最終章
どれぐらいそうしていただろう。随分と長い時間だった気がするし、ほんの数分ぐらいだったのかもしれない。とにかく俺とユズは暫くの間、じっと灯かりの下で寄り添うように蹲っていた。まるで引き合った磁石のように、俺の手はユズの背から離せなかった。
このまま、ふたり、石になってしまうんじゃないんだろうか――――ふと、そんな思いが過る程に、俺とユズはじっと動かないままでいた。言葉も忘れてしまった、本当にただの石ころになってしまっていた。
沈んだ感情が、ふたりを覆ってしまう。息を止めて、思考を止めて、本当にただの石にしてしまうかもしれない……そんな非現実的な発想が起こってしまいそうなほど、部屋の空気や時間は歪んでいた。
ダメだ、このままでは本当に石になってしまうかもしれない……――――過った突拍子もない発想に背筋が寒くなった俺は、悲しみが自分たちを浸食しきってしまう前に、ユズを落ち着かせるために触れていた背中の腕の力を込めて、ユズを抱き寄せた。発想を打ち消すように、ゆっくりとまたユズの背を撫でた。
胸の中に飛び込むような形で納まった彼は、そのまま顔を埋めて暫く声も立てずに泣いていた。俺もまた、そんな彼の肩に顔を埋め、泣いた。自分の身勝手さと、情けなさと、不甲斐なさに涙が呆れるぐらい溢れた。
苦しかった。だけど、いま腕に抱く彼の方がずっとずっと苦しんでいるんだと思うと、こうして抱き合って一緒に泣いていることで、凝り固まった何かが少しでも溶けて緩和されればいいとも思えた。
きっと、ほんの少し気分がすっきりするぐらいで、事態は何も解決してなんかいないのだろうけれど、それでも、思った。
抱き合って泣いたことでだいぶ気持ちも落ち着いたのか、しばらくして、ユズがそっと身を捩ってほんの少しだけ俺から離れた。
まだ腕の中にいるような状態ではあったけれど、お互いの表情がはっきりと確認できるほどの距離を保つことができていた。泣き腫らして赤くなった目許をしたユズの顔は、打ちひしがれた花よりも艶っぽくて、綺麗だった。
無防備に感情のままでいる姿は、どうしてこんなにも艶めかしいなんて思ってしまうのだろうか。冷静にならなきゃいけないと意識が集中する程に、視覚や触覚が過敏に反応するのは彼の濡れた眼もとやほんのり色づいた肌の色ばかりだった。
意識と無意識が葛藤する様が表情にでも出ていたのか、ぼんやりとしていたユズが、不意にくすりとちいさく微笑んだ。涙の残る目許をほんの僅かにほころばせて、彼は今日何度目になるかわからない、ごめん、を囁いた。
「そんなに謝らないでよ、ユズ。何にも悪い事なんてしてないのに。」
「…そうかな…」
「してないよ」
「……でも、ガッカリはしたでしょ?物書きとして食ってけなくなってるなんて…ファンとして、がっかりでしょ?」
「ガッカリって言うか…そうだったんだ、って…事実を知って、びっくりはしてる、かな…。あと、隠されてたのは、正直ショックだった。しかも馬越くんまで絡んでるなんて思わなかったしね。これは、恋人として。」
「…ごめん……」
隠し事されていたことを改めて謝ってもらって、俺とユズの間には何のわだかまりもなくなったと、少なくとも俺はそう思った。更になったふたりの間には、徒に傷つけあった痛々しい痕がわずかに見え隠れしていた。
傷つけてしまった痕を慰めるように、赤くなったユズの頬と目許をそっと撫でながら、彼から知らされた真実を受けての俺の正直な気持ちを包み隠さず話した。
「俺はさ、ユズがどれだけ大変な思いをして小説書いてるか、他のファンよりは知ってるつもりだよ。でも、それだからってユズが抱える物書きとしての悩みまで理解したり、ましてや解決したりできるわけじゃない。当たり前だけど…。だからせめて、俺がいることで、何か解決のヒントになるようなことや、気晴らしぐらいになるようなことの手助けができたらとは考えてるんだ。」
「……うん……ありがとう」
「できることが、あればだけど……」と、頼りなく付け加えた俺の言葉に、ユズがようやく少しやわらかく笑ってくれた。目許はまだ赤いままだったけれど、気持ちがだいぶ落ち着いてきているのがわかって嬉しかったし安心した。
安堵で俺もまた頬を緩めると、ユズはほんのわずかに口元を緩めてくれた。怯えていた手負いの仔猫が、ようやく指先を舐めてくれたような嬉しさと安堵感を覚えて、深い溜息を吐きたい気分だった。
ようやく訪れた穏やかな沈黙に身を委ねてユズと見つめ合っていると、不意に、「あるよ。アキくんにしか、できないこと。」と、彼が口にした。
短い沈黙の内に、何か妙案でも思いついたのだろうか。差し入れをするとか、作品の感想を伝えるとか、すぐに思いつく限りの事を並べたけれど、それはどれも俺でなくてもできなくはない事ばかりで、彼が言わんとしていることには当てはまらない気がした。
