前編
少し昔の話をしよう。僕の輝かしい暗黒時代の話を。
出席日数の不足で高校二年生に進級できないと確定したときは、人生が終わったと思った。普通の人間が歩むべきコースから決定的に足を踏み外した、という感覚に襲われ、囚われた。二年前に、いじめが原因で不登校になったときでさえも縁がなかった感覚だ。
高校は義務教育ではない。中学二年生のときのように、夏休み明けから一日も登校しなかったにもかかわらず進級が可能、などという甘い措置はあり得ない。
僕に残された選択肢は二つ。学費をもう一年分払って留年するか。それとも、自主退学して別の道を模索するか。
最終的に、僕は前者を選んだ。
二年前の蹉跌から、曽我大輔は学校生活に適応できない人間だとしっかりと自覚している。私立高校の学費が高額なことも分かっている。
それなのに、高校に通いつづける道を選んだ。
今になって分析してみると、どうやら当時の僕は、「普通の道を歩きたい」という思いが強かったらしい。
留年生としての初日、教室でホームルームの開始を待っていた僕は、僕をちらちらとうかがいながらひそひそ話を交わす男子生徒たちの存在に気がついた。彼らは全員、顔に低俗な薄ら笑いを貼りつけていた。
……ああ、同じだ。
高校一年生をやり直しても、クラスメイトから馬鹿にされることに変わりはないのか……。
肩の力が抜けた。言うまでもなく、悪い意味で。
曽我大輔は留年した人間ですよ、あなたたちよりも一つ年上ですよと、クラス担任の口から事前に伝えられていたのか。それとも、僕の自信なさげで挙動不審な態度を見て、いじめるのに誂え向きの人間だと認定したのか。
真相は定かではないが、コミュニティに適応するうえで重要な初日に、年下の同級生たちが示したネガティブな態度の影響は大きかった。
けっきょく、登校したのは始業式とその翌日の二日だけ。以降は一度も教室に行かないまま、僕は高校を自主退学した。私立高校の馬鹿みたいに高い学費は、もちろん無駄になった。
百万円単位の大金を追加で支払ったにもかかわらず、二回登校しただけで退学――。
にわかには信じがたいかもしれないが、ほんとうの話だ。テロリストに乗っとられた旅客機が高層ビルに激突したように、東北にある原子力発電所が放射能漏れ事故を起こしたように、感染症によるパンデミックが全世界の人々を恐慌に陥らせたように、信じがたいがまぎれもない現実なのだ。
僕は人前でまともにしゃべれない。今後、学校生活を続ければ続けるほど、それは逃れようのない現実と化していく。僕のことをにやにやしながら見ていた男子たちは、僕がそういう人間だと理解すれば理解するほど、僕に対するからかいや嫌がらせの頻度と程度を高めるだろう。
そんなのは、怖い。そんなのは、嫌だ。毎日そんな目に遭わされるくらいなら、学校を辞めてしまおう。
根拠のない思いこみや憶測にもとづく決断ではない。僕は二度、いじめに遭い、不登校に陥るという経験をしている。今回も絶対にそんな最悪の未来がやってくる。そんな確信があったから、実害を受ける前に自分から辞めた。
……それだけの話だ。
ニートになった僕の当座の目標は、高等学校卒業程度認定試験に合格して、大学入学試験を受験する権利を獲得することだった。
そうしろと、親から命令されたのだ。
他者と口頭でコミュニケーションをとるのが病的に苦手な僕でも、筆記試験であれば支障なくこなせる。勉強は好きではないが学力は人並みにあったし、高卒認定試験のレベルはそう高くないと聞いていたので、心理的にもプレッシャーは小さかった。
もっとも、進学を前提にした受験ではない。高卒認定試験に合格することで、大学進学という選択肢を選べるようにしておく。進学するか就職するかは、留年しなかった場合に三年生になる年度の、然るべき時期を迎えるまでに決めればいい。僕と両親のあいだで交わされた合意だ。
受験勉強には身が入らなかった。高卒認定試験に合格したとしても、その先の道はいずれも行き止まりに通じているからだ。
僕の学校生活への適応力のなさは、三度の不登校で証明済み。
学校にさえ満足に通えないような人間が、まともに労働をこなせるはずがない。
ようするに、進学したとしても就職したしても、お先真っ暗。
挫折する可能性が高いのだとしても、どちらかの道を進まなければならないのは重々承知している。しかし、選びがたい二つから一つを選べないまま、形だけの受験勉強に励む日々が流れていった。
良くも悪くも単調な生活を送っていると、良くも悪くも、こんな毎日が永遠に続いていく気がしてくるものだ。しかし、幸か不幸か、口うるさい父親が能天気な気分には浸らせてくれない。
「お前が十八歳になる年には、進学するか、就職するか、必ずどちらを選んでもらうからな。今はぶらぶらしているようだが、あくまでももう一度外の世界に出るための準備期間に過ぎない。そのことを片時も忘れるなよ」
「片時も忘れるな」という一言には、最後通牒を思わせる響きがあって、聞くたびに重苦しい、不愉快な気持ちになった。少し時間が経つと、その感情はたいてい怒りへと変わった。ただし、決して噴出することはない。くすぶりつづけているうちに、やがて薄らいでいく。
それでいて、決して消えることはない。怒りの残滓はやがて自己嫌悪へと姿を変え、胸の奥深くから緩やかに僕を責めさいなむのだ。
『そんなこと、言われなくても分かってる。言わなくても分かるようなことを、いちいち言うなよ。うっとうしいな』
そう言い返すことさえできれば、嫌な気持ちを味わわなくて済んだだろう。そうでなくても、味わう期間を短縮できたはずだ。
しかし当時の僕は、家族相手にすらも口をきく気力を失いつつあった。進路に関して、不愉快なことを言われて言い返した記憶は、入念に掘り起こしても二つか三つしか見つけられない。
父親は、僕が返事をするべき場面で黙ったり、言葉ではなく首を縦か横に振るしぐさで代替したりするたびに、僕が大嫌いな言葉を持ち出して非難した。
『ちゃんと返事をしなさい。そんな態度では社会に通用しないぞ』
この場合に父親が言う「社会」とは、家の外の世界、すなわち学校や職場を指す。父親は、息子のささいな言動でさえも、「社会に出るための準備」という観点から見つめているのだ。
もともと、身内のマナー違反には口うるさく改善を要求する人ではあったが、あの時代の父親は病的なまでに神経質だった。
無理もない。我が子が普通の道から外れたというのに、心中穏やかでいられる親がいるはずがない。
当時から時間が経って、少し大人になって、客観的に過去を眺められるようになった今では、父親の心中を慮れる。しかし、あのころの自分にそんな余裕はなかった。
そんなこと、言われなくても分かってる。頼むから黙っていてくれ。僕は高校を自主退学する羽目になるという、ショックの大きい体験をしたばかりなんだ。心に深い傷を負って、それを癒す時間が必要なのだから、しばらくはそっとしておいてくれよ。傷口をえぐるような真似はやめてくれ。あんたは僕の父親だろう。過去に僕をいじめたやつらがしたようなことを、親のあんたがしないでくれ。お願いだから、僕のことは放っておいてくれ。あんたは「ぶらぶらしている」と僕を責めるが、高卒認定試験に向けて受験勉強をしているじゃないか。やることはやっているじゃないか。それなのに、どうして、口うるさく文句をつけてくるんだ。息子をいじめるのがそんなのに楽しいのかよ。どうすれば、あんたは満足なんだ。僕はたしかに学校には行っていないし、働いてもいないが、受験勉強をしている。励んでいるというほど熱心に取り組んではいないかもしれないが、試験の難易度を考慮して、ほどほどにがんばるようにしているだけだ。手を抜いているわけじゃない。それなのにあんたは、それを怠慢だと決めつける。そんなのは間違っている。僕はちゃんと努力しているじゃないか。認めてくれよ。肯定してくれよ。どうしてそう悪いほうにばかり受けとるんだ。僕は僕なりに努力しているのに――。
両親は僕を理解してくれない。
生きていてもなに一ついいことはない。
未来は暗い。
それでも、高卒認定試験の合格という目標を見据えて、日々をなんとか生きている。
それが十六歳から十七歳にかけての僕だった。
受験勉強は長くても一日一・二時間。やる気が出ず、まったくペンをとらない日もしばしばあった。認定試験合格の先の大学受験は考えていなかったから、高卒認定試験に向けて以外の勉強はほとんどしていない。必然に時間はあり余る。
ふんだんにある余暇を、僕はもっぱらゲームでつぶした。スマホは両親から買い与えられていたが、通話しかできない契約になっている。だからハードは携帯型ゲーム機で、ソフトはポケモンの旧作。いずれも小学生のときに親に買ってもらったものだ。
精神的成熟に伴い、ポケモンの世界観とゲームシステムは必ずしも僕を満足させてくれなくなっていた。なにより、小学生のころから同じソフトでずっと遊んでいて、いい加減飽きがきている。ただ、僕は他に趣味らしい趣味を持っていないし、インターネットという最高の暇つぶし道具にさえ、簡単にはアクセスできない環境で生活している。消去法での最上の娯楽がポケモンのゲームなのはまぎれもない事実だった。
ゲーム機は買ってもらった時点ですでに型遅れで、驚くなかれ、なんと乾電池式だ。ひきこもりがちな生活を送るようになって以来、すっかり少食になり、菓子すらもめったに買わなくなっていた僕は、小遣いのほとんどを乾電池の購入に費やしていた。
季節は秋。晴天。午後五時過ぎ。近所のコンビニまで買い物に行こうと家を出た僕は、思いがけない人物と遭遇する。
「あ」
「あ」
向かいの民家の玄関ドアが開き、少女が姿を見せた。僕の全身は硬直した。
進藤レイだ。
「幼なじみ」という言葉の正確な定義は分からないが、僕とレイの関係を表すにはそれが一番しっくりくる。
彼女とは、同じ小中学校に通っていた九年間、登下校時に顔を合わせたさいに、話をしながら歩くことがよくあった。
といっても、友だち同士のような親しい付き合いがあったわけではない。
レイは校内では一人でいる姿を見かけることが多く、休日に友人と遊んでいるところを目撃したことはほとんどない。孤高の人、などと表現するのは少々大げさだが、社交的ではないというイメージは昔からある。
進藤レイは、家族以外の人間とはまともにしゃべれない僕でも比較的気軽にしゃべれる、特異な存在だ。
違う高校に通うようになってからも、自宅が向かい合わせの位置関係だから、顔を見かけることはたまにあった。それにもかかわらず、久しぶりに再会を果たしたように感じる。
どうしてだろう、と自問した直後、気がつく。
そういえば、高校を中退して以来、レイと顔を合わせたのはこれが初めてだ。
何食わぬ顔をして、道で顔見知りに会ってもあいさつをしないのが信条の人間を装って、黙って歩み去るのがもっとも楽だったのだろう。しかし、思わずフリーズしてしまったうえに、レイの顔をまじまじと見つめてしまった。彼女は僕がなにか用があるのかと思ったらしく、こちらに歩み寄ってきた。
「曽我、久しぶり」
この年ごろの女子にしては低い声。レイは身長一六二センチの僕よりも五センチほど背が高いので、声は頭上から降ってきたように感じられた。
僕は顔を少し上に向ける。視界の中央に映ったレイの顔は、無表情だ。見る人によっては不機嫌そうだという印象を受けただろう。しかし、彼女のデフォルトの顔がこれだと知っている僕は、ただの顔見知りに向けるよりも親しみがこもった表情を浮かべた。
「ほんとうに久しぶりだね、進藤さん」
「S学園を辞めたんだって? 曽我のおばさんからそう聞いたよ。今なにしてるの」
意思が強そうな切れ長の目が僕を見据えてくる。真意を知りたがっている顔であり、真剣な言葉を聞きたがっている顔だ。
ためらいはあったが、中途半端に隠すくらいなら正直に話そうと思った。レイなら僕の惨めな現状を笑わないだろう、と信じる気持ちもあった。
「高卒認定試験の勉強してる。家でずっと参考書の問題とかを解きながら」
「試験か。難しいの?」
「難易度はそんなに高くないみたい。だから僕も、一日中机にかじりつくとか、死に物狂いでやっているわけじゃなくて」
「大学受験を視野に入れてるんだね。わりと頭よかったもんね、曽我は」
「いや、大学に行くかはまだ決めてない。わざわざ学びたいこともないし。とりあえず高卒認定試験だけでも合格しておこうかな、と」
「可能性を広げておくってことか。なるほどね」
レイと会話するさいに取り上げられる話題は、他愛のないものばかりで、家庭の問題などのシリアスなものは避けてきた。レイが僕の高校中退について触れてきたのは、異例といってもいい。
驚きと戸惑いは決して弱くなかったが、うらはらに、僕は心理的な抵抗はほとんどなく受け答えしていた。緊張はしていたが、発語にほとんど影響はなかったように思う。学校での、めったなことではしゃべらない僕を知っている人間がこの光景を見たとしたら、白昼夢かと本気で疑っただろう。
「じゃあ曽我は、今はけっこう気楽に過ごしてるわけ? 進学するとしても、受験は来年でしょ」
「気楽、なのかな。正直、親からのプレッシャーはむちゃくちゃ感じてるけど――そうだね。気楽かそうではないかで言ったら、まあ気楽なのかな」
「一日のスケジュールにも余裕がある感じ?」
「そうだね。この時間にこれをしなければならない、なんてことは一つもないから、かなり暇だよ。だから仕方なく、ゲームをして暇をつぶしてる。スマホは通話しかできない契約になっているから、昔遊んでいたゲーム機を引っ張り出してきて。そのゲーム機、むちゃくちゃ古いやつだから、乾電池式なんだ。今は電池が切れたからコンビニまで買いに行ってるところ」
「そうだったんだ。邪魔して悪かったね」
レイはコンビニとは反対方向に去っていく。僕は彼女の後ろ姿が曲がり角に消えるまで目で追って、それから目的地を目指して歩き出した。
レイと久しぶりに話ができて、うれしかった。
それだけではなくて、高校中退という大きな挫折を経験しても、以前と変わらない態度で接してくれたのもうれしかったのだと、熱い湯に浸かっているさなかに気がついた。
一日に一度、どんなに短い時間、どんな形だとしてもいいから、レイと交流する機会を持ちたい。そんな欲望が頭をもたげた。
――ただ。
「どうきっかけを作ればいいのかな……」
通う学校が違うだけで、顔を合わせる機会は激減する。高校生になってからめったに顔を合せなかったのも、退学してからの約一か月間まったく顔を合せなかったのも、互いが意識的に、あるいは無意識に避けたからではなくて、機会がそもそも限りなく少なかったからだ。
僕は屋外を出歩くのが好きではない。用事などがない限り極力避けたいと思っている。レイのためとはいえ、接触できる保証もないのに外出の機会を増やすのは気乗りがしない。
進藤家の玄関に常に目を光らせて、レイが外に出てきたところを狙ってこちらも家を出て、偶然を装って声をかける。そんなストーカーまがいの作戦も思いついたが、僕の自室は進藤家の出入口を見張れる位置にはないから、そもそも実行が難しい。
レイとの関係が新しい悩みになった。
僕にとって進藤レイは、物心ついたときから生活圏に当たり前に存在していて、特別親密にではないかもしれないが、比較的気楽にコミュニケーションがとれるという、特殊なポジションにいる人間だ。思春期に突入したのを機に、異性としても意識するようになったが、根本的な付き合いかたや接しかたに悩むことはなかった。接する機会が限定的だったために、恋人になりたいだとか、自惚れていて、早まった考えを抱かなかったから。
レイに対して新しく芽生えた想いは、恋心に似ている。
恋なんてまともにした経験がないくせに、そう思った。
レイとの再会が思いがけなかったように、関係の進展も思いがけなかった。
日中でもようやく過ごしやすくなってきた十月初旬、曽我家のインターフォンが鳴らされた。デジタル時計の表示は十七時五分。
僕は来客があったとき、両親が在宅だった場合は彼らに対応を一任している。一人だった場合は、モニター越しに誰が来たのかを確認する。宅配業者などであれば普通に応対するが、顔を知っているだけの近所の人間だったり、見知らぬ人間だったりしたときは、堂々と居留守を決めこむ。
自室のベッドに寝そべってゲームをしていた僕は、緩慢に上体を起こしてインターフォンの子機のモニターを見た。映し出された人物を認識した瞬間、思わず「あっ」と声をもらした。
矢も楯もたまらず玄関へ走った。ドアの内鍵を開けるのに少しもたついた。一秒でも早く、姿を見たいような。それでいて、一秒でも長く、対面の瞬間を先延ばしにしたいような。
「やあ」
進藤レイは顔の高さに右手を上げた。
その手の人差し指を使って、毛先が肩に届く長さの黒髪を軽くいじる。さらには頬をかく。近ごろ意識する時間が長くなった異性の、予期せぬ訪問に鼓動を高鳴らせる僕とは対照的な、精神的なゆとりが感じられる態度だ。
レイは長袖のシャツにジーンズにサンダル履きという出で立ちで、大きな黒いリュックサックを背負っている。気負いのない服装と、登山にでも出かけるかのようなそれとのギャップに、僕は戸惑った。
というか、そもそも、彼女が僕の家に来ること自体珍しい。
曽我家と進藤家は緩やかな付き合いがある。レイのおばさんが、お裾分けの品を娘に持たせて曽我家まで行かせる、ということなら何回かあったが、今の彼女は手ぶらだ。リュックサックの中? お裾分けを入れるにしてはあまりにも大きすぎる。
「進藤さん、どうかしたの? 僕になにか用?」
「うん、ちょっとね」
レイはリュックサックを肩から外し、胸の高さまで持ち上げた。かなり重たそうだ。
「漫画と菓子が入ってる。単刀直入に言うと、遊びにきた」
「……は?」
「曽我はこの前、暇だって言っていたでしょ。だから遊びにきたの。暇つぶしの相手になってあげる。部屋に上がらせて。今から一時間くらい、適当に過ごそう」
リュックサックを再び背負い、曽我家の駐車場を一瞥した。両親の車はともに出払っている。今ごろはそれぞれの職場の駐車場に停まっているはずだ。
両親が不在なのを確かめたうえで、レイは僕の家に遊びに来たのだ。
そう気がついたとたん、頬が熱くなった。僕たちを取り巻く世界が、急に僕たちに無関心になった気がした。
恥ずかしながら、異性が家に遊びに来たのは初めてだ。だから、どう振る舞うのが正解なのかが分からない。
レイを不愉快な目に遭わせてしまったら、どうしよう。せっかく遊びに来てくれたのに、失望させたくない。恥をかくのは嫌だ。誰か助けてくれ!
