私の悪意を45枚
「お前の為だから」
そう言われて目から涙が溢れた。
私の為を思って言ってくれた彼の言葉。
ツララよりも鋭く、私のハートは冷たく凍る。
――ランジェリー・ハッピー Rの決断
……って、おかしくね?
だいたい、今日は何の日だと思ってんだよ。イブだよ。クリスマスイブ。
恋人たちは今日結ばれるって決まってんだろ? そんな日になんで分かれなきゃいけねーんだよ!
私の為だからって、じゃー今まではなんだったんだよ。
三年間、先生と生徒で恋愛っていうか、同じマンションに引っ越しまでさせて早々に肉体関係まで持ったじゃねーか。今更なんなんだよ。
それに三月には私は卒業だぞ。もう先生と生徒とか関係ねーじゃんか。自分に都合のいい嘘ついてんじゃねーよ。
あーむかつく。
ずっと彼に気に入られようと頑張ったんだぞ。今日だって彼の趣味を考えて、もてなしてやろうと思ってたんだよ。
……そういや、玄関のドア開けたときから反応悪かったな。
あれか? このミニスカ・サンタコスが気に入らなかったのか?
クリスマスだから気張って着てやったのに。高かったんだぞ、これ。ハンズで二千五百六十円もしたんだ。そんだけあればチロルチョコどれだけ買えると思ってんだよ。
やっぱりベタに裸リボンで「私を食べて」ってした方が良かったか。
あー、仕方ねーな。今から準備してやんよ。
……とは言ってもリボンなんてねーしな。なんかで代用できねーかな。
シーツを切るか。あー、でもめんどくせーな。それにHするまでのちょっとの間だけ必要なんだから、そこまでする必要ねーよな。
白くてー平たくてー長いものー。
「にゃー」
彼に飼ってもらった三毛猫のサノスケが鳴いた。三年生きているからサノスケ。来年はシノスケに改名してあげよう。
そうだ。サノスケ、知らね? 白くて平たくて長いもの。
サノスケの隣には爪とぎの代わりにでもしたのか、ボロボロの白い筒があった。
おー、あるじゃん。
トイレットペーパー。
これ最強ー。
これならそのまま使えそうだし、Hの後にも使えて便利、便利。
とりあえず、サンタコスは脱いで……下着、どうするかなー。やっぱ、下着の上にリボンよりも、裸に直接リボン(トイレットペーパー)の方が燃えるね。裸エプロンは男のロマンって聞いたしなー。
よし、下着も脱いどこか。
リボンを胸に巻きつけ、って破れちゃったよ。
私の胸大き過ぎるんだよなー。
とりあえず、緩めに巻いとくか。
下はどうすっかな。やっぱ、ふんどし風よりもミニスカ風に巻いたほうがいいよな。腰から巻いて絶対領域がギリギリ隠れるぐらいにしとくか。
あっ! 綾波みたいに包帯チックな雰囲気も取り入れて太腿にも少し巻いとこー。
よし、出来た。
ちょっといい感じだな。遠目ならそれらしく見える。
でも、なんかガサガサすんな。
まぁ、いいや。
はやく行って彼に破いてもらお!
……おっと。
盗んどいた合鍵を持ってかなきゃ。
私はドキドキしながらマンションの廊下を歩く。
こんな姿を彼以外の人に見られたらどんな反応をすればいいのか分からない。マンション内だから流石に通報されることはないと思うが自信はない。
それに外は雪が降っていて、とても寒かった。素肌にリボンを巻いただけの格好は寒さに強いとは言えない。っていうか弱い。
クリスマスイブに雪なんて、私を応援するかのようなシチュエーションが私を俄然やる気にさせた。
白いイブに、白い私。
これほどマッチする光景はない。
ここで誰かに会っても、もしかしたら天使が舞い降りてきたーとか勘違いしてくれるかも。通報されない自信も出てきた。
私はクリスチャンでもないのに天に感謝した。
そんなバカなことを考えつつ歩いていると、幸いにも誰に会うこともなく彼の部屋の前につく。恋人の夜に邪魔するような輩はいないようだ。
私は手に持っていた合鍵で扉を開ける。
カチャリという音ともに私の中で彼との思い出が湧いて出てきた。
何度このドアを開けたことだろう。一番最初に開けたときはすごいドキドキしたことを覚えている。
今も恥ずかしい格好で廊下を歩いてきて心臓がドキドキしていた。
この姿を彼が見たらどれだけ驚くのか想像して更に鼓動が激しくなる。少し深呼吸をする。ドキドキしているのがバレたらがっついてるとか思われちゃうかもしれない。そんなの恥ずかしいじゃないか。
これは飽く迄クリスマスイブのやり直しなんだ。私はがっついてない。がっついてない。
ドアをゆっくり開けて部屋に入ると、予想に反して彼はいなかった。
トイレとかお風呂とか全部探してみたけど、見当たらない。
「んだよ! ワザワザ来てやったのに、いねーってありえねー」
私がどんだけ寒い思いしたと思ってんだよ。
部屋暖かくして待ってるのが彼氏の礼儀だろ!
だいたい、どこ行ったんだよ。
寂しいじゃねーか。
待っててくれるって信じてたのに……。
イブに彼女振って出かけるところってどこだよ。
他に女いないって言ったじゃん。
今日はフリーだろ。
部屋にいろよ。
もう。
……はー、なんか疲れた。
そう思いながら私がノートパソコンの前の椅子に座ると、マウスに腕が当たったようでモニタに電源が入った。
どうやらスリープ状態になっていたみたいだ。
モニタには巨大掲示板サイトが写っている。そこにはクリスマスらしいスレタイが画面いっぱいに広がっていた。
彼が戻ってくるまで見てようかな。
色々なスレッドがあるけど、私は女神降臨スレが一番好きだ。
もちろん女神は私のこと。
私の登場を待ってみんな必死に腕を振っている。
この具民ども! よく拝めよ!