俺にしかできない、彼を支えられることなんてあるのだろうか。そうなるといよいよわからなくて、「俺にしか?」と、首を傾げてユズの眼を見つめるしかなかった。
対して見つめ合うユズはと言うと、泣き腫らした跡がまだ残ってはいたけれど、さっきまでよりも澄んだ眼に凛とした意思のような星を燈して俺を見据えていた。
「うん。アキくんにしか、頼めないこと――――あのね、あの…俺、すぐへこたれるし、締切前とか風呂も食事も忘れちゃうぐらいホント酷いんだけど……それでも、もし、いいって言ってくれるなら……ずっと、俺と一緒に居て欲しんだ。傍にいて欲しい、ずっと。そして俺の書く作品を一番に読んで、感想を聞かせて欲しい。」
深い深い蒼いの悲しみの膜が破かれて、まっすぐなユズの言葉が俺に向けられた。いつも自分の本性を隠したがる傾向がある彼から、初めて包み隠さず向けられた感情であり要求だった。そしてそれは、俺もまた彼のためにできればと考えていた事でもあった。
俺が望んで、彼が望む事。それが天文学的な確率をあっさりと潜り抜けてぴたりと一致した瞬間だった。言葉にしてしまうとあまりに単純で簡単な事だったけれど、ふたりが心から望んでいる事はまさにそれだった。
あまりに単純な事だったから、かえって俺の方が戸惑っていた。一致したとは言え、俺の望みであるという事は俺の我儘を通すことになりはしないかと思えたからだ。
それでは共通の望みと言うよりは片方に片方の要求を押し付けている形になりかねないとも言えた。そんな関係は長く続く保証がない気がしてならなかった。
「アキくんが、アキくんの言葉で、俺に、目の前で感想を言ってくれる――――これってね、書き手からするとすごく贅沢な事なんだよ。あのね、俺の手から離れてしまったら、いくら自分の作品でも、直に感想を聴くなんてこと殆どできないんだ。だからね、アキくんの言葉は、俺にとってすごい栄養みたいなものだから、本当にありがたい事なんだ。」
俺の言葉が、ユズにとっての、栄養。こんな喜ばしい事ってあるだろうか。応援するとか、支えるとかいうよりもうんと彼の血肉になれている気がして、嬉しさのあまり俺は目の前が潤んで揺れるのを抑えきれなかった。
溢れそうになる感情の雫を堪えるために瞬きを何度もしたけれど、そのたびに新たな雫が湧いて、ついには堰が決壊する様に零れていった。
俺の目許に触れてくるユズの指先を掴んで、再び俺とユズの距離はゼロになった。今日、何度目になるかわからない抱擁は、今までで一番のぬくもりを伴っていた。ユズと抱き合うってこんなにも嬉しい事だったのかと改めて気づかされる抱擁だった。
抱き合う事暫し、やがてユズがもぞもぞと身動ぎし始めたので腕を緩めてあげた。俺の背からも腕を解いたユズは、更にごそごそと服のポケットをあちこち探り始めた。
「どうしたの?捜し物?」
「ん…えーっと、どこしまったんだっけ……あ、あった。」
ようやく探し当ててふたりの間に出てきたのは、銀色の指輪だった。少しくすんだ銀色をしているシンプルなデザインだった。
探し出した指輪を、ユズは俺の方へ差し出してきたので、俺は思わず掌を出した。指輪が、俺の掌の中へ落される。ささやかな重みを感じた。
手の中の指輪の意味を請うようにユズの方を見ると、彼は耳の端まで真っ赤に、泣き腫らしていた眼元も、染め上げているじゃないか。
赤く染まったユズと、さっき交し合った言葉……2つの事柄が俺の脳内で重なり合う。一緒に居て欲しいって言う言葉と、手の中の指輪。その途端に、俺も掌のそれの意味が理解できて、同じように自分が赤くなっていくのを感じた。
「ユズ、これ…」
「…サイズ、合わなかったら言って…直しに行くから…」
指輪の正体を知ってしまった途端、その存在がたちまちに重たくなって存在感が増した気がした。思わずぎゅっと握りしめてしまうほどに手の中の指輪の意味に俺は感動していた。奇跡の欠片が、いま、この中にある、そう思った。
「…渡す順番が今になっちゃって、ごめん……まさか採点の仕事のことが先にばれちゃってたなんて思ってもなかったから…」
「あー……ごめん…」
「いや、ヘンに隠してややこしくしたんだから自業自得だよ。俺ね、自分でも呆れるぐらいアキくんなしじゃダメなんだなぁって思い知ったんだ。さっきも言ったけどさ、ホント、アキくんは栄養なんだ、俺にとって。それでね、アキくんさえよければ…その……ウチに、来ない、かなーって…」
「ウチに、来ないかな、って……それって…」
俺とユズの関係は、所謂“結婚”がそう簡単に成立できるものではない。そうでない街もなくはなくなってきているらしいけど、少なくともいま俺とユズが住む街では今すぐに望めそうにはない事だ。
