大人と無理と責任と
前回までのあらすじ
両親は自分たちがグローバルに活躍することで資金を稼ぐことと引き換えに、舞奈を育児放棄してしまっていた。学園での三者面談にあわせ、舞奈の両親と連絡を取ろうとするおにいちゃん。大川先生の「つて」で両親にはなんとか連絡はついたが、舞奈の両親はどちらも「仕事」を優先し、娘のことは関係ないといった態度。この態度におにいちゃんは呆れ、もう舞奈の家族は戻らないのだと失望する。
「ごめん、私しか来られなかったんだ」
「いいよ、もういいんだ」
そんな中で、テロリストたちの襲撃計画が再び始まっていた。
舞奈の部活が終わる時間に、学園の門の前で待ち伏せ、いや待機していた。
そんなに犯罪発生率が増えたとは思わないけれども、ここのところの情勢は物騒だし、みんなを駅を回って送ってから、舞奈を家まで送っていってあげようと。いや、一緒に帰ってあげたいという気持ちも少しはある。いや、ほとんどそうかもしれない。
しばらく待っていると、仲良し3人組と大川先生が一緒に出てきた。
「おにいちゃんお待たせー!」
「はーい、お疲れ様でした。」
「よう、おにいさん。」
「おにいさん、やあ。」
「遠藤さんも小原さんもこんばんは。」
大川先生も今帰宅らしい。
「よう、おにいちゃん。」
「さあ、みんな帰ろうか。」
「はーい!」
「あ、そういうことする?そういうことするんだ。」
「拗ねてないで先生も帰りましょう。」
「拗ねてないもん。」
「わかりましたから。」
こうやって和気藹々とできるのは何物にも代え難い、体験、だろうか。いろいろな議論やおしゃべりをしながら帰っていると、山高帽だ。どうした、深刻そうに。
なるほど。
「みんな、後ろに逃げて。先生も。早く!」
山高帽が頷いている。
その先に。
アメカジを着たサングラスの男がいて、近くのコインパーキングに立っている。
男は刃物を手にして、こちらに突進してきた。これでは時間が稼げない。
「ぼくはバックパックを背負って世界を見てきた。なんでも見てきた。貧困は何もかもを奪う。収奪だ!」
バックパッカーは、手にした刃物でこちらに思い切り刃物を向けてきた。殺気を感じる。殺る気マンマンといったところか。
「働いて困窮したこともない赤貧の理屈だ、少年。」
バックパッカーは踏み込み、こちらへ刃物を差し込んでくる。
「やはり、私有財産は制限し、分配をするしかないのだ!」
「国家の中心が権力を持ち過ぎたら、専制と官僚主義の腐敗が跋扈する。横暴だよ。」
「だが暴力の行使もやむを得ない!」
「だからといって無差別の暴力を容認すれば、それはただの夜警国家だ。」
刃物を何度も躱す。しかしこれではキリがない。
「無能な人類は抹殺されるべきで、反省をするときが来ている!新しい風の会が、その先鞭を打ちに行くのだ!」
「対象が大きすぎる。論理の、飛躍だああああああ!」
……。
右手がやられた。それでいい。
注意をそらしておいて、左手のポケットから電子たばこの本体を取り出し、一気に間合いを近づけ、それからは相手の後頭部に向けて、何度も何度もそれを殴りつけた。逃げられまい。
「中身入りの軍手を回収したり、千切れた指をくっつけようとしたり、腕ごと機械に巻き込まれてもげてしまう光景を見たことが、きみにはあるだろうか。現場とはそういうものだ。」
「な、なんだ、やめろ!」
「そこには常に危険がある。事務所が出してくる納期の遅れは、まるで戦場のような、いやそれ以下の最低な光景を現場に作り出す。最前線で輩と向き合うために、常に警棒を所持して『異常』を嗅ぎ回る。これが、これこそが、戦場だ。」
「なんだこれ、宇宙?うああああ!やめてくれ!ああああああああ!」
「少年、きみにはわかるまい。この身体を通して出る、怨念と、憎悪と、そして経験が。わかるまい、私を倒せるものなら倒してみろ。私は、経験によってここに立っている!ただ、経験によって!わかるまい!!」
相手が刃物を離して、その場から離れるまで殴り続ける。無力化には成功した。
「ぼくは世界を見てきたから優れているのに!いやだ、いやだよ!」
「生身の感情をむき出しにするようでは!」
まだ殴り続ける。そろそろいいだろう。
「隙がない……。」
山高帽の男がつぶやく。
「あいつ、なにを背負ってきた。」
大川先生は目を見張っていた。
舞奈は不安になる。
「おにいちゃんの背中、大きな黒いものが見える……。」
遠藤さんと小原さんは唖然としていた。
「なにこれ、怨念?」
「凄い憎悪、みたいな。」
血だ。現場では何度も見てきたが、何度見ても嫌なものだ。まして自分の手が汚れるなんて。ああ、最悪だ。刃物は抜けていた。病院で抜いてもらうほうが正解だろうに。
「確保しろ!なにをしている!」
「確保しました!」
バックパッカーに刺股が当てられる。
舞奈が駆けつけた。舞奈はそのまま、左手を握って離さない。
「どうして!どこかにいっちゃ嫌だよ、おにいちゃん!」
「大丈夫、どこにも行かないよ、舞奈さん。」
右手が痺れている。直近で痛みはない。こういうものは、本当に痛そうなときほど、痛まずに、じわじわと痺れてくるものだったな。舞奈が泣いている。泣き顔なんてみたくないのだ。ずっと、笑顔でいてほしい。
「勝手にどこかにいっちゃだめ、お願い、お願いだよ。」
「ほら、ここにいるから。」
「でも、でも......!大好きだから、お願い、どこにもいかないで……。」
頭がぼーっとしてきた。ずっと「無理」をしてきて、板についちゃったのかな。
かけがえのない、光のような存在がすぐ側にいるのに。無理をしたら、全部なくなっちゃうよね。
昔は、自分が辞めても、代わりはいくらでもいた。派遣会社から新しい人がやってきて、会社の穴を埋めることができたから。
自己否定感に苛まれながら、不安定で無理な仕事をしていく中で、心の内側に「埋まらない穴」だけが広がっていった。貧困を憎む日々が続いた。精神は軋み、どこかにぽっかりと空いた、埋まらない穴がただ膨らんでいった。
埋まらない穴を、ふさいでくれる存在が現れるまでは。
目の前の人物や風景の弁別が曖昧になる。全身麻酔を受けたときのあの感覚だ。ここで終わりか。地獄に落ちたら、地獄の現場でまた働かなきゃいけないのかな。
馬鹿なことを考えていると、今度は世界が色を失う。センサーの捉えるイメージって、白黒だものね。ああ。終わりか。これから少しは楽しい人生が、と思っていたけれども。溶けていく風景に不安を覚えながらも、生まれ変わったら苦労しない人生を、と少し願ってしまっている。
そうではない。もうひとりではない。助けが欲しい。そして、舞奈のおにいちゃんに、代わりはいない。責任を取らなきゃ。
沈む。夕日とともに、意識が沈んでゆく。