そう思いながら写メをアップするのだ。
そうすると本当の神の様に崇める奴等が出てくる。蛆虫よりも沢山。そいつらを焦らして遊ぶのが痛快だった。
「暇だから遊ぶか」
適当なタイトルでスレッドを建てた。
「それにしても腹減ったな」
彼が飯おごってくれると思ってたから何にも食べてなかった。
レスがつくまでなんかあさるか。
冷蔵庫、冷蔵庫と。
ケーキぐらいあるかなー。
期待して開けた冷蔵庫の中には腐りかけた生姜だけが入っていた。
「ちっ! しけてんな」
私が来んの知ってんだろうが。ちゃんと用意しとけよ。
ケーキとかワインとかケンタッキーとか。
そういうもん用意すんのが男の仕事だろ?
イライラしたら余計に腹が減った。
彼も戻って来ねーし、一度部屋に戻るか。
うー、さみ。暖房、暖房。三十度ぐらいにすっか。
服着たいけど、リボンをまた巻くのは面倒だし、このままでいいや。
確か冷蔵庫にレトルトのスパゲティ・ミートソースが入ってたな。
キッチンで包丁を取り出し、包んでいるフィルムを破る。
それを電子レンジにぶち込んで、三分か。
さみー。こんだけさみーと自然と身体も揺れるな。胸もぶるぶる揺れるわ。
まだ雪もやんでねーし、そりゃさみーわけだよ。
彼、どこかで雪につかまってんのかな?
あぁ、たぶん、買出しに行っているんだ! だから部屋に食べ物がなかったに違いない。
そっか。
やっぱ、私の彼だな。
――チン。
スパゲティでも食いながら掲示板見るか。
スパゲティをノートパソコンの前に運んで、と。
電源オーン!
よし、食おう。
熱っ!
あちーな。落としちゃったじゃんか。あーあ。せっかく巻いたリボンにシミが付いちゃったよ。
お、大きな胸って便利だよなー。床まで落ちなかったよ。よしよし啜ってやろう。下から持ち上げれば、むぐむぐ。簡単簡単。
「みゃ」
サノスケも寒かったのか、それとも私を温めようとしてくれているのか、私の膝の上に乗ってきた。膝の上に少しのぬくもりを感じるとノートパソコンに向き直る。
起動したノートパソコンで自分で立てた掲示板を確認すると、何件かレスがついていた。
「つりだろって? 釣りじゃねーよ。お、今のはりせんぼんの春菜に似てたな。あとで彼に見てもらお」
私はレスをしながらスパゲティをちゅるんと啜る。
「コテハンかぁ……やっぱ、これだろ」
コテハンを付けろというレスに対して私は少し考える。そして、名前のところに『醜いアヒルの子』と入力した。私はこの話が大好きだ。理由は最後に笑うのが主人公だから。これほど私にふさわしいストーリーは読んだことねー。
と言ってもこれ以外読んだことないけど。
「あ? スリーサイズに排卵日ってバカか、こいつら。ノーミソ足りないんじゃねーか。ここは私のスレなんだよ。まずは私の話を聞くのが筋だろ。死ね」
失礼な奴等にもちゃんとレスを返す。
「『>>9 氏ね。キモオタ』『>>10 童貞地獄へ落ちろ』と」
やっぱ、私って女神だよねー。
少し経つと私の話を促すレスがついた。
いいねー。
やっぱ、下僕はこうでなきゃ。
主の意図を汲んで率先して動かなきゃな。
じゃー、そろそろ話してやんよ。ハンカチ手元に忘れんなよー。
別れようと言われたこと、別れるのに「お前の為だから」以外理由がないこと、三年間ずっとつきあったこと、私は顔もスタイルもレベルが高いこと、料理や掃除や洗濯、それにHも頑張ったこと。
いくつかのレスにかけて書き込む。
長文をキーボードで打つのは大変だったけど、女神なんだからこれぐらいはしないとね。
しばらくすると「十分だろ」「っていうか それが嘘に思えるぐらい現代じゃ絶滅危惧種」というレスが返ってきた。
だろ? だよなー。
こんな私をフるなんてありえねーよな。
今なんて白いリボンを巻いて自分をプレゼントしようとしてんだぜ。いじらしいだろ?
『彼氏何歳?』って彼氏の年齢なんて決まってんだろよ。先生なんだから十八ってことはねーよ。
「二十八、と」
書き込むと驚きのレスが返ってきた。バカかこいつら。
最初に女子高って書いてるだろうが。
「しかも福山似なんだぞ。すげーだろ」
調子に乗って書き込んだら「恋は盲目だな」って返ってきた。
あ? 私の目がフシアナだと!?
自分で見てみろや。
私はスレの趣旨である自分の写メをアップするより先に、彼の写メをイメピタという画像サイトに投稿する。
その間にもレスが進み、福山レベルなら浮気も有り得ると書かれていた。
「……浮気かぁ」
写真のURLをアップしようとすると「浮気は文化だ」という一つのレスが目に付く。
そういえば靴下穿いてないな。
やっぱ、靴下穿いてない男の人って浮気してるのかな。
私の彼に限って言えば浮気なんてしてないと思うけど、人に言われると不安になるな。
彼は格好いいし、何よりもやさしい。
高校入学したてで不安だった私にやさしく声をかけてくれた。先生だから当たり前なのだろうけど、高校に入ったばかりの私には大人の男の人って感じがして何だか新鮮だった。
「彼に女いるようには思えないんだよね……」
私はそう言いながらも掲示板の愚民が勧めるままに彼の写メのアドレスをアップする。顔出しと言えども取りあえず十分ぐらいなら平気だろ。
アップした直後から写メを見た奴らから驚嘆のレスがついた。
ほら見たことか!