……そう心の中で叫んだところで、救いの手を差し伸べてくれる者はいない。僕が、僕の意思で、突然訪問した幼なじみをもてなすしかないのだ。
「で、家に上がってもいいの? それともだめ? アポなしで来たあたしが悪いんだし、無理にと言うつもりはないけど」
「大丈夫だよ。全然平気。……えっと、リビングにする? それとも僕の部屋?」
「部屋がいいかな。家族みんなが使う場所って、落ち着かなさそうだし」
「それもそうだね。じゃあ、僕の部屋まで案内するよ。ちょっと汚いかも、だけど」
口ではそう言ったが、眉をひそめられない程度には片づいている自信があった。僕は特にきれい好きというわけではないが、あり余る時間をつぶすために、自室の掃除と整理整頓をよくしているのだ。
「いいよ、ちょっとくらい。中、入ろうよ」
「そうだね」
まず僕が入り、レイが続く。両親がいないからこそ来たはずなのに、彼女はドアを閉めたあとで「おじゃまします」と小声であいさつをした。
ほぼ一日中いる自分の部屋なのに、入る瞬間はたまらなく緊張した。
ベッドの上のゲーム機をさり気なくチノパンツのポケットに押しこみ、窓のカーテンを開く。少し迷ったが、窓も開けた。入りこんできた外気は秋らしく涼しい。サンゴジュの生け垣の上に広がる午後の空は、初秋というよりも初夏のような青さだ。
「換気のために開けただけだから、しばらくしたら閉めるよ。寒い?」
「ううん、平気」
レイはドア近くの壁際に腰を下ろした。リュックサックを床に下ろし、室内を見回す。真顔に近いが、瞳には好奇心がしっかりと宿っている。初めて来た異性の部屋なのだ。気になるのは当たり前だと頭では理解していても、心が少し落ち着かない。
僕の視線に気がついたらしく、レイは観察を打ち切ってリュックサックのファスナーを開けた。中から取り出したのは、ポテトチップスの大袋、個包装されたチョコレート、クッキーの小箱――菓子の数々だ。
レイは手を止めて僕のほうを向いた。
「なに驚いてるの? 菓子を持ってきたって言ったはずだけど」
「ごめん。想像していたよりもたくさんだったから。飲み物、用意したほうがいいかな」
「できればお願い。実は他の荷物でいっぱいになっちゃって、持ってくる余裕がなかったんだ」
「分かった。ちょっと待ってね」
氷入りの麦茶のグラスをトレイにのせて戻ってくると、レイは菓子をすべて出し終えたらしく、漫画の単行本を取り出しているところだった。すでに十五冊ほどが床の上に積み上げられているが、まだまだ出てくる。ざっと見たところ、僕たちの親世代くらいまでなら誰でも知っているような、古典的な名作が多い。
トレイを床に置いたのと、最後の一冊を出し終えたのは、奇しくも同時だった。
「たくさん持ってきたんだね。重かったでしょ」
「まあね。初回だから加減が分からなくて」
「たくさんあるけど、全部進藤さんのもの?」
「万引きをする趣味はないよ。読みたいと思ったものを勝手に読んで。食べながらでも全然気にしないから、遠慮なく」
「……いいの?」
「どっちの意味での『いいの』なの? 漫画を好き勝手に読むことについて? それとも、食べながら読むことについて?」
レイはポテトチップスの大袋を手にとり、封を開けた。油で揚げられたじゃがいもの香りが解き放たれ、部屋に漂った。
「どっちも曽我の好きなようにして。読むのも、食べながら読むのもね。菓子だってそれは同じ。自由気ままに食べてもらわないと、せっかく大量に持ってきた意味がなくなるでしょ」
レイは漫画の山から一冊を選び出し、反対の手で袋から菓子をつまみ出して口に運ぶ。小気味のいい咀嚼音。
選ばれた作品は『ドラゴンボール』。一巻ではない。『ドラゴンボール』はたしか、リュックサックには収まらないくらい巻数が多かったはずだから、自分が今読んでいる巻と、それ以降の巻を持ってきたのだろう。山には『ドラゴンボール』以外の作品も複数含まれている。
読書するレイの顔つきは真剣だ。それでいて、肩に余分な力は入っていない。リラックスしているが、緩みすぎてはいない。そのほどよい感じがなにかとても魅力的で、僕はレイの顔に惹きつけられる。
ただし、長続きはしなかった。こっそり見ているのがばれるのが怖かったからだ。レイは「万引きをする趣味はない」と言ったが、僕だって盗み見は趣味ではない。
再び熱を持ちはじめた頬を意識しながら、山の一番上の一冊を手にとる。今となってはタイトルは忘れてしまったが、『ドラゴンボール』よりもさらに古い不良漫画だった。刊行された年月を確認したわけではないが、絵柄が古かったので多分そうだと思う。
その手のジャンルだから当然、不良同士の喧嘩のシーン、暴力的な描写は頻出していたが、全体的に生ぬるい印象を受けた。作品の見せ場ともいえるそのシーンが迫力を欠くのが足を引っ張って、それほど面白いとは思えなかった。
そもそも僕は、暴力描写が頻出する漫画が好きではない。クラスメイトから暴力を振るわれていた過去を思い出すからだ。漫画と現実は別物だと頭で理解していても、不快感が込み上げてくるのを抑えるのは難しい。
作品に深い関心を持てないことに加えて、同じ部屋にいるレイの存在が、というよりも存在感が、集中力の持続を妨げている。僕は物語を読み進めるのを早々に諦めて、漫画を読むふりをする努力さえも怠って、レイのことを見る時間を徐々に増やしていった。
やましくてあさましい行為を続けているあいだ、なにか具体的なことを考えていたわけではない。ただただ気になって、自力ではどうすることもできない力に操られて、断続的に彼女をうかがっていた。
レイは僕の視線には気がついていないらしい。双眸は常に漫画のページに落ちていて、物語の世界に没入しているように見える。
気づかないふりをしているだけかもしれない、という疑いがくり返し頭を過ぎった。しかし、向こうがなにもリアクションを示さないのだから、ばれていないも同然だと開き直って、ふてぶてしく盗み見を継続した。
意識の焦点は緩やかに、進藤レイの存在そのものから、彼女が曽我家に遊びにきた動機へと移行していった。
曽我は高校を辞めて暇みたいだから、遊び相手になってやる。
レイはそんな趣旨の発言をしていたが、額面どおりに受けとってもいいのだろうか?
数日前、自宅前で偶然顔を合わせたときにレイは、僕が高校を中退した件について自分から触れた。今回の訪問は、まず間違いなくその件と関係がある。ただ、それでは具体的な目的はなにかと問われると、首をかしげてしまう。
僕を慰めにきてくれた? だとすれば、僕に慰撫の言葉一つかけずに、『ドラゴンボール』を読み耽っているのはなぜなのか。「これを食べて、読んで、元気を出して」ということなのかもしれない、とも考えた。しかし、そうだとすれば、僕の趣味嗜好を事前にリサーチしなかったのは不自然だ。たしかにポテトチップスは人気の菓子だし、『ドラゴンボール』はファンが多い漫画だが、僕の好みに合わせて用意されたものだとは考えにくい。
あっという間に考察に行き詰まってしまった。
きっとこれは自力では解き明かせない謎なのだ。これ以上考えるのは、やめよう。時間を無駄にするだけだ。
そう己に言い聞かせて、考えるのをやめた。
本人にたずねてみる? そんな選択肢、検討すらしなかった。身の毛もよだつような恐ろしい真実が隠されているとは思わなかったが、なんとなく怖かった。遠慮があった、というよりも。
レイは自分から種明かしをするつもりはなさそうだ。漫画を読み、菓子を食べる。そうやって過ごす時間に満足しきっていて、それ以外のことを自発的にするつもりはないように見える。
精神的にも物理的にも閉じこもりがちな日々を送っている僕にとって、レイの来訪は一大事件だ。存在自体はもちろん、声、匂い、しぐさ。普段は食べることのない菓子の味もそうだし、普段は読むことのない漫画だってそうだ。
謎についてはいったん脇に置いておいて、刺激を味わうことに全力を尽くそう。
そう結論を下して間もなく、突然タイムリミットが訪れた。
「そろそろお暇しようかな」
レイが読んでいた一冊を閉じたかと思うと、僕に向かってそう告げたのだ。時計を見ると、彼女が訪問してから早くも一時間が経っていた。
僕のためを思ってわざわざ遊びに来てくれた彼女を、引き留める権限は僕にはない。
謎について推理すること。刺激に身を委ねること。どちらも中途半端なまま、二人きりの時間は終わりを迎えたのだった。
地平線に没するとともに迎える死を前に、ありったけの余力を振り絞って命を輝かせるように、西の空で太陽が赤々と燃えている。
菓子を食べた分だけ軽くなったリュックサックを背負ったレイは、足を止めて僕に向き直る。曽我家の門を潜ってすぐの地点でのことだ。
見送りのために彼女とともに外に出た僕は、虚を衝かれた思いがした。「そろそろお暇しようかな」と宣言してからのレイは、振る舞いが淡々としていて、曽我家には微塵も未練はないように見えたのに。
「どうしたの? 忘れ物でもした?」
僕が真っ先にそう問うたのは、レイの気持ちが帰宅に向いていると思いこんでいたからに他ならない。曽我家から去ることを望んでいるのに、うらはらな行動をとる理由は、咄嗟に考えた限りではその可能性しか思い浮かばなかった。
しかし、レイは頭を振った。
そして、しゃべろうとしない。ただちに帰ろうとしない理由を打ち明けるのを、明らかにためらっている。
僕は喉が詰まったような感覚を覚えた。息苦しくはないが、発声がままならない。気力を奮い立たせればなんとか、というところだが、あいにく適切な文言を見つけられない。
沈黙を破ったのは、僕ではなくレイだった。
「明日も来ていい?」
「え?」
「今日みたいな感じで、また曽我の部屋で曽我と二人で過ごしたいっていう意味。平日のこの時間帯、曽我のご両親は仕事に行っているんだったよね」
「うん。午後六時半くらいまでは帰ってこないよ」
「じゃあ迷惑はかけないね。……それとも、あたしといっしょだと楽しくなかった?」
僕は言下に頭を振った。
また、レイと二人きりで過ごしたい。一時間でも、いや半時間だって構わないから。
それが虚飾のない僕の本音だ。
「楽しかったよ。とても楽しかった。だから、またその機会があるなら、ぜひともって感じ。夕方は親もいないし、気兼ねなく遊びにきてよ」
「……いいの?」
「いいよ。全然構わない。今日はリュックサックが重たそうだったから、明日からはもう少し軽くしてきてよ。漫画はろくな手持ちがないけど、お菓子と飲み物なら用意できるから」
「そうだね。そうする。あたしも正直、持ってきすぎだと思ったし」
レイの口角に苦笑が浮かぶ。合意を得られて、緊張が緩んだからこそ浮かべられた笑みに見えた。
「どうせそんなに読めないもんね、一時間だと。菓子と飲み物、曽我にだけ負担を強いるのは悪いし、二人で分担して持ち寄るようにしない?」
「そうだね。それがいいと思う」
好意を抱いている人から一方的に好意を施されたり、逆に一方的に好意を施したりするよりも、平等の立場に立ったほうが喜びは大きいものだ。
あのときの僕は、まさにその喜びを感じていた。「それがいいよ」と答えた瞬間の表情の変化を見た限り、レイも僕と同じ気持ちらしい。
「曽我、じゃあね」
レイは「よいしょ」と小声を口にしてリュックサックを背負い直し、自宅へと消えた。
遠くで鳴らされた甲高いクラクションの音に我に返るまで、僕はその場に佇んで未来のことを考えていた。そのあいだ、目の端に夕焼けの赤を絶えず感じていた。
永遠に沈まないような気がした。そう錯覚していたかった。
「やあ」
半信半疑な気持ちで、午後五時までの果てしない時間を過ごした僕を軽やかに笑い飛ばすように、レイは右手の掌を顔の高さにかざした。
昨日とカラーリングが違うだけの長袖のTシャツに、膝が擦りきれたブルージーンズ。顔見知りの自宅に小一時間遊びにくるだけにしては、大きすぎるように感じられる黒いリュックサックは、今日も彼女の背中にある。ただし、昨日よりもずっと軽いはずだ。
「曽我、菓子と飲み物は用意している? 今日はそんなに持ってこなかったけど」
「大丈夫だよ。ちゃんと用意してあるから」
昨日、レイが帰ったあとすぐに、いつもゲーム機の乾電池を買うコンビニまで買いに行ったのだ。
「そっか。ひきこもりがちな生活を送っているって聞いたから、心配したけど」
「必要なものを買いに行くくらいはするから。この前言ったでしょ、ゲーム機の電池を買いに行くって。ていうか、ひきこもりがちだっていう話、進藤さんにしたかな」
「曽我のおばさんから聞いた。高校を退学したって教えてもらったときに」
「……ほんと余計なことしか言わないな」
「曽我、怖い顔になってるよ。全然怖くないけど」
「ごめん。家でうるさいのは父さんのほうなんだけど、母さんは外でうるさいわけか。油断できないな」
「ひきこもっていたら止めようがなくない? おばさんは外に行っちゃうんだから」
「完全なひきこもりじゃなくて、ひきこもりがちなだけだから」
「どうでもいいけど、そろそろ部屋に行かない? 立ち話するの、あたしは曽我ほど好きじゃないから」
「あ、ごめん」
昨日の時点で、ものすごく話しづらいという感じではなかったが、今日はいっそう滑らかに言葉を交わせている。
自室まで移動すると、さっそく用意した菓子と飲み物を見せ合った。スーパーやコンビニで普通に買えるありふれた菓子ばかりだが、ちょっとした話のタネくらいにはなる。「この商品はよく買うの?」とか、「何味が好き?」といったふうに。その他愛のなさがかえって効果的だったようで、緊張はすっかりほぐれた。
目鼻立ちは意思が強そうで、にこやかにしゃべる人ではなくて、学校の中でも外でも人付き合いを好まなくて……。
近づきがたい印象に騙されて気づくのが遅れたが、進藤レイはなかなか話しやすい人ではないかと思う。
昨日とは違って、僕は菓子を積極的に口に運んだ。読む一冊に選んだのは、昨日と同じ不良漫画。たぶん、昨日僕がその作品を読んでいるのをレイが見ていて、続刊を持ってきてくれたのだろう。漫画の総数は前日の半分ほどに減ったにもかかわらず、全体に占めるその不良漫画のシリーズの割合は増加していた。
好みに合致する作品ではないという評価は、残念ながら既読ページ数を重ねても変わらない。それでもその作品を読みつづけたのは、彼女の好意に報いたかったからなのだと思う。
