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後編

 翌日から僕たちは、一日あたり一時間の規則に、双方の合意のもとで改定を加えた。「進藤レイが高校から帰宅してから」「曽我大輔の両親が絶対に帰宅しないぎりぎりの時間帯まで」を、二人で過ごす時間に定めたのだ。

 前者が十六時四十五分ごろで、後者がおよそ十八時二十分ごろだから、半時間程度増えたに過ぎない。ただ、一時間が一時間半になると考えれば大きいし、杓子定規に定められた決まりを打破するという決定は、僕たちにとって象徴的で、三十分の延長以上の意味を持っていた。

 過ごす時間が一・五倍に増えても、過ごしかたは基本的には変わらない。僕はゲームで遊び、レイは漫画を読む。菓子を食べ、ジュースを飲み、無駄話をする。

 ただ、「好きなことをして過ごす」「リラックスできる時間を静かに楽しむ」を基本に据える方針は不動ながらも、以前までと比べると若干、会話に費やす時間が増えた気がする。もっとも、漫画の内容や日常のささいな出来事についてなど、どうってことのない話題ばかりが選ばれるのは相変わらずなのだが。

 あの雨の日のように、人生にまつわる重大な問題に言及したことは、記憶する限りでは一度もなかった。互いに意識的に避けていたわけではない。その手の話題について話し合う空気になかなかならず、会話がそちら方面に流れないだけだ。

 もちろん、変わったこともある。

 僕がゲームの電源を切って漫画を読む時間をとったり、逆にレイが「ちょっと遊んでみたい」とおもむろに切り出してゲーム機を手にしたり、という機会がたまにあること。

 二人きりの時間を過ごすのに先立って、二人でコンビニまで飲食物を買いに行く日があること。

 互いが定位置ではない場所に腰を下ろし、ときには肩を並べて過ごすこと。

 そして――。

「やばっ、ジュースこぼした。大輔、ティッシュとって」

「大輔、今日なんかテンション高くない?」

「その敵に苦戦するって、大輔、毎回言ってる気がする」

 レイがたまに、僕を「大輔」と下の名前で呼ぶようになったこと。

 頻度としては、一日に一回あるかないか。まったくの偶然なのだろうが、毎回毎回、心構えができてないときを狙い澄ましたようにそう呼んでくるから、どぎまぎさせられる。ついそう呼んでしまったというふうではなく、平然とそう呼んでくるから、動揺してしまう。

 僕に親しみを持ってくれているという意味では、文句なしにうれしい。ただ、親以外の人間に下の名前で呼ばれる機会はこれまでめったになかったから、すさまじく照れくさい。

 僕としては当然、彼女のことを「レイ」と呼んでみようかと考える。知り合ったときからずっと、実際に口に出すときは「進藤さん」だが、心の中では一貫して「レイ」。飛び越えやすいハードルのような気もしていたのだが、

「進藤さん、もうそろそろ帰る時間だね」

「進藤さんはそのお菓子、好きだよね。毎回持ってきてる気がする」

「やっぱりそう考えるんだ。なんだかんだ真面目だもんね、進藤さんは」

 僕にとっては低いようで高く、あとひと押しが足りなかった。

 ただ、いつかは下の名前で呼び合う関係になりたい、という願いは持ちつづけた。

 きっとその未来が現実になる。そう信じていた。


 その日、レイは午後五時を回っても曽我家を訪れなかった。

 やきもきしていたところ、インターフォンが鳴った。二十分遅れでの到着だ。

「ごめん。ケーキ買ってたら遅くなった」

 レイは苦笑しながら、しかしどこか誇らしげに、提げていたレジ袋を胸の高さに掲げてみせた。吐く息は白く、男女どちらにも合いそうな紺色のジャンパーを着ている。

 ケーキは僕の好物の一つだから、シンプルにうれしい。ただ、なぜ今日という日にケーキなのか。頭上にクエスチョンマークを浮かべた僕に向かって、

「曽我のおじさんだったかな、おばさんだったかな。たしか二十三日から休みだっていう話だったから、来られなくなるでしょ。その前にクリスマスケーキ、曽我と二人で食べたくて」

「ああ、なるほど。だからケーキなんだね」

「男子って、女子と比べると圧倒的に記念日に無頓着だよね。ハロウィンのときもそうだったし」

「ハロウィンのとき」というのは、十月三十一日に二人で過ごしたさい、レイがかぼちゃ味のスナック菓子を買ってきた件のことだ。「わざわざ買ってきたよ」と手柄を誇示するようなことを言うので、「かぼちゃ味、好きなの?」と問うと、「好きというほどでも」という返答。首をかしげたところ、「ハロウィンだからに決まってるだろ。そんなことも分からないの?」と呆れられてしまったのだ。

「まだ二十二日だし、クリスマスのことなんてまったく考えてなかったよ。ハロウィンのときもそうだけど、よく気がつくよね、進藤さんは」

「曽我が鈍いだけだって。罰として、ケーキ代出して」

「別にいいけど……。いくらしたの?」

「冗談だって。あたしが食べたくて勝手に買ってきただけなんだから、曽我が払う必要なんてない。調子狂うから、変なところでボケないで」

「でも、高かったのかなと思って」

「スーパーのケーキなんて安いに決まってるでしょ」

 異性といっしょにクリスマスケーキを食べる。思春期の人間は平常心ではいられないイベントなのかもしれないが、僕たちを包む空気はいつもどおり緩かった。

 僕は片手が塞がっているのでゲームができなかったが、頭ではゲームのことを考え、目では漫画の表紙に描かれた白いドレス姿の少女を眺めながら、シンプルないちごのショートケーキを黙々と頬張る。一方のレイは、片手だけで器用に漫画のページをめくりながら、機械的に淡々とケーキを口に運ぶ。味については、一口を食べた直後に「美味しいね」「そうだね」と、一言ずつ感想を口にしたのみ。食べ終わるまでのあいだに、二度三度短いやりとりがあったが、内容はいずれもクリスマスともケーキとも無関係の、良くも悪くもくだらないものだった。

 まだ二十二日だったとはいえ、クリスマスムード、ロマンティックなムードのかけらもなかった。当時を思い出すたびに苦笑を禁じ得ない。

 イルミネーションを見に行こうとか、プレゼントを交換しようとか、そんな話が出ることもなく、僕たちは時間いっぱいまで二人で過ごし、解散した。

 平穏な日常を愛していたんだな、としみじみと思う。


 クリスマスでさえも――正確には三日前だが――そんな調子で過ごした僕たちだから、新年度初日も普段どおりだった。

 三が日は両親が休みだったので、日課が再開されたのは四日から。クリスマスケーキの件があったのと奇しくも同じ、本番から三日ずれた計算になるが、そのことと正月ムードからは程遠かったのとはあまり関係がないと思う。

「あけましておめでとう」

「進藤さん、あけましておめでとう」

 初めて気がついたときは驚いたのだが、その日僕たちは「今年もよろしく」という決まり文句を交わさなかった。

 十二月二十二日の会話の一部を鮮明に覚えていることからも分かるように、なんらかの節目となる日に交わしたやりとりは、たとえささいなものでも記憶に留めている場合が多い。つまり、二人とも「今年もよろしく」と言わなかったのは、まぎれもない事実。

 あのときの僕たちは、年が新しくなってもこの関係は当然続いていくものと、信じて疑わなかったのだ。

「お年玉、曽我はもらった?」

「まさか! ニートの身分でそんなもの、もらえるわけないよ」

「世知辛いね。受験生なのに」

「ほんとそう思う。高卒認定試験は夏だから、緊張感からは程遠いけど」

「それを言ったら大学受験なんて来年だから、来世の話みたいなものだね。……しかし、それにしても寒いな」

 軽く眉をひそめてみせたレイも、「ほんと寒いよね」と応じた僕も、うらはらに玄関からなかなか移動しようとしない。去年の二十二日から数えて二週間、会えなかった分だけ蓄積したしゃべりたい気持ちが、寒さから逃れたい欲求に勝ったのだ。風も穏やかで、耐えられない寒さではなかったとはいえ、この優先順位。

 あのころの僕たちは、若かった。青かった。

 当時からそう時間は経っていないのに、そんな年寄りじみたことを思ってしまう。

「曽我は正月に餅は食べた?」

「元日に雑煮が出たけど、その一回だけだったよ。おせち料理のお重が並べられるわけでもなく。うち、そういう行事的なことには冷淡だから」

「正月らしくない正月だったわけだ。さびしいね」

「まあね。でも、おせち料理はそんな好きじゃないから」

「同感。黒豆とか、昆布巻きとか、見た目からして食欲湧かないし。まあ、あたしは雑煮もおせちも食べてないけど」

「なんだ。進藤さんもさびしいじゃないか」

「でも、お年玉はもらったから」

「マジで? いいなー。何円?」

「秘密。大金ではないけどね。そんなことより、いい加減寒くなってきたから、入ろう。コーヒー淹れてよ。舌が火傷するほど熱いやつ」

「了解」

 初詣の話題はいっさい出なかった。そのイベントを嫌忌する一般的な最大の理由は人手の多さだが、すでに三が日は過ぎ去っているから、少なくとも混雑はしていないはずだ。さらに言えば、最寄りの神社は歩いて行ける範囲内にある。一時間半の制限時間内に到着して、参拝を済ませて帰宅して、コーヒーを飲む時間くらいならば充分に捻出できる距離に。

 それにもかかわらず、僕たちがその道を選ばなかったのは、平穏な日常を愛していたから。その一言に尽きると思う。


 二月に入ると死ぬほど寒い日が続いた。

 寒い。それだけを理由に外出をためらう日も数えきれなかったが、幸いにも僕とレイの自宅は徒歩十秒の距離にある。

 僕たちが暮らす地域にとっては珍しく雪が降った日も、レイは僕の家までやってきた。肩に散った雪を手で払い、「おじゃましまーす」と間延びした声で言って家に上がる。

「すごく降ってる」

 レイのつぶやきが静寂を破った。ベッドで仰向けになってゲームをしていた僕は、音源へと顔を振り向けた。

 彼女はいつの間にか窓際に佇んでいた。カーテンの右半分を全開にして、窓外を眺めている。ガラスの向こう側に広がる世界で、無数の雪が妖精のように舞っている。

 僕は思わず息を呑んだ。

 降雪の激しさにではなく、レイの横顔に。

 美しい、と思った。

 真剣なわけでも、憂えを帯びているわけでも、儚げなわけでもない。それなのに、目が離せない。上手く言語化できないが、とにかく惹きつけられるものがそのときのレイの横顔にはあった。瞳の漆黒がいつもにも増して艶やかで、雪の純白と好対照だ。顔の特定の部位でも、顔全体でもなく、すべてのパーツが魅力的だった。

 僕はたぶん、雪に見とれている横顔を見た瞬間、安定した関係が細く長く続く中で失念していた、魅力的な異性としてのレイを思い出したのだと思う。

 なぜだろう、安楽にベッドに寝そべり、呑気にゲームをしているのが、無性に恥ずかしくなってきた。そんなことをしている場合じゃないだろう。もう一人の自分が真面目腐った声でそう苦言を呈した。

 僕はきしむ音を立てないように注意しながら体を起こし、ベッドから下りる。少し逡巡したが、レイの隣に並ぶ。普段もこの位置関係になることはままあるが、その場合よりも肩幅半分ほど広めに距離をとった。なんとなく、そうしたほうがいいと思ったから。

 気配を感じたらしく、レイがゆっくりと僕を振り向く。まともに視線がぶつかる。レイは真顔だ。逸らそうとするそぶりは見せない。「なんの用?」と眼差しで問うてすらいない。だんだん照れくさくなってくる。

 もしかすると、僕の頬は紅潮しているのかもしれない。そう疑った瞬間に限界が来て、視線を窓外へと逃がした。

 降りしきる雪は、最初に窓外をうかがったときとまったく同じ軌道を描いているように見える。部屋の中は身震いしそうになるくらいに静謐だ。外の世界も同じように静かに違いない、と考える。そう信じたのではなく、信じたかった。