私の目がフシアナなわけねーだろ。こんなにイケメンなんだぞ。私のレベルがわかったかよ。
冷たくなったスパゲティを口いっぱいに斯き込むと、ムシャリムシャリと噛み砕いた。
雪の降る夜はシンと静かで、ノートパソコンのファンの音だけが耳をつく。
私は新しいレスを求めてブラウザの再読み込みボタンを連打していた。はやく、はやく私を褒めろ。
――ガガガガガガ。
「ひゃあう!」
机の上に置いたケータイが震えて小刻みに移動する。
んだよ。
脅かすなよ。
ケータイを手に取る。
『サトシから着信』
電話は彼からだった。名前を見た瞬間、私は固まる。まさかの着信。急いで掲示板に「電話北」と書きこんだ。
なんだよ。
今頃おせーんだよ。
もっと早く電話してこいよ。
私が動揺して電話に出れず、掲示板に書き込んでいるとすぐに切れてしまった。
もう一度掛けなおさなきゃ。
掲示板に「今から掛けなおす」と書き込んで、自分のテンションを上げる。
愚民どもに宣言したのだ。やらなきゃならない。それが女神クオリティ。
彼の電話番号を呼び出すと、唾を飲み込んで通話ボタンを押す。
発信表示になったのを確認するとケータイを耳に当てた。
呼び出し音が私の耳を通して頭の中に響き渡る。
私の世界は呼び出し音だけになっていった。
『もしもし?』
電話がつながり彼の声が聞こえる。
「もしもし、私」
彼の電話は他の先生が出るかもしれない。
だから決して名乗らない約束。
こんなときにも私は彼との約束を守る。
『あぁ、ユキか。……なぁ、ちょっと大事な話があるんだけど、いいか?』
「うん。なに?」
『出来ればさ、今から言うところに写真持ってきてほしいんだ。いろいろ思い出とか語り合いたいし。お前も暇だろ?』
「え? う、うん。暇だけど……」
『じゃあ、夜明けまで語り合いたいからさ、写真全部持って来いよ』
「うん!」
『五階の一号室にいるから』
「なんでそんなところに? サトシの部屋は十五階の十二号室だよね?」
『いいから来いよ。じゃ、待ってるから』
その言葉を最後に電話は切れた。
ぼーっとした意識でケータイ電話を見直す。
そこには確かに通話時間二分二十秒と表示されていた。
「良かった……」
私はこのことを報告しようとノートパソコンを見ると、暖まったキーボードの上にサノスケが座っていた。
「ちょっと、ダメだって」
サノスケの首根っこを捕まえてノートパソコンの上から下ろす。
案の定、掲示板には意味不明なレスが投稿されてしまっていた。
改めて掲示板のみんなに今あったことを報告する。
よりを戻せるチャンスかもしれない。私をフるはずないと思っていても一度は突き付けられた別れの宣告は無視できない。
でも、今は違う。
今までの楽しい思いでを彼と語り合って、また私と付き合いたいって思わせるんだ。
私は体に巻きつけたトイレットペーパーの端を破り、口についていたミートソースを拭う。
立ち上がって本棚からアルバムを抜き出す。
いくら内緒で付き合っていたからといっても三年間もあったのだ。アルバムは五冊にも上っていた。
アルバムを持ちながら、出かける前に掲示板を確認する。
「なに?」
写メをアップしたのがバレた?
そんなわけねーよ。
このスレを偶然見ていたっていうのか? 何十万人も見ている掲示板で奇跡でも起きない限りねーよ。これから奇跡が起こる予定だし、そんなに奇跡が沢山起きてたまるか。
ノートパソコンを閉じると、私はアルバムとケータイを紙袋に放り込んだ。Hの後の化粧直しのための化粧ポーチも入れる。
コンドームはつけない主義だから入れてない。
もしHをすることになっても外に出してもらえば……いや、もう中でもいいか。
無事によりが戻ったら結婚するんだ。
三年間も付き合えば十分。それに私の初めても二回目も全部彼にあげたんだ。責任取ってもらわなきゃ。
私に非はないんだ。正当な要求だよな。
出ようとして玄関先で姿見を確認する。動き回ったせいで白いリボンはあちこち裂けて、寒さで血の気を失った私の肌が見える。
拭いたはずなのに口から胸にかけてさっき食べたミートソースが付き、それが血のように見えた。
こりゃ流石にやべーだろ。
着替えなきゃ。
身に着けていたトイレットペーパーを乱暴に引きちぎると、脱ぎ散らかしていた下着を身に着ける。
つめてー。
すっかり冷えた床にあったため心臓が止まるかと思うぐらい冷たかった。
早く着替えなきゃ。
――ガガガガガガ。
再びケータイが振動する。
なんだよ! 今忙しいんだよ。
誰だよ!