一方のレイが読んでいる作品も、昨日と同じだ。
「進藤さん、『ドラゴンボール』が好きなんだね」
昨日は楽しく過ごせたが、会話が少なかったのが反省点というか、気になった部分ではある。僕としてはこれを会話のきっかけにしない手はない。
「そう思う根拠は?」
レイはページから視線を外さない。眼差しは今日も真剣だ。
「二日連続で読んでるから、そうなのかなと思って」
「曽我だってそうでしょ」
「まあね。正直言って好みの作風ではないんだけど、やっぱりほら、一度読んだ作品は続きが気になるから」
「ああ、そう。てっきり、古めの漫画が好きなのかと思ったんだけど。それ、うちの親が学生だったときに流行ってた作品らしいよ」
「そうだったんだ。絵柄的に昔の作品なのかな、とは思っていたけど、そんなに古いんだね。『ドラゴンボール』はいつごろの作品だっけ」
「とっくの昔に連載が終わっているのはたしかだね。あたしたちが生まれたときには終わっていた、と思う。少なくとも、あたしがジャンプを買いはじめたころにはラインナップにはなかった」
「ジャンプ、進藤さんは毎週買ってるの?」
「今は買ってない。いつだったかな。はっきりと覚えてないけど、小二か小三だったと思う。急に冷めた気持ちになって、買うのはもういいやって」
「好きな作品が連載終了しちゃった、とか?」
「ううん、違う。ほら、あるだろ。子どものころからずっと好きだったものが、急にガキくさく思えて冷めちゃう、みたいなことが」
「分かる気がする。いい歳してなにやってるんだろう、みたいな気持ちでしょ。客観的には全然恥ずかしくないんだけど、無性に子どもっぽい趣味に感じられて、嫌になって、みたいな」
「そうそう、そんな感じ」
「でも、まだ小学生なのに冷めちゃうって、ちょっと早くない? 僕自身の経験からいうと、そういう心境の変化って、中学進学を機に現れることが多いんじゃないかって思う。中学生になったとたん、小学生のときに流行ったものを急に馬鹿にし出すとか」
「『僕自身の経験』? それについて詳しく聞きたいかも。まさか、あたしに話を合わせて適当なことを言ったんじゃないよね」
僕はここで初めて、ポケモンのゲームで遊ぶのが趣味だと打ち明けた。そして、中学一年生のとき、学校に持っていったポケモングッズをからかわれた一件について話した。
キャラクターのイラストが大きく描かれたグッズは、目立ちすぎて僕はあまり好きではない。しかしそのペンケースは、隅のほうにモンスターのシルエットがプリントされているという、ポケモン感が前面に出てはいないデザインだったので、学校用として普通に使っていた。
休み時間、自席で頬杖をついてぼーっとしていたときだった。机の上に出しっぱなしだった問題のペンケースを、僕の許可なく手にとって高々とかざした者がいる。
「曽我のやつ、ポケモンのペンケースなんか使ってやがる」
珍しい昆虫でも発見したかのような、はしゃいだ声でその人物は言った。
クラスメイトの吉野。日ごろから品性に欠ける言動を頻発している男子生徒だ。
僕は愕然として吉野を見上げた。彼の大柄な体を取り巻きたちが囲んでいて、下卑たにやにや笑いを浮かべて僕を見ている。吉野は取り巻きたちというよりも、教室にいる生徒たちに広く呼びかけるように言った。
「中一にもなってポケモングッズかよ。ガキじゃあるまいし。だっせぇ」
吉野の笑い声が弾けた。金魚の糞たちも追従して笑う。
僕は頬に熱を感じた。穴があったら入りたいような、特定の誰かにではなくて、視界に映る人間に無差別に謝りたいような……。
以降の記憶はおぼろげだ。
屈辱的な時間が長く続いた印象は残っていない。だからたぶん、助け船を出すように休み時間終了を告げるチャイムが鳴り、吉野はペンケースを僕に返却し、取り巻きたちともども自分の席に戻ったのだろう。
僕はこの一件に懲りて、学校には違うペンケースを持っていくようになった。吉野はポケモンの件を蒸し返さなかった。ポケモングッズをからかったのは、たまたま目に入ったからで、僕を本格的にいじめてやろうという意欲は最初からなかったのだろう。
以上のいきさつを伝えたうえで、僕は吉野を非難する言葉を並べた。
「吉野はポケモンっていう、低年齢のユーザーが多いコンテンツに否定的な見解を示すことで、自分は幼稚な趣味からはすでに卒業した、精神的に成熟した人間だって遠回しに主張したかったんだろうね。
僕に言わせれば、幼稚か否かを基準に物事の価値を決めようという姿勢、それこそが幼稚だよ。そんな初歩的なことにも気づかずに僕を幼稚だと断罪して、いい気になっている吉野は、愚かだ。そもそも、なにをどの程度好きになるかは個人の自由なんだから、けちをつけるのは馬鹿げている。
……しゃべってるだけで腹が立ってきた。思い返せば思い返すほど愚かだなって思うよ、あいつは」
当時のことを思い出したせいで、つい感情的になってしまった。吉野の件を話そうと事前に決めていたわけではないから、脳内原稿なんて用意していない。理路整然からは程遠い、醜い語りになってしまったと思う。なにせ、自分でも途中からなにを言っているか分からなかったくらいだ。聞かされているほうはそうとう大変だっただろう。
それでもレイは真剣に耳を傾けてくれた。視線は僕ではなく自らの膝に落ちていたが、適切なタイミングと頻度で相槌を打ってくれたので、そうだと分かった。
「なかなか心が痛い指摘だね。あたしも、気に食わないものはばっさり斬り捨てちゃうタイプだから」
おそらくは今日漫画を読みはじめてから初めて、レイは顔をこちらに向けて発言した。かすかな苦笑いが満面に行き渡っている。
「まあ、あたしはたとえ思ったとしても、心の中に留めておくけど。思うだけなら自由だからね。誰かの趣味に難癖をつけるって、ださいよ。反発を受けるリスクを避ける意味でも、絶対にそうしたほうがいいのに、口に出さないと気が済まない馬鹿が一定数いるんだよね。なにが面白いのかさっぱり理解できないし、理解したいとも思わないけど」
僕はレイの言葉がうれしかった。人としゃべることに苦手意識を持っていて、好き好んで人としゃべろうとしない僕の、しゃべらないという行為は罪ではないと肯定してくれたように感じたから。
以降は両者ともに口数が減ったが、言葉のやりとり自体は散発的に発生した。漫画の内容に言及することがあれば、日常茶飯の話題が取り上げられることもあった。一貫していたのは、リラックスできる和やかな雰囲気。発言が途切れる時間帯もあったが、気まずくも苦痛でもなかった。むしろ心地よかった。
どうやら、僕たちはお互いに、静かに過ぎゆく穏やかな時間を愛しているらしい。
「曽我、じゃあね」
「進藤さん、ありがとう。また明日、楽しみにしてる」
昨日と同じく、原色の赤色の夕日を背景に僕たちが交わしたやりとりは、昨日とは比べ物にならないくらい簡潔だった。思い描いた明日が訪れると信じて疑わなかったから、くどくどとやりとりする必要がなかったのだ。
レイの心の中までは分からない。しかし、「思い描いた明日」のヴィジョンは二人とも同じはずだ。僕はそう固く信じた。
いつまでも信じていたかった。
ニートで、半ひきこもりで、二者択一の進路に懊悩して、ありあまる時間をゲームで遊んでつぶす。
進藤レイの「出現」以降、そんな僕の生活は刷新された。
ニートという身分は不動だ。
最低限必要な用事ができたとき以外、家の外に出ない生活に変わりはない。
進路については、相変わらず毎日長時間悩んでいる。悩まされている。
暇つぶしのお供は今日も、おそらくは明日以降も、ずっとゲームのままだろう。
基本的な生活スタイルや、していることに大きな変化があったわけではない。ただそこに、夕方の五時から六時にかけての一時間、進藤レイと過ごすというイベントが新たに加わった。
たったそれだけのスパイスで、僕の日常は劇的に変わった。
頭の中も、行動も、レイが最優先になった。たった一時間のイベントを中心に、僕の生活は回りはじめた。
僕の輝かしい暗黒時代が幕を開けたのだ。
夕方五時を回り、今日もレイが曽我家を訪問した。昨日おとといと同じ「やあ」のあいさつを、僕は特別なものだとは感じなかった。
僕は当たり前のようにレイを我が家に招き入れ、レイは当たり前のように足を踏み入れる。僕の自室へと移動し、食べたい菓子の袋を開け、読みたい漫画のページをめくる。
すべては流れるように進行する。三回目にして早くも、僕たちは二人で過ごす夕方のひとときを当たり前のものにしつつあるらしい。
「曽我ってポケモンが好きなんだよね」
訪問から十分ほどが経ったころ、おもむろにレイが確認をとってきた。出入口近くの壁に背中を預けていて、その手にあるのは今日も『ドラゴンボール』だ。
『キャプテン翼』を読んでいた僕は、ページをめくるのをやめて発言者に注目した。彼女の視線の方向は、自分が読んでいる漫画ではなく僕だ。
「そうだよ。暇つぶしにゲームをしているって前に話したと思うけど、それがポケモン。子どものときからずっと遊んでいるから、好き半分、惰性半分って感じかな」
好きになったいきさつとか。一日にどれくらい遊んでいるのかとか。そういった質問をされるのではないかと予想し、どう答えようか考えはじめたのだったが、レイの思惑は違うところにあったらしい。
「今も遊んでいるということは、ゲーム機は持っているんだよね。ソフトも含めて」
「もちろん。今日だって、進藤さんが遊びにくる直前まで遊んでいたし」
レイはあごをしゃくった。ゲーム機を出して、という意味らしい。学習机の引き出しから紫色の一台を取り出し、顔の高さにかざしてみせる。彼女はもう一度あごを軽くしゃくってみせ、
「じゃあ、遊べば」
「えっ? どういう意味?」
「そのままの意味。あたしは漫画が好きだから漫画を読んで、曽我はゲームが好きだからゲームで遊ぶ。そういう意味」
「同じ部屋にいるけど別々のことをする、ということだね。でも、それってどうなの? いっしょにいる意味がないっていうか」
「あるよ。……いや、ないのかもしれないけど、仮にないのだとしても、あたしたちは今日も含めた三日間、その無意味なことをやってきたわけだよね。一冊の漫画を顔を寄せ合って読むことはなかったし、同じ袋に手を突っこんで菓子を食べることもなかった。『漫画を読む』とか『菓子を食べる』とか、広い意味では同じことをしたと言えるかもしれないけど、実際には別行動だった」
レイの言うとおりだ。僕たちは一つの大きな枠の中で活動していたが、同じ目標を目指して行動をともにするのではなく、互いに単独行動をとっていた。枠の中に用意されているものの用途が限られているから、見かけのうえでは、同じ行動をとるという結果になっていただけで。
「だけど、気まずいとか、そういうことではなかったでしょ? 楽しかったでしょ? 人が好きで勝手に読んでいる漫画を、別に好きじゃないけどその人に付き合って読む、なんて窮屈な真似はしていないから。好きなことを好き勝手にやっていたから」
これもレイの言うとおりだ。たしかに、楽しかった。自分を殺して共同作業を行わなかったからこそ、軋轢が生じる余地がなく、永遠に続いていきそうな安定感で「楽しい」が続いていた。
「曽我、むちゃくちゃ熱心に漫画を読んでいるようには見えないから、それがちょっと気になって。いや、責めるつもりはないよ? あたしが家にあった漫画を勝手に持ってきただけだから、好みに合わなかったとしても仕方ないし。だったら、無理にあたしの好きに合わせるんじゃなくて、曽我が夢中になれるものにのめりこむことで、あたしと二人きりの時間を楽しく気楽に過ごしてほしい。そう思ったから、ゲームをすればって言ってみたわけ」
しゃべり終えると、レイは一瞬だけ苦笑して漫画に視線を戻した。そうしたあとは、見慣れた彼女の横顔があるばかりだ。
無理に人に合わせるのではなくて、自分が好きなことをやるべき。
進藤レイの思想を読み解くうえでも、僕の人生に影響をもたらしたという意味でも、その言葉の重要性は看過できないものがある。
もっとも、それは当時から時間を置いて、冷静な心で客観的に眺めてみた結果、初めて気がついたことだ。当時の僕は、心を揺さぶられたのはたしかだが、レイのその発言の重要さを充分に認識していなかった。
ほんとうにいいのかな。配慮してくれたのはありがたいけど、空気が悪くなっちゃいそうで、怖いな。
そう思いながらゲーム機の電源を入れる。いきなり音が鳴り出したので、慌ててミュートした。レイはゲーム音についてはいっさい意見しなかったが、読書をするのだから静かなほうがいいに決まっている。
同じポケモンのソフトばかり何年も遊びつづけているので、飽きている。好みではないが、未読ゆえに新鮮な気持ちで読める漫画と、どちらが充実した時間を送るためのパートナーとしてふさわしいのかな、という素朴な疑問はあった。
結論を言うと、いつの間にか夢中になっていた。
ポケモンのゲームには様々な楽しみかたがあるが、僕は育てたモンスターをCPU相手に戦わせるゲーム内施設に挑戦するのが好きだ。
その日もその施設に挑んだ。運も味方につけて連勝を勝ちとることもあれば、凡ミスが重なって敗北を喫することもあった。前者の場合は、記録更新を目指して一戦一戦に集中できた。後者だった場合は、いかなる改善策を講じれば勝利に結びつくか、知恵を絞って模索した。そんなくり返しをこなすうちに、いつの間にか雑念から決別し、ゲームの世界に没入していた。
やがて集中力が切れかけてきたころ、視線を感じた。
ちょうどきりがいいところだったので、データをセーブし、ゲーム機の電源を切ってから振り向いた。アイボリーのラグマットにうつぶせに寝そべり、漫画を手にしたレイが、棒状のチョコレート菓子を口にくわえて僕を見ていた。小馬鹿にするように、愉快そうに、にやにやと笑いながら。
レイは漫画を左手に託し、フリーになった右手でチョコレート菓子を唇から抜き、表情はそのままに言った。
「なんだよ、曽我。楽しそうな、いい顔してんじゃん。そこだけを切りとったら、高校中退してひきこもっている人間だとは誰も思わないよ。いいものを見たな、うん」
頬の温度がぐんぐん上昇する。熱は驚異的な速度で全身に波及し、額をうっすらと汗ばませさえした。床に寝そべるという、「いかにもリラックスしていますよ」という姿勢をとっているのが、無性に恥ずかしくなった。