「積もるかな」

 一滴の雫をそっと落とすようにレイがつぶやいた。世界の静けさを心の芯から実感し、その価値を尊重している声音だ。

「どうだろう。未来のことは分からないよ」

「そうだね。それもそうだ」

 窓ガラスからレイの指がそっと離れる。僕を横目に見る。返答を促したようにも見えたが、彼女は自ら語を継いだ。

「関係ないよね。ずっと家にいるんだから、積もろうが積もるまいが」

「えっ?」

「あたしのこと。秋の雨の日に言ったよね、用もないのに外に出るのは嫌だって。ようするに、ひきこもりがちなのは曽我だけじゃないってこと」

 ひきこもり。

 どちらかの口からその言葉が出るとき、僕はいつも、自分のことを言っているのだと自動的に思ってきた。しかし、そうではなかった。

 まったく外に出ないわけではないが、極力出ようとしない――。

 その条件には進藤レイも当てはまるのだと、彼女の発言を聞いて初めて気がついた。

 レイは毎日高校に通っているから、狭義のひきこもりには該当しない。だとしても、見逃せない共通点だと思った。軽視できない現実だと感じた。

 再び沈黙が降りてから五分が過ぎた。僕たちは依然として直立不動だ。沈黙の中、制限時間いっぱいまで雪が降る光景を眺めることになるのではないか。そんな予感さえ僕は抱いた。

 僕たちが暮らす町では降雪はめったになく、積雪は年に一・二回の珍事だ。とはいえ、長時間の鑑賞に耐えられる映像ではない。

 痺れをきらしかけたころ、レイはおもむろに窓に背を向けた。床に置いてある漫画の一冊を拾い上げ、ベッドに腰かけて読みはじめる。窓辺に移動するまで僕が寝そべっていた領域、それと重なる位置だ。

 僕は肩越しにその様子を見ながら、その選択は計算に基づくものなのでは、という疑念を胸の奥底で渦巻かせていた。心臓が高鳴ろうとしているが、あと一歩のところで踏み止まっているといったような、奇妙な精神状態だ。

「悪いけど、カーテン閉めて」

 レイがおもむろにこちらを向いて言った。僕は「うん」と返事をして指示に従う。

 僕はたぶん、ベッドに、レイの隣に座るべきだったのだと思う。しかし、直前まで続いていた緊張状態が尾を引いて、そうするだけの勇気が湧かない。

 もどかしかった。それでいて、今はこれでいい、と納得する気持ちもあった。

 ベッドを素通りし、窓際まで移動するまでレイが座っていた地点、そこから少しずれた位置に腰を下ろす。ゲーム機をベッドに忘れていることに気がついたが、とりに戻る気にはなれず、背中を壁に預ける。ページをめくる音が断続的に聞こえている。

 窓に視線を注ぐと、目を離した隙に雪は少し弱まったらしい。それでも、雪が降るのを見慣れていない人間の目には、かなり激しく降っているように見える。それにもかかわらず、無音。そのギャップを、今さらのように不思議に思った。

 以降の時間は、いつものように物静かに、穏やかに過ぎていった。

 気持ちは複雑だったが、これでよかったのだ、と当時の僕は結論している。


 新年度を迎えた実感は、ソメイヨシノの開花の知らせとは別の報告によってもたらされた。

「四月からは遊びに来られない日があるかもしれない。毎日はたぶん無理」

 三月が過去になって間もない一日だった。少食の僕と、がっつかないレイにしては珍しく、互いに小腹がすいているらしく、大袋に入ったポテトチップスを競い合うように貪っているさなか、彼女がおもむろに告げたのだ。ポテトチップスをつまみ出すために出し入れされる手が袋を鳴らす音と、菓子を噛み砕く音とが、同時に止まった。

「来られないって、なにか事情でも?」

「うん。家のこととか、将来のこととか、いろいろあって」

 そう答えたレイは、表情にも声にも少し元気がない。極端に落ちこんでいるわけではないが、普段と比べると一段階か二段階、明らかに沈んでいる。

 伝えるべきことを伝えると、彼女はまた菓子を食べはじめたが、ポテトチップスを噛み砕く音には覇気が感じられない。

 一方の僕は、完全に手が止まっていた。レイが口にした「いろいろあって」は、これ以上の詮索を暗に拒絶しているとしか思えない。「お前は信頼するに足らない人間だ」と正面切って告げられたような気もして、ショックを受けると同時に不服でもあった。

「なにぼーっとしてるの? 食べれば。もうなくなっちゃうよ」

 呼びかけられて僕は我に返った。義務感に促されて食べはじめる。バターの風味が香るしょうゆ味。大好きな味のスナック菓子なのに、それほど美味しいとは感じられない。

『毎日はたぶん無理』

「いろいろあって」の一言にこめられた拒絶の意思もショックだったが、その言葉にも負けないくらい大きなダメージを食らった。

 雨が降りしきる日も、雪が舞い落ちる日も、風が吹きすさぶ日も保障されてきた、平日夕方の二人きりで過ごす約一時間半。その当たり前が崩れるなんて。休日になるたびに大なり小なり感じてきた、レイと会えないさびしさを、週に二回どころではなく、三回も四回も味わわせられる可能性があるなんて。

 僕は学校に行っていないし働いてもいないひきこもりで、レイは決して活動的な人ではない。そんな二人だからこそ、毎日定刻に会う約束は堅持されてきた。

 しかし、日常というのは本来、必ずしも予定どおりに、平穏には過ぎ去ってくれないものだ。約束が一度も破られることがなかったこれまでが、むしろ奇跡だったのだろう。

 僕の両親がまとまった休暇をとるさいなどは、特例的に合意を崩してきたが、その特例が訪れる頻度が高くなると考えればいい。秋からの約半年、定期的に喜びを提供してくれたことに感謝するべきであって、レイを恨むのは筋違いだ。

 そう自分に言い聞かせたが、ショックはそう簡単に克服できそうにない。

 レイと過ごす日常が当たり前だと思いこんでいた。永遠に続くと錯覚していた。

 なんという若さだろう。

 なんという愚かさだろう。

 絶対はない。永遠もない。言語化するのも陳腐な自明の真理を、あのころの僕は一刹那たりとも意識することなく生きてきた。

 会える日が減る件に関しての話はそれだけで終わって、それからはいつもどおりに過ごした。互いに口数がいつもと比べてやや少なく、盛り上がりに欠けてはいたが、おおむね普段どおりだった。

 もっとも、普段どおりが維持されたのは、レイが普段どおりに振る舞ってくれたからこそ。彼女ほど打たれ強くない僕は、いつまで経ってもショックを引きずり、気持ちを切り替えられなかった。

 困難な問題からはすぐ逃げ出すくせに、己の不都合な事実からは目を逸らせず、念頭から払拭できず、魂をすり減らす――。

 それが曽我大輔という人間であり、曽我大輔という人間の弱さだった。

 レイが一方的に下した変更が承服しがたかったのだ。やむをえない事情があるのだと察しながらも、なぜ、なぜと、割り切れない思いが胸の中でいつまでも渦巻いていた。

 レイが「いろいろあって」の一言にこめた拒絶の意思は、絶対的なものではなかった。僕は事情を問い質すべきだった。回答を拒絶された場合に初めて、別の道を模索するなり、潔く諦めるなりすればよかったのであって、行動もしないうちから解決を放棄するべきではなかった。

 しかし、当時の僕は間違いに気づけなかった。臆病さに邪魔をされて、障害を乗り越えられなくて、自らの幸福に繋がる保証のない選択肢を選んでいた。半年をかけて築き上げた関係を考えれば、思い切った行動をとっても決定的な破綻が生じないのは明らかなのに、万が一の可能性を過大に評価して。

「じゃあね」

 レイが別れのさいに発した声は、どこかそっけなかった。


 土日ではなく、僕の両親が自宅に不在にもかかわらず、レイが曽我家を訪れなかった初めての日が、そんな日がいつか来ると彼女から予告された何日後の何月何日に現実と化したのかを、僕は覚えていない。

 これまで、レイが来ないことが最初から分かっている休日も、会えない・顔が見られない・話ができない現実にさびしさを感じてきた。その日の体調や精神状態、家族とのあいだで起きた悶着によっては、気力を失ってベッドに倒れこんだが最後、一・二時間は起き上がれないこともあった。

 期待を裏切られた場合は、それよりもさらにひどいと説明すればいい。すなわち、それ以外のネガティブな要因が作用しなかったとしても、なにをする気力も湧かず、ベッドから抜け出せないまま時間を消費することを余儀なくされる。さらなるネガティブな出来事が降りかかるなどしたら、終日ベッドの上で過ごす羽目になる。「進藤さんはもう二度と僕には会いにきてくれないのでは?」と本気で疑うことだってある。

 心配は漏れなく杞憂に終わった。不安に心を囚われる期間は、どんなに長くても丸一日で済んだ。レイ本人が心がけた結果なのか、偶然なのかは定かではないが、彼女が事前の予告もなく、土日でもないという条件下で、二日連続で曽我家のインターフォンを鳴らさない日はなかった。

 レイは僕に会いたくないのではなく、やむを得ない事情があって曽我家まで来られないだけ。「会えないのはさびしいが、明日には必ず会えるのだから」と自らの胸に刻みつけ、暗黒の海に深く沈みこむ時間をなるべく作らないようにするべきだ。

 そう自分に言い聞かせたのだが、レイに会えないという厳然たる現実が運んでくる、救いようがない憂鬱な気分に、適切に対処するのは難しい。レイに対して八つ当たりめいた感情を抱いたこともある。半年という長い時間は、僕の中のレイの価値をそれほどまでに高めていたのだ。

 つらく苦しい経験を重ねる中で、僕は少しずつ打たれ強い心を獲得していった。ただし、受けるダメージが申し訳程度に減っていっただけで、真の意味で慣れることは最後までなかったように思う。


 レイが曽我家に来ない頻度は月日が経つにつれて増えていった。

 初めて二日連続で休みになった日は、梅雨入りよりも先にやって来た。

 一日休みになっただけで受ける精神的なダメージの大きさを思えば、僕の生活に看過できない悪影響が生じることが予想された。しかしふたを開けてみれば、これといった変化はいっさい現れなかった。

 一見すると首を傾げてしまう結果だが、メカニズムは単純だ。そのころには、彼女が来ない夕方は珍しくなくなっていた。ようするに、彼女に会えない寂寥感や空虚感に対する耐性がある程度ついていたわけだ。

 一回だろうが二回だろうが、休みは休みなのだから、受け入れるしかない。

 我ながらさびしい諦めであり、適応だった。


 レイが緩やかに遠ざかっていく現実に慣れながらも、総合的には、僕の精神状態は着実に悪化していた。

 最高気温の高まりとともに、高卒認定試験の受験日がいよいよ近づいてきて、その先に待ち構えている大問題――すなわち、進学するか就職するかの問題について意識せざるを得なくなったのが大きかった。

 日常的にレイと言葉を交わしても、レイという心の支えができても、僕は相変わらず対人コミュニケーション能力に問題を抱えつづけていた。

 その問題は、父親が言うところの「がんばる」ことでしか克服する道はない、という認識だった。

 一方で、積極的に克服する努力はいっさい行わなかった。克服するための方法として唯一思い浮かぶ行為――すなわち、「レイや家族以外の人間と接し、会話する機会を増やすことで、他人と口頭でコミュニケーションをとることに慣れ、症状の改善に繋げる」という行動をとりたいとは思わなかったからだ。

 苦しまなくなるために必要な手続きなのだとしても、手続きを行うことで味わう苦しみが嫌で、耐えがたいから、逃げていた。

 僕は、人間同士が一言もしゃべらずに生きていける世の中を究極の理想としている、狂った男だ。問題解決の意欲など、持っているはずがないではないか。

 必要最低限しかしゃべらなくても生きていける環境で生きている、という事情も大きかった。

 ひきこもっていれば、親相手くらいしか口をきく機会はない。複雑な受け答えが要求されると予想される客が訪問したならば、居留守を使って逃げればいい。スーパーやコンビニの店員相手にしゃべらなければならない状況になって、思うように声が出なかったとしても、うなずいたり頭を振ったりすれば切り抜けられる。そもそも、スーパーやコンビニに行かなかったとしても、ひきこもり生活に支障はない。

 今ならばなにもかも分かる。

 当時の僕は見て見ぬふりをしていた。問題を放置しても生きていけるが、克服しておいたほうが圧倒的に生きやすくなる、という事実を。あくまでもニートのひきこもりとしてなら生きていけるだけであって、学校に通うか就職するかならば、現状のままでは到底やっていけない、という現実を。