『サトシから着信』
「もしもし?」
私は急いで電話に出た。
『何してんだよ。早く来いよ』
彼はイライラしているようで声が冷たい。
言い訳しなきゃ。
「今、着替えてて……」
『格好なんてなんでもいいから来いよ』
更にイライラさせてしまったみたいだ。だからと言ってこんな格好じゃ彼の元へ行けない。
「でも、今下着だけだし」
『……コートだけ着てくればいいよ。お前と写真だけあれば後いらないから。じゃ、急げよ』
急に優しくなった声に涙が滲む。
うん。分かった。
声にならない返答が聞こえたのか通話は切れた。
彼の言う通り、下着姿の上にもう少しで着収めになる学校指定のダッフルコートを羽織る。
アルバムの入った紙袋を手荷物と玄関のドアを開けた。
おっと忘れ物。
これ持っていかないとね。
私はコートのポケットにそれをしまった。
彼に指定された五階の一号室を目指す。
エレベータに乗り、十五階から一気に下った。
五階に着くとエレベータのドアが開いた。目の前に一号室がある。
雪と寒さのせいか、この階にも誰もいない。
本当に静かだ。
さっきまでざわついていた神経がなんとなく落ち着いていく。
彼に受け入れてもらえたからだろうか。また私を愛してくれるから安心したんだろうか。なんだか脱皮でもしたかのように清々しい気分だった。
深呼吸するためにひんやりと冷えた空気を鼻から吸い込む。
一度息を止めて、口からゆっくりと吐き出した。
私の息が冷気に触れて白く広がる。
その光景を見て私は去年の冬のことを思い出した。去年の冬も寒かった。私が手袋を忘れたことを知ると、彼は白くふわふわの息で私の手を温めて、自分のポケットに両手とも入れてくれた。自然と抱き合う姿勢になって私はなんだか恥ずかしかった。
目を閉じて思い出の余韻に浸ると、玄関のドアの横にある呼び鈴のボタンを押した。
中で電子音が鳴ったのが微かに聞こえる。
少しした後、スリッパの音が近づいてきた。パタパタと軽い音がする。
その音を聞いて私は身を強張らせた。
ドアが開くとそこには見たことのない女性が立っていた。
『浮気』
その二文字が私の脳裏に浮かぶ。
女性は艶やかなストレートのロングヘアで、体のラインにピッタリフィットするタートルネックのカシミアのセーターにタイトスカートを身に着けていた。装いからすると三十歳ぐらいだろうか。いや、肌の感じから見れば本当はもっと若いのかもしれない。
「ユキちゃん?」
「はい」
「いらっしゃい。中でサトシが待ってるわよ」
そう言うと女性は玄関のドアを押さえて私を中に招き入れた。
誰だよ!
私は彼に会いに来たんだ。お前じゃねーよ。
状況が理解できないまま、私は中に入る。
構造はどこも同じなのか、間取りは私の部屋と同じようだった。
奥の部屋に入ると彼がコタツに当たりながら蜜柑を食べている。すでに三つ目のようで蜜柑の皮がコタツの上に重ねられていた。
「よぉ。遅かったな」
テレビから視線を外さない。
福山似の彼がコタツに当たりながらテレビを見て、蜜柑を食べている。着ている服こそデザインされたシャツで格好いいと思えるが、やっていることはおっさんそのものだ。今まで見たこともないような彼の姿に私は唖然とする。
私はどうしたらいいのか分からなかった。
「コート預かるわ」
女性が私に声を掛けて来た。
「……この下、下着しか着てないんで」
「マジかよ!」
そこでやっと彼は私の方を向いた。呆れた顔で私を見る。
「本当にコートだけ着てきたなんて、ある意味、すげーよ」
「ちょっと、可哀想じゃない。こんな寒い中来てくれたんだから」
馬鹿にされた私を横からぎゅっと抱きしめる女性。なんか暖かかった。
「まぁ、いいや。その紙袋に写真入ってるんだろ? それとケータイのメモリおいてけ」
さっきまでとは違う声のトーン。彼の目つきは鋭く変わっていた。
私が写メをアップしたのがばれたのか?
でも、そんな都合のいい話があるわけない、と思う。
「思い出を語り合いたいって……」
「は? んなもん、嘘に決まってんだろ。俺の写メを悪用するような奴に思い出もくそもねーよ」
やっぱりばれてたんだ。
ばれてたらそれが当然の反応だよね。
「アルバムは置いて行くよ。ケータイは持ってない」
「ウソつけ。ポケットに入ってんだろ?」
彼の指先をたどると、私は無意識のうちにコートのポケットを押さえていた。
覚悟してコートのポケットからケータイを取りだす。
そして、メモリカードを抜き出して紙袋の中に入れた。
「はい」
もう声にならなかった。
彼は立ちあがって紙袋を受け取ると一通り中身を確認する。私が一年ごとにアルバムをわけているのを知っているから、数を数えてるんだろう。そして、彼が沢 山写メが入るようにと買ってくれた大容量のメモリカードをマジマジと見ていた。裏返していたから製造番号とか見てるのかもしれない。
「うし。じゃあ、帰っていいよ」
紙袋を床に置くと、またテレビに戻って行った。
「ちょっと、そんな態度ってないんじゃない? 仮にも彼女だったんでしょ?」
女性が彼に怒る。
「胸だけね」
彼はそう言い切った。
それを聞いて私はもうどうでも良くなっていた。こんな奴、私の彼じゃないし。
「帰ります」
私が背を向けて帰ろうとすると、後ろで女性が「ごめんね?」とやさしく呟いていた。私は振り返らず「いえ」とだけ返して玄関のドアを開けた。
「本当にごめんね」
玄関の方へ振り向くと女性がおっかけてきていた。
「あなたは彼の何ですか?」
ふと口をついて言葉が出る。それを聞いて何になるわけじゃないのに。私パニクってる。
「今、つきあってるの」
「いつからですか?」
「今年の春ぐらいかな?」
あぁ、二股かけてたのか。
「そうですか」
もうそれしか言えなかった。
自分の部屋に帰っても何もする気が起きなかった。
私が散らかしたトイレットペーパーはサノスケにビリビリに破かれていた。部屋の中に溶け残った雪があるようだ。
