8章
どれ程の沈黙が流れていただろう。それはひどく重たく、冷たく、俺とユズの息の根を止めてしまったかと思えるぐらいだった。
明々と点いたままの食卓の灯かりが、凍りついたままのふたりを痛々しいほどやさしく包み込むように照らしてくれていた。
俺もユズも、互いの方を真正面から見据えたままだった。瞬きも忘れてしまった程にじっと眺めていた筈だった。なのに、俺は、ユズが静かに音も声もなく泣き出していることに気付くことができなかった。
ユズが細かく小さく震えて、はらはらと涙を溢しているのに気付いたのは、彼の眼の縁が真っ赤に染まった頃、漸く、だった。
泣きたい気分なのはこっちだ……どす黒い俺の腹の中の感情がユズの涙に舌打ちをした。それと同時に、零れ落ちていく雫が、音もなく彼の手の上に降り注ぐたびに、胸の奥が切刻まれる程の痛みを伴ったりもした。
泣くことで隠し事をした罪をチャラにしようとしていると疑う心と、取り返しのつかない程に傷つけてしまったという罪悪感。
相反する、しかし、どちらも俺の本当の気持ち。次にどちらの言葉を紡ごうとも、俺がユズを泣かしてしまった事実に変わりはなかった。臆病なくせして、腹を決めた時ほどに大失態をやらかしてしまう―――俺の一番悪い癖がこんな時にも出てしまった顛末に絶望感を禁じ得なかった。
呼吸さえままならない沈黙が流れて暫し、言葉を忘れてしまったかのように黙り込んでいたふたりの間に、ぽつんと春陽のようなか弱い声が零れ落ちた。
「……仕事、してたんだ…」
ちいさなちいさな、ユズの声だった。涙に濡れて傷だらけのぼろぼろの声だった。とてもちいさくて、か細くて、遠くの電車の音にさえ掻き消されてしまいそうだった。
だから俺は、全神経を集中させて彼の声に耳を傾けた。一言も、呼吸でさえも聞き漏らすまいと思いながら。それは彼を疑ってかかって真実を暴いてやろうという野次馬根性にも似た偽りの正義感からではなく、ただひたすらに彼から語られる言葉を聴きたかったからにすぎなかった。
瞬きをするたびに、ユズは眼からはらはらと涙を溢し続けていた。おとぎ話に出てくる宝石姫のように、彼が溢す涙は真珠やダイヤモンドや薔薇の花になってしまう気がした。あれは、涙ではなくて言葉、だっただろうか。とにかくそれぐらい幻想的な姿だった。
「俺、ね…物書き、だけ、じゃなくって…も、ひとつ、仕事、して、んだ…。それが、ね…馬越、くんの紹介、で…塾の、答案の採点…小論文とか、作文とかの…」
「塾?塾って、馬越くんの?……え、じゃあ、俺が見た知らない人ってのは…?」
「…馬越くんとこの、先生じゃないかな…俺、あんま知らない人とサシで話すのって、ホント、苦手で…馬越くんには悪いけど、打ち合わせするときは、よく、間に入ってもらうんだ…」
すすり泣く声の狭間から紡がれた言葉を繋ぎ合わせてみて、俺は現れた真実にあらゆる意味で衝撃を受けていた。
まずはユズが副業を、それも馬越くん経由でしていたこと。受験シーズンになると今回のように急に仕事が舞い込む事。
副業はどうやら実入りもいいらしくて、実は半年ぐらい前からやっていた事などなど、大きくも小さくも俺は驚きを隠せないでいた。
しかしどれも、俺の想像とは大いに外れていて、それだけは俺を安堵させてくれた。
馬越くん絡みで浮気しているなんて思い込んでいた俺は、自分の浅はかさに恥じ入ってしまって何も言えなかった。言う資格さえないと思った。ユズの恋人のプライドにかけて真実を暴こうとしていたなんて、どの口が言える事だろうか。