それを踏まえた上での、ユズの言葉と、指輪。これ以上に望むことなんて、俺には思いつかなかった。断る理由も、勿論。
「俺で、いいの?本当に?」
「本当だよ。アキくんじゃないと、ダメなんだってば。」
くどいように確認する俺に、ユズは困ったように笑って頷いてくれた。紅く染まったその笑顔は、本当に花が咲きほころんだみたいにきれいだった。
この綺麗な花のような彼と、ひとつ屋根の下に暮らせるんだ――――つい数時間前の心境からは考えも想像もしていなかった事態に、アタマの理解が今一つ追いついていない感じがしたけれど、大声で叫びたいぐらいに嬉しいことに違いはなかった。
叫んでしまうと近所迷惑なので、俺はまたユズを抱きしめた。さっきまでとは違う意味合いを持つ抱擁に、自然とまた涙が溢れだしていた。
悲しい事や嬉しい事が目まぐるしく起こる1日だな、と、視界を潤ませながら俺は思っていた。目まぐるしくて、眩しくて、しあわせな日だな、と。
「不束な者だけど、末永くよろしくね、アキくん。」
「こ、こちらこそ」
抱擁を解いて、三つ指をつくような言葉を交わし合う。なんだかごっこ遊びをしているようでくぐったくて、思わずくすくすと笑い合うと、すべてが夢で、ふとした拍子に壊れてしまう泡のように思えた。
指輪を握りしめる俺の掌に、ユズの手が重なって、そっと俺の指につけてくれた。その指先には、俺と同じデザインの指輪が光っている。
揃いの指輪をつけた指先を絡ませている内に、どちらからともなくキスをしていた。指輪もつけて、まるで誓いのそれみたいだ。ふたりの契りは、世間の誰も認められるにはまだまだ障壁がたくさんあるのに。揃いの指輪が、灯かりを受けてちいさく光っていた。
「いつから、考えてたの?」
「この前本を出した時ぐらいかなぁ、はっきり、ああ、俺アキくんいないとホントダメなんだなぁって。あと、本当は部屋の事も、もう少しお金貯まってからにしようかなって思ってたんだ。ここよりもっと広い部屋がいいかなーとか考えて。でもそれだといつになるかわかんないし…アキくんの仕事の事もあるし…そもそも俺が部屋の事決めちゃうわけにもいかない気がしたし…」
「俺はユズと居られればどんな部屋でもいいよ?」
「そう?狭くない?」
「後から考えてもいいんじゃないかな。まず、住んでみる、っていう感じで。」
「うん…そっか…。それも、アリか…。でも俺、ホントにダメダメになっちゃうから、覚悟しといてね、アキくん。」
「望むところだね。しっかり甘えてくれたまえ。」
「頼もしいー。あ、俺ね、アキくんが作ったごはん食べてみたい。」
「え、俺?…食えるもん作れるかなぁ…」
「俺が教えてあげる。そんでさ、一緒に作ろう。」
何作りたい?と、ユズがふわりと笑いかけてくる。ほんのりと甘い卵焼きのような笑顔で。この笑顔と隣り合って、並んで台所に立つところを想像してみる。いい歳した男2人が卵焼きを作る様を思い浮かべてみる。なかなか奇妙でおかしくて、だけどとても愛しい景色だった。
いつぐらいに俺が部屋に越してきたらいいのか、とか、要る家財と家電を仕分けなきゃ、とか、ベッドも買い替えなきゃだね、とか、思いつく限りのこれからのための準備に必要な事をユズと話し合う。すごくわくわくする、初めてのキャンプに行く前の夜みたいな気分だった。
勿論、俺の職場への報告とか、手続きとか、隣近所の目とか、クリアしてかなきゃいけない問題は山のようにあるのも事実だった。
どこかで無慈悲な現実にぶち当たることだってあるだろう。心が折れかねない事だって、きっと。想像すらできない何かを漠然と感じながら、それでも俺もユズも子どもみたいに眼をキラキラとさせてこれからの事を喋り続けていた。
どん底の絶望から這い上がると、夢のような奇跡がふたりを待っていた。風が吹けばあっさり飛んでいきそうな、儚く脆い、星屑のような奇跡の煌めきが、ふたりの繋いだ手の中にあった。
この先をずっと、彼と生きていく。白い壁に囲まれたこの部屋で。ひとつ屋根の下、同じものを食べて、きっと隣り合って眠るのだろう。
ささやかで甘い日々の始まりを思い描きながら、その後ろにある現実の影に目を瞑りながら、俺とユズはふたりのこれからの日々を思い描いた。浮かぶ発想は自由で明るくて怖い物なんて何もない気がした。それらは正解がない路の中につけられた花丸の様に思えた。
朧月の浮かぶ春の夜に、ぼんやりとした月光に照らされたふたりで生きていくための花丸のついた路を俺とユズは並んで歩き始めた。
<終。>
ここまで読んで頂きありがとうございます。
アキとユズの話、このお話で第一部の終わり、ひと段落です。
第二部はふたりの甘いあまい同棲生活からスタートします。
第二部の投稿も楽しみに手頂けると幸いです。