暖房をつけっぱなしだったから、コートを着ているとじんわり汗ばんでくる。私はコートを脱ぐとトイレットペーパーで遊んでいるサノスケに向かって投げつけた。
サノスケはひょいと逃げて、コートは床に落ちた。
「サノスケ、信じられる? 私、二股かけられてたんだよ」
サノスケは私の方を向いて大きな目で「みゃ」と鳴いた。
「なんかドラマみたいだよね。私ってすっごい不幸だね。ふふふ」
なんか本当に死にたくなってきた。
もう私の人生めちゃくちゃだし、死んでもいいよね。
台所に置いてあった包丁を手に持つ。
これでのどを突けば私は死ねる。
なんて簡単。
「にゃーにゃー」
私がじっと包丁を見つめているとサノスケが私の足に摺り寄ってきた。遊んでほしい時に行うしぐさ。
それでも黙っているともう一度摺り寄って、そして私の方を見上げて座った。
「サノスケ……」
私が死んだらこいつはどうなるだろう。
餓死しちゃうのかな。
それとも保健所に連れて行かれちゃうのかな。
うちのお母さんもお父さんも動物嫌いだからなぁ。
私は包丁を置いて、サノスケを抱き上げた。
「ごめんね。サノスケ」
本当にごめん。
シャワーを浴びて、服を着て、髪を整え、化粧をした。
彼に忘れ物を届けなきゃいけない。私はもう彼への未練を断ち切るつもりだった。
三年間付き合ってきたけど、私は騙されていたんだ。
「胸だけ彼女」と言い切った彼と決別するにはひとつでも彼と関係するものを残して置いちゃいけない。
私は玄関に置いてある黒いビニール袋を手に持つと、彼がいるだろう彼の彼女の部屋に向かう。
部屋から外に出ると、マンションの駐車場に降り積もる雪が見える。
すべての音を吸収してシンと静かだった。ほとんどの部分が真っ白になっていて私は不思議と気持ちが落ち着く。
私の視界から色が消えた。
私からも色が消えた。
そんな風に感じることができる。今まで見えていた桃色はすべて灰色に変わった。それはたぶん私が絶望したとか、恋に破れたから色を失ったとか、そういうことじゃない。
私は世界の本当の色に気がついたのだ。
彼との関係は桃色じゃなくて、灰色だった。ただそれだけのこと。
右手に持ったビニール袋が以外に重い。こんなにも重かったのか。私は三年分の重みを感じて、少しだけ切なくなった。
彼女の部屋の呼び鈴を鳴らす。
もう出てくれないかもしれないけど、そしたらビニール袋を玄関先に置いて帰るつもりだった。
しかし、玄関のドアは予想に反してすぐに開いた。
あまり新しくないマンションだからか、鉄の臭いがスッと鼻を突く。一瞬、私から臭ってきているのかと思って焦ったが、すぐに臭いはなくなった。
「あら? こんにちは」
彼の彼女が出てきた。服は脱いだのか今は下着姿で私が部屋に戻ったのはほんの少しの間に何があったのか想像ついた。
「すみません。彼はいますか?」
「……ちょっと遠くまで買い出しに行ってるんだ。あがって待ってる?」
私の質問に彼女は少し考えてそう答える。
「はい。直接渡したいものがあったので」
「そう。じゃあ、どうぞ」
彼女はすぐに私を招き入れた。
私のことを疑うでもない彼女は、きっと誰が見ても好感を抱くような性格に見えた。分け隔てなくやさしい。私には到底無理だと思える。
部屋の中はなぜか寒かった。下着姿でいたからてっきり暖房でもガンガンつけているんだと思っていたけど、下手をしたら外の気温と変わらない。さっき来た時は普通に暖かったはずだ。
私は換気でもしたのかと思いつつも手に持っていたビニール袋を部屋の隅にそっと置いた。
「今、暖房入れるね」
彼女はリモコンを操作すると、エアコンから電子音が聞こえた。すぐに暖かい風が出てくる。
「コタツにでも入ってて。コタツはつけっぱなしだったから暖かいと思うし。今、お茶入れるから」
彼女は下着姿のままでキッチンへ消えて行った。
私はコートを脱いでビニール袋にかぶせると、言われるままにコタツに座る。彼女の言うとおりコタツは暖かく、この寒い部屋に不釣り合いなほどだった。
部屋の中を見てみると、普通の部屋に見える。女の子というか、女性らしさは一切感じさせない。彼女は合理的な人なんだろうと思う。
「はい。どうぞ」
私が部屋を観察していたら、彼女がお茶を持ってきていた。
陶器のかわいいティーカップに、薫り高いアールグレイの紅茶が注がれている。彼女が持つお盆にはふたり分とミルクが入っている容器とスティックシュガーが何本も入った透明な筒があった。
「砂糖は半分でいいよね?」
そう言いながら机の上にセッティングをすると、私の分に砂糖をスティックシュガーの半分のところを抑えながら傾けた。
ティースプーンでかき混ぜるとそれを私に差し出す。
差し出されたお茶から目線をはずして彼女のほうを向いてお礼を言おうとして顔を上げると彼女と目があった。
彼女の目に思わず私は怯む。
自分の恋人に会いにきた私を責めるような目ではなく、我が子でも見るような愛情のこもった目だ。自分の母親にだって向けられたことのない視線は何か異常事態が起こっていることを感じさせた。
「あ、ありがとう」
すぐに目線をはずし、言葉が突っかかっる。ディーカップを両手で包むように受け取ると、彼女は私の手に自分の手をかぶせてきた。
「な!」
私が驚いて再び顔を上げると、彼女は頬を赤らめていた。確かに両手は、もしかしたら紅茶なんかよりも熱い。寒い部屋に下着姿でいたらどうなるかなんて簡単で、彼女は風邪をひいたのか。
でも、それと私の手に触れるのは何の関係もない。
私が手を引こうとしたら、彼女はぎゅっと力を入れて私の手を抑えつけた。熱い紅茶のそそがれたカップに私の掌が押しつけられて痛みを感じる。無理やりにでもひきはがしたかったがそれをしたら熱湯が私の手にかかってしまう。
私は痛みを我慢しながら彼女を見た。
「ねぇ、彼のどこが良かったの?」
彼女は身を乗り出してくる。目の前に彼女のつややかな赤い唇。
いつの間にか手は私の頬に添えられている。私は身を固くする。
なんだ、こいつは!
