てた様子でストレッチャーを運び出す。
布は不自然な膨らみを帯びていたが、誰も気にした様子はない。隙間バイトの面々も、彼らの場所からは何も見えなかったのか、運び出される遺体について語る様子はない。
キュルキュルと錆びた車輪が音を立てる。そしてストレッチャーは不自然な速さでホテルから運び出されていった。
警察官は焦りなどは一切顔に出してはいないが、なるほど、見間違えではなかったようだと成人は考え、そして目を細めて彼らを見送った。
「そろそろ帰れますかね」
「俺らも事情聴取とか受けるんスかね」
「いやぁでも、僕らが来たのって事件発生のあとですし……」
隙間バイトズが口々に会話をする中、成人はただ一人、ストレッチャーを見つめ続けた。
アレは、なんだったのだろう。
決して口にはしないが、成人の関心はもはや給料でもいつ帰れるのかでも、隙間バイトたちのあからさまな態度にもなく、ただあのストレッチャーの上の死体にあった。
変な死体。
端的に言えばそれだ。
腐敗しているだとか、体のパーツがないだとか、そういうのは寧ろ普通だ。
だが、あれは普通ではなかった。
遺体は金髪の男だった。髪が濡れていたのは、おそらく入浴中だったのだろう。まあ、ラブホなのだからそれもまた普通だ。顎髭をたくわえ、耳にはいくつかのピアス。肩や腕には見事な絵画が踊っており、その腕は筋肉質で太かった。
新宿、特に火舞鬼町周辺では珍しくもない風貌だ。
だがしかし、異常なのはその腹部だ。
その腹が、まるでそう——、臨月の妊婦のように大きく、大きく膨らんでいたのである。
全体的に鍛え上げられ引き締まった男の体に、その腹は明らかに不釣り合いで、そして異常であった。
まるまるとし、張りつめた丸みを帯びていた腹。それは、まるで今にも胎動を感じられそうな、生命を宿した妊婦のようでさえあったのだ。
病変。成人はまずその言葉を思い浮かべた。だが、その腹の皮膚表面には、出血をともう肉割れの痕跡がいくつも見てとれたのだ。それらの出血が、刺し傷などではなく、皮膚表面に生じた裂傷によって生み出されていたのは明らかであった。
オカルトライターの血がザワリと騒ぐのを成人は感じた。
死体がホテルから去ったことで緊張が解けたのだろう、隙間バイトたちはますます打ち解けて会話をしていた。連絡先まで互いに交換してさえいる。何という柔軟性の高さだろう。とてもではないが、成人には真似できない。
「ああ、ねえ、君たち!」
成人たちに向かって歩いてくる何人かの警察官——、ジャンパーには警視庁の文字が書かれていた——、が何やら書類をパラパラと捲り、それから成人たちをチラッとみると「君たちは事件後に来たことを確認できましたので帰ってもらって結構ですよ」とぞんざいな態度で言った。
なんのための三時間半だったか判らないが、警察官を目の前に文句を言える人間はなかなかいない。
不平不満を飲み込んで、成人は「はぁ」と曖昧な返事をした。
警察官の説明によると、どうやらホテルは封鎖されるらしく、つまり隙間バイトズの仕事はもうここにはないということだ。ホテル内の客はどうなるのか判らないが、それは成人には関係のない話である。
関係者がゾロゾロとホテル外に出るのに倣い、成人もその列に加わる。
ホテルの外ではまだ雨が降っていた。
肌へと雨水が吹き付ける。
ああ、雨だ。肌が潤う、などと馬鹿なことを思いながら、成人は歩きながら帰宅することにした。




