いつか貴方と乾杯を
私の父親は仕事が忙しい人で、家を空ける事が頻繁に有った。幼い頃は寂しいと感じたりもしたが、たまの休みには遊びに連れて行って貰ったりもしたので、然程不満に感じる事は無かった。
だが、金曜日の夜だけは違った。薄暗い居間で、独りロックグラスの酒を呷る後ろ姿は、この世の全てを拒絶するかの様に寂しげで、幼い私は声を掛ける事すら出来なかった。正直に言うと、あの時の父親の姿は好きでは無かった。
そんな経験からだろうか、私は酒を呑む事をあまり好きになれない。体質的に呑めない訳でも無いし、美味しいと感じない訳でも無い。只、あの時の父親の姿が脳裏に焼き付いており、私は酒を呑む事を自然と避ける様になっていた。会社の飲み会や接待の席では、決まって下戸の振りをして雑用係に廻った。
就職してから疎遠になっていたが、久々の長期休暇に実家に帰省する事にした。新幹線と在来線を乗り継いで七時間、到着した頃には辺りは既に日が暮れ始めていた。
私は玄関扉を開けると、靴を脱ぎながら辺りを見廻した。いつもなら母親が玄関まで出迎えに来る筈であるが、どうした事かその気配すら無い。居間で上着を脱いでいると、漸く母親が顔を出して来た。
「あぁ、おかえり。お疲れさんだったねぇ。」
「ただいま。何か有った?」
「父さんが入院する事になってね。明日、病院に持って行く荷物を整理していた所なのよ。」
父親の入院とは寝耳に水だが、昨日の健康診断でそのまま入院する事になってしまったらしい。私は動き易い服装に着替えると、早速、母親を手伝う事にした。
着替えや日用品等の準備は出来たが、後は本が何冊か必要なのだそうだ。入院中に時間を持て余すだろうから、書斎から何冊か本を持って来て欲しいとの事だ。私が父親の書斎から、適当に面白そうな本を選んでいると、本の隙間から書類の様な物が落ちた。慌てて拾い上げてみると、それは父親の過去の健康診断の結果であった。
何とは無しに目を通していると、父親の血液型の欄で不意に目が止まった。父親の血液型はAB型と記されていた。……私の血液型はO型だ。AB型の人間が親である筈が無い。
その日の夜、私は母親の前に件の健康診断書を差し出した。
「お父さん、AB型なんだね。」
その一言で、母親は私の真意を理解したらしく、これまで私に隠していた事を全て話してくれた。父親の不在に依る寂しさから、他の男性と関係を持ってしまった事。父親は、私が産まれてその事実を知っても尚、変わらず家族を守ってくれていた事。そして、その頃から父親が酒を呑む様になった事。
懺悔をする様に語る母親に、私は少しの同情の念も抱く事が出来なかった。それよりも、世界と決別したかの様な父親の背中の理由が、やっと今になって理解出来た気がしたのだ。
「明日、病院へは私一人で行く。お母さんは来ないで。」
きっと私は、冷たい人間なのだろう。それでも、私は最後まで父親で在ろうとしてくれたあの人の為に、泣き崩れる母親を拒絶する事に決めた。
翌日、私は父親の病室に到着すると、久々の挨拶を済ませ、持って来た荷物を広げながら他愛無い世間話をした。痩せ衰えた父親の姿は、長年の苦労を代弁しているかの様だった。
私は急須に湯を注ぎながら、何気ない様子で父親に話し掛けた。
「お父さん、アードベッグが好きだったよね。近い内に、ルネッサンスが手に入りそうなんだ。」
「どうしたんだ?良くそんなの憶えていたな。」
「面倒だから、会社ではずっと下戸の振りをしていたんだけどさ。実は私、『お父さんに似て』結構呑めるんだよね。」
注ぎ終えた湯飲みを父親の前に差し出すと、私は自分の湯飲みを手に取った。
「退院したら、お祝いに一緒に乾杯しよう。だから、今はお茶で我慢して……乾杯。」
父親は少し驚いた様だったが、ゆっくりと湯飲みを持ち上げて乾杯に応じてくれた。
「乾杯。お前と酒が呑めるのなら、大急ぎで退院しないといけないな。」
そう言って笑う父親は、本人の希望も虚しく、その後に長い闘病生活を送る事となった。
あれから十年、私は家庭を持ち、仕事に子育てにと慌しい日々を送っている。子供と言っても再婚なので、現在の夫とは血の繋がりは無い。それでも本当の家族の様に、当たり前の日常を過ごしている。
「今日、午後から行って来るね。」
「あぁ、お父さんに宜しく。」
夫と子供に見送られながら、私は実家へと向けて出発した。
今はもう住む人の居ない実家の前を通り過ぎ、その裏手に在る墓地へと歩を進めた。墓地の中の或る墓石の前まで来ると、私は鞄からアードベッグのボトルと二つのグラスを取り出した。そして、其々のグラスに酒を注ぎ、その内の一つを墓に供えた。残りのもう一つを手にすると、私は軽くグラスを合わせて言った。
「お父さん、今年も会いに来たよ。……乾杯!」
チーンという爽やかなグラスを合わせる音が、静かな墓地内に大きく響いた。