今まで沈みかけてきた感情が違う方面に沸いてくる。
部屋も暖まってきたというのに私の腕には鳥肌が立っていた。この女から感じる寒気が私を凍てつかせる。
「ねぇ、答えなさいよ」
女の目はなんだか赤みを帯びているように見える。光の加減なのか、それともこいつは本当に赤い目でも持っているのか。そもそも人類に赤い目の奴なんていんのかよ!
私が少し引くと女が距離を縮める。
手を掴まれて思うように動けない。
コタツを挟んでいると言えども女の身は半分以上コタツの上だ。足なんかとっくにコタツの外に出ていて、女の背中越しに見える。
私はついに我慢できなくなって手を振り払った。
熱い紅茶が私の手に振りかかる。
女にも振りかかった様で、「熱い!」と言いながら手を引っ込めた。私はその隙に痛みを堪えながらコタツからずり下がり、そして立ち上がる。
「どうしたの?」
「あんた、何なんだよ」
「うん?」
何を言っているのか分からないと言った表情だ。
「ふざけんな! あんた一体何が目的だよ!」
「あっはー。何か感づいちゃった?」
そう言いながらコタツの上から身を起こし、立ち上がって私と対峙する。
「本当に彼、戻ってくるんだろうな」
「……戻る?」
私の顔を見ながら呟く。
「あー。それ! 戻ってくるわけないじゃん」
「なっ! なんで……」
そう叫ぼうと思った瞬間、私の脳裏に鮮血がフラッシュバックした。
流しっぱなしの水道。
水が勢い良くシンクに当たり、水と一緒に音が散らばる。
「ごめんね、サノスケ」
私の手には包丁。
まな板の上にはサノスケ。
白いキッチンテーブルに広がる赤い模様。
彼との決別。
私は可笑しくなって黒いビニール袋にサノスケを入れた。
そして、手に付いた感触を洗い流す様に水流に突っ込む。
お湯になんてなっていない冬の水道水。
私への罰のように冷たき水は肌を切り裂いた。
玄関を開ける音。
僅かに鉄の臭い。
それは私の罪なのか?
冷たい室内。
エアコンも入れていない。
下着姿の女。
コタツだけ暖まっている。
女の不自然な笑顔。
彼のことを愛していないのか。
独占したくないのか。
私は敵だぞ。
『戻ってくるわけないじゃん』
女の告白。
血の臭い。
「ま、まさか」
つながりかけた事象が私のシナプスを発火させる。シナプスがどこにあるのか知らないけど。
「まさか?」
私の答えを笑顔で待つ女。せり上がって来る胃。いやな胸焼け。熱くなる背中。背筋に流れる汗。
覚醒する脳。
「彼はどこだ?」
冷静に発声。私はすっと心を静かにして女に問う。自分でも驚くような明鏡止水ぶり。どこで覚えたっけ、この言葉。
「当ててご覧。意外と近くかもよ?」
女はすっかりご機嫌だ。
私をいじめて楽しんでいるのか。
じわりと掌に湿り気を帯びる。決して暑くはない室内で私だけが肌にまとわりつくような熱気を感じている。
女に背中を見せないようにお風呂場に向かう。部屋の構造は私の部屋と同じ。流石に同じマンションだけある。そして、脱衣所の扉を開ける。女に体正面を向け、眼球だけを動かす。
そこは予想通りだった。
サノスケ、最後の色が広がっている。
換気扇がガタガタと悲鳴を上げる。
床には彼が転がってる。本当にそうとしか表現できないような異常な物体。
胸だけが丸く切り取られ、洗面台の鏡に貼りつく。
なんの呪いだ。これは。
私は理解できずに女を見る。
「すごいでしょ? こいつ、許せなかったんだよね」
自慢げに語る。
「レイナのユキちゃんに酷いことばっかりして」
女が自分の胸を両手で持ち上げる。
「『胸だけ彼女』とか、その場で殺したいのを我慢するの大変だったわー。まぁ、結局ユキちゃんに見つかっちゃったけど」
そこまでしゃべり終えると、レイナは私の方へ寄ってきた。
私は脱衣所の中を見回す。
何か凶器があるはず。
包丁か? カッターか? 草刈鎌か?
レイナが来る前に武器を見つけなければ。
しかし、凶器なんてどこにもなかった。
彼の胸を切り取った道具なんてここにはない。
私はそれに気がつくと、レイナとの間にコタツを入れようと下がり始める。レイナはゆっくりと近づいてきた。
『来るな!』と叫びたいのを必死で我慢しながら、私は歩を進める。レイナもコタツを回りこんで捕まえようと横に動き始めた。二人はコタツを中心に円を描くように回る。
私は自分が座っていたところに来るとコートを持ち上げ、ビニール袋を手に取る。
そして、玄関につながるドアを背にした。
「私、帰るわ」
こんな危ない奴の部屋から一刻でも早く出たかった。
手に持っているビニール袋を振りかぶる。
「これ、プレゼントだから!」
レイナに目掛けて投げつけた。
ビニール袋はレイナの足元に落下し、破裂。中に入っていた血が飛沫となってレイナに降りかかった。
足元から血塗れるレイナ。
少しだけ顔に掛かった血がレイナの表情に色を添える。
私は吃驚している様子のレイナに背を向けると、部屋のドアを開けて玄関に急ぐ。
部屋の方から「ウヒャヒャヒャ」という笑い声が聞こえてくるのを無視して玄関から出た。
そして、玄関のドアを占めると同時にエレベータ前へ急ぐ。
上のボタンを押して、ふと気がついた。
下だ。下のボタンの方が良かった。
急いで押しなおすが上のボタンはついたままだった。
このままじゃ上に行ってしまう。
レイナが私の部屋を知らないとはとても思えない。上に行ってしまったらマンションの中を逃げなければならない。エレベータも階段も一つずつしかない、こんな狭いところを逃げ続けるなんて不可能だ。
どうすればいい。どうすればキャンセルできるんだ。
ダブルクリックか? 長押しか?