 そして、両親は、息子が満年齢十八歳になってもひきこもりのニートとして生きることを、絶対に許さないだろうということを。

 年度が変わってからというもの、両親、特に父親からのプレッシャーは日に日に増していた。家族が一堂に会する場において、息子の将来についてみだりに言及しないという暗黙の了解は、もはや有名無実と化していた。

 もっとも、規則違反と、父親が発信する言葉それ自体の不愉快さに対して、この時期に限ってはまともに抗議した覚えがない。

 中学二年生のときに初めて不登校になって以来、いまだに改善されない口やかましさに、なかば諦念していたのが一つ。レイとの交流する機会が減ったさびしさが、僕から気力を奪っていたのが一つ。父親と言い合ったところで事態は解決しないし進展もしない、争うだけ時間の無駄だと、沈着冷静に判断していたのが一つ。

 ようするに、あらゆる意味で、反抗する気力が充分ではなかったわけだ。


 苦しかった。

 逃げたかった。

 しかし、逃げられるものから逃げ尽くしてしまった当時の僕に、逃げこめる対象はもはや残されていなかった。

 したがって、こちらから赴くしかない。僕を救済する能力を持った存在に、自らの足で接近し、救済を乞うのだ。

 ずっと狭い世界で生きてきて、親には失望し、学校とは縁を切った僕には、思い浮かぶ人物は一人しかいない。


 六月もゴールテープを目前に控えていた。梅雨の中休みにあたる時季で、やたら暑かった記憶がある。

「やあ」

 いつものように気さくに片手を上げて、レイは僕の前に姿を見せた。

 ペースは落ちても、二人で過ごすときの彼女の態度に変化はない。僕にとってはほっとひと息つける事実であると同時に、かすかなさびしさを催す事実でもある。そっけなくなったわけではないが、貴重さを増した二人きりの時間を噛みしめようという姿勢を見せてもいないのだから。

 朝から部屋の窓を開け放っている甲斐なく、室内は蒸し暑かった。部屋にはもちろんエアコンが備わっているが、今年はまだ一度も世話になっていない。曽我家では、冷房をつけるのは七月に入ってからというルールがあり、僕は遵守していた。

 レイは「暑い」と一言こぼし、氷入りのカルピスを一気にグラスの半分以上飲んだ。僕はすかさずおかわりを注いだ。レイのためならルールを破ってもいいと思ったが、彼女が口にした「暑い」は、その対応を要求するために発せられたものではないと分かっているので、リモコンには手を伸ばさない。親しく付き合いはじめて九か月が経ち、言動にこめられたニュアンスも苦もなく汲めるようになっていた。

 二人になって早々、「実は相談したいことがあって……」と切り出すのは嫌だった。その目的のためだけに招き入れたようで、レイに失礼だと思ったからだ。理想としては、普段どおり他愛もない話をしているさなかに、さり気なく本題に移行したい。

 ただ、いざ普段どおりに身を任せてみて分かったことだが、普段どおりを崩すきっかけとなる綻びを見つけるのは難しい。あっという間に五分が経ち、十分が経過した。

 きっかけとなったのは、風だった。蒸し暑い空気が蔓延する部屋に、一か月も二か月も季節を遡らせたかのような一陣の涼風が、純白のカーテンを柔らかく揺らしながら吹きこんできたのだ。

 僕は顔を上げた。目の端に映るレイは、床にうつぶせに寝そべって漫画のページに目を落としている。ショートヘアが気持ちよさそうにそよいでいる。

 それを見て、僕は深く悩みすぎていたのだと気がついた。

 悩むだけで手いっぱいなのだから、悩みをどう切り出すかに悩むのはやめよう。先へ進もう。そう気持ちを切り替えられた。

「そういえば、高卒認定試験が八月にあるって、進藤さんには言っていたかな」

 レイは双眸を少し大きくして僕を見た。寝そべったまま漫画を床に伏せ、

「夏にあるとは聞いていたけど、八月って聞いたのは初めてかな。もう二か月を切ったんだね」

「うん。気候も夏らしくなってきて、いよいよって感じ」

「不安? 合格できるかどうか」

「そうでもないかな。何回か言ったと思うけど、試験自体は難しいものではないから。ふたを開けてみないと分からない怖さはあるけど、そこまで心配はしていないよ。それよりも気がかりなのは、その先のこと」

「進学か就学か?」

「そう。二回不登校になった前科があるから、また同じ失敗をくり返すことになるんじゃないかと思うと、怖くて」

 この話は過去にも何度かしたことがある。草刈りを命じられた日の庭では、比較的しっかりと話した。

 でも、あれは途中までだった。嘘を語ったわけではないが、終わりまでは語っていない。

 今日は自らの意思で、その先へと進んでいく。

「不登校になった原因は、クラスメイトにいじめられたからなんだ。中学二年生のときは、進藤さんも知ってるかな? 石沢っていう不良が主犯格で。高校一年生のときも、石沢みたいなつまらないやつらが加害者だった。ちなみに二回目の高一のときは、留年生として通うことに嫌気が差して、二日行っただけで学校には行かなくなったから、いじめられるとかは特になかったんだけど」

 コンビニでの一件をどの程度意識したのかは知る由もないが、石沢という名前を出した瞬間、レイの顔は明らかに強張った。

「どうしていじめられたのかは、だいたい見当つくよ。というか、一つしかない。僕が教室ではまったくしゃべらないからだ。いや、まったくという表現は語弊があるけど、周りの人間からすればそう断言したくなるくらい、学校での僕が無口だったのは事実だよ」

 レイが口を挟みたそうにしているのには気づいていた。ただ、どうしてもというわけではなさそうだったので、もう少し話すことにする。ありがちなことだが、一度話しづらさを振り切ってしまうと、とことんしゃべりたくなるものだ。

「人と大きく違ったところを持つ人間って、目の敵にされやすいでしょ。僕はそれに加えて、なにを言っても言い返さないし、なにをやっても助けを求めないから、加害者からすれば好都合なんだろうね。

 勉強はできるけど大人しくて人付き合いが苦手、くらいのやつならたくさんいるよ。でも僕は、そこまで頭がいいわけではないし、教室で教師から説明の回答を求められても答えられないことも結構ある。弱いという意味でも、目立つという意味でも、格好の標的だった。いじめられて当たり前の人間っていうか」

「先生にあてられても答えられないって……。なんか、大げさだな。加害者グループからプレッシャーをかけられるせいで、声を出しづらいということ?」

「いや、違うよ。他人の影響もあるけど、一番の問題は僕の心にある。進藤さんは僕と付き合いがあるといっても、同じクラスになったことは一度もないし、一週間に何回か登下校をともにしていただけでしょ。だから、僕のことを知っているつもりでも、一部しか知らないんだよ。さすがに、大人しくて、口数が少なくて、友だちも少なくて、くらいの情報は把握していると思うけど。

 ずばり訊くけど、進藤さんは僕をどういう人間だと思っているの?」

「えっと……」

 レイは上体を起こした。僕が切り出した話がシリアスなものだと気がついてから、寝そべる姿勢を是正したくてもできないそぶりをずっと見せていたので、ようやく念願が叶ったわけだ。

「だいたい曽我が言ったのと同じかな。でも、もちろんマイナス面ばかりじゃない。真面目で、優しくて、思いやりがあって……。とにかく、いいやつだって思ってる。陳腐で、面白味のない表現になっちゃうけど、一言で表すならそうなるかな。

 前からそう思っていたし、二人で過ごす時間を持つようになってからは、より強く感じるようになった。嘘じゃない。

 だってさ、考えてもみてよ。好感を抱いていない異性と、毎日のように同じ部屋で、一時間も一時間半もいっしょにいられるはずがないだろ」

「ありがとう。でも僕は今、僕の悪いところについて話しているんだ。

 進藤さんが挙げたプラスと、僕が挙げたマイナスを総合すると――そうだね。大人しくて、真面目で、地味で目立たない。気が強い生徒から不利益を被ることもあるけど、真面目だから教師やクラスメイトからは一定の信頼を得ている。そんなところかな」

「そうだね、そんな感じ。……違うの?」

「違うよ。全然違う」

 断言した僕の声は、少し震えた。

「さっきも言ったように、教師から解答を求められたり、クラスメイトから話しかけられたりしても、返事ができないことのほうが多くて。人よりもはるかに緊張しやすくて、緊張するとまったく声が出なくなるんだ。声帯に障害を抱えているからじゃなくて、心理的な問題から発声できなくなるわけ。

 そういう特性を持つ人間のさだめとして、毎年のようにいじめられていた。いじめてこない生徒からも低く見られて、ちょっと小馬鹿にしたような態度で接されて、みたいなことが多かったね。そんな学校生活が小学生のときからずっと続いていた。

 自分なりにがんばって耐えてきたつもりだけど、がんばりが足りなかったのかな。中二と高一のときの二回、不登校になって、それで逃げ癖がついてしまった。そのせいで二度目の高一のときは、誰からもいじめられていないのに学校に行かなくなった」

 レイは小さく頭を振った。自分を責める発言に対して、「それは違う」と反論したかったらしいが、声は発せられなかった。まるで教室でのしゃべれない僕が乗り移ったみたいだった。

「話ができる相手もいるんだよ。数は少ないけどゼロ人じゃない。たとえば進藤さんとは、こうして普通に会話できているよね。自分の親とも――中二のときから関係がぎくしゃくしているから、気持ちよく話せてはいないけど、意思疎通に関してはおおむね問題ない。

 でも、それ以外の人たちに対しては難しいんだ。全然思うようにしゃべれない。僕という人間をどれくらい知っているかとか、いい人そうだとかそうではないとか、性別とか社会的地位とか頭のよさとか。なんらかの基準があるわけじゃなくて、とにかく話せない人にはまったく話せないんだ。進藤さんと両親の共通点を挙げると、物心ついたときから近くにいる人、ということになるのかな。

 でも、自宅の近所に住んでいる人相手には、いつまで経っても、あいさつをされても会釈を返すくらいしかできない。進藤さんとは昔から普通に話せていたし、今も現在進行形で打ち解けているんだけど、なんでも気軽に話せる関係ではないよね。親とだって、会話の内容によっては喉が塞がったみたいになるし」

 コンビニで弁当を買うと、店員の「温めますか?」の問いかけにまともに返事ができないので、サンドイッチやおにぎりばかり買っていること。

 通行人のおばあさんに道をたずねられたさいに、正しい道順を教えてあげることも、「分かりません」で逃げることもできずにフリーズしてしまい、「急に呼び止めて迷惑をかけた」と謝罪され、おばあさんが感じている以上に申し訳ない気持ちになったこと。

 国語教師に設問の解答を述べるように求められて起立したが、長い説明を要するものだったので、途中で声が出なくなってしまい、出だしは順調だっただけに怪訝がられ、いくら促されてもどうしても続きを言うことができず、ふざけていると見なされて厳しい言葉をかけられたこと。

 駆け足気味ながらも、いくつかの具体的なエピソードを語っていく。

 レイは軽い腹痛にさいなまれているような顔でそれを聞いている。僕のどうしようもない本質を、話を聞けば聞くほど理解していっているのは一目瞭然だ。

 昔からそうだった。

 トラウマとなる体験をしたわけではない。物心ついたときからずっと、人としゃべるのが怖くて、苦手意識があって、人前に出ると極度の緊張から固まってしまった。そんな経験が重なるにつれて、恐怖感と苦手意識は高まっていき、人としゃべるシチュエーション積極的に避けるようになった。病気を治そうとする努力を放棄した、と表現してもいいかもしれない。

 小学生になっても、中学生になっても、症状が改善することはなかった。

 だからこそ、三度の不登校を経験し、高校を自主退学し、半ひきこもりのニートをやっている今の僕がある。

「そんな人間が大学へ行ったとして、卒業できると思う? 就職したとして、末永く勤められると思う? 絶対に無理だよ。そんなことは、やってみるまでもなく分かりきったことだ。

 それなのに、両親はどちらかを選べと迫る。

 第三の道――ようするに、今みたいに無為な暮らしを送ることはもう許されない。僕ももう十八歳だしね。第四の道を模索したけど、見つけられなくて。

 そこで、本題に戻るわけだけど」

 少し上体を乗り出し、いっそう深くレイの瞳を見つめる。

「『そんなことを訊かれても……』って思うかもしれないけど、僕もどうしていいか分からなくて、本気で困っているから、進藤さんの知恵を貸してほしいんだ。

 僕が選ぶべきなのは、進学? 就職? それとも、それ以外の道がある? いずれかの道に進んだ場合、僕はどんな心構えをしておけば、重すぎるハンデを抱えながらでも選んだ道をまっとうできる?