こうして過去を振り返りながら文章をつづっているうちに気がついたのは、そのときの僕とレイは、二人とも寝そべる姿勢だったということだ。
我を忘れるくらいにリラックスしていた僕と、同じ姿勢をとっていた。つまり、レイもリラックスしていた。
当時の時点でこのことに気がついていたなら、彼女が帰宅したあと、深く、長く、濃密に、その意味について考えこんでいたに違いない。
レイはそれ以上僕を茶化さなかった。意地悪なことも言うし、ときに執拗に攻めることもあるが、基本的には速やかに手を引く。僕が彼女の好きなところの一つだ。
僕はそそくさとその場に正座した。もう言葉での攻撃はしてこないと分かっていたので、上昇していた体温は速やかに平熱に戻った。僕たちのあいだを漂う雰囲気は気まずくはなかったし、会話も普通に交わせた。
僕はゲームで遊ぶのではなく、漫画を読んで過ごしたが、レイの発言のせいでそうしたわけではないのは言うまでもない。
平日午後五時からの一時間、二人は同じ部屋に集い、漫画を読み、菓子を食べ、無駄話をしながら過ごす。
初日に確立されたそんな過ごしかたは、二日後に早くもアップデートされた。
平日午後五時からの一時間、二人は同じ部屋に集い、自分がしたいことをして過ごす。
それが僕とレイにとっての当たり前の日常になったのだ。
それからの日々は代り映えがしなかった。
もちろん、いい意味で。
もはや追加アップデートの必要はない。完成されているからだ。完結しているからだ。
絆が強化されたことで、僕たちが会話する機会は逆に減った。交わす言葉といえば、
「ジュースのおかわり、いる?」
「うん。半分くらい注いで」
とか、
「ちょっと暑い。窓開けて」
「はーい」
といった事務的なものや、
「あっ、これ美味しい。塩味より好きかも」
とか、
「ああ、またやっちゃった。こいつがこの技を使ってくるの、つい忘れるんだよな」
というような、ひとり言に属するものが大半を占めた。
一方で、ひとたび共有したい話題が生まれると、臆さずに口にした。投げかけられたほうも、誠意をもって言葉を受けとめた。訊いてみたい事柄が浮かんだ場合も、同じ法則のもとに二人は振る舞った。
ただしその内容は、あくまでも気楽な話題に限定された。
同情的な表現を用いるなら――二人は知り合ってからの時間こそ長いが、現在のような関係になってからはまだ日が浅く、踏みこんだ話題を取り上げる時機ではなかった。
突き放した言いかたをするなら――心地よい空間を求めて寄り集まった者同士らしく、困難から逃げていた。
ある意味では救いようがなく、ある意味では救いなのは、困難から逃げている現実を意識することなく、二人きりの時間を過ごせたことだろう。
そうでなければ、心の中でのこととはいえ、あんなにも頻繁に、ふとした瞬間に「ああ、幸せだなぁ」とつぶやいたりしない。
そう、幸せだった。
スナック菓子をかじる、さくさくという小気味のいい音も。
ほんとうに真剣なときにはまばたきが極端に抑制される、切れ長の目も。
ページに釘づけになったことで、めくろうとしかけたまま虚空で停止する、形のいい手も。
袖まくりしたことで露わになる、腕の健康的な白さと、照明を浴びてきらきらと輝く和毛も。
気がついていないと思いこんで、あるいは気がついていないものと便宜的に見なして、ほのかな笑みをたたえて僕を見つめることも。
うつぶせに寝そべったときに否応にも目を惹く、お尻の曲線も。
居眠りをしたことでお目にかかれた、無防備な寝顔も。
みんなみんな、美しいと思った。
もっと眺めていたい。できることなら触れてみたい。
思春期の人間にご多分に漏れず、僕はレイを異性として強く意識していた。
ふと気がつくと、レイは寝息を立てている。
胸の規則的な上下運動が、寝たふりをしているわけではないことを証明している。部屋はクーラーの冷気に満たされ、漂う雰囲気は気だるい。
無防備なレイに、僕の関心は否応にも惹きつけられた。それに抗うように、ゲームに意識を集中しようと懸命に努めたが、案の定プレイに集中しきれない。
それでも、誘惑には断固として膝を屈さない。まじまじと見つめているさなかにレイが目を覚まし、僕のおぞましく破廉恥な行為に気づかれたくなかったからだ。彼女との安定的な関係を確立した僕がもっとも恐れているのは、安定を失うことだった。
チャンスはいくらでもあるのだから、今は焦る必要はない。
もう一人の自分の賢明な忠告に従う程度には、心に余裕があった。安定性を確保しているからこその余裕、だったのかもしれない。
「ごめん、寝ちゃってた。よだれ垂らしてなかった?」
やがて眠りから覚めたレイの第一声がそれだった。寝ぼけているわけでも、寝落ちしていたことを恥じるのでもなく、すれ違った人間と肩がぶつかったから謝意を表明した、というような口ぶりだった。
「それは大丈夫。寝不足?」
「んー、そうでもないけど」
「まあ、たまにはこういうこともあるよね。睡眠時間が足りてても寝ちゃうことも」
「まあね。だけど、ちょっともったいなかったな。貴重な時間を睡眠に費やすなんて」
「でも、僕といるときの進藤さんって、あまりしゃべらないよね」
「雰囲気がいいんじゃん。適度にリラックスできて、緩い空気感で」
「緩い空気感で、適度にリラックスできた」だっただろうか? それとも「雰囲気がよくて、適度に緩い空気感で」? こまかな言い回しまでは記憶していないが、「ごめん、寝ちゃってた」という言葉から会話が始まったことと、以降のおおまかな流れ、その二つは間違いないはずだ。
おおまかにではあるが記憶に留めていたのは、このやりとりが、それだけ僕には重要だったということなのだろう。
客観的にはささいな出来事かもしれないが、だからといって、僕個人にとって重要ではないとは限らない。
むしろ、そういったささいな出来事の積み重ねによって、レイが不可欠な僕の日常は成り立っていた。
特別なことが起きるわけではないが、僕たちはこの時間を楽しんでいて、そして幸せだった。
そもそもレイはなぜ、僕と過ごす時間を持つことにしたのだろう?
そんな疑問を、リュックサックを背負った彼女が曽我家を訪問したその日から、深まることはあっても薄らぐことなく抱きつづけていた。
臆病な僕は、彼女との関係が不安定になることを恐れている。病的に、といっても過言ではない。
ただ、二人きりでいるときの僕たちを支配していたのは、レイが言ったように「緩い空気感」。その空気感を壊してしまいそうな気がして、こちらから問い質すなど、とてもではないが無理だ。
知りたければ、そう出来がいいわけではない頭を回転させて、自力で探り当てるしかない。
暇つぶし?
だったら、一人でもできる。ゲームの対人戦がやりたいならまだしも、レイの趣味は漫画を読むことなのだから。
高校中退を余儀なくされてひきこもる僕を慰めるため?
もしそうであれば手放しでうれしいが、残念ながらたぶん違う。うちに来るようになってからレイがしたことはといえば、漫画を読むこと、飲食すること、話をすること。話だって他愛もない雑談ばかりで、僕が抱えている懸案に踏みこんできたことは一度もない。
踏みこみたいが踏みこめずにいる、といった様子でもない。「自分が好きなことをして楽しむべき」という思想を掲げた彼女らしく、自分が楽しむことを最優先に振る舞っている印象がある。その姿勢に、結果として慰められているのは事実だが、計算づくでの行動なのかは大いに疑問だ。
他にも様々な可能性が思い浮かぶが、荒唐無稽だったり、僕に都合がよすぎたりと、現実的ではないガラクタばかりで、正解が含まれているとはとても思えない。
気まぐれだ。レイはきっと気まぐれから、僕と小一時間、時空間を共有することにしたのであって、明確な理由など存在しないのだ。
考えることに疲れ、ある意味では倦み、ある意味では逃げた僕は、そんな投げやりな解釈を一応の結論とした。
正解ではないのは分かっていた。しかし、一応でも結論を出した効果は絶大で、それを境に、僕がレイの不可解と向き合って神経をすり減らす時間は激減した。
ただし、完全には消滅しなかった。レイといっしょにいるのは二十四時間中のたったの一時間。ごく短時間に過ぎないが、彼女に思いを馳せる時間は長かった。間違いなく、僕の生活の軸だった。
なにかに夢中になっている人間にありがちなように、当時の僕は、よくも悪くも進藤レイに囚われている自覚は持たなかったのだが。
親という生き物はとにかく我が子に雑事を委託したがる。
家族のため、社会勉強のため、あなた自身のため。
示される理由はいつだって立派で、もっともらしい。すべてが的外れだと主張するつもりはないが、遡って精査してみれば、面倒ごとを押しつけようとしただけとしか思えない事例が大半を占めている。
親という立場になっても、彼らは人間。厄介な仕事を回避して楽をしたい下心は当然抱く。卑怯さ、ある種の弱さを抱え持っている。もっとも身近でもっとも弱い存在である我が子に対してだからこそ、狡さを発揮することも珍しくない。
当時よりも少し大人になった今では、大人の狡さも寛大な心で許容できる。しかし、満年齢十六歳でそのような仙境に至れる人間はまずいない。
「悪いけど、庭の草刈りをしておいてくれ。今日の夜、私が帰ってくるまでならいつやってくれてもいい。任せたぞ」
その日の朝、朝食の席についていた僕に、父親は唐突にそう命じた。
母親はひと足早く食事を済ませ、キッチンで父親の弁当の準備をしている。僕よりも早くダイニングに来ていた父親は、もうすぐ食べ終わるという情勢。席に着いたばかりの僕は、トーストにマーガリンを塗りつけていた。
そんな状況下で、父親は読んでいた地方新聞をやけにていねいな手つきで折り畳み、もったいぶったような手つきでコーヒーカップを持ち上げて一口すすると、おもむろにそう切り出したのだ。
僕は両親から、毎日の食事は家族といっしょにとるようにと厳命されている。
中学二年生のときに不登校になったことで、登校しろと強硬に迫る両親、特に父親との対立と衝突とが常態化し、部屋のドアに内鍵をかけて籠城するという対抗措置を僕は講じた。これに対して父親は、もう学校に行けと無理強いはしない、顔を合わせても現状や将来について口うるさくは言わないし、家から出ていけと命じもしないから、ひきこもるのはやめろ、食事くらいは家族といっしょにとるようにしてくれ、と譲歩案を示した。内心では争うことに疲れきっていた僕は、それを受け入れた。
両親からすれば、特に普通と常識を愛する父親からすれば、息子が四六時中部屋に閉じこもって外に出てこない、家族とは口もきかないという、考え得る限りの最悪の状態に陥る事態を避けたかったのだろう。
留年した挙げ句に自主退学することになったとはいえ、事実として僕は高校受験を突破して高校生になることができた、どん底から再起できたのだから、両親の苦肉の策は結果的に功を奏したといえる。
ただ、父親の口うるさい性格は変化しなかった。高校生になるまでは規則正しい生活の大切さや高校受験について、高校を中退してからは今後の進路について、顔を合わせるたびに説教じみた言葉を浴びせてきた。
取り決めのことを失念してしまったわけではないが、息子の顔を見ているうちに悪い虫が疼き出し、ついこぼしてしまうらしい。
ひとたび口にしたあとは、歯止めがきかなくなかったかのように、あるいは開き直ったかのように、延々と垂れ流す。しゃべればしゃべるほど、眉間に、声音に、負の感情がこもる。
息子を完全なる意味でひきこもりにさせないための取引条件として、親が我が子に意見を言えないのは間違っている。普通でいろ、常識的であれと我が子に教え諭すのは親としての義務だ――。
くどくどと言葉を重ねる父親から、僕はそんな心の声をたびたび聞いた。
表面的には穏やかだった日常を崩すきっかけを作るのは、決まって父親だ。彼は衝突するたびに、親に対する受け答えがなっていないとか、生活習慣が乱れているのを見かねてとか、もっともらしい理由を掲げる。しかし僕には、我が子との約束を軽視する傲慢さ、ならびに堪え性のなさを正当化するための、稚拙な言い訳だとしか思えない。
約束を破ったこと。発言の不愉快さ。突きつけられた現実から逃げたい気持ち。それらが一時的に休眠していた攻撃的な本能に火をつけ、僕は感情的になって反論を述べ立てる。
そうはいっても、僕はもともと他人と気軽に口をきけない人間だ。親に対してはましになるが、気安くなんでも話せるかというと、それは絶対に違う。中学二年生のときに不登校に陥ってからは、抵抗感は日増しに増していき、頭に文章が浮かんだとしてもスムーズに言葉に変換できないことがよくあった。
言い淀んでいるあいだも相手は待ったなしで言葉を連ねてくるから、反論の修正や言葉を追加する必要に迫られる。会話が進めば進むほど沈黙せざるを得ない時間が長引く。これに対して父親は、「言いたいことはないのか」「文句があるなら反論してみろ」といった挑発的な言葉をぶつけてくる。たちまち頭に血が昇る。神経を逆撫でにされたことに対する怒りだけではなく、思うように発言できないいらだちともどかしさが加わるのだから、感情が爆発するのも無理はない。
僕は暴力を振るうのも受けるのも嫌いだが、言葉という武器を思うように扱えない腹立たしさに、つい手が出ることもある。猫に追い詰められた鼠が破れかぶれに噛みつくようなものだが、父親はそれを宣戦布告とみなし、堪忍袋の緒が切れたというよりも自らの手で緒を引きちぎり、歯に衣着せぬ物言いで僕を罵倒しはじめる。こうなると僕も後には退けない。能天気に無責任な母親は仲裁に入ろうとしないから、互いの息が切れるまで親子は大暴れすることになる。
一見凪いでいるように見えて、いつ大しけになってもおかしくない危険性を孕んでいたのが、当時の曽我家だった。
曽我家の庭は住宅の大きさのわりに広く、初夏から秋の終わりにかけて雑草の楽園と化す。除草は基本的に父親の仕事、最盛期の夏場には母親と僕も動員されるのが通例で、ニートだろうが半ひきこもりだろうが義務は免除されない。