ガチャガチャと押してみるが、反応がない。
焦る。
焦れば焦るほど、ボタンを押し捲る。
「待ちなさいよ!」
レイナの声が聞こえる。彼女の部屋からエレベータまでの廊下は一直線だ。私がそっちを向くと彼女と視線が合う。
彼女の口が両側に吊り上る。目は笑ってない。
私が更に激しくボタンを押すとボタンの電気が消えた。
やった。キャンセルできたか?
と思った瞬間にチンと鳴り、エレベータのドアが開いた。
私は即座に乗ると、下行きか確認する。
だが、残念なことに矢印は上しか光っていなかった。
くそ!
と思いながらも私の部屋のある十五階のボタンを押し、すぐさま「閉」ボタンを押した。
「待って! 私も乗るー」
誰が載せるか!
私は「閉」ボタンを連打した。
しかし、エレベータのドアはゆっくりと動き始めるだけで全然閉まらない。なんだ? このエレベータってこんなに遅かったか。普段は気にならないような半瞬の時間に私は何十回も鼓動を打つ。
早く、早く!
閉まりかけたドアの向こうにレイナが見える。
長い髪が乱れて顔を覆い隠す。髪の向こうから赤い目が私をまっすぐに見据える。次の瞬間、閉まりかけたドアに右手を突っ込んできた。
エレベータの安全装置が作動し、閉まりかけたドアが再度開き始める。
私は声にならない叫びを上げ、レイナの右手を通り越して顔に蹴りを入れる。一回じゃ離れない。私はダブルアクションを蹴りで行う。確実に仕留めなきゃ。二発の蹴りはレイナの頬と顎にヒットした。
レイナはたまらず頬を押さえて後ろへ転げる。
そして、エレベータに戻りながら「閉」ボタンを押す。
半分ぐらい開きかけたドアが閉じるのと同時に私がエレベータに戻った。
レイナは完全に閉まったドアを叩きながら、「開けろ!」と叫んでいたが、無事にエレベータは上に向かって動き始めた。
私はレイナの姿が見えなくなるとエレベータの壁に背を預ける。
後は十五階についたら……。
ついたらどうするんだ?
ついて部屋に篭ったところでレイナは私の部屋に来るだろう。
篭っていれば大丈夫なのか?
いや、違う。
だめだ。
私は自分の部屋の合鍵があることを思い出す。
合鍵を彼に預けていた。
未だに返してもらっているわけじゃない。
レイナが彼と付き合っていたとしたら、私の部屋の合鍵だってもっているかもしれない。私が彼の部屋の合鍵を盗んだように。
跳ね起きるようにしてエレベータのボタンを押す。
途中で降りるんだ。
別の階に潜んで、レイナをやり過ごし、隙をついて一階へ降りて警察へ行けばいい!
エレベータはすぐに停止した。
気がつくのが遅かったのかすでに十二階に来ていたが、私は降りると下向きの矢印を押してエレベータからなるべく離れる。少し言ったところに、玄関先にダンボールが積んであるお宅があった。そこまで走るとダンボールの影に隠れる。
これでレイナをやり過ごせる。
恐怖と運動で激しくなった鼓動を落ち着かせるように目を閉じる。胸に手をあて鼓動を感じる。少しずつ呼吸を深くし、酸素を血液に取り込ませる。
自分の鼓動が収まると同時にマンションの階段を駆け上がる足音が聞こえてくるようになった。エレベータが早かったのか、それともレイナが遅いだけなのか、まだずっと下の階のようだ。
次第に近づいてくる足音に反応して再び鼓動が騒々しくなる。うまく過ぎ去ってくれ。
足音が十二階に来たとき、私の鼓動が停止したかのように音がなくなる。
痛いほど静かな空間の広がりを感じる。
どうしたんだ。
私の部屋はもっと上だぞ!
エレベータだって十五階まで行ったはずだ。早くしないと私が逃げるぞ。
そんな私の思いはむなしく、足音は聞こえてこない。
レイナは明らかにこの階で止まった。
途中で降りたのは失敗だったのか。
私は今更ながら後悔する。ここでは停止だけしてもう一階先で降りればよかった。そうすればレイナがこの階を調べている隙に逃げ出すことが出来たのに。
自分の失敗を認識すると、私の心臓は苦しいほどに激しく動く。
やばい、やばい。
どうすんだ。こういうときは。私よりもサイコな奴を相手にするにはどうしたらいいんだ。
普段使っていなかった脳を必死で働かせる。
カツン。
そして、結論が出るより先に足音が鳴る。
来る!
そう思って身を硬くする。
もうだめだ。
何も考えられない。
しかし、足音はそのまま上の階の方へ遠ざかっていた。
助かった……。
私は何階分か足音が上に行くのを確認すると、エレベータの方へ向かって歩き始める。
今のうちだ。
レイナが上の階を調べているうちにエレベータで一気に一階へ。
私は足音を立てないようにゆっくりと歩いていく。
エレベータの前に着くと階数を確認する。
今は十五階で止まっているようだ。
よし、よし!