 それを、進藤さんに教えてほしいんだ。

 自分でも厚かましいお願いだって思う。だけど、ほんとうに、ほんとうに、分からなくて困っているんだ。自分の人生がかかっているから、藁にも縋りたいんだ。だから、このとおり、お願いします……!」

 僕は床に額がつくくらい深く頭を下げた。気持ちが昂るあまり、とる予定のない行動をとっていた。

 頭を下げたまま、心の中で十を数えた。

 レイはなんのリアクションも示してくれない。さらに十を数えたが、対応に変化は見られない。

 我慢は早々に限界を迎え、顔を上げた。少し眉をひそめたレイと目が合った。見つめ合う時間が数秒流れ、彼女は眉間のしわを深めて顔を背けた。

 終わりの予感とでも呼ぶべきものが、電流のように胸を走り抜けた。見捨てられた、と思った。あまりの狂おしさに、シャツの左胸を鷲づかみする。いつの間にか、服は少し汗ばんでいた。鼓動は案の定駆け足で、天井知らずに足を速めていく気配を孕んでもいる。

 終わった。

 僕は間違ってしまった。

 そして、掛け違えたボタンはもう二度と元には戻せない……。

 押し寄せた黒い絶望に圧倒され、思考が攪拌され、次第に混沌と化していく。その速度に、僕は恐怖感さえ覚えた。まばたきを二度したときには、すでに土俵際まで追い詰められていた。片足が土俵の外に出ようとした、そのとき、

 レイが顔を上げて僕を直視した。

 魔法が解けたかのように、瞬時に闇が晴れた。嘘のように頭の中がしゃっきりして、意識がレイに集約される。彼女の表情を見た瞬間、誤謬に気がつく。

 レイは僕を見捨てたわけではない。救う方法を模索していたのだ。

 その表情を見る限り、レイは――。

 起立した。僕へと歩み寄り、目の前に腰を下ろす。何分ぶりだろう、窓から滑らかな涼風が入室し、髪の毛の香りを僕の鼻孔まで届けた。

 真っ直ぐな眼差し。瞳は宝石のように冷たく、太陽のように熱い。目を離したくないし、離さないでほしい。そう訴えかけている。レイと見つめ合う機会自体めったにないのに、この近さ。まばたきを抑制して見つめてくる二つの瞳は、なんらかの具体的でまとまりのある言葉を僕に伝えようとしている。

 解読するよりも先に唇が開き、発信された言葉は、

「大輔はすごいね。難しい状況なのに、前向きで」

「前向き?」

「前向きだよ。整理すると、大輔には今のところ三つの選択肢が与えられているわけだよね。進学か、就職か、どちらも選ばないか。

 大きなハンデを抱えているから、前の二つをまっとうするのは難しいと大輔自身は考えている。だから、三つ目の選択肢に逃げてもおかしくないわけだけど、大輔は逃げていないよね。あくまでも挑戦しようとしている。困難を乗り越えようとしている」

「三つ? 実質的に二つだよ。親からそれだけはやめてくれって言われているんだから、その選択肢はあってないようなものだ」

「選択肢は選択肢だよ。今だって、高卒認定試験に向けて勉強することで、進学からも就職からも逃げている状態なわけでしょ? 許されてるじゃん、逃げる選択肢」

 レイの言っていることは屁理屈だと思った。それなのに、なぜだろう、心を揺さぶられた。レイの話をもっと聞きたい。そう願っている僕がいる。

「今は逃げているかもしれない。中二のときも不登校で、そのときは就職の選択肢はなかったわけだけど、まあ逃げていたと言ってもいい。でも、三度あることは四度あるじゃなくて、四度目の正直にしようと思って挑戦することにしたんでしょ? それ、すごいと思うな。あたしはすごいと思う」

 僕自身はそう思わない。ただ、ありのままの意見を表明することで、レイの意見を否定したくない。彼女の発言は続く。

「大輔はがんばる意思があるみたいだから、楽なほうに逃げないほうがいいね。ぶつかっていこう。第三の選択肢も、まだ見つけられていない第四の選択肢もなしで。就職か、進学か。この二択だと思う」

「いや、だから、どちらも今のままだと難しいよね。乗り越えるための方法も見えていないのに、がんばれとか、ぶつかっていけとか、精神論を言われても困るよ」

「困らないよ。精神論でいこう。ただ、やみくもにぶつかるとか、盲目的にがんばるとか、そういう無謀な真似はやめるべきだと思うけど」

「言っている意味が……」

「がんばる理由を探そうよ。人と上手くしゃべれなくて、精神的にきついかもしれないけど、これがあるなら耐え抜いていける、がんばり抜けるっていう目標みたいなもの、大輔にはない?」

 目からうろこが落ちた思いだった。

 困難を乗り越えられない。だから、逃げる。蹉跌と挫折のこれまでの人生を極めて単純に図式化すれば、そうなる。

 その逃げ道を実質的に塞がれてしまったことで、僕は立ち往生を強いられた。

 二年連続で不登校になったのちに退学になってからの僕は、逃げ道がない状況の中で逃げ道を探していたようなものだったのかもしれない。

 どこかに抜け道はないだろうか? 楽に生きられる道はないだろうか? 死に物狂いの努力。新たな道はないとすでに結論が出ているにもかかわらず。まったくもって無駄な努力。涙ぐましい徒労。

 しかし進藤レイは、僕が勝手に「歩きとおせない」と思いこんでいるだけではないか、と指摘した。

 目標さえ持っていれば、それが力になって、困難な道のりも歩きとおせるかもしれない。そう意見した。

「その目標は大輔自身が見つけるしかない。進学だと、将来なりたい職業とか。就職だと、お金をためて買いたいものとか。……いや、あたしから下手なことは言わないほうがいいね。自分で見つけないと絶対に悔いが残るから。とにかく、そういう方向で考えていけばいいと思うよ。

 あたしから言えるのはこれくらい、かな」

 レイは腰を上げる。窓際まで遠ざかり、窓外を見やる。弱い風が髪の毛をさらさらと揺らす。

 レイの立ち位置は真ん中よりも少し右だった。もしかすると、僕といっしょに外を眺めたくて、自分の左側を空けたのかもしれない。

 しかし、僕はその場に座ったままでいた。彼女のそばに行きたくなかったのではなくて、考えることに専念したかったから。

 なにを目標にすれば、僕は高すぎる壁の向こう側に行けるのだろう?


 求めている答えを得られないまま、僕は高卒認定試験に臨んだ。僕にとって大きなその課題は、ちっぽけな設問の集まりを解くにあたっての障害にはなり得なかった。

 結果は、受験した全科目で合格。

 レイに報告すると、彼女はほほ笑んで「おめでとう」と言った。大喜びするでも、淡々と受け流すのでもない。僕が理想としていて、期待していたとおりの喜びかただった。

 翌日にレイは、去年のクリスマスの三日前にショートケーキを買った店で、合格祝いとして、季節としては少し早いモンブランケーキを買ってきた。美味しかった。味のクオリティの高さはショートケーキを食べて知っていたが、大切な人が僕を祝福する目的で買ってくれたのだと思うと、喜びもひとしおだった。

 秋は九月に僕、十月にレイと、誕生日がある月が連続する。積極的に外出するのを好まず、記念日を大々的に祝う趣味もない僕たちは、買ってきたケーキを食べることでお祝いを済ませた。僕は合格祝いのモンブランが美味しかったということで、二回連続でそれを、レイは好物だというチーズケーキを、それぞれリクエストして食べた。

 単調だが幸福な日々にアクセントが加わると、単調さがまったく気になるくらいに幸福になれる。僕たちも例外ではなかったが、幸福感の高まりは長続きしなかった。

 レイが曽我家を訪れる頻度が次第に低くなる不幸は、幸いにも、最悪でも週休四日、不動の休日である土日を含めて四日で歯止めがかかった。

 問題が生じたのは、僕の心。

 高卒認定試験というハードルを乗り越えたことで、次なるハードルである大学入学共通テストと向き合わざるを得なくなったのだ。

 僕としては進学に舵を切ったつもりはない。ただ、大学入学共通テストを受けなければ、進学するにあたって不都合が生じる可能性が出てくる。そのせいで、進学すると決めたわけではないのに勉強に専念しなければならないという、歪な状態に置かれてしまった。

 もちろん、大学入学共通テストの存在・必要性・重要性は、ずっと前から重々承知している。毎日、ないに等しいくらい少しずつではあるが、それ向けの勉強にも取り組んでいた。しかし、本格的に取り組むとなると、精神的な負担は段違いだった。また、両親、というよりも父親は、「高卒認定試験に合格したことで、ようやくスタートラインに立った」という認識らしく、いっそう激しく、あからさまにプレッシャーをかけてくるようになった。

 父親の言葉にはネガティブな感情ばかり抱かされたが、僕は穏便な対応をとるように心がけた。あまりにもしつこかったり、聞き捨てならなかったりしたときには、「うるさいなぁ」と声を強めて遮ったが、その場合でも本格的に反論を述べるのは自制し、口論に雪崩れこまないように注意を払った。絶対に屈服させられない敵である父親と、不毛な闘争をくり広げるだけの気力がなかったし、感情を刺激しないほうが結果的に圧力を軽減できるという計算があったからだ。

 目論見どおり、口論に発展する事態は回避できた。ただ、父親からありがたくないお言葉をちょうだいする総時間は、心がける以前と比べて悪化もしないが良化もしないという結果に落ち着いた。

 より精神的に疲れる事態に陥るのを避けられているだけでも、よしとするべきだ。そうポジティブに捉えるべきだったのだろうが、受験勉強という、ただでさえ疲れる課題をこなす日々を送っている身には、決して簡単な心がけではない。

 つらい毎日を過ごす中で、レイが言った目標を立てることの大切さは、疑いようのないものだと僕は認めた。

 そうはいっても、十七年間生きてきて一度も能動的に見出したことのない目標などという代物を、おいそれと見つけられるはずもない。

 目標の一つも持たずに生きてきた僕の人生って、いったいなんなんだ。どれほどの価値があるというんだ。

 自力でも他力でも絶対に正答を算出できない疑問に懊悩する夜も、毎日のようにあった。

「目標を持つべき」とアドバイスをくれたのはレイだが、まさか本人に「なにを目標にすればいいですか?」とたずねるわけにはいかない。いくら人生経験が少なくてひきこもりがちな僕でも、それくらい分かる。事実レイも、「自分で見つけるしかない」とはっきりと言っていた。

 目標というのは、たぶん、ある程度時間をかけなければ見つけられないものなのだろう。

 ただ、のんびりとしてもいられない。目標という奮発材料を見つけない限り、大学入学共通テストで高得点はとれそうになかったし、仮にとれたとしても、進路の選択という、次に待ち構えているハードルを越えるのは難しいだろう。

 将来を悲観し、集中できないながらも、とりあえず勉強だけはきちんと毎日する。

 そんなふうに時間を使いながら、僕とレイの誕生日がある季節は流れていった。


 週休四日が常態化して以来、僕はレイと過ごす時間を大切に使いたいという気持ちをより強めた。

 意識したのは、意識しすぎないこと。ようするに、念頭から雑念を排除し、未来の不透明さも、今現在の灰色も、過去の暗黒もきれいに忘れて、真夏の太陽の下で川遊びをする子どものように、全身全霊で彼女と過ごす時間を楽しむということだ。

 方針はおおむね守ることができたが、それでも、たまには愚痴を言いたくなることもある。

 レイと過ごす時間はいつもリラックスできるから、ついつい雰囲気に流されて甘えたくなる。精神的にきつい日々の中で、一時間半でもリラックスできる時間を確保できるのだから、それで満足するべきだ。そんな謙虚な気持ちを維持しきれないことも珍しくなかった。

「――こっちは我慢しているのに、父親はしつこく言ってくるわけ。堪忍袋の緒が切れて食ってかかったら、向こうは意地でも引かないから、絶対に口論になる。ほんとうに嫌になるよ」