こんな馬鹿な俺だから、ユズは本当の事を言う気なんてなかったのかもしれない。そう思われても仕方のない価値しかないのだから。
明らかになった真実を前に、半ば自棄を起こしかけていた俺の脳裏に、ひとつの引っ掛かりを覚えた。それは、馬越くんに口止めをしていたほどに副業の事を俺に隠していた事だった。
極端な話、俺はユズが副業に水商売でもしていたとしても、売春まがいな事でなければ、驚きはしても咎めることはしなかっただろうと思う。副業をするという事は、何かしらやむを得ない事情があるだろう事ぐらい浅はかな俺にだって解る話だからだ。
あえて話題にすることでもないと言われてしまえばそれまでだけれども、箝口令を敷くほどに隠す事でもないと思うからだ。少なくとも、俺は、ユズからの話を聴いてそう考えたし、そう、彼にも伝えた。
「なんだ…そうならそうと…怒鳴ったりして、ホントごめん…」
「…ううん…俺も疑われるようなことしたんだし…」
「でもさぁ、なんでそんなに俺に知られたくなかったの?別にそんな隠すような仕事じゃ…」
ようやく少しだけユズが小さく小さく微笑んでくれて、隠されていた事実が明らかになって、疑いが晴れて、少し揉めたけれどこれで大団円。
…と、思いながら、俺が隠し事をしていた理由を問いただそうとした瞬間、停まりかけていたユズの涙が再び眼の縁一杯に溢れ、やがてまたはらはらとぱたぱたと零れだした。
すっかり気を緩めていた俺の隙を突いた涙に、思わず慌てて腰を浮かしかけたその時、ユズは自分の掌で顔を覆って、聞いたこともないような悲しい声を振り絞って泣き叫んだ。
「――――嫌だったんだ!アキくんに、作家じゃなくなってるの知られるのが…!」
泣き出した彼の肩を抱こうと伸ばしかけた俺の手も、眼差しも、俺から向けられるすべてを拒むように、今まで見てきたどの泣き方よりも激しく、ユズは泣いていた。
あまりに激しい泣き方に、俺は、行き場をなくした手の先を力なく膝の上におろして、ただ茫然と見つめている他なかった。泣き止ます方法なんてこの世に存在しないんじゃないかと思うほどに激しい泣き方だった。
俺は、ひょっとしたらユズを本当に取り返しがつかない程に傷つけてしまったのかもしれない。真っ先に過った想いはそれだった。俺がさっきとった行動は、彼が良かれと思って取っていた行動を全否定してしまったと言ってもいいものだったからだ。怒鳴りつけてもいたのだし。
でも、それについては泣き出す直前にユズの方からも謝られて、お相子の形になった筈だ。決定的に傷つけてしまっていたら、さっき見せたささやかな微笑みは見せてくれなかっただろうから。
俺が関係していることは確かなのだろうけれど、ユズの涙に混乱しているのか、心当たりがすぐに思い浮かばない。ただ俺が謝れば済む事案とも言い難いし、ますます俺は事態を打開する術が思い浮かばずに途方に暮れた。
ひとまず、ユズを落ち着かせよう。泣いてばかりでは何の解決もしない。ようやくそう思いついた俺は、先程行き場をなくしていた膝の上の手をもう一度ユズの方へ伸ばし、震えている肩をそっと捕えた。
一瞬、触れた肩はびくりと強張ったけれど、肩から背中へとゆっくり撫でてあげていく内に強張りは解けていった。
段々とその内に泣き方も落ち着いてきて、覆っていた掌が外されてようやくユズの顔を窺う事が出来た。泣き濡れた顔は雨に打たれた花のように憐れな姿になっていた。
何度かしゃくりあげながら、ユズは深く息を吸ってゆっくりと吐き、ごめんね、とちいさく同じくらいに呟いた。
何度目かの深呼吸の後、あのね、と、彼はちいさくちいさく言葉を切り出した。