今がチャンスだ。
すぐさま下向きの矢印ボタンを押す。
エレベータはすぐに降りてきた。
十四、十三……。エレベータの階数表示が少しずつ下がってくる。
そして、十二。
来た!
と思ってエレベータに乗り込もうと思ったときだった。
ガラスの向こうにレイナの姿が見える。
見えちゃった。
なんでこいつがここに。
どうして。
訳わかんねーぞ!
振り向いて駆け出そうとしたときにはもう遅かった。
エレベータの中からあの細い足が飛んで来て私のお尻を強く蹴り飛ばした。
私は体勢を整えきれずエレベータと反対側の壁にぶつかる。体を少しひねったが、右肩と右側頭部を強く打った。
「ちょっと待ってって言ったでしょ?」
レイナは囁くように言った。
闇の中でおぞましい声が私の耳を叩く。
もう何も言えない。
さっきまでの冷静な私はどこかに言ってしまった。賢者タイム終了。私、普通の女の子だった。こんなのどうにかできるわけない。震えが止まらない。
私が逃げないことに満足したのか、レイナは笑顔で私に近づいてくる。
「いい子ね。それでこそ私のユキよ」
もう逃げられない。
気がつくともう朝の八時だった。
あれから何をしてたのか頭が真っ白だ。いや、本当ははっきり覚えている。だけど思い出したら、やばいから思い出さない。
私はベッドから抜け出すと、まだ血の臭いの残る部屋でため息をついた。
ノートパソコンを見るとスレッドに新しいレスがついている。どうやらスレが落ちないように誰かが保守してくれたらしい。
私は『戻った』と書き込む。
すぐに反応があった。
流石、下僕。よく反応するわ。
「『別れてきたよ。永遠に……』っと。これでいいかな?」
しばらく待っているとレスがくる。
『殺したの?』
お、反応いいじゃない。すごいね、最近の下僕は。
「『うん。雪って白いはずなのに今日は赤く見える』と。なんて詩的な文章!」
私はベッドを見る。
ごめんね。赤くなるまでしちゃって。
『嘘でも罪に問われるぞ』
次は脅しか?
まぁ、こんな誰かもわかんない奴から脅しを受けても全然怖くないけどね。掲示板に書き込んだぐらいで、掲示板を代表した気になってんじゃないよ。
ま、ここでばらしちゃったら面白くないしね。
ちゃんとした反応を書き込んでおこうかな。
『嘘ならいいよね。でも違う。女がいたから頭真っ白になって気がついたらふたりとも血だらけだった』
あ、『私、手が震えてた』とか書いちゃったら可愛さ抜群?
『通報しますた』
はいはい。ワロスワロス。バカの一つ覚えみたいに。
コーヒーでも入れようかな。
『俺今その先生のところ見てきたけどドア開いてた』
私はその書き込みを見た瞬間に寝ぼけていた脳が覚醒する。
くっそ、ユキ以外にもこのマンションにサトシの関係者がいたのか?
そうでもなければ考えられない。
おそらくユキがアップした写メを見たんだろう。
どうする?
私が考えているうちに「通報しろ」みたいな流れになっていた。
まずい。
場所を特定された上で通報されたらユキと逃げる時間がない。昨日のうちにユキを殴ってでも逃げとけば良かった。
必死で考えるうちに私はいいことを考え付く。
名前の欄に記入されたコテハンを削除し空にする。
そして、『そうだな。通報はまだ早い。もう一度見てこい』と書き込んだ。
よしこれでサトシの部屋にもう一度来るはず。
私は下着の上にコートを羽織ると、台所にあった赤い包丁をポケットに入れた。
「や、やめろ」
私はサトシの部屋に来た女の子の後をつけ、部屋に戻るところに押し入った。そして、ポケットから血がついた包丁と取り出す。
流石に血がついていると相手の理解も早いようで、すぐに涙が滲んできた。
あぁ、この子も可愛いなぁ。ユキには適わないけど。
大丈夫、優しくするから。
私は濡れた床に崩れ落ちた女の子に優しく、深く突き刺さった。
部屋に戻るとユキがいない。
逃げたのかと思ったけど、あれだけしてたら逃げる気力もないはずだ。
どこに行ったんだろうか。
あれだけ深く愛し合った中なのだから、恥ずかしがることはないのに。
私はトイレかお風呂にいるんだろうと思った。
まずはトイレを開ける。
しかし、誰もいない。
次にお風呂を開けた。
シャワーカーテンが閉められ、その向こうに人影が見える。
「なんだ、ユキ。こんなところに居たんだ」
そう言いながらカーテンを開けるとユキは湯気の出る赤いお湯の中に浸かっていた。
「は?」
なんだ、これは。
すぐさまユキの右手を取り上げる。しかし、傷はない。
右手を離すとお湯に浸かったままの左腕を取り出した。
左手首に深い切り傷。そして細かい躊躇い傷。血は流れ尽くしたみたいで綺麗なピンク色をしていた。
当然脈なんて感じるはずもなく、ユキは目を閉じたまま動かなかった。
『全部夢』
ユキをお風呂から引きずり出して身体を拭く。
綺麗な胸が目に入った。
まだ水でふやけていない綺麗な塊。
あぁ、これだ。
これをみんな見たかったんだ。
そうだよね。
でも、見せてやんない。
下僕にはこれで十分。
私はすでにケータイ電話に入っていた『胸』の写真をイメピタにアップする。
そして、掲示板へそのアドレスを投稿した。
ま、滅多に見れるものじゃないからいいよね。