 僕は苦笑を灯して長広舌を締めくくった。父親に対する憎悪を当たり障りのない表現形式に変換した結果の苦笑であり、話が長引いてしまったことに対する苦笑でもある。愚痴は極力言わない。言ってしまった場合は、なるべく短く終えるようにする。そう己に言い聞かせてはいるのだが。

 家族に対する不平不満を長々と垂れ流すという珍しい事態に、レイは看過できないものを感じたらしく、読んでいた漫画をぱたんと音を立てて閉じた。彼女が持参する漫画は古い名作が多いのだが、今日読んでいるのは僕が知らない新しい作品だ。

「厳しいよね、曽我の親御さんって。高卒認定試験のときもそうだけど、大切な試験を控えているのにプレッシャーかけまくるもんね。曽我も大変だ」

 同情の念がこもった苦笑いがレイの口元に浮かんだ。

「受験勉強と親からのプレッシャーとで、今、曽我はストレスたまりまくりな状態なわけだね。今にも爆発しそうな」

「そうだね。思わず進藤さん相手に吐き出してしまうくらいには。迷惑をかけたくないし、貴重な時間を無駄にしたくないし、逃げているみたいな気もするから、こういうことはあまりしたくないんだけど」

「まあいいんじゃない、たまには。制限時間いっぱい愚痴を聞かされるのはさすがに嫌だけど、少しくらいなら」

「ありがとう。じゃあ、あともう少しだけ。

 この問題、父親が黙っていてくれさえすれば解決するんだよね。父親が諸悪の根源なんだよ。だから、どうにかして態度を変えさせたいんだけど、上手い方法が見つからなくて」

「お父さんも心配なんだろうね。あまり言いたくないけど――事実として曽我は、中学高校と合計三回、不登校になっちゃったわけだから」

 僕ははっとさせられた。父親に対して抱くのは不快感と不満ばかり。息子が心配なあまり口うるさくなっている、という視点を持ったことが、これまでほとんどなかったことに気がついたからだ。

 それだけ僕が精神的に未熟だったとも言えるし、心にゆとりがなかったとも言える。あえて当時の自分を擁護するなら、心情に思いを馳せる余地を持てなくなるくらい、父親がもたらすプレッシャーが悪質かつ強力なものだった、とも言えるだろう。

 ただ、いくら弁護の余地があるといっても、父親からの加害行為も見逃せない一因となって精神的な危機を迎えている身としては、自主的に不平不満を取り下げるのは癪だ。我慢することはけっきょく、次に爆発する感情の破壊力を高める結果に繋がるため、長い目で見れば逆効果なのでは、という思いもある。

 そのあたりの心理は、ある程度レイも理解しているのだろう。沈黙という回答を示した僕に対して、なにか言葉をかけるのではなく、口を噤むという対応をとった。

 しかし、その沈黙は別の意味も含んでいると、彼女の表情を直視したことで気がついた。なにかについて深く考えている顔つきなのだ。

「たとえば――これはあんまりいい案じゃないかも、とは思うんだけど」

 外れていた視線を再び僕に向けて、レイは話しはじめた。

「不平不満があるなら、誰にも見えない形で吐き出す、というのはどうだろう。紙に書くとかして。日記? エッセイ? 呼びかたはなんでもいいけど、とにかく文章の形で吐き出すの。そうしたら、愚痴っても誰にも迷惑はかけないよね。音楽とか絵とかじゃなくて文章なら、芸術に嗜みがない一般人でも形にできるから、ハードルは低いかなって思うんだけど。……どうかな?」

 不鮮明だった視界が一瞬にして晴れた。

 当時、僕は文章を書くのは好きではなく、授業以外にその機会を持たなかったといっても過言ではなかった。文系ではあるものの、作文に得意意識はまったくなかったし、教師や両親から自作の文章を褒められた記憶はない。日記をつける習慣、読書をする習慣、ともにない。早い話が、読み書きからは縁遠い生活を送ってきた。

 それなのに――いや、だからこそ、なのだろうか? 書くという表現手段に途方もなく魅力を感じた。

「書いて発散する、か……」

「お気に召さなかった?」

「正直、そそられないかな。最近は問題集を解くとかして、ただでさえペンを動かしている時間が長いから。自分の気持ちを吐き出すために書くのとは全然違うんだろうけど、気乗りはしないかなって感じ」

「まあ、そうだよね。心弾むような解決策ではないよね」

「せっかく相談にのってもらったのに、ごめん。でも、ありがとう。ほんの少し楽になったよ」

 それからの僕たちは、愚痴を言ったり聞いたりしたことなんてなかったかのように、普段と同じ調子で時間を消化した。

 レイが自らの提案に再び触れることはなかった。不評だったし、自分でも冴えたアイディアだとは思っていないし、失敗談として蒸し返す価値もない。そう判断したらしい。

 でも、それはとんだ勘違いだ。

 なぜなら、君のそのアドバイスがあったからこそ、僕はこうしてこの文章を書いているのだから。


 レイが帰ると、僕はただちに学習机に向かった。

 天板の上の問題集にはいったん脇にどいてもらう。誕生したスペースに、引き出しから取り出した大学ノートを広げる。不登校を三回も経験した僕は、買ったはいいが使っていない文房具類を大量に所有している。今取り出した一冊は、封こそ開けているものの、ページを開いたことすらない新品同然の代物だ。

 白。

 圧倒的な白。

 それが始めから終わりまで続いていく。

 そこに最初の一文字を刻む、ということ。

 なにから始めればいいのだろう? 可能性のあまりの膨大さに、ペンを握る手は硬直する。

 それでいて、途方に暮れてはいない。

 書きたい。なにかを書きたい。気持ちが前のめりだ。怖い気もする。でも、それを乗り越えたい。

 考えに考えた。ちゃんとした答えは一向に見えてこず、逸る気持ちが優柔不断な自分に見切りをつけた。文字を、刻んだ。

 言葉があふれ出した。

 夢中で書いた。書き殴ったといってもいい。文法はめちゃくちゃだったと思う。文章の体をなしていたかどうかさえも怪しい。下手な文章だ、めちゃくちゃな文章だという自覚は、ペンをしゃにむに動かしているさなかからあったように思う。

 それでも書いた。こまかいことは気にせずに書いて、書いて、書きまくった。感情が突き動かすのだ。放っておいても手が勝手に動くのだ。

 その未体験の、得も言われぬ快感に、身を任せた。書いても、書いても、吐き出したい言葉が湧いた。気持ちが切れなかった。

 必死だった。夢中だった。楽しいとも少し違う、僕の辞書には記載されていない感覚を僕は体験し、体感していた。

 止めようとは思わない。体力が尽きるか、吐き出したいものを吐き出し尽くすまで、ずっとこうしていたかった。一つの作業にこんなにも集中できた事例は、記憶を隅々まで探索しても見つけられない。

 執筆は、母親が「夕食の支度ができた」と伝えにきたことで中断を余儀なくされた。

 正直に言ってかなりむかついた。しかし、懸命に理性を働かせて怒りを抑えこみ、すぐさまダイニングへ向かった。真の意味で物事にのめりこんだ人間は、感情に呑まれるのではなく、沈着冷静に最善の行動をなぞれるものなのだと、このとき初めて知った。

 食事の席では、習慣を通り越して癖になった感がある父親の小言を浴びたが、耐え抜いた。腹は立ったし嫌気も差したが、食器を床に叩きつけることも、父親に殴りかかることも、いきなり怒鳴り声を上げることもしない。部屋に戻り次第再開できる、書くという行為。それに意識を置いていれば、不意打ちで吹きつけた風や強くぶつかってきた風にも、反射的に足を踏ん張れ、飛ばされることは決してなかった。具体的にこれが書きたいというよりも、あの時間あの空間に一秒でも早く戻りたかった。

 夕食が済み次第自室に戻ったが、残念ながら執筆意欲は復活しなかった。火が完全に消えてしまったために、奮い立たせたくても奮い立たせる余地がなかったのだ。

 落胆したが、手の打ちようがないと理解していたので、速やかに気持ちを切り替えられた。途中退席した時点でこうなる運命は免れないと薄々悟っていたからこそ、簡単に諦めがついたともいえる。

 気を取り直して、書いたばかりの文章を読み返してみる。

「……ひどいな」

 とても文章と呼べるような代物ではない。あまりにもお話にならなさすぎて、苦笑いすらもこぼれない。それでいて、なにものにも忖度せずに感情をぶつける勢いが、迸るような迫力が、清々しいと感じた。

 けっきょく、こんなにも情熱的に文章をつづったのは、その日が最初で最後だった。

 ただ、さびしがる必要はどこにもない。

 この経験のおかげで、懸案だった目標が定まったのだから。

 進学か就職かの問題に決着がついたのだから。


 僕はライティング学科が設置された、関西にある芸術大学への進学を目指すことに決めた。

 同名の学科を設けている大学の総数が少なく、その学科の存在自体や名称が一般的なものなのかは分からない。一言でいえば、書くことを学ぶための学科。大学のウェブサイトで紹介されていた授業内容を精査し、今現在の自らの書く力を考慮した結果、その選択がベストだと判断したのだ。

 書くことについて学びたい。

 レイのアドバイスが引き金となって芽生えた目標。叶えるためには大学に進学するしかないと、自ずと方向性は定まった。「書く」ことなのだから、芸術系。それについて学べる学校には詳しくないから、文明の利器に頼るしかない。ただ、僕はインターネットを利用できる機器は所有していないので、

「父さん、パソコン貸してくれない? 少しのあいだだけ。ネットで進路について調べたいんだ」

 夕食時にそう切り出した。今日も相変わらずうるさい小言を紳士的に断ち切るように。

「ああ、いいよ。夕食が終わっても、父さんは三十分くらいは部屋に戻らないようにするから、お前が使いたいように使うといい。起動のさせかた、分かるか? 分からないことがあるならお父さんが教えるから、訊きにきなさい」

 父親は困惑しながらも申し出を了承した。渋々とではなく、好意的に。高校を中退して以来自室にこもりがちな息子が、自らの進路の選定に前向きな姿勢を示したのだから、保護者としては首を横には振れないだろうと踏んでいたが、読みは的中したわけだ。

 父親の助けもあり、パソコンは無事に起動した。「これは」という単語を打ちこんで検索してみる。比較検討した結果、いくつかの芸術大学が設けていたライティング学科がよさそうだったので、受験してみることにした。

 いずれも実家から通える圏内にキャンパスはなかったので、関西圏にある芸大を第一志望とした。関東圏にある二校は第二志望と第三志望だ。

 進路についての話は、パソコンを使い終わったと父親に報告したさいに伝えた。父親は、今度は驚いていた。三十分足らずで、今まで決まらなかったことが決まったのを不審がったので、実はすでに方向性はおおむね決めていて、最終判断を下すためにネットで情報を収集した、と説明した。

 書くことを学びたいという僕の意思に、父親は意外そうな顔をした。その技能を高めることが将来なんの役に立つのかという、彼らしいつまらない指摘に対しては、再びパソコンを起動させて大学のウェブサイトを開き、小説家を養成するというよりも、あらゆる職種に活かせる文筆関係の技量を高めるのが目的の学科で、大手出版社に就職した卒業生も多数いて――といった、大人に受けそうな、父親に刺さるような説得の言葉を羅列した。

 父親は僕の意見の正当性というよりも、今までとは見違えるような殊勝な態度に心を動かされて、僕の意思を尊重してくれたように思う。私立大学の高い学費にも、私立高校の高い学費をドブに捨てた前科にも触れず、「卒業まで責任をもって通いつづけて、留年はしないと約束するなら、学費は出す」と明言した。

「ありがとう」

 久しぶりに父親に向かって感謝の言葉を口にして、自室に戻った。そして、夕食後に半時間ほどゲームで遊ぶ習慣を無視して、学習机に向かった。


 いずれの大学にも、実技試験と学力試験、そして面接試験がある。前の二つはどちらかをパスできれば合格できるという規定だ。

 己の才能に自信を持っている人間にとっては、実技試験はプレッシャーがかかる関門かもしれないが、つい先日書く喜びに目覚めたばかりの僕にそんなものは無縁だ。

 初心者も同然なのだから、実技試験は落ちて当たり前。高卒認定試験と大学入学共通テストに備えて日々高めていた学力を活かして、学力試験を突破すればいい。

 そう割り切れたので、ほどよく肩の力を抜いて学力試験の勉強に専念できた。そして、課題に取り組むのに疲れ、就寝時間も近づく深夜になると、大学ノートを開き、ペンの赴くままに文章を書きつづるのだ。