「俺、新人賞貰ってから、本当にどんなに書いても書いても誰にも認めてもらえなくってね。認めてもらってたのかもしれないけど…なんだか全然信じられなくってね。何書いても全然だめで、さっぱりで、ああ、こんなはずじゃなかったのになぁって毎日思ってたんだ。そんな時にね、アキくんが、俺の書いたのがすごく好きだって言ってくれて、あれが良かったよーとか、ここが好きだったーとか、感想も言ってくれたりして…そういうのがすごく、すごくすごく嬉しくて…なんか、枯れ掛けてたとこにすごくおいしい水をじゃんじゃんかけてもらえたみたいに嬉しくて…ああ、まだもう少し物書きやってけそうだなぁって思ってたんだ…」
ちいさくちいさく吐き出され、丁寧に丁寧に並べられていく言葉は、どれも涙の色をした宝石のように煌めいていた。部屋の灯かりを受けて、整然と並ぶそれらを、俺はじっと見つめていた。
差し出された言葉はどれも綺麗で、純真で、俺はとても大切な儀式を間近で見ているような厳かな気分でユズの声に耳を傾けていた。
言葉が途切れて、少しまた、ユズの目許が潤んだ。目許が揺れて、はたりと大粒の涙がいくつか零れ落ちていった。
唇だけが動いて、空の言葉だけが宙をいくつか漂った。息を、また深く吸う。苦しそうに、悔しそうにすら見える表情で、ユズは途切れた言葉の続きを紡ぎ始めた。
「―――…でも、そういうのだけじゃ、ダメみたいで、さ……商業ベース、って言えばいいのかな…そういうのだとさ、なんか、俺、あんまウケないみたいで……ホント、この先食べてけるのかなって、不安になっちゃって……。そしたらさ、なんか、馬越くんが、こういう仕事あるんだけど、どう?みたいに声かけてくれて……俺、アキくんに支えられてることなんかすっかり忘れて…目先の事しか考えてなくって……ごめんね、アキくんの期待とかなんか色々裏切ちゃってる気がして…言えなかったんだ……」
そう、彼は消えそうな声で呟き、また俯いて顔を覆ったまま声もなく泣いた。肩を震わせて、自らに課した罰の重圧に耐えているようだった。
痛々しい、あまりに憐れな姿に、俺の頬にも涙が伝っていた。息を吸うと、ひどく熱くて苦しいほどだった。
彼は、何一つ俺を裏切ってなんかいなかった。それどころか、新しい本が出た時にくれた言葉とも、出会ったころとも変わらない心で俺を必要としてくれていた。真実を話すに値しないなんとことよりもはるかに超えた感情で俺を想っていてくれた。
それを浮気だとかなんだとか……俺は、なんて自分が愚かなんだろうと恥ずかしくて仕方がなかった。本当に、ユズになんて詫びていいのかわからなかった。深い深い絶望のような悲しみが、触れているユズの背から滲み出て俺を浸食し始めていた。
ユズから流れてくる悲しみは、昼間俺が馬越くんの話を聴いて受けた悲しい重たい衝撃にも似ていて、だけど、それとは少しだけ悲しみの種類が違っていた。
たぶん、根っこにある成分が違っているからかもしれない。俺のは悔しさからくる悲しみで、ユズのは罪悪感からくる悲しみ、と言う違いだ。どちらも悲しくて重たいのだけれど、全体を包む色が違っていた。
俺のはひどく沈んだ黒色で、ユズのは深い深い青色をしているように感じられた。そしてどちらも、とても冷たかった。やわらかな、だけど、ぬくもりのきっかけを見つけられない冷たさだった。
ユズが、俺を裏切ってしまったという思いで深く深く悲しんで傷ついているのが、痛いぐらいに伝わってくる冷たさに、俺はその背中を撫でることもできずに、ただ手を宛がって共に蹲るようにじっとしているばかりだった。