編集者と少女
前回までのあらすじ
持ち前の明るさで環境に慣れていく舞奈。
舞奈はおにいちゃんに「絶対に、勝手にどこかにいかないでね」と約束を迫る。
一方、おにいちゃんは、「大川先生の紹介」という山高帽にスーツの男から手渡しでメモを受け取るが、舞奈に連絡を入れ忘れたため、舞奈の機嫌を損ねてしまう。
「どうして不機嫌なのか、わかるよね?」
また夢を見た。朝礼、効率化、改善。工場の規律を海外からの労働者たちに教えていく。なんのためか、それは自分のためでも他人のためでもない。ただの規律だ。国際化する社会に放り込まれて、そんな意味のないことをしてきた。すべての前提が揺らいでいく。罪悪感が残る。なんだろう、このやるせなさは。
「先生。先生!」
おお、なんだこれ。あなたは誰?
「むむぅ、やだもん。まだ寝るもん!」
「先生は今、夢の中にはいません。」
「やーだ!やーだー!」
すると男は「おにいちゃん」の顎を指でクイッと持ち上げた。
「先生、ちゃんとこっちを向いてください。ぼくの目を見て。」
見つめ合う二人。なにかを確かめ合うように。
「先生、分かっていますよね?」
「ただいまー、おにいちゃん!ご飯にする?お風呂にする?それとも……。」
「きみか、妹くん。」
「……おにいちゃん、誰よこのイケメン。」
舞奈は、深い疑いの目でこちらを見ている。
「おお、舞奈さん。おかえりなさい。こちらは、編集者の澤柳さんです。」
「編集者?じゃあ、今の顎クイはなに?なんの意味があるの?!」
「ああ、今ね、納期とリードタイムを確認していたのですよ。」
「はぁ?ちょっと、澤柳、さん?わたしのおにいちゃんから離れてもらえますか?」
私も応じてみる。
「そうだ、離れろさわやなぎー!」
「おにいちゃんはちょっと黙っててくれる?」
舞奈の顰蹙を買ってしまった。
☆
ここはリビング。私はお茶を入れている。澤柳さんと、舞奈に。
舞奈は澤柳さんとテーブルを隔てて座っている。
舞奈はまだムスッとしている。
「いろいろな愛の形ってあると思うの。それって、仕方ないことだよね?」
「疑ってますよね?舞奈さん。でも誤解ですよ。」
「むー。だってさ。」
「だって?」
「おおかわがさ、おにいちゃん年上好きだっていってたもん。」
「フフッ、年上好きなのですね。」
「澤柳さん、ちょっと黙っていてください。」
今度は私が口を挟む。この人、状況を楽しんでいるだろう。
っていうか大川先生、生徒になにを吹聴した?
「まあ、この通り編集者と執筆者の関係だよ。恋愛感情はない。」
「むぅー。」
「でも澤柳さん、綺麗な奥さんいるんだよ?」
「奥さんいるの?そうなんだ。」
舞奈はちょっとホッとした表情をみせる。
「奥さんラブなんだよ。ねえ澤柳さん?」
「否定はしませんよ。」
澤柳さんが続ける。
「でも、そうですね。それくらいの年齢で、愛の形はいろいろある、という考えをお持ちなのは、素敵なことですね。ぼくもそう考えますよ。ねえ。」
澤柳さんは本棚の方を見た。M. フーコーの著作が並んだ一帯を。やめなさい。
「『言葉と物』というよりは、『性の歴史』ですね。」
「そういうことにしておきましょうか。」
舞奈が不思議そうに尋ねる。
「なにそれ?」
「そのうちわかるようになりますよ。」
澤柳さんが応じる。
「ふーん。なんか面白そう!」
「深い問いさ。」
今度は、私が応じた。そうなのだ。
「そうなの?」
「そうだね。」
☆
いろいろな場所で、顔の見えないバラバラの個人たちが、けれども、ひとつのアプリを通じて、ひっそりと通話をしている。
「貧困が世界を断絶している。そう思わないか?」
「金持ちを成敗しなければいけない。」
「しかし、どうやって?海外の軍事シンジケートは壊滅的です。」
「シンジケートを破壊する資金提供者の子孫を断つのさ。」
「貧困労働者の権利を、我々が啓蒙し、そして導かなければならない!」
「私がやりましょう。」
「そうか。では武器を調達しよう。」
「すべては、新しい風のために!」
「新しい風のために!!」
これを全て聞いている女がいた。女は、録音されたwavファイルのデータを、あの山高帽の男に渡し、今、ある政治家が報告を受けてこれを聞いていた。
「『新しい風の会』という流動的なテロ組織による会議のデータです。どういたしましょう。」
「民間に4号警備の経験者がいてね。すでに手は打ってある。」
「それが、彼でしょうか?」
「うん。そうだよ。人を導こう、などと、大それたことをいうねえ。結局は経験未熟な人殺しのくせに。」
政治家は、ニヤリと笑ってみせた。
「引き続き監視して、必要があれば警察に要請したまえ。資格は、きみの判断で構わない。」
「承知いたしました。」
ある企みが、密かに実行されようとしていた。
しかしそこには、それ以上に大きな権力の意図が、また渦巻いていた。