 目標が定まったことで、勉強に対する情熱が湧いた。気持ちが伴ったことで、集中力が増した。勉強に充てる時間は長くなり、必然にゲームに費やす時間は減った。

 ただし、もちろん、レイが遊びにきたときは例外だ。

 彼女との過ごしかたに劇的な変化が起きたわけではないが、こまかい変化であれば随所に現れた。試験勉強に取り組む時間が長くなったのに伴い、週三日か四日の約一時間半の休息が、相対的に価値を増した影響だ。

 ゲームは、レイが来たときだけ電源を入れるようにしたので、親から新作ソフトを買ってもらった小学生のように夢中で遊んだ。菓子、中でも甘い菓子は積極的に摂取した。会話に関しては、以前よりも明らかに多弁になった。

 一つ一つはそう大きくないが、重なり合ったことで目立ったのだろう。レイも僕の変化には気がついたようで、

「どうしたの、曽我。最近、なんていうか、調子よさそうだけど」

 訝るというよりも、からかうような声音でそう指摘してきた。

「そう? そんなふうに見える?」

「まあね。なにかあったの?」

「いろいろと分からなかったことが分かるようになって、ちょっと手応えを感じているところ。これという出来事があったわけではないんだけど」

 僕の言葉を信じたのか、信じていないのか。少なくとも大きな嘘が含まれているわけではないと判断したらしく、「それはなにより」と言って読書に戻った。

 進路を決めたことは秘密にした。言いたい気持ちはあったが、あえて黙っておくことにした。

 事実を告げることで、なんらかの不都合が生じるのを危惧したわけではない。レイはむしろ、自分のことのように喜んでくれるだろう。

 それでも言わなかったのは、合格を報告するさいに、あの日のレイのアドバイスがきっかけで目標が決まったのだと伝えて、彼女の喜びの涙を引き出したいという、ささやかな願いが芽生えていたからだ。

 その願いを実現するためにも、勉強、勉強、勉強だった。

 点数は高ければ高いほどいい。油断が慢心を生むのがなによりも恐ろしかったので、とにかく気を抜かないように心がけた。代償として、体力と気力をごっそりと持っていかれたが、耐え抜けば必ずや光が降り注ぐと信じ、日々努力を重ねた。最初は突っ走りすぎて息切れすることもあったが、失敗を重ねたことで学習し、要領を掴み、がんばりすぎないようにがんばるのが上達した。

 大変だし、疲れるが、晴れやかな充実感があった。

 それはきっと、目標に向かって邁進する者だけが得られる報酬なのだろう。


 僕たちが住む町に冬が訪れ、日に日に寒さが増し、年が明けた。

 一月からは受験が続くということで、いっしょに初詣に行こうかという話も出たのが、けっきょく実行しなかった。三が日は天候に恵まれない予報だったのもあるが、一年以上に及ぶ習慣により確立されたリズムを崩したくなかった、というのが本音だと思う。

 大学入学共通テスト受験当日は緊張した。よい点数がとれるかはもちろん、大勢の人間が集う場所に行くことに対しても。

 試験会場となった某大学の構内は、高卒認定試験が行われた会場とは比べものにならないくらいに広大で、来校している受験生の数はけた違いだった。

 いじめられて不登校になった曽我大輔という男、留年した挙げ句に中退した曽我大輔という男の存在を覚えている者も、中にはいるだろう。どこか暗鬱なオーラをまとった少年が、おどおどと周囲を見回しながらこそこそと会場を移動するのを見て、軽蔑的な感情を抱く者もいるかもしれない。

 そう想像することは、学生だったころの僕が困難に直面したときの基本的な対処法である、逃避への誘惑を強く刺激した。

 しかし、懸命に押し殺した。自分を励ますために、具体的な文言を心の中でつぶやいて自分に言い聞かせることまではしなかったが、邪念はなるべく念頭に長く留まらせないように心がけた。格闘しているあいだは苦しかったが、なんとか切り抜けられた。

 成長したのは学力だけではなく、精神力も、だったのかもしれない。

 試験の結果は上々だった。また一つハードルをクリアして、残るハードルは一つ。

 もちろん、最後と見なしたハードルの先にも無数のハードルが待ち構えていて、むしろ最後のそれを越えてからが本番なのだが、遠すぎる未来についてはあまり考えたくなかった。目の前のことを精いっぱいこなしていく。それが基本姿勢だ。

 逃げではない。明確に違う。今の僕ならそう確信をもって断言できる。あれが逃げだというのなら、人間は誰しも常になにかから逃げている。そんな極端な意見さえ表明したくなる。


 目標達成を目指して無我夢中で突き進む日々は、充実していた。輝いていた。あっという間だった。

 無我夢中。

 それゆえに、レイを置き去りにしてしまった。

 僕が目標を見つけてからというもの、レイとの付き合いは小さな変化すらもなく続いていた。だから、このまま末永く続いていくものと思いこんでいた。

 僕の生きかたが少なからず変わったのだから、レイとの接しかたにもなにかしらの変化がある。その変化が、なにかしらの変化を彼女にもたらす。

 そんな当たり前のことに、当時の僕はまったく気がつかなかった。

 僕の身に起きた変化がポジティブだったのがそもそもの原因だ、と言ってしまってもいいかもしれない。ネガティブな変化だったならば、それが人生を変える類のものではない限り、円満に解決できる可能性が高かったはずだ。

 なにせ進藤レイは、草刈りをした庭での会話や、書いて発散するというアイディアをくれた一件が示すように、僕を立ち直らせ、再び歩き出す気力を取り戻させる能力を持った人なのだから。

 今となっては後の祭りだ。

 起きてしまった過去を変更するなどという芸当は、神にしかできない。

 この物語を書きつづっている僕は、この物語における神に等しいが、物語における過去の真実は書き換えられても、ほんとうの現実の過去についてはなす術がない。

 悲嘆に暮れていては、いつまで経っても、終わらせるべきものも終わらせられない。

 僕が望む形での解決にはならないのだとしても、物語を先に進めるしかない。


 大学入学共通テスト受験も差し迫ったころから、僕は目標をもう一つ用意する必要性を感じはじめた。

 目標というよりもご褒美と呼ぶのが近いように思う。それよりももっと近い表現がある気もする。

 しかし当時の僕は、もっぱら「もう一つの目標」という呼びかたをしていた。そのせいで、月日が経った今でも、それに替わる言葉を見つけられない。

 なぜその時季にその必要性を感じたかというと、目の前に待ち構えているハードルと、その先に待ち受けているハードル、両方を乗り越えるためには、たった一つの目標だけでは少々心もとなく感じはじめていたからだ。

 人生に必要不可欠ともいえる最初の目標ですら、レイからのアドバイスがきっかけでようやく見つけた男が、そう簡単に二つ目を見つけ出せるのだろうか?

 最初は半信半疑だったが、いい意味で予想を裏切られた。一つ目標を得たことで、目標を見つける秘訣を掴んだのか。あるいは、他にしっくりくる言葉がないから便宜的に「目標」の二字を宛がっただけで、本質的には目標とは似て非なる別物だからこそ、僕にでも簡単に見つけられたのか。

 当時の僕は、その謎には一瞥もくれなかった。新たな目標に魅了され、それ以外のことにほとんど意識が向かなくなっていたから。

 それでいて、現を抜かすとか気を緩めるとかではなくて、いっそう気持ちをこめて義務に打ちこんだ。早くその目標を叶えたかった。新たな目標を決めた時点で最後からの二番目のハードルだった、大学入学共通テスト受験を無事に終えたあとも、熱量が減退することはなかった。

 志望校の入学試験を終えるまで、僕はきっと走りつづけていられる。そんな確信を心の支えにして、日々を消化した。


 新たな目標は、レイに密接に関係していた。

 その目標を叶えるためには、レイに深く入れこみすぎず、これまで日常的に励んできたことに今まで以上に励むことが大切になってくる。少なくとも僕はそう信じた。

 その方針に忠実であればあるほど、僕の心はレイから距離を置いた。僕としては、普段どおりに彼女と接していたつもりだったのだが、結果的にそうなった。

 レイを想うがゆえにレイをおろそかにするという、馬鹿げた、おぞましい矛盾。

 その矛盾に微塵も気がつかなかった当時の僕の、若気の至りという言葉では擁護できない愚かさ。

 ……書いているだけで嫌な気持ちになる。死にたい気分にすらなってくる。

 しかし、進むしかないと決意したばかりなのに、立ち止まるわけにはいかない。足を止める時間が長くなればなるほど苦しい思いをすることになる、という予感もある。終わらせることさえできれば楽になれる、という期待もある。

 もはや、物語も終わりが近い。


 県外にキャンパスがある大学の入学試験だから、当然県外で行われる。

 人と口頭でコミュニケーションをとるのが病的に苦手で、それゆえの恐怖と不安を慢性的に抱えている僕にとって、一人で県外まで遠征する精神的負担はかなりのものだ。

 入念な下調べと、極力人との接触ならびに会話を避けるなどの工夫を併用すれば、いくらか負担を減らせるだろう。しかし、入学試験という大一番を控えた身としては、必ずしも割く必要のない行為のために精神力を消費したくない、というのが率直な気持ちだ。

 その意味で、父親が大学までの送り迎えを買って出てくれたのはありがたかった。常識を重んじる人だから、「四月から一人暮らしをする身だというのに、親に頼るとは何事だ」とかなんとか言って、単独行動を強要してもおかしくなかった。しかし、そのときは僕の気持ちを理解してくれて、全面的にサポートしてくれた。

 未知の事物事象に対して不安感を覚える僕にとって、こまかな点では相違があるとはいえ、二回試験を経験しているのはアドバンテージだった。さすがに面接試験は平常心ではいられなかったが、かすり傷一つ負わずに切り抜けられた。

 実技試験では、テーマをもとに短文を作成しろ、という課題が出された。

 思うようにいかなかった。規定の文字数を超える文字をマス目に刻むので精いっぱい。起承転結はなっていないし、キャラクターは欠陥だらけの人形のようで、そもそも文章が下手くそだ。完成した文章を読み返してそう評価を下したのではなく、書きながら下手だ、下手だと絶えず思っていたから、そうとう下手だったと思う。ライティング学科志望でもなんでもない、国語が得意な高校生のほうが、よっぽど気のきいた文章を書き上げられただろう。

 覚悟していた結果だった――その時点ではまだ出ていなかったが、出る前から分かるほどひどい出来だった――とはいえ、気分は落ちこむ。

 手を伸ばせば届く場所まで来たものの、すんでのところで指をすり抜けるのではないかと、不安で仕方がなかった。しかし、その後の学力試験では、思っていた以上に解答欄を埋められたので、テンションの低下を補って余りある自信を得た。

「まあまあかな。結果が出るまで安心はできないけど、点数はとれたと思う」

 帰りの車中で自分から父親にそう伝えたくらい、手応えはあった。


 合否発表までのあいだ、レイは明らかに関連する話題に触れることを避けていた。合格する自信はあったし、すべてをやり遂げた解放感もあって、僕としてはまったく気にしていなかったのだが、気づかってくれる優しさが素直にうれしかった。その気持ちに応えたかったし、強いて話題にする理由もなかったので、僕も黙っていた。

 規制された話題は一つで、しかも厳しい規制ではないにもかかわらず、口数が少なくなったような印象をそのころから感じていた。

 あとになって思えば、あのころに異変に気がついていれば、危機感を抱いていれば、ぎりぎりで挽回できた気もする。

 しかし、すべてが終わった今となっては、たらればの話は、脱力感を伴った虚しさを運んでくるだけだ。

 とにもかくにも話を先に進めよう。


 合否通知は平日の昼下がり郵便で届いた。その情報は事前に承知していたはずだが、合否は大学のウェブサイトを見て確かめるもの、という思いこみがなぜかあったので、大学から自分宛に届けられた郵便物だと判明した瞬間、心臓が早鐘を打ちはじめた。第一志望の大学からだ。