草刈りは力仕事の範疇ではあるが、高度な技術を必要とせず、一人でもできる。人とのコミュニケーションを前提とした場でなにかを行うといった、僕にとって心理的抵抗感を激しく覚える仕事ではない。なにより、ニートでいるせいで家族に迷惑をかけているという自覚がある。負い目がある。膨大な面積を僕一人でやれと言われたならまだしも、あくまでも作業員の一人としての動員だ。ひきこもりがちな生活を送っていても、自宅の庭の状況くらいは把握しているから、「そろそろ言われるかな」という覚悟は心の隅でしていた。
大変だし、面倒だし、疲れるから、気乗りはしないが、曽我家のルールなのだからまあ仕方ない。機嫌とりの意味もこめて、自分の分の仕事はちゃんとやっておこう。
それが庭の草刈りに対する僕のスタンスだったのだが、今日になっていきなり作業を命じてきたのはむかついた。承服しかねた。
僕はニートだが、その日のタイムスケジュールは毎日だいたい決まっている。それを乱されたのがたまらなく不愉快だったし、当日になって伝えるというのが、大げさかもしれないが、曽我大輔という一個人の人格を軽視した行為のように思えて、腹が立った。ニートである現状や将来の進路についてとやかく言わない――交わしたはずの約束を平気で破る父親に対する不信感が、それらのネガティブな感情に拍車をかけた。
『悪いけど、庭の草刈りをしておいてくれ。今日の夜、私が帰ってくるまでならいつやってくれてもいい。任せたぞ』
送りつけられたばかりの言葉が脳内でリフレインする。
「悪いけど」には心がこもっていないし、「いつやってくれてもいい」はニートという身分を遠回しにあざ笑っているとしか思えなかったし、「任せたぞ」の押しつけがましさには虫唾が走る。父親が発した言葉というよりも、父親にまつわるなにもかもがただひたすらに不愉快で、
「嫌だ」
と僕は返した。
場が緊迫感を孕んだ沈黙に満たされたのはせいぜい数秒間で、父親は眉をひそめて「どうしてだ」と問うた。それを号砲に、売り言葉に買い言葉の不毛なキャッチボールが父子のあいだでくり広げられた。
着地点が見えない、果てしない言葉の応酬は、けっきょく、僕が渋々ながらも命令に服従する意を表明したことで決着した。
根負けしたのではない。譲歩したのだ。父親の要求は傲慢だし、無礼だし、正義に反するが、今回のところは譲歩してやろう、と。
判断の決め手となったのは、争いごとを長引かせたくない気持ちでも、朝食にさっさとありつきたい欲求でもなく、進藤レイの存在だった。
仮に彼女にこの親子喧嘩の模様を報告したとしたら、「たかが草刈りくらいで」と、ため息とともに失望を表明するに違いない。あくまでも想像に過ぎないとはいえ、恥ずべきことだ。今からでも遅くないから、切り上げよう。僕の負けでいいから、こんな愚かな真似はやめよう。
僕には進藤レイという、平日夕方になるたびに会いにきてくれる人がいる。一時間、時空間を共有してくれる人がいる。そんな喜びを、幸福を、日常的に味わっているのだから、急に草刈りを押しつけられるなどというちっぽけな不幸くらい、寛大な心で受け入れるべきだ。
そんな二つの想いが、敗北を認める抵抗感を薄れさせ、父親の横暴に屈服する屈辱さえも承認させたのだ。
「分かったよ。やるよ。やればいいんだろ」
さも不機嫌そうに吐き捨てて、何分かぶりにトーストにマーガリンを塗布する作業を再開した。すでに塗りつけ、変色している表面にも、それを承知で塗り重ねる。譲歩してやったんだからこのくらいの無駄づかいはしてもいいだろうという、我ながらちっぽけすぎる反抗。
あまりにも唐突に負けを認めたように感じられたのだろう。父親は当惑気味に僕を見つめていたが、やがて「任せたぞ」と言い残してダイニングを去った。
庭の雑草は一時間もあれば刈ってしまえそうだ。
午後四時を回り、太陽の勢力が弱まってきた。両手に軍手をはめ、草刈り鎌を握って庭に出る。
我が物顔ではびこる名もなき植物たちを、鎌を振るって刈るだけの単純作業。悪い意味で静的な、変化に乏しい日々を過ごしている身としては、楽しくはないが新鮮だと感じる。
ただ、ポジティブな気持ちは長続きしない。やることが単調だし、すぐに疲れてくる。心身ともに健康でまっとうな生活を送っている人間には信じられないかもしれないが、どうしても必要なとき以外に部屋から出ない人間は、十分や十五分の単純労働で息が上がるものなのだ。
作業は思ったよりも進まず、一時間ではとても片づけられそうにない。
いらいらは募る一方だった。徹底抗戦を自らの意思で放擲するという判断が、今となっては恨めしい。高慢な父親を呪い、むやみに広い庭を呪い、切れ味の悪い安物の草刈り鎌までもを呪った。
現在の惨めな状況を作り出した原因を偏執狂じみた徹底さで探し、脳内に羅列していく中で、そもそも高校を辞めていなければ、こんなつまらない家庭の用事を押しつけられることもなかったのに――という思いに流れ着いた。
砂を噛むような日々が逆流した。
最初こそ、攻撃的な気持ちで過去と相対していたが、心は次第に陰りはじめた。レイと新たな関係が始まった影響もあって、遠い過去のように感じていたが、高校を自主退学してからまだ一か月と少ししか経っていない。
思い返せば思い返すほど、生々しい悲劇だった。まぎれもない暗黒時代だった。
僕は囚人なのだ、と唐突に悟る。
社会人として生きるための準備期間に過ぎない学校生活でさえまっとうできなかった罪をあがなうために、多少広いだけのつまらない庭で単純作業に従事する刑罰を科された、ちっぽけで哀れな囚人……。
普通の道から外れてしまった、と思った。そして、高校に母親とともに退学届を出した日にも、同じ思いが胸に浮かんだことを鮮明に思い出した。
懲役刑の刑期はいつになれば満了するのだろう。どうせ再犯するのに、監獄から出るために刑に服する必要はあるのだろうか。
しかし、サボタージュしたところで、追加の罰が下されるだけだ。非人間的な看守に、胸が悪くなるような悪罵を嫌というほど浴びせられるだけだ。
逃げ出せたとしても、きっと僕は長くは生きていけない。人とまともにしゃべれない僕のような人間が、口頭でのコミュニケーションを実質的に必須としているこの息苦しい社会で、生き抜いていけるはずがない。
僕はこの世界に生まれてこなかったほうがよかったのでは?
生まれてくるべきではなかった人間が今すぐにするべきことは、一つしかないのでは?
いつの間にか作業の手は止まっていた。
目頭が熱い。
少し滲んだ視界には、地面に横たえられた草刈り鎌が映っている。葉っぱの切れ端と少量の土を付着させた、銀色の刃。安物の、ところどころに錆が浮いた、お世辞にも切れ味がいいとはいえない刃。
その刃から、目が離せない。
世界からはいっさいの音声と、自分以外の生き物の気配が途絶えている。人と交わることを苦手にしている僕にとって、ある意味では楽園のはずなのに、世界の終末を連想した。鎌の柄に掴む右手に力がこもる。
「――曽我!」
はっとして顔を上げた。
振り向いた視線の先には、進藤レイがいた。
曽我家の入り口の門の近くで、両足は敷地内の地面を踏んでいる。瞳を正円に見開き、唇に少し隙間を作って僕を見つめている。シャツにジーンズ、持参する荷物が減っても使われつづけている大きな黒いリュックサック。
普段どおりのその姿を見て、草刈りに苦戦しているうちに約束の時間を過ぎていたのだ、と気がついた。
「ああ、ごめん。庭で気配がするけど姿が見えなかったから、無断で入っちゃった。庭木が障害物になって見えなかっただけで、近くにいたんだね。先に呼びかけてみればよかったかな」
レイは指で頬をかいた。僕たちの距離は五メートルも隔たっていない。
泥だらけの軍手を両手にはめ、みすぼらしい鎌を手にして座りこんでいる自分が、急に恥ずかしくなった。投げ捨てたくなったが、それも幼稚な真似だという気がして思い留まる。心境を一言で表すなら、居たたまれない。
親に文句を言える立場ではないくせに、草刈りに駄々をこねた自分……。
たかが草刈りがきっかけで、自殺まで意識した自分……。
見られたくない自分をレイに目撃された気がして、それがたまらなく恥ずかしくて、穴があったら入りたくて、いっそのこと死にたい気分ですらあった。
レイが「入ってもいい?」と目で問うてくる。うなずくと、歩み寄ってきた。雑草を刈りとれる程度には鋭利なものを手にしたまま会話したくなくて、足元に置く。汚れた手袋も捨ててしまいたかったが、それよりも先にレイが僕の目の前でしゃがんだので、機会を逸した。
部屋で過ごしているときは、もっぱら端と端に位置をとっていた。庭で相対した今は室内よりも近く、ただ息を吸うだけでレイの髪の毛の匂いを濃密に感じる。
レイは手袋を凝視し、打ち捨てられた鎌に一瞥をくれ、最後に僕の顔を直視した。
「草刈り、してたんだ。手伝い?」
「見てのとおりね」
「偉いね。あたし、親に命じられてもしないと思う。うちの庭はこんなに広くないけど、それでも嫌だな」
「無理矢理やらされているだけだから、偉くないよ。僕、ほら、ニートだからさ。こういうこともやらないと、居場所がないというか、存在価値が……ね」
存在価値などという大仰な表現を使ったのは、さっきまで泥濘に徐々に沈んでいくような懊悩の中にいた影響だ。レイは口をつぐんだが、沈黙していた時間は三秒にも満たなかった。
「大変だね。ほんとうに大変な人に大変っていうのも失礼だけど、あたしはその、語彙が貧困だから……」
「そのくらいで気を悪くなんてしないよ」
「思ったんだけど、曽我は受験勉強中なわけだよね。高卒認定試験。受験生に雑務を強要するって、親御さんもなかなか厳しいんだね」
「庭の草刈りはまあ、家族全員の義務みたいなものだからね。僕としては、最初から仕方ないっていう認識だったけど、厳しいといえば厳しいのかな。
親がそういう態度をとるようになったのは、やっぱり、留年までしたのに高校を辞めちゃったのが大きいと思う。高校は私立で学費も高かったのに、無駄にしちゃったから。迷惑をかけたんだから、その分家族のために働けよっていう」
「……そっか」
レイは押し黙る。眉間に生じたしわを見て、こんな話をするんじゃなかった、と悔やむ気持ちが芽生えた。
……巻きこんでしまった。レイと過ごす夕方の一時間は、彼女に嫌な思いをさせるためにあるわけではないのに。
そう、今は夕方の五時過ぎ。
レイは約束の時間になったからこちらまで来たのだ。こうして陰気な言葉をやりとりしているあいだにも、砂時計の砂は落ちつづけている。――急がないと。
「進藤さん、ごめん。草刈り、今日中に済ませておかないと怒られるから、大至急片づける。二十分くらいかかるかな。それまで、悪いけど先に部屋に行って待ってて」
「あたしも手伝う。二人でやったら半分の十分で済む。そうしたほうが絶対にいい」
思いがけない返答だった。
僕を見つめるレイの眼差しは、真っ直ぐだ。どぎまぎしてしまい、すぐには言葉を返せなかったくらいに真っ直ぐだ。有無を言わさない迫力さえ感じる。
「いや、でも、悪いよ。遊びにきてくれた友だちに手伝わせるなんて。疲れるし、汚れるし」
「草刈りなんだから、疲れるのも汚れるのも当たり前。道具、貸して」
僕はうなずいて家の中に入った。軍手と鎌を渡し、さっそく作業に取りかかる。
進藤さんの手を煩わせるのは嫌だし、申し訳ないから、さっさと終わらせてしまおう。
そんな思いとはうらはらな行動を、草刈り再開早々に僕は起こす。
「進藤さんとは、顔を合わせたときは普通に話をしていたから、意外に思うかもしれないけど……。進藤さんとは同じクラスになったことがないから、噂でしか聞いたことがないと思うけど……。僕、昔から人前でしゃべるのにすごく苦労してて」
自らの身の上について語り出したのだ。
我ながら、驚くべき行動だと言わざるを得ない。
死を意識するほどに思い詰めていたところにレイがやってきたから、僕にとっての救世主だと錯覚して、すがりついた。
正解にもっとも近い解釈は、たぶんそれなのだろう。
ただ、当時の僕の感覚としては、気がついたら語り出していた。そして、しゃべるのをやめようとは思わなかった。一方で、口を動かしながらも気恥ずかしさのような感情は切れ目なく覚えていて、なるべく簡潔に収めようとは考えていた。草刈りは二人で分担すれば十分ほどで片づけられる計算だが、十分という制限時間をフルに使って語るような図々しい真似は慎もう、と。
レイは相槌を打たない。それどころか、僕に一瞥をくれることすらもない。手を黙々と、どこか機械的に動かしている。鎌によって草が切り裂かれる音が断続的に響いている。僕はそれを肯定の意思表示だと捉える。
「高校も、根本の原因は思うようにしゃべれないせいで、それが足を引っ張って。だから、今は進学も念頭に受験勉強――高卒認定試験の勉強をやっているけど、たとえば高卒認定試験に合格して、大学入学共通テストでいい点をとって、大学の入学試験もパスして、晴れて大学生活を始めたとして、無事に卒業までこぎ着けられるのかって自問してみると、はっきり言って自信ないよ。けっきょくは高校のときの二の舞になるんじゃないかって思ってしまって、すごく怖い。ネガティブすぎるって自分でも思うけど、その未来を頭から消し去れなくて」
返事をしてくれなくても、相槌を打ってくれなくても、僕を助けるために草刈りに励んでいると、鎌で雑草を刈りとる音で知らせてくれる。それで充分だった。
「二年間、学校には行かずに受験勉強に専念する。気楽といえば気楽なんだけど、でも、内心は不安でいっぱいで。だから、そういう時期に昔からの知り合いで、よく話をしていた進藤さんが遊びにきてくれるようになって、精神的にすごく楽になったよ。人前では役立たずに等しいし、世間も社会も知らないし、小遣いだって小学生並みの金額に減らされちゃったし。できることは少ないかもしれないけど、進藤さんにはいつか必ずお返しをしなくちゃいけないなって思ってる」
僕は言葉を切った。そろそろレイの反応を確かめたかったし、それに、最低限言いたかったことは言えた。草を刈る作業を再開する。
僕がしゃべっているあいだも、話し終えてからも、レイは一言もしゃべらない。世界には草刈り鎌が奏でる音だけが聞こえている。
失望はしなかったし、気まずさを感じたわけでもない。沈黙こそがレイの返答だと思ったからだ。そしてその沈黙が、僕に肯定的で好意的なものに思えたからだ。
無駄口を慎んだ甲斐あって、十分もかからずに作業を終えられた。
「アイス奢ってあげる。コンビニまで買いに行こう」
