少女は本を読む
前回までのあらすじ
テロリストを取り押さえるために右手を負傷しながら、おにいちゃんは一命を取り留める。右手を狙わせて、その隙をついてテロリストを殴り倒し、制圧したのだった。監視していた公安から連絡を受け駆けつけた警察によって状況は事なきを得たが、舞奈は大切な人がまたいなくなってしまうというトラウマから、おにいちゃんの左手を握ったまま泣きじゃくり、どこにもいかないでと懇願する。
右手を刺されたおにいちゃんは、意識が朦朧とする中で、昔のように「無理」をすることでは、自分が納得をしても、妹を悲しませてしまうということに気付き、自分自身の「大人の責任」について考え始める。
大きな点滅が、ついたり消えたりしている。ああ、ここは。天国か地獄か、そのどちらでもない場所か。おーい、出してくれ。
「狭い空間で考えてはいけません。」
声がした。
「仰る通りです。私は狭い狭い、独我論的自我の内側で、孤独に考えてきたのです。」
「地球規模で考えるのです。温暖化が進んでいます。さあ、本来あるべき処へ。」
「あなたは、もしかして……。」
白黒の風景に色が戻り、風景と物の弁別が当てはまる。高域の周波数がフィルタされたような、ローファイな音がする。それがだんだんとはっきり声として認識されて、聞こえるようになる。
「おにいちゃん、おにいちゃん!」
「ああ。グ◯タさん、ありがとう。ありがとう。」
今度は、看護師さんの声だ。
「まだ混乱しているようだから、気をつけてね。」
「はい。」
舞奈の声が聞こえる。手を握ってくれているのか。
「おにいちゃん、大丈夫?」
「舞奈さん。ありがとう、もう大丈夫。」
「恋人さん、ずっと手を握って離さなかったのですよ。」
看護師さんがそういうと、今度は近くにいた医師が続けた。
「この度は大変でした。全治1ヶ月です。ゆっくり休養をとってください。」
「ありがとうございます。」
二人が去ると、舞奈が続ける。
「もう、どこにもいかないでね。」
「うん。あの世の入り口でね。これからはあなたは地球規模で考えないとっていって、閻魔さまに戻るようにいわれた。」
「おにいちゃん、頭打ってないよね?」
「お、おう。大丈夫。ずっと綺麗で可愛らしい恋人さんがついていてくれたからね。」
「減らず口がついて出るなら、大丈夫そうね。うん。」
「そうだね、綺麗で可愛らしい恋人さん。」
「んー、もう!」
笑顔の舞奈がいる。これでいい。
「バックパッカーがおにいちゃんを刺そうとしているとき、わたし、おにいちゃんの背中に、黒くて、とても黒くて、大きいものがみえたの。」
「そうですね。黒いものがみえたなら、それはきっと、不安とやるせなさを胸に、田舎で倒れていった同胞たちの恨みではないでしょうか。ひとりでそれを抱え込んで、無理をしました。」
「無理?」
「そう、無理です。仕事をするとき、無理をしてはいけないのです。ひとりだったら、いくら無理をして、最悪怪我したりしても構わない。でもね。」
「でも?」
「いろいろな人との関係性の中で、自分が欠けると困るんだなって。だからもう無理はしないよ。」
「うん!」
雇用流動化によってバラバラに解体され、倒れていった同胞たちよ。みんな、わかってくれるよね。もうひとりじゃないんだ。
☆
おにいちゃんはまだ入院が必要だった。
舞奈は一度家に帰ると、おにいちゃんの部屋に入る。
(おにいちゃんのこと、もっと知りたい。おにいちゃんの本を読めば、わかるかな。)
部屋には本が並んでいる。本棚の外れにある、イラスト付きの本を手に取る。
…………
「ドン!」
「須山さん、あなたのことがぼくは忘れられないんだ。」
「遠山、俺もそうだ。きみのことが。」
「クイッ!」
「あっ……。」
「目をつぶって。愛を確かめ合おう。」
「遠山。」
「須山さん。」
…………
「……。これが、おにいちゃんの、『しそう』?」
「ああ、それは先生の知人が書いている本ですよ。お気に召しましたか?」
「澤柳さん?」
「申し訳ない。ぼくも鍵を持っていてね。先生の原稿のリードタイム分を取りに来まして。」
「こ、こっこっこ、これじゃないの?!」
「こっちですよ。」
「野生の、思考?」
「レヴィ=ストロース。先生のお気に入りです。」
「辞書じゃないの、これ?」
「分厚いでしょう。いきなりその本は難しいですし、入門書も手強いでしょう。」
「ううー。」
「先生のことです、メモをとってあるはず。えーっと、この引き出しかな?」
「文化人類学。親族の基本構造?樹形図がかいてある。」
「そうですね。構造主義人類学は数学と密接な部分もあります。」
「えっと、参与観察。バウマン?流動化、グローバリゼーション、ギデンズ。」
「そちらは『社会学』のメモです。興味のあるところをまたメモして、調べてみるといいかもしれません。」
「うん。もっと、おにいちゃんの考えていること、知りたいんだ、澤柳さん。」
「単純に本を読むだけでは、きっと先生の頭の中までは理解できないでしょう。」
「そうなの?」
「大学を休学してから、随分長い間、現場で働いていますからね。それに。」
「それに?」
「今すぐ、全ての先生の知識を読み込むことはできませんよ。フーリエ変換、ケプストラム、その前には調和数列や、行列。いろいろ考えているみたいで、ぼくにも、ね。」
「なんとなく分かったら、それ以上知らなくてもいい。」
「ほう?」
「おにいちゃんと帰省したときにね、おにいちゃんいってた。おにいちゃんのこと、全部が全部解るわけじゃないよね。」
「先生らしい言い方ですね。フフッ。」
「ありがとう、澤柳さん。おにいちゃんのこと、ゆっくりと、少しでも理解できるように、わたし、調べてみる!今すぐ、じゃないけど。」
「きっと先生も喜ぶと思いますよ。」
「うん!」
☆
料亭で、再び静かな報告がなされていた。
「彼は、全治一ヶ月の負傷か。」
「はい。」
「うーむ、巧妙化していてキリがないではないか。」
「その通りです。」
「あの娘は、無事だったかな。」
「無事です。」
「動きたくはないが、そろそろ手を打とうかな。他の者にも、焦っている感じをみせたいのさ。選挙はまだ先だが、ここで手柄を上げて、予算を取ってみせなければね。」
「承知いたしました。」
政治家はまた笑いを浮かべた。何かを企んだ、という顔つきで。