 動悸が治まると、さっそく開封した。もったいぶる理由はなかった。

 結果は、合格。

 喜びよりも安堵感のほうが大きかった。

 学力試験は合格で、実技試験は不合格だった。

 やっぱりな、と思った。

 もともとその公算が高いと踏んでいたし、合格は勝ちとっているから、落胆はしなかった。実力を過信させず、新しい奮発材料を提供するという意味では、好ましい一敗だ。そうポジティブに捉えることができた。

 大学で書くことを学ぶという目標が叶った。

 残るは、もう一つの目標だけ。

 合格通知が届いたのが昼下がりだと覚えていたのは、そのあとにレイと過ごした記憶があるからだ。

 ただし、遺憾ながら、愉快な記憶はわずかしか残っていない。


「やあ」

 僕の胸の内など知る由もない進藤レイは、いつもの時間に曽我家に到着し、おなじみのしぐさであいさつをした。

 決意を胸に抱いた僕は、普段どおりに彼女を我が家に招き入れる。彼女の言動や態度にいつもと違ったところはない。僕が秘めているものの正体はもちろん、なにかを胸に秘めていること自体にも気がついていないらしい。

 部屋のドアが閉まったとたん、待っていましたとばかりに本題を切り出すのは嫌だった。だからといって、いつもどおりの緩い空気に身を任せていると、ずるずると終わりまでいってしまう気がする。タイミングが難しかった。

 菓子の容器や袋が床に所狭しと並ぶ。僕はキッチンで淹れたホットコーヒーを部屋まで運んでくる。壁にもたれて漫画を読んでいたレイがそれを見て「ありがと」と言った。

 その何気ない一言に、僕の心は揺れた。動揺してしまったゆえに、当時はその原因を掴めなかったが、今ならよく分かる。僕が胸に秘めている思惑を見透かされ、それに対して感謝されたように感じたのだ。

 早鐘を打っている、というほど激しくはないにせよ、鼓動は平時よりも明らかに速い。ベッドに腰かけてゲーム機の電源を入れようとしたが、遊びはじめてしまうと一生言い出せなくなる気がした。

 だから僕はゲーム機を床に置き、彼女に向かって口火を切った。

「進藤さん。入学試験の結果だけどね」

 レイは弾かれたようにこちらを見た。僕の表情を一目見て、結果がどちらに転んだのかを悟ったらしい。僕は相好を崩した。

「無事に合格したよ。今日、合格通知が届いて」

「それはよかった。曽我、おめでとう」

「ありがとう」

 奇妙な空白が生まれた。「ありがとう」と答えた僕の表情を見て、レイがリアクションに窮したことで生まれた間だ。彼女にしては珍しく、口を半開きにした無防備な顔をしている。おそらく、彼女の心の中では二つの疑問が芽生えているはずだ。

 受験勉強に苦労したはずなのに、なんで大喜びしないの?

 そもそも曽我って、どこの大学を受験したんだっけ?

「そういえば伝えるのを忘れていたね。僕が受かったのは、関西にある芸術大学。ライティング学科っていうのがあるんだけど」

「うん」

「いつだったかな。進藤さんが『ストレスを発散したいなら、思いを紙に書いてみたら』という意味のことを言ったよね。その日のうちにさっそく実践してみたら、自分でも信じられないくらいにたくさん書けて。趣味も特技もない、平凡な人生を送ってきた人間にとっては、衝撃的といってもいい経験で。だから、ライティング学科がある大学に進むことに決めたんだ」

「そうだったんだ。でも、書いて発散するのは気乗りがしない、みたいな反応だった気がするんだけど」

「あれは照れ隠しみたいなもの。心の中では、早くその方法を試してみたくてうずうずしていたよ」

「……そっか。あたしの言葉が、曽我の進路を決めるきっかけになったんだね。たった一つの体験から、方向性を決めちゃうのか。上手く言えないけど、なんていうか、すごいね」

 レイの顔は静かな感動に輝いている。軽蔑や呆れといった、僕に否定的な感情はいっさい観測できない。

「すごくないよ。むしろ安直なんじゃないかなって思うけど」

「ううん、そんなことない。だって大学まで受けて、合格しちゃうんだよ。それって、その場の勢いだけでは絶対に無理なことでしょ。曽我はそれをやれたんだから、すごいよ。文句なしにすごいと思う」

 こちらが戸惑ってしまうくらいの熱弁だ。

 気圧されながらも、うれしかった。合格を勝ちとった自分を卑下するような発言は慎もうと思った。

 芸術大学の印象や期待、受験勉強の苦労などについて、僕は話した。僕は合格した喜びと受験モードから解放された爽快感、レイはささいなきっかけから目標を見出し、結果を出した僕を称賛する気持ちがあるから、話はとても盛り上がった。積極的にしゃべっている自分も、聞き役に回っているレイも、普段とは少し違う人間になったみたいだった。

 しかし、これが本題ではないのだ。

 大学合格も伝えたいことの一つではあるが、もっとも伝えたいことではない。

「進藤さん。話は変わるんだけどね」

 僕はベッドから下りて床に正座し、声を少し落として話頭を転じた。レイは目を丸くして僕を見返した。読んでいる漫画を手にしたままで。

「ずっと前から進藤さんに伝えかったことがあるんだ。それはね」

 レイが息を呑んだのが分かった。

 僕の鼓動は秒刻みにテンポを加速させていく。このままだと、破裂してしまうかもしれない。

 だから、その前に言ってしまおう。

「君のことが好きだ。僕の恋人になってください。お願いします……!」

 頭を下げる。一、二、三と、心の中で数えて、それから角度を戻した。レイの顔から表情が消えていた。目が離せなくなった。

 レイは僕から視線を逸らし、唇をもどかしげにうごめかせた。僕はまばたきすらできない。

 二人は沈黙する。静寂は永遠に続いていきそうだ。しかし、そんなものはしょせん、まやかしに過ぎない。そうあってほしいという、僕の身勝手な願望が生み出したあさましい錯覚だ。

 レイはおもむろに手にしていた漫画を床に下ろし、頭を下げた。

「ごめんなさい」

 僕の頭の中は真っ白になった。

 やがてレイの顔がゆっくりと持ち上がる。眉をひそめていた。怒っているのではない。むしろ泣き出しそうな、困っているような、赦しを乞うような。

「大輔は最高の友だちだと思っているけど、友だちとして毎日気楽に付き合うなら大歓迎だけど――恋人になるのは違うかな、って思う。手を繋いでデートとか、キスとか、セックスとか。大輔とそんな付き合いかたをしても、楽しくないよ。全然楽しくない。そんなふうに過ごさなければいけないんだったら、いっしょにいたくない。大輔が嫌いだから言っているんじゃないよ。あたしはただ、そういう関係は間違っていると思うだけ。……言っている意味、分かる?」

 眉をひそめたままでの問いかけに、僕は首を縦に振る。

 実際は、なにも分かっていなかった。ふられたのがショックで、認めたくなくて、思考するのをなかば放棄していた。

 それでいて、レイの発言には普段以上に注意深く耳を傾けていたから、あの日から時間が経った今でも、こうして一言一句はっきりと記憶に留めている。

「そういうわけだから、大輔とは付き合えない。でも、大輔のことが嫌いだから告白を断ったんじゃない。そこのところだけは分かってほしいかな」

「……うん。残念だけど、そういうことならしょうがないよね。ごめんね、いきなりこんなことになって」

 僕は無理矢理笑顔を作った。ぎこちなかろうが、痛々しかろうが、沈痛な面持ちでいるよりはましだと思ったから。

 しかし、レイの眉間にはしわが寄ったままだ。

 試みはあえなく失敗に終わったのだ。

「こちらこそ、期待に沿えなくてごめん。でも、それがあたしの正直な気持ちだから」

「うん、分かってる。言葉を重ねなくても、僕は分かっているよ。なんていうか――もとに戻らない? このことは忘れて、引きずらずに、いつもみたいな過ごしかたで過ごそうよ」

「……そうだね」

 合意は呆気なく交わされた。レイは再び漫画を読みはじめ、僕はベッドの上に戻ってゲーム機の電源を入れる。

 しかし、言うまでもないことだが、理想どおりに時間を消費できるはずもなかった。

 振り返ってみて気がついたことだが、告白を断った人間が口にしがちな、「これからも友だちでいよう」という意味の発言をレイはしなかった。

 ようするに、そういうことだったのだ。


「曽我、じゃあね」

 別れぎわ、レイは僕にそう告げた。

 あとになって、「また明日」と言わなかったこと、それこそがサインだったと僕は思いこんだが、それは思い違いだった。レイはどんな日でも、別れるさいは「じゃあね」だった。顔を合わせたときが必ず「やあ」であるように。

 そして、これもあとになって分かったことだが、「じゃあね」と言ったレイが暗い表情を浮かべていたのは、告白を断った件が直接の原因ではなかった。

 気がついたときには遅かった。遅すぎた。

 まさか、あの「じゃあね」は、ほんとうの意味での「じゃあね」だったなんて。


 翌日、レイたち進藤一家は引っ越していった。

「長いあいだお世話になりました」と、午前十時ごろにレイの母親が曽我家まで知らせに来たと、昼食の席で母親は僕に伝えた。

 僕とレイに親密な付き合いがあると知らなかった母親は、その知らせを息子に伝えるのを後回しにしたのだ。

 引っ越し先はどこかとたずねたが、レイの母親はあいまいに笑ってはぐらかし、会釈をするとさっさと曽我家を辞したという。

 僕は手にしていた箸を放り出し、進藤家へと走った。

 インターフォンを鳴らしたが、応答はない。何度も何度も押したが、結果は同じだ。玄関ドアのノブを回したが、びくともしない。

 裏口に回ってみようかとも思ったが、足は動かない。他人の家の敷地内を無断で歩き回るのが憚られたのではない。レイはもうこの場所にはいないと悟ったからだ。

 レイの連絡先は知らない。一年以上、あんなにも深く、なおかつ頻繁に交流していながら、電話番号すら交換していなかった。……家がすぐ目の前にあるからと油断していたせいで。

 レイは家族ともども引っ越し、新しい住まいがどこかは進藤一家しか知らない。

 進藤レイとの繋がりは永久に断ち切られてしまったのだ。


 覚束ない足取りで自室に入り、力なくベッドに倒れこみ、僕は泣いた。ふられたときも一滴も出なかった涙が、冗談みたいに大量に、とめどなく流れ出した。

 泣き出したばかりのころはひたすら悲しくて、悲しみが僕の心を離してくれなくて、ただただ泣いた。

 涙と悲しみが一段落すると、思い出と後悔が絡まり合いながら逆流した。

 思い出は、重大な出来事・ささいな瞬間、近い過去・遠い過去、春夏秋冬――それらが完全なるランダムで甦った。

 後悔の内容は、レイとなにがしたかった、どこに行きたかった、どんなことをしゃべりたかったといった、彼女としたかったができなかったことが大半を占めた。

 僕たちは来る日も来る日も、同じことばかりをして過ごしてきた。飲食しながら、僕はゲームで遊び、レイは漫画を読みつつ、他愛もないおしゃべりに耽る。ずっとそればかりだった。それで満足だった。

 でも、やっぱり、いろんなことをしてみたかった。いろんな場所に行ってみたかった。なぜ、一度たりともまともに提案しなかったのだろう? 