雑草を詰めこんだ透明なごみ袋の口をしっかりと閉めて、レイは言った。僕とは違って汗一つかいていない。
「アイス?」
「そう。体を動かしたら熱くなっちゃった。季節的にそろそろ食べ収めだと思うし」
「もちろんいいけど、手伝ってもらったんだから僕が奢るのが筋じゃないかな」
「でも、小遣い減らされたって言ってたよね」
「そのくらい買うお金はあるよ」
「あたしが奢る」「いや僕が」と、なぜか押し問答になってしまった。こういうとき、僕は大人しそうに見えるが頑なで、レイは頑固そうに見えてあっさりと身を引く傾向がある。
「じゃあ進藤さん、ワリカンにしよう。それなら文句ないでしょ」
「そうだね。そうしよう」
僕たちは久しぶりに肩を並べて外を歩く。
部屋の中でいるときはひたすらリラックスしていたが、屋外を歩いていると心がうきうきする。目的地はコンビニで、目的はアイスを買うことだが、なにかちょっとした冒険にでも赴いているような気分だ。ほぼ外出しない自分が、誰かといっしょに外を歩いているというのが、大げさかもしれないが誇らしかった。
「なんだか懐かしいね」
僕はしみじみとつぶやいた。
「僕が高校を中退して以来、部屋で過ごすのが当たり前で、こうして二人で道を歩くこともなかったから」
「曽我はひきこもっているから、外の空気を吸うこと自体めったにないんじゃないの」
「用事でもない限りはね。あったとしても、平日の昼間に出歩く勇気はないかな」
「もう学校に籍は置いていないんだから、別に恥じることはなくない?」
「まあ、そうなんだけど。やっぱり、なんていうか」
「自意識過剰なんだよ、曽我は」
こもりがちな僕はろくな話の種を持っておらず、レイは自分のことをあまり話したがらない。僕もわざわざ訊き出そうとまでは思わない。草刈りをしていたさいにふと葉っぱの裏側を見ると、何匹ものアブラムシが固まっていて気持ち悪かったとか、とにかくどうでもいい話ばかりした。機嫌がいいときにありがちなことだが、そのどうでもよさが無性に楽しくて、僕たちはずっと笑顔だったし、笑い声も頻繁にこぼした。
五分ほど歩くと、進路に目的のコンビニが見えた。
「曽我はあの店にはよく行くの?」
「うん。実はほぼ唯一の外出先だったりする。ゲーム機の乾電池と、あとはたまに食べ物とか。いつも用意しているお菓子と飲み物もここで買ってて」
「あたしもコンビニに行くならあそこかな。でも、店で買い物中にばったり遭遇とか、今まで一度もないよね。意外にも」
「僕が人の多い時間帯を避けているからかも」
「なにが怖いの? ただの客に、ただの店員でしょうが」
「うん。でも、人が多いのは苦手だから」
「ほんと繊細な心の持ち主だよね、曽我って。あたしは誰になにを言われても平気だから、羨ましい」
「隣の芝生は青く見えるってやつだね。僕のほうこそ進藤さんが羨ましいよ。進藤さんみたいに強い心を持っていたのなら、いろんなことがもう少し上手くいっていたのかな、なんて思う」
「いろんなことって?」
「それは……言葉どおり、いろいろだよ。僕の人生、上手くいっていないことばかりだから、多すぎて挙げられないよ」
「あたしとアイス買いに行っているのも失敗?」
「いや、大成功。アイスを買いに行くとか、ちょっとしたことだとしても、やっぱり誰かといっしょのほうが楽しいね」
「進藤レイといっしょだからと言っても、バチは当たらないと思うけどね」
短いあいだではあるが、とても快い気持ちで言葉を交わせたから、会話の内容を不思議なくらいに鮮明に覚えている。
こうして振り返ってみると、話が暗いほうに流れてもおかしくはなかったが、レイはそうならないようにさり気なく、だけど上手に誘導してくれた。ほんとうに、彼女には感謝の気持ちしかない。
僕は他人と、家族相手ですらも、長々として言葉のキャッチボールをしてこなかった男だ。気兼ねなく話せるレイが相手だとしても、自分一人の力だけでは、会話を長く保たせるのは難しいだろう。
そんなハンデをものともせずに、楽しい会話を滞りなく続けられるのは、間違いなく進藤レイの功績だ。
ほんとうに、ほんとうに、彼女には感謝してもしきれない。
店内に客はいなかった。仲がいい人間同士で食べるものを選ぶと、一つに絞るのを迷うことに無性に盛り上がってしまい、決めるのに時間がかかりがちだが、僕たちの場合は迅速だった。僕はスティックタイプのソーダアイスで、レイは抹茶味のカップアイス。
「抹茶、好きなんだ」
「むちゃくちゃ好きではないけど、なんとなくこれがいいかなって」
「好き嫌いが分かれる味だと思うけど、進藤さんは平気なんだね」
「まあね。好みが分かれるといえばチョコミントだけど、曽我はどう?」
「平気だよ。チョコミントも抹茶もね。ニートをやっていると、食べものに文句をつけるとひんしゅくを買うから」
「どうした。今日の曽我、なんか卑屈だぞ」
「そうかな。そんなつもりはないんだけど」
十六歳らしい、くだらなくて他愛もないが、等身大の会話だった。アイスの味について話すだけで笑えたのだから、あのときの僕たちはまぎれもなく幸せだったのだと思う。
でも、そこまでだった。
「曽我、ちょっと買いたいものがあるから、適当に店の中を見て回ってて。会計はあたしがしておくから、あとで曽我のアイス代だけ払って」
「了解。お金あるの?」
レイは「馬鹿にしないで」というふうに少し唇を尖らせた。しかしすぐに微笑を上書きして、僕の分のアイスを奪いとって一つ奥の通路へと消えた。
外で待っていてもよかったが、雑誌コーナーに移動した。もはや購読していないが、かつてレイが毎週の楽しみにしていた週刊少年ジャンプに、現在どのような漫画が連載されているのかを確かめたかった。あるいは、『ドラゴンボール』が連載されていないことを確認して、何食わぬ顔をして、会計を終えたレイと合流したかった。「なにを見ていたの?」と訊かれたとしても、「いや、別に」と短く答えて、行きのようにくだらない話をしながら帰り道を歩きたかった。
ジャンプは陳列されていた。手にとろうと前屈みになったところで、出入口の自動ドアが開いた。音源を振り向いて、どっと汗が噴き出した。
石沢だ。
中学二年生のときに僕をいじめていた男子グループのリーダー格。
似合わない金髪と細い目は、忘れるはずもない。季節外れのアロハシャツを着ていて、手ぶらで、連れはいない。
僕は足音を立てないように慎重に、それでいて迅速にトイレに逃げこんだ。合理的な判断にもとづく対応ではなく、反射的に体がそう動いていた。トイレといっても正確には、女子トイレと男子トイレの分岐点となる、洗面台が置かれた立方体の狭い空間。男子トイレのドアノブに手をかけていつでも避難できる態勢をとったうえで、肩越しに顔を振り向けて相手の動向をうかがう。
石沢は僕がいるほうには見向きもせずに、レジの前の通路を奥へと歩いていく。姿が棚の陰に隠れたところで、「お」という声が重なった。一方は石沢で、もう一方はレイだ。
「進藤じゃん。なにしてんの?」
「友だちに頼まれて、アイス買ってるところ。あとは家族に頼まれたものもついでに」
「パシリか。いじめられてんのかよ」
「お金は向こう持ちだから。アイスもシャンプーもね」
「そのシャンプー、家族共用? それとも誰か専用?」
「変なこと訊くね。お母さんとあたし用。お父さんだけ別。育毛シャンプーだから」
「奇遇じゃん。うちも親父のだけ分けてる。育毛効果があるのかは知らないけど」
「それって、石沢はお母さんと同じシャンプーを使ってるってこと? こだわり、ないんだ」
「なんでもいいだろ。髪さえきれいになれば」
「男子って外見はしっかり気にするくせに、こまかいところではいい加減だよね。ところで、石沢はなに買いにきたの」
「ジュース。ちょっと飲むものがほしくなったときは、ここが一番近いから。家の近くに自販機があれば便利なんだけど」
「でも、自販機の飲み物って高くない?」
「十円二十円の違いだろ。すぐ買えるほうが得じゃね?」
「石沢、さっきから発言が雑だね」
「だって性格が雑だもん。知らなかったのかよ」
「忘れないようにメモしとく。メモをとったことを忘れるかもだけど」
「お前のほうが雑じゃん」
覚えている。我ながら怖いくらいに、馬鹿馬鹿しいくらいに詳細まで記憶している。
「いじめられてね?」に対する「お金は向こう持ちだから」の声には不快感がこめられていたこと。父親が使用するシャンプーに育毛効果があると明かした直後、二人の笑い声が重なったこと。石沢は「ジュース買いに来ただけ」という返答を、レイの言葉尻に被せるように口にしたこと。
みんな、みんな、はっきりと覚えている。
気になって、全神経を聴力に注いで聞き耳を立てていたから。レイが自分以外の人間とどんな会話を交わすのかが、石沢に見つかりたくなくて隠れている現状を忘れるくらい、気になって仕方がなかったから。
覚えているのはレイが、会話から抜けるならこれしかない、という言い分を持ち出したのもそうだ。
「ごめん。アイス溶けちゃいそうだし、友だちも待ってるから、もう行くね」
石沢の「おう」という返事が聞こえたので、終わったのだと分かった。
その石沢が、飲み物コーナーでコーラのペットボトルを取り出し、会計に向かったのを見届けて、僕は店を出る。すぐにレイも姿を見せ、レジ袋を顔の高さにかざした。
「買った。アイスが二つに、家族に頼まれていたシャンプー」
代金と引き換えにアイスを受けとる。
「曽我、どうしようか。店の前で食べる? 家に帰ってから? それとも歩きながらにする?」
「歩きながらでいいんじゃない」
「だったら棒のアイスにしとくんだったかな。まあ、こまかいことはいいか」
会話は今食べているアイスの話題から始まり、連綿と続いていく。そのどれもが肩肘を張らないものだ。
僕は、石沢の名前は一言も口にしない。
忘れていたのでも、話したくなかったのでもなく、話したかったが話せなかった。
胸の底で黒い感情が渦を描いている。
家族に頼まれたって、なにを買う予定なの? 僕はどうして、そうたずねなかったのだろう。それが自然だっただろうに。コンビニに売っているものなんだから、たずねても差し支えないだろうに。それがきっかけで話が広がったかもしれないのに。
話を広げる。聞き耳を立てた限り、石沢はそれができていた。
二人の関係は分からない。そう親しいわけではないが、顔見知りではあるのだろう。
その程度の関係にしては、話は盛り上がっているように感じられた。楽しそうだった。偶然コンビニで顔を合わせた知り合い同士が交わす会話にしては、不自然なくらい楽しそうだった。
レイと石沢が演じてみせたような、おかしみのある指摘に笑い声が重なる瞬間が、僕とレイのあいだにこれまで何度あっただろう。一度もなかったわけではないが、片手で数えられるほどしかなかった。レイはそう頻繁に笑い声を上げる人ではない。そんな彼女から、石沢はたった二・三分の会話で引き出してみせた。
進藤さんはやっぱり、普通の人と話すほうが楽しいんだろうな。
部屋で二人で過ごすときにあまりしゃべらないのは、静かに過ごす時間が好きだからというよりも、僕と話をするのがあまり楽しくないからなのかもしれない……。
日射しがそうきついわけではないのに、ソーダアイスは溶けるのがやけに早く、木の棒を伝って流れ落ちた水色が右手をべたつかせる。それを見たレイは、「やっぱりカップアイスにしておいて正解だった」と言って白い歯をこぼした。
年齢よりも幼く感じられる笑み。レイが僕に初めて見せる笑み。魅力的な笑み。
それなのに、僕は笑い返せなかった。
僕にとって重要な二つの出来事が起きた翌日から、進藤レイに対する心構えに変化が現れた。
レイに対する広義の好意も、いっしょに過ごす時間が楽しいと思う気持ちも、以前と変わらず高い水準を維持している。
しかし、熱い想いの中に、冷めたかたまりが伴うようになった。
熱い想いが心臓の大きさだと仮定すると、その冷めたかたまりはせいぜい米粒ほどに過ぎない。しかしそれは、レイに対する愛情や好意とは明確に異なる性質を有していて、それゆえにサイズに不釣り合いな存在感を誇った。
といっても、常に僕の意識に強い影響力を及ぼしたわけではない。特定の状況になったとたん、今まで大人しくしていたのが嘘のように大量の冷気を撒き散らしはじめ、心をまたたく間に退廃的な銀世界に変えてしまうのだ。
「特定の状況」というのは、レイに対するポジティブな感情が極限まで高まったときのことを指す。換言するならば、彼女に対して熱くなりきれない呪いをかけられたようなものだ。
レイと会話が盛り上がっているさなかにこの現象が起きたとして、急に口をつぐみ、頭を振って会話から自主的に離脱する、などという行動を僕が起こすことは絶対にない。ただし、表向きは何食わぬ顔で会話を続けながらも、おおむね以下のような意味のことを考える。
僕はなにを熱くなっているんだろう。進藤さんは僕のことなんてなんとも思っていないのに。見返りなんて期待できないのに。僕一人が必死になって、馬鹿みたいだ。
そう無声でつぶやいているあいだ、心はやるせなさと虚しさと自責の念で満たされている。表向きは平静でいられていることからも分かるように、決して激しい感情ではない。それでいて、なにをしても払拭できない驚異的な固着力を有している。追い払えたことは今までに一度もない。無視できるくらいに縮小するまで待つしか解決策はなかった。
二つの出来事がもたらした影響は大きかった。一見、石沢との親密な会話のみが関係しているようにも思えるが、事前に庭での会話があったからこそ、コンビニでの一件の影響力が増したのは明らかだ。
庭でレイからかけてもらった言葉に、僕は彼女に救世主の素質を見出した。心が劇的に楽になった。抱えている悩みのすべてが円満に解決した錯覚さえ抱いた。
しかし、長続きしなかった。中学二年生の僕の日常をぶち壊した石沢が、三年の時を経て、今度は幻想を打ち砕いた。
嫉妬。
不信感。
失望。
よりによって石沢なんかと――。
当時の僕は、無意識に、レイは自分だけのものだと思いこんでいた。狭い世界で生きてきたうえに、平日夕方の一時間の約束は堅持されたため、勘違いは勘違いのまま保存されていた。
しかし、二人でコンビニまで買い物に行くという、いつもどおりからは少し外れた行動をとったとたん、脆く、儚く、虚構の王国は崩壊した。
男子トイレと女子トイレの分岐点となる空間で一人、息を殺して聞き耳を立てる僕は、二人の会話だけではなく、王城が崩れゆく音も同時に聞いていたのかもしれない。
レイの裏切り行為を責める気持ちが胸中を支配した。
しかし同時に、幼稚な八つ当たりでしかないと理解してもいた。
狭い世界で、人と関わり合う機会を必要最小限しか持たなかったせいで、独占欲が高まり、己の所有物を奪われたような錯覚に陥ったのだ。
そうロジックを理解するだけの冷静さはあった。責められるべきは、改善するべきは、己の狭量さなのだと分かっていた。
しかし嫉妬の念は、自分だけのものでいてほしい気持ちは、そう簡単に解消されるものではない。
葛藤の末に心が導き出した、現実的で安全な妥協的解決策が、想いが一定の数値を超えそうになるとブレーキをかける、という処置だったのだろう。
石沢とのあいだで起きた出来事以降、僕が密かにレイに抱いてきた醜悪でネガティブな感情の数々はすべて、彼女に対する広義の好意ゆえのものだった。高まりが過ぎるとブレーキをかけるのは、決して手放せない、手放したくない、大切な想いを死守するために講じられた防衛手段。戦略として後退したに過ぎず、レイへの想い自体が冷めたわけではない。
しかし、熱くなるたびに待ったをかけられつづけたことで、脳が勘違いをしたとでもいうのか。あるいは、おあずけを食らいつづけることに嫌気が差したのか。レイに対する親しみや、彼女の存在自体や、彼女といっしょに過ごす機会を求める気持ちは、いつの間にか緩やかに低下しはじめていた。
このおぞましい変化に気がついてからも、僕の表向きの行動にこれという変化は生じなかった。週五回の訪問を心から歓迎した。ゲーム・漫画・飲食、その合間に交わす会話、言葉少なに流れる二人きりの時間――そのすべてを僕は無邪気に満喫した。
ただ、形のうえでは変わらないように見えても、全盛期と比べれば熱量が低下しているのは厳然たる現実。
僕はいつの日か、レイに対して以前のように熱中できない自分を見出した。十点満点中十だった想いが九に減っていることに、ある日ふと気がついたのだ。
その日を境に、レイへの情熱の低下をしばしば意識するようになった。
しょせんは十が九に微減しただけ。熱量は依然として高い水準を維持している。変化を過小評価する気持ち、低下に歯止めをかる行動をとりたい気持ち、両方あった。しかし、具体的な行動に踏み切ることはできず、減少という現象は消極的に容認された。
今になって思えば、そのような対応をとったことこそが、レイへの情熱が低下している証明に他ならなかったわけだ。
これまでも、レイへの熱量に増減が生じなかったわけではない。しかしそれは、体調が芳しくないとか、両親と口論をして気分が落ちこんでいるとか、一時的な状態に起因する変化に過ぎなかった。その場合でも、十段階評価のたとえを用いるなら、九に近い数量にまで弱体化するものの、十の範疇に留まりつづけた。大幅な低下でも、今後に尾を引く低下でもなかった。
しかし、今回はこれまでとは様相が異なっていた。広い意味での危機感を抱かなかったわけではないが、それ以上の勢力の諦念を伴った。一見、これまでどおりにレイと過ごす時間を楽しみながらも、緩やかながらも一方的に想いが冷めていく現実を、当事者よりも傍観者に近い立ち位置から眺めていた。折に触れて、他人事のように「なんとかしなければ」と思うだけだった。
熱意の低下が行動として最初に表れたときのことは、今でもよく覚えている。
その日、レイは普段よりもあくびの回数が多かった。ページに落ちた瞳はなかばとろけていて、ページを繰る指づかいは物憂げだ。
レイは以前に一度、僕の部屋にいるときに居眠りをしたことがあったが、睡魔と格闘していたのはそのときくらいのもの。慢性的な不眠に悩まされている人ではないし、本日の体調も普段と比べて悪いようには見えない。
「寝不足なの?」と問うてみるか。それともスルーするか。
僕がとった対応はどちらでもなかった。
「そんなに眠いんだったら、早めに帰って昼寝でもすれば。もう夕方だけど」
レイは双眸を少し大きくして僕を見返した。命令されたことに腹を立てたようにも見えて、軽く狼狽してしまったが、何食わぬ顔で言葉を追加する。
「眠たいのを我慢してまでここにいる理由、ないでしょ。それに、六時まで十五分を切ってる。たまには早めに切り上げてもいいんじゃないかな」
「心配してくれるのはありがたいけど、そこまで眠いわけじゃないよ。仮眠をとらなくても平気だから」
「そう? 余計なお世話だったみたいだね」
苦笑を返してゲーム画面に視線を戻す。鼓動は平常よりも少し速かった気がする。制限時間を迎えるまで部屋を漂いつづけた、気まずいような、ほのかに息苦しいようなあの空気は、今でも忘れられない。
僕は不安感を強く覚えやすい性格だから、たった一つのあくびを深刻に捉えてしまうのは仕方がない。
ただ、「眠いならここで寝てもいいよ」と言葉をかけるのではなくて、「眠いなら帰って寝れば」と突き放した――。
形だけゲームの世界に向き合いながら、コンビニでの石沢の件がなければ、僕は絶対にこの行動はとらなかっただろう、と思う。
同時に、レイは僕の発言をどう感じただろう、と考えざるを得ない。
考えはじめてそう時間が経たない段階で、まずい発言だった、という評価が僕の中で不動のものとなった。程度の大小はともかく、早く帰れという意味の言葉をかけられて、不愉快に思わない人間はいない。
それでいて、その過ちに対する本格的な反省の念は湧かない。
進藤さんは、石沢のような普通の人間と話すほうが楽しいのだ。僕といっしょに過ごすのも一応楽しいのだろうが、僕以上に楽しいと思える人間はこの世界に掃いて捨てるほどいる。僕にとっての進藤さんとは違って、進藤さんにとっての僕は取るに足らないちっぽけな存在でしかないのだ。家が近所で、昔からの知り合いで、登下校のさいにたまに話をする機会があったからこそ、奇跡的な偶然から、二人きりで過ごす習慣が生まれたに過ぎない。うぬぼれて、浮かれていた僕が愚かだったのだ――。
言い訳のように見苦しく、呪詛のように執拗に、本題とは無関係の思いを、心の中で暗く口ずさんでいる僕がいた。
他人は他人であって、自分のものではない。
煎じ詰めればそう要約できる、大多数の人間からしてみれば当たり前でしかない真理を、あのころの僕はまだ真の意味で理解していなかった。
対人コミュニケーション能力に重大な欠陥を抱え、人との関わり合いを避け、狭い世界で生きてきたせいで。
そんな当たり前の常識を、身をもって学習できたという意味で、レイとの交流は大きな意味を持っていた。
ただ、当時の僕はそれに気づかなかった。ほのかな心苦しさを常に抱えて日々を生きていた。
外までレイを見送ったあと、ものさびしいような感覚からなかなか逃れられない日が続いた。彼女に思いを馳せるとき、倦怠感にも似た物憂さが伴うのが当たり前になった。それらの原因は見当もつかない気もしたし、上手く言葉にできないだけで、すでに一から十まで理解している気もした。
次第に隠しきれなくなっていく僕の異変に、レイはおそらく感づいていたはずだ。しかし、彼女がそれに言及することはなかった。平日夕方の一時間、僕の自室で好きなことを好きなようにして過ごす日々に、彼女は満足していて、それ以上のことをする意思はないように見えた。
こうして振り返ってみると、当時の僕たちの関係は歪以外のなにものでもない。
双方ともに歪さには気がついていて、相手が歪さに気づいていることにも気づいていたに違いない。それなのに、互いになんら対策を講じずにいたのだから。
その日は朝から冷たい雨が降っていた。
ゲーム音をかき消すくらい強まったかと思えば、降りやんだのかと勘違いするくらいに弱まる。僕は頻繁に窓外を確認せずにはいられなかった。
午後に入ると僕は頭痛にさいなまれはじめた。低気圧のときにその症状が発生することがたまにあるので、たぶんそれが原因だろう。
僕を襲う頭痛の特徴として、目の奥が刺すように痛む。ゲーム画面を見つめていられなくなるし、その他の行為も満足にできなくなる。不承不承、痛みが落ち着くまで大人しく横になっているしかない。
ベッドに横になったのを境に、雨脚は激しい状態で固定された。頭痛には情け容赦なく、無聊には緩やかに攻め立てられながら、眠りに落ちることもできずに過ごす時間は、生き地獄だった。手持無沙汰なときは必ずそうであるように、時間の流れがひどく遅く感じられて、泣き面に蜂だ。
それでも時間の経過とともに、体調は緩やかに回復していった。雨が全体的に少し弱まったころには、頭の痛みはだいぶ和らいでいた。
いい加減、安静にしているのにも飽き飽きしていた。しかし、症状がぶり返すのが怖くて、ゲーム機の電源を入れるのははばかられる。必然に、引き続きベッドの上で漫然と過ごすことを余儀なくされた。
いつの間にか雨音は聞こえなくなっている。窓外は薄暗い。降りやんだのか、それとも音が聞きとれないくらいに弱まっただけか。
確認する気にはなれない。体力というよりも気力の問題だ。
僕は一人だ、と唐突に思う。世界は死のように静かで、雨音をBGMに呻吟しているさなかよりも、はるかに手持無沙汰だと感じる。
知らず知らずのうちに、レイのことを考えていた。
想念は総じてとりとめがなく、ネガティブなものが多かった。彼女に向き合うことに気乗りがしない。普段、彼女が不在のさいに彼女について思いを馳せるときとは、どこか様子が違う。
それでも僕は、進藤レイについてひたすら考えつづけた。気持ちが乗らないし、暇つぶしの意味合いが強かったが、心は真剣だ。着地点の見えない思案は、続けようと思えば永遠に続けられる気がした。
やがて午後五時を回った。
レイが定刻よりも早くインターフォンを鳴らすことはまずない。その日は二分遅れだった。僕はベッドから抜け出して応対に出た。
「やあ」
レイは左手を上げた。傘を差していて右手が塞がっているからだ。ビニール傘で、雨滴がまばらに付着している。顔に浮かんでいるのは、いつも僕によく見せる、目鼻立ちの凛々しさが和らいだ穏やかな表情。
短距離の移動にもかかわらず、わざわざ傘を差した。僕に対する誠意の表れのように思えて、決意が揺らいだ。レイの気持ちも考えず、思いつきも同然の私情を押し通すために知恵を絞ってきた自分が、すさまじく身勝手な、恥ずべき人間に思えてきた。
レイは傘を畳み、上品に雫を切った。再びこちらを向いて、初めて異変を察知したらしく、下から覗きこむようにして僕の顔を見つめてくる。
思わず、一歩後ずさりしていた。レイは小首を傾げた。
迷いに迷った末に僕が選んだのは、
「――ごめん。わざわざ来てくれたのに悪いけど、今日は体調が悪くていっしょに遊べない。頭痛がひどくて、ゲームもできないから」
掠れも震えもなく、つかえもせず、なおかつ一言一句正確に、用意していた脳内原稿を読み上げられた。その成功が、自分がとった選択は正しいのだという思いを生み、臆することなく彼女の顔を見返すことができた。
レイは気圧されたように上体を軽くのけぞらせた。それに続いて、僕から目を逸らす。なにかを考えているらしい顔つき。僕は緊張に鼓動を高鳴らせながら彼女の言葉を待つ。
彼女はおもむろに、傘を持っているほうの手で頬をかくと、僕と目を合わせてきた。瞳には、さばさばとした諦めの色が宿っている。そのときのレイは、僕の目には、年齢のわりに精神的に成熟した人物に見えた。
「……そっか。体調が悪いなら仕方ないね。じゃあ、今日は帰る」
僕に背を向け、傘を差すか差さないか、見極めようとするように空を仰ぐ。雨雲を睨んでいた時間は五秒にも満たず、後者が選ばれた。こまかな雨が無防備な体を容赦なく濡らす。
玄関と門との中間地点に差しかかったところで、彼女の足が緩んだ。雨の匂いにのってひとり言が流れてきた。
「最初から雨天中止にしておけばよかった。そうすれば濡れずに済んだのに……」
胸を思い切り突かれたような衝撃を感じた。なにか言わなければ、という思いが腹の底からこみ上げてくる。
しかし、言葉が見つからない。
にわかに雨脚が強まった。レイはあっという間に進藤家の中に消えた。
雨はいつしか横殴りに変わっていた。
僕に向かってくる軌道だったため、体は濡れ、のみならず家の中にも降りこんでいる。この発見にようやく我に返り、慌てて中に入ってドアを閉めた。
上がり框に腰を下ろしてため息をつく。三和土はドアに近い領域が少し濡れている。
他者とまともにしゃべれず、コミュニケーションをとることを恐れている僕にとって、玄関は安心できる場所ではない。未知の人間が聖域に侵入するための入場口だからだ。
こんな場所に長々といたくない。速やかに遠ざかりたい。
本音とはうらはらに、僕は玄関に居座りつづけている。どうしてこんなことをしているのか、自分でも分からないままに。
体感としては半時間近く座っていた気もするが、実際ははるかに短かったと思う。
僕は小さくため息をついて腰を上げ、応接間へ向かう。玄関に隣接した南向きの一室だ。
上がり框に座りこんでからずっと、自分がなにをしたいのかが自分でも分からなかった。しかし、今になって振り返れば、動機は笑ってしまうくらいに単純明快だ。
応接間は、進藤家の玄関先がよく見える位置にある。
長大な窓にかかったカーテンを左右に開く。視線は自ずと進藤家に吸い寄せられる。
息を呑んだ。
進藤家の開け放たれた門に背に、レイが佇んでいるのだ。雨が降りしきる中、傘も差さずに。
顔も体も曽我家のほうを向いている。そのおかげで、雨と遠さによる妨害をものともせずに、表情をはっきりと視認できた。
救いを求めて、しかし叶わなくて、絶望して――だけど諦めきれない、そんな表情をしていた。
熱いとも冷たいともつかない、皮膚という皮膚が粟立つ感覚に全身が包まれた。
彼女の顔を見た瞬間、気がついた。気がついてしまった。
僕は今まで、夕方の一時間に対するレイの想いを過小評価していた、と。
何気なく、悪気なく、なんなら喜んでくれているとさえ思って頻用していたニックネームに、実は嫌悪感を持っていると、ニックネームで呼んでいる本人から告げられたような気分だ。待ってくれ、と思う。
違うよ。違うんだよ、進藤さん。僕は、君が嫌いだから拒絶したんじゃない。君に非があるから追い返したんじゃない。進藤さん! 進藤さん!