 悔やまれて、悔やまれて、悔やまれてならなかったが、もはや後の祭りだ。

 手は届かない。声も届かない。目で見ることは叶わない。体臭や髪の毛のにおいだって嗅げない。

 そう思うと、また悲しみがこみ上げてきて、涙がぶり返した。果てしがなかった。


 窓外がすっかり暗くなったころ、自室のドアがノックされた。永遠に続くかと思われた涙がとうとう涸れ、それに伴って悲しみも一段落していた。

 心を支配していた感情が消えたとはいえ、やっとのことで消えたばかり。はっきり言って誰の顔も見たくなかったが、ノックはしつこい。母親だ。

 怒鳴って、黙らせて、追い返したかったが、あいにく声が出てこない。逆に母親が、ドアを開けるよう口頭で要求した。怒鳴るわけではないが、ノックと同じく執拗だ。

 応対に出たほうが、結果的に速やかに静けさを取り戻せるのだろう。ただ、そうしたくはなかった。居留守を使うように無視してしまおうと思った。

 しかしその決意も、母親がその名前を口にするまでの命だった。

「レイちゃんから大輔宛の手紙! 読むでしょう?」

 矢も楯もたまらず、ドアを開けた。ひったくるように水色の便箋を受けとってドアを閉ざし、黙読する。


『別れのあいさつをこんな形ですることになってしまって、ごめんなさい。

 でも、本来であれば、あたしはとっくの昔にこの町にはいなかった。ほんとうは、お父さんが暮らす遠い町まで行かなければいけないんだけど、あたしのわがままで引っ越しを先延ばしにしてもらっていたの。

 なぜわがままを言ったのかというと、大輔と離れ離れになりたくなかったから。

 それでもあたしは、お母さんといっしょに、お父さんが暮らす町まで行かなければいけない。

 なぜなら、あたしは一人では生きていけないから。実質的に、親の言いなりになって生きていくしかない人間だから。

 でも、親が悪いわけじゃない。お父さんとお母さんは、とても厄介で難しい問題のせいで仲たがいをしていたけど、晴れて仲直りをした。進藤家の家計を支えているのはお父さんで、お父さんはこちらに戻ってくるのは難しいから、あたしとお母さんがあちらに行くしかない。あたしはもう働ける年齢ではあるのだけど、一人では生きていけないから、お母さんについて行かなければいけない。悪いのは親じゃなくて、あたしなの。

 なぜ一人では生きていけないかというと、大輔にはちょっと話したと思うけど、あたしは外に出るのが怖い。人混みの中はもちろん、人がいない場所でも気持ちが落ち着かない。

 あのときは「外の世界が怖い」という言いかたをしたけど、より正確には、「現状維持から逸脱することを病的におそれている」って表現するべきなんだと思う。

 大輔はあたしと付き合う中で、進藤のやつ、そういえば同じことばかりやってるな、飽きないのかな、なんて首をかしげたことはない? あるのだとすれば、それは気のせいなんかじゃないよ。着る服、読む漫画、食べる菓子……。大輔の部屋で過ごすことにこだわって、正月やクリスマスみたいな特別な日にも外出しようとしなかったのだってそう。来る日も来る日も、あたしは同じようなことばかりして生きてきた。クリスマスケーキを買ったのだって、あたしとしてはずいぶん思い切ったことをしたつもりだったから。

 ……書いているだけで笑えてくる。あたし、たぶん、おかしなことを言ってるよね。大輔もきっとそう感じていると思う。

 でも、嘘じゃないから。思い切ってクリスマスケーキを買ったというのは、嘘偽りのない感想。

 なんという名前の病気なのかは分からないけど、あたしは幼いころからずっとこの症状に悩まされてきた。出会いとか、発見とか、そういう心躍る出来事とは無縁の、暗くて孤独な人生を送ってきた。

 あたしだって、好き好んでそう振る舞っているわけじゃない。新しい世界に踏み出したくても、第一歩を刻むまでが果てしなく遠い。ただそれだけ。

 でも大輔、あなたは違った。物心ついたときから近くにいたから、あなたと交流を持つことは単なる日常でしかない。現状維持からはみ出すことにはならない。だから、心おきなく話ができた。

 そのわりに関係が進展しなかったっていう印象、もしかすると大輔は持っているかもしれない。でもそれは、あたしがこれまで、いろいろな人と会話する機会を作ってこなかったせいで、人と話すのが得意ではなくて、それが足を引っ張っただけ。

 前にコンビニで会話したことがある石沢、覚えてる? あいつはあたしのクラスメイトで、話しやすい性格だから普通に話せていたけど、自分の家族や大輔以外だとあれが限界だと思う。好感を持っている大輔相手ですら、なかなか距離を縮められない。そういう人間なんだよ、進藤レイという女は。

 あたしは大輔が好き。あなたといっしょに過ごす時間を持ちたいって提案したのも、大輔が好きだからこそ。

 現状維持を崩したくないあたしからしてみれば、清水の舞台から飛び降りるような気持ちだった。大輔は戸惑っているみたいだったけど、提案を受け入れてくれた。むちゃくちゃうれしかった。大げさかもしれないけど、この世界にこんなにうれしいことがあったのかって、信じられない気持ちだった。夢なんじゃないかって、確認するために自分の頬をつねったりして。

 期待していたとおり、あなたと過ごす時間は楽しかった。両親とのあいだで言い争いが絶えない日常を、大輔といっしょにいるときだけはきれいに忘れられた。すごく助かった。すごくありがたかった。

 大輔が、あたしが考えていたよりも人付き合いが苦手だと判明したときは、親近感が湧いた。似た者同士だからこそ、絆は揺るぎないものに思えた。こんな関係がいつまでも続くと信じていた。

 でも、当たり前だけど、永遠なんていうものは存在しない。

 きっかけは、大輔が受験勉強中のストレスとの向き合いかたについて、あたしに相談したこと。

 自分だって目標なんて一度も持ったことがないくせに、あたしは愛読している漫画から拾い集めた知識やセリフを繋ぎ合わせて、目標を持つことの大切さを上から目線で大輔に説いた。あなたはあたしの意見が正しいと信じて、目標を探して、見事に見つけた。それによって、あたしが愛した代り映えしない平穏は崩れた。

 大輔が芸大に進学するって告白したの、合格が決まってからだったけど、変化には早い段階から気がついていたよ。あなたは進路について悩んでいたから、その問題に解決の目処が立ったんだってすぐに分かった。

 表向きはいつもどおりに大輔と接していたと思うけど、内心は穏やかではなかった。気持ちがあたしから徐々に離れていっているのが分かったし、進むべき道が確定すればきっともっと離れてしまう。物理的な隔たりが生まれてしまう可能性だって高い。

 どうにかしたくて、じゃあどうすればいいのって、必死になって考えるうちに気がついたの。大輔があたしから精神的に卒業したのを機に、わがままを押しとおすのをきっぱりやめて、この町から離れる。それがもっとも円満な解決策なんだって。

 たしかにあたしは、お母さんやお父さんと対立している。でもそれは、あたしがこの町から離れようとしないから。その問題と無関係のことであれば、両親はあたしによくしてくれている。あたしが一人では生きてはいけない人間だとちゃんと理解してくれているし、そしてそれが恥ずべきことだとは考えていない。だからこそ、「そんなにお父さんのもとに行くのが嫌なら、来るのが嫌なら、自分の力で金を稼いで一人で生きなさい」と突き放すのではなくて、お父さんのもとに行こうよって、来てくれって、粘り強くあたしに呼びかけてくれている。

 新しい環境に慣れるまでにはひどく時間がかかるだろうし、苦痛は耐えがたいかもしれない。だけど、両親からの手厚いサポートが期待できる。一人では生きていけないのに一人で生きていかなければならない、なんてことには絶対にならない。

 そしてなにより、大輔のためになる。目指すものを見つけたのだから、あたしの支えはもういらない。大輔は心根が優しいから、あたしがそばにいると、それが新しい一歩を踏み出す妨げになるかもしれない。だから、あなたのもとを去る。

 あたしだってさびしいし、大輔だってさびしいと思う。ずっといっしょにいられるなら、それに勝る未来はないと思うよ。だけど、お別れしたほうがいい。悲しいことだけど、でも、自分のためにも相手のためにも、未来への一歩を踏み出す。それがベストの選択なんじゃないかな。

 大輔がこの手紙を読んでいるころには、あたしはこの町にはいないと思う。まさか追いかけてはこないだろうけど、引っ越し先の住所は秘密にしておく。別れのあいさつを対面で交わせなかったのだけが心残りだけど、これも運命ということなんだろうね。

 最後に、告白の件にもう一度触れさせて。大輔の告白を断ったのは、あなたが嫌いだからじゃないから、落ちこまないで。あたしのことを好きだと言ってくれた人は、世界であなた一人だけだよ。ありがとう。

 さようなら。』


 読み終わった瞬間、僕はその場に崩れ落ちた。

 僕が前向きに変化したことにより、レイも前向きに変化し、彼女が抱えていた問題は解決した。

 ハッピーエンドのはずなのに、なぜだろう。君を失った悲しみと、君にしてあげられなかったことを悔やむ気持ちばかりがこみ上げてきて、涸れたはずの涙がいつの間にか頬を伝っていた。

 僕はたしかに、精神的な余裕がなかった。自分が抱えている問題に対処し、その日その日を生きていくだけで精いっぱいだった。

 でも、それはレイも同じ。

 精神的に大変な毎日だったはずなのに、僕に手を差し伸べてくれた。有用なアドバイスだってくれた。僕の心を支えてくれた。

 それなのに僕は、レイになにもしてあげられなかった。お返しができなかった。雨の日の告白で、彼女が問題を抱えていることは知っていたのに、無策だった。無関心だったわけではないが、軽んじていた。

 結果、レイは僕から離れていった。再会を果たすのが難しい場所まで行ってしまった。

 レイが手紙に書いたように、これが互いにとってベストの選択だったのだろう。

 でも、この後悔は、この悲しみは、どう処理すればいいんだ?

 僕は泣いた。

 泣いて、泣いて、泣きつづけた。

 そうしたところで、レイが僕のもとに戻ってきてくれるわけではないのは分かっていたが、そうせずにはいられなかった。


 泣くのにも疲れて眠りに落ち、人生で一番長い一日が終わった。

 僕の輝かしい暗黒時代は幕を下ろしたのだ。


 そして、僕は今、真の暗黒時代を生きている。

 僕は第一志望の芸術大学への入学を決めた。選択したのは、もちろんライティング学科。初めての一人暮らしは順調で、基礎的なことが学べる授業は楽しくて、ためになる。レイが遠くに行ってしまったことで負った傷は、完治寸前にまで回復していた。

 しかし、順風満帆だったのは滑り出しだけ。

 授業内容が少し専門的になったとたん、ついていけなくなった。講師が言っている意味がさっぱり分からないのだ。そのレベルの人間は、どうやら僕一人らしい。書く楽しさに目覚めて、たった数か月。基礎ですら危うい僕に、不足している知識と技術はあまりにも多すぎた。

 役に立ちそうな関連情報を大量にインプットすることで挽回しようと試みたが、読書をする習慣がなかったため、読んでいてもすぐに集中力が途切れてしまう。難しい内容だと、一日に十ページも読み進められない。

 上達のもう一方の要であるアウトプットに関しても、思うような成果を上げられなかった。出された課題を、苦心惨憺の末に書き上げて提出すれば、大量に朱を入れられて返却される。習作のつもりで文章を書きはじめても、最後まで書き上げられない。執筆途中でふと我に返って読み返すと、あまりの拙さに赤面してしまう。

 さらには、人と口頭でコミュニケーションをとる能力は進歩していないから、仲間との交流はないに等しい。あったとしても、表面的かつ必要最低限で、発展性がない。フィクションの物語が好き好んで描くような、輝かしいキャンパスライフからは程遠かった。

 そんな日々が続くうちに、授業に出席しない日が次第に増えていった。

 中高生のときの反省を踏まえて、二日連続で登校しない日を作らないようにしようと心がけた。そうすることで、学校という場にかろうじてしがみついた。

 しかし、このままではじり貧だ。三日連続で休まなければいい、一週間に一度でも登校すればそれでいいというふうに、ずるずると坂を滑り落ちていき、やがてすべてを諦めるときが来るに決まっている。

 幸いだったのは、最悪の事態を避けるために手を打たなければ、という危機感を持てたことであり、手段を講じるだけの気力が残されていたことだろう。

 様々な方法が考えられる中で、僕は進藤レイとの思い出を小説に書くことに決めた。

 この作品を完成させるまでは大学は絶対に辞めない、と心に誓った。

 書き上げることさえできれば、危機から根本的に脱せるはずだ、と信じた。

 効果はあったようで、僕が登校する頻度は徐々に回復していった。

 そして、長かった物語も今、終わろうとしている。

 この「僕の輝かしい暗黒時代」と題された物語を書き上げられたら、僕はほんとうに危機から根本的に脱せるのだろうか?

 分からない。残念ながら、そう答えざるを得ない。まだ起きてもいない未来のことなど、誰にも分からない。

 僕はただ、信じてみたいだけだ。

 長きにわたって暗黒時代をさ迷い歩いたとしても、いつか出口にたどり着ける。そう信じたいだけなのだ。

「僕の輝かしい暗黒時代」について回想した物語ではなく、僕の暗黒時代が再び輝かしいものになるようにと祈りながら書いたがゆえに、「僕の輝かしい暗黒時代」というタイトルになった。

 もしかすると、そういうことなのかもしれない。

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