居ても立っていられず、カーテンを開け放したまま応接間を飛び出した。靴下のまま雨の中へと走り出ようとしたが、さすがに思い留まり、スニーカーを履いて外に出る。
玄関ドアを開いた音にワンテンポ遅れて、レイの顔が持ち上がった。降りしきる雨を気にも留めないくらいに心は熱くたぎっていたのに、道路を横断するに前に左右を確認する冷静さがあったことを、振り返るたびに奇妙だと思う。
何分かぶりに相対した僕たちは、ただ雨滴に打たれた。レイは予想外の展開に言葉が出ないらしい。僕も違う理由から言葉を見つけられずにいた。
曽我大輔は、自らがアウトプットする情報を他人がどう受けとるかを病的に気にする男だ。誰かに向かってしゃべるのは恥ずかしい。しゃべったことで恥をかきたくない。脳内台本も用意できていないのにしゃべるなんて、とてもではないが無理だ。
ただ、そのときは状況が普通ではなかった。誰がどう考えても、こちらから言うべきだ。
――言わなければ。
「進藤さん」
レイの右手首を掴み、有無を言わさずに曽我家へと引っ張っていく。動き出した直後は軽い抵抗があったが、それを乗り越えたあとは従順だった。僕は間違ったことはしていない。そう確信できた。
雨が当たらない領域まで戻ってくると、とたんに体温が上昇したように感じられた。その場で待ってもらい、大急ぎでバスタオルをとってきて使ってもらう。レイだけではなく僕も体を拭いた。大して濡れていなかったが、レイと同じ行動をとっている、それだけでなんとなくうれしかった。馬鹿みたいだが、ほんとうにそう感じたのだ。
レイを自室へと導き、再び待ってもらってホットコーヒーを淹れる。スティックタイプの砂糖とミルクとともにトレイにのせ、部屋に戻る。
レイはベッドの縁に腰かけていた。うつむき、所在なさそうに膝頭を見つめている。僕はコーヒーがのったトレイをベッドのすぐそばに置く。レイは置かれたばかりのものを一瞥したが、黙っている。僕は自分の分のカップを手に、いつも彼女がよく座っているあたりに腰を下ろす。
二人とも、しゃべり出そうとしない。
僕のほうから口火を切るべきなのだろう。それは分かっていたが、少し待ってみたかった。コーヒーカップの褐色の水面を眺めながら、時おり吐息を吹きかけては無音ですすり、彼女の言葉を待つ。
「曽我といっしょに遊ぶようになった理由、まだちゃんと話していなかったよね」
レイはおもむろに口を開いた。自らの膝頭に目を落としたまま唇を動かしている。顔ににじんでいるのは、後ろめたさを持て余しているかのような弱々しい苦笑。
「曽我が暇そうだから、幼なじみのあたしが暇つぶしに協力してやる、みたいな、上から目線の発言をしたよね。まあたしかに、曽我が暇だからというか、時間に余裕がありそうだからこその提案ではあったんだよ。でも実際は、あたしが曽我にすがりついたというのが実情で。
……あたし、居場所がどこにもないから、曽我の自室に居場所を求めたんだ」
「居場所がない? それって、自宅にはいづらいってこと? 午後五時から六時の一時間だけ?」
まずは最後まで話を聞くべきだと思ったが、口を挟まずにはいられなかった。レイは気を悪くした様子もなく答える。
「一時間っていうのは、あまり長時間すぎると曽我に迷惑がかかると思って。いや、一時間だとしても迷惑なのかもしれないけど。
……いづらいよ。家族が家にいるときは、いつだって居心地が悪くて、息を吸ったり吐いたりするだけでも苦しい。家族との折り合いが悪いんだ。あたしと、あたし以外の家族の仲が、険悪で、最悪で。あたし以外の家族は、というか両親は、テレビドラマで描かれる模範的な仲良し家族みたいに仲睦まじいんだけどね。具体的にどんなふうに悪いのかは――言いたくない。ようするに、そのくらい悪くて、どうしようもないってこと」
曽我大輔という人間を信頼していないわけではない。ただ、事情を理解してもらうには長く複雑な説明が必要だし、打ち明けることに抵抗もある。中途半端に明かすくらいなら、いっそなにも言わないほうがいい。そんな判断にもとづく発言らしい。
不登校が原因で退学を余儀なくされ、進路の問題で悩み、親からのプレッシャーに悩んでいる自分が、急にちっぽけに思えた。こみ上げてきた己を恥じる気持ちに、手がかすかに震えた。コーヒーカップの中身が半分になっていなかったなら、きっとこぼれていただろう。遅まきながら、カップを床に置いた。
言葉を返せない。勇気の問題ではなく、文言が浮かばないのだ。
僕はちっぽけで、無力だ。
「高校生になる前からずっと、しんどい思いをしてきた。こんな生活がこの先も長く続くんだろうって、半分以上諦めていた。だけど、曽我のおばさんから曽我のことを聞かされて、閃いたんだ。自分と同等か、それ以上にみじめな境遇に甘んじている曽我を、自分の心の安定のために利用してやろうって。こっちの家庭の事情はベールに包まれたままだから、まっとうな人生、まっとうな高校生活を送っているあたしが救いの手を差し伸べるという形にすれば、ありがたがって首を縦に振ってくれるかな、と思って」
「……そうだったんだ」
「そうだよ。思いつきじゃなくて、計算にもとづいた提案だったの。綿密とは口が裂けても言えないけどね。曽我と言葉を交わす機会はちょくちょくあったから、付き合っていてストレスを感じる人間ではないのは分かっていたし。だから曽我が前向きな返事をくれたときは、誇張でもなんでもなくてガッツポーズしそうになったもん。ああ、これでやっと心安らげる時間が確保できたぞって」
話すかたわら、時おり僕へと投射される視線からは、自責と反省、両方の感情がうかがえた。己の高慢さを深く恥じている目だ。
でも、僕はうれしかった。
だってレイは、こんな僕を必要としてくれたのだから。高校を中退して、ニートで、半ひきこもりの僕のような人間を、利用する価値があると見なしてくれたのだから。
自分のちっぽけさを恥じる気持ちは、笑ってしまうくらいに呆気なく消滅していた。
レイは己の行為を恥じているようだが、そもそもの動機が同情に値するものだから、傲慢だとも身勝手だとも僕は思わない。
むしろ、感謝している。心が、体が、今にも打ち震えそうなくらい感動している。涙の気配さえ目の奥に感じて、まばたきの頻度は高まった。
「家に居場所がないんだったら、外をほっつき歩けばいい。他人様の家に押しかけて迷惑をかけるな――。
そういう意味のこと、たぶん曽我も思ったと思うんだけど、でも、それは無理なんだ。難しいんだ。わたし、一人で屋外を出歩くのが苦手で。といっても、曽我みたいに親しい人間がいっしょの場合は別だよ。だけど、一人だと絶対に苦しくなる。確実に怖くなる。人混みなんかは最悪だ。ただ歩いているだけでも呼吸が早くなって、息が詰まりそうになって、逃げ出してしまう。逃げ出したくなる、じゃなくて、実際に逃げ出しちゃうの。
人気のない場所に逃げこんだとしても、安息からは程遠い。周りばかり気にしてしまって、気になってしまって、心が休まらない。家の中の空気も最悪だけど、歩き回る労力を消費しないぶん、そのほうがましっていうか。
ようするに、外の世界が怖いということなんだと思う。怖いから、信頼がおける人がそばにいてくれないと、肩の力を抜いて景色のいい小道を歩くことすらもできない。
……この感覚、曽我に共感してもらうのは難しいと思う。そもそも上手く説明できているか怪しいし」
「いや、分かるよ。進藤さんの気持ち、とてもよく分かる」
その言葉に、レイが僕の顔を真っ直ぐに見つめてきた。
「僕も外の世界が怖いよ。買いたいものがあるときはコンビニに行くって話したと思うけど、逆に言えば、必要なとき以外はまず外出しない。ニートなのに平日の昼間から出歩くのが恥ずかしい、とかじゃなくて、人に話しかけられるのが怖いから。前に言ったように、僕は人としゃべるのが苦手だから……」
僕はレイの目を見返しながら話す。レイは僕から視線を逸らさない。同じ部屋の中にいながら、たっぷりと物理的な距離をとっているからこそ、そうするだけの勇気を持てたのだと思う。僕だけではなく、おそらくは彼女も。
「話を聞いた限りだと、進藤さんはただ外に出るだけで怖いみたいだから、僕と感じている恐怖とは違う。でも、人混みが怖いとか、人気のない場所でも心が落ちつかないっていうのは、僕も同じだよ。人としゃべりたくないからだけじゃなくて、それも負けないくらい嫌だったんだって、進藤さんの発言を聞いて気がついた。
乱暴かもしれないけど、僕たちは「人間が怖い」っていう共通点を持った、似た者同士なんじゃないかな。
性格も趣味も、なにもかも違うけど、根っこの部分でかなり似ていると思う。進藤さんにとってはうれしくない指摘かもしれないけど」
レイはなにか言いたそうにしているようにも見えたが、唇は開かれなかった。だから、僕は話を進めた。
「価値観も、利害も、一致していると思うんだよね。僕が暇なのは事実だし、なにより、進藤さんといっしょに過ごすのは楽しい。僕にとって、君と過ごす時間は暇つぶしなんかじゃない。それ以上のものだ。君が帰ったあとでその日の一時間のことを考えるとか、君が来ない土日にさびしい気持ちになるとか、進藤さんと過ごす時間が日常になった影響、かなりあるよ。むちゃくちゃある。たとえば、庭の草刈りを手伝ってもらったときのことなんだけど」
「うん」
「草刈りが終わったあとで、コンビニにアイスを買いに行ったよね。そこで進藤さんが、たまたま店に来た、同級生の男子? 分からないけど、僕たちと同年代の男子と話をしているのを聞いて、その男子に嫉妬したこともあったよ。さすがに一時的なもので、今はもうなんとも思っていないけどね。それくらい、進藤さんの存在は僕の中では大きくて」
振り返るたびに、あの話の流れの中で、石沢の件に触れられたのは大きかったと思う。僕が打ち明けた嫉妬の感情に、進藤さんが嫌悪感を抱かなかったのを確認できたという意味でも。本音を押し殺して「今はなんとも思っていない」と断言したことで、ほんとうにその件をなんとも思わなくなったという意味でも。
「そんな進藤さんと、一時間だけでもいっしょにいられるのは、とてもうれしいことだよ。迷惑どころか、むしろ大歓迎。エゴを押し通そうとしているだとか、そんなふうには考えないで、どうぞ僕をいいように利用してって感じ。……長くなっちゃったけど、僕の意見は以上だよ」
「曽我は――」
レイの口から静かに言葉があふれ出す。秘めておくつもりだった想いを、我慢しきれなくなって解き放ったかのように。
「あたしと過ごす時間、最初はぎこちなさがあったけど、だんだんリラックスしてきたように見えた。だからひと安心というか、むちゃくちゃ迷惑をかけているわけじゃない、という思いはあったんだよ。
でも正直、曽我の心の中まで考えたことはほとんどなかったかもしれない。あたしは人付き合いがそんなに得意じゃないから、どうしても自分のことで精いっぱいになっちゃうんだろうね。
だから、曽我の考えが聞けてなるほどって思ったし、思いのほか好意的に捉えてくれているんだって分かって、率直に驚いた。曽我ってけっこう熱いやつじゃん、っていう発見もあったし」
「熱い? そうかな。そんなつもりはないけど」
「ていうか曽我、あんた、ほんとに人としゃべるのが苦手なの? 普通にどころか、かなりしゃべってるよね」
「誰とでもではないよ。親ですら話しにくいなって思うこと、しょっちゅうあるし。進藤さんだからこそ、ここまでしゃべれてるんだよ」
「ほんとに? それは光栄だ。……ねえ曽我、明日からもいつもの時間に来てもいい?」
「もちろん。お菓子と飲み物、用意して待ってるよ」
レイが指摘したとおり、あのときの僕はほんとうによくしゃべったと思う。ありのままの自分というものがあるなら、明らかにそれからは逸脱していた。普通ではなかった。
でも、思う存分話せて、レイとたくさんの言葉をやりとりできて、心から楽しかったし、心からよかったと思っている。
よかったのは、長きにわたる会話のあと、いつものように漫画を読み、ゲームで遊び、菓子とジュースを飲み食いし、無駄話をするという、いつもどおりの過ごしかたができたこともそうだ。
今回の件で、僕たちの関係に根本的な変化が起きたわけじゃない。今までみたいな日々が、今日も、明日も、ずっとずっと続いていくんだ。
そう確信できたのが、もしかすると、その日の僕の、いや僕たちの、最大の収穫だったのかもしれない。
永遠なんていうものは、この世界に存在するはずもないのだけど。