7章
「ユズ、あのさ……ちょっと、まじめな話、いい?」
取り留めのない話をぽつぽつとして、それも途絶えた頃、俺はそう切り出してみた。
いつになく妙に改まった俺の様子を不思議そうに見つめながら、「まじめな話?どうぞ?」と、ユズは俺を促すように言った。
とうとう逃げ場のない所まで来てしまった気がした。腹を決めて自らこの状況を作り出したとはいえ、元々臆病でヘタレな性質の俺にとって、心臓が尋常でない速さで鼓動しているような気分だった。
息を上手く吸って吐いているのかさえ怪しい感じだった。このまま促されるまま話を切り出したら、本当に息が止まるんじゃないかとさえ思えた。まだ何も明かされてはいないのに、本当に胆のちいさい奴だ、俺は……我ながら情けなくて呆れてしまう。
それでも、決めたことはやらなくてはいけない。ちいさく息を吐いて、一瞬だけ俯いて眼を瞑って、もう一度しっかりと顔を上げて正面からユズを見つめた。
「あのさ、ユズ…この間から、仕事してたんだよね?」
「うん、そうだよ?訂正してくれってメール来ちゃって…折角アキくん取ってくれた有休だったのに、一緒に休めなくて、ごめんね…」
「や、その話は良い…というワケじゃないな…なんて言えばいいかな…」
「休めなかったこと、怒ってる?」
「えーっと…それは怒ってないんだけど…そういうんでもなくって……えーっとさ、ユズ。…俺、見たんだよ。」
「見た?何を?」
「うん。見たんだ……この前、ユズが、駅前のスタバじゃない方のカフェにいるとこ。」
「駅前?うーん…いたかなぁ…いつぐらいの話?」
「馬越くんと、いたよね?一昨日の話なんだけど。」
「え……う、うん…」
馬越くんの名前が出た途端、ユズの表情が曇ったような気がした。ほんの僅か、声のトーンも落ちたような気もした。
胃が、キリキリ痛む…こんな事したくて今日を迎えたはずじゃないのに。
切り出した話はもう取り返せない。俺は、ちいさくちいさく息を吐いて、言葉を続ける。
「あと、隣にいたの、誰?…ユズ、仕事中だったんだよね?」
「………うん…」
「あれ、編集の人?違うよね?」
「…………」
「何してたの?馬越くんに、口止めまでして……」
慣れない誘導尋問的な問いかけをしなくてはいけない緊張で、声が何度も震えて上ずりそうになった。
正面からユズを見つめて、彼の表情の変化を観察して嘘をついているかどうか見定めようなんて思っていたけれど、全然そんな余裕なんてなかった。
確かにユズの眼を見据えていた筈なのに、ちっともその表情を読み取ることも読み解くこともできなかった。目の前にいるユズの姿が見慣れた彼の部屋の一部のように景色に溶けてしまって、俺がただ一人で問答をしているような錯覚すらあった。
腹の中は、ついさっきまであたたかでしあわせなもので満たされていた筈なのに、いまは氷の塊を飲み込んだように冷たくなっていた。
俺の言葉が途切れると、長く重たい沈黙が代わりにふたりの間に横たわっていた。
沈黙の重さが、俺の知りたい事の半分は明らかにしていた。覚悟していたとは言え、残酷な現実に、俺は言葉が継げなかった。
想像力が、逞しく物事を悪い方向へと駆り立てられていく。やっぱりユズは浮気をしていて、それは馬越くんの紹介か何かだったんだ、とか。いっそ馬越くんも込みでの浮気なのかもしれない、だとか。根拠もないのに、妙に生々しくリアルに想像は勝手に膨らんでいった。
不安をガソリンにして、裏切られた、傷つけられたという被害者面の免罪符を片手に、俺の想像がどんどん膨らんで肥大していく。
俺の手にも腹にも余るほどのそれは、やがて追求という名の報復へと姿を変えてユズに牙をむき始めた。
俺の追及の牙に、ユズは怯んだのか、口を噤んで俯いたまま黙り込んでいる。正面から見据えていた俺の眼差しを避けるような彼の姿勢が、俺をちいさく苛立たせた。
「見かけただけだったらさ、見間違いとか気のせいかなとか思えたかもしれない。でもさ、さっき、家の前で馬越くんに遇っちゃってさ、バッタリ。んで、訊いてみたら、教えられないって言うじゃん?それでなくても、何か知らない誰かもいたから気になって仕方なかったし…ああ、これユズに訊いてみなきゃな、って。」
ユズに問いただす口調が自分でもきつくなっているのがわかる。緊張で上ずりそうだった声はいつの間にか苛立つ感情につられてぐらぐらと揺らいでいた。
視線を逸らすのは隠し事がある証拠。嘘をついている証拠。彼は俺を欺き通そうとしている。
――――ちいさな苛立ちは、そのまま感情のちいさな火種となってゆっくりと、しかし着実に俺から冷静さを奪っていった。
「仕事してたんだって、いつも通り頑張って原稿やってんだって思ってたのに…何してんの?」
「……仕事を、してた…」
「じゃあなんで馬越くんが絡んでんの?口止めまでして…そんなに俺に知られちゃまずい事でもしてんの?」
「…………」
「……黙ってるってことは…その通りってわけなんだ?馬越くん巻き込んで、俺の知らない誰かと、俺に知られちゃまずい“お仕事”してたんだ?」
「そういうワケ、じゃ…」
「じゃあなんでわざわざ口止めしとく必要があんだよ。近場で、共通の知り合い巻き込んで、俺に気付かれないとでも思ってたんだ?恋人に隠し事されても暢気に連絡待ってるおめでたい奴だって俺のこと思ってたんだ?」
「アキくん、そうじゃない…!聴いて!」
問い詰める俺に耐えかねたように、ようやくユズが顔をこちらに向けた。俺の言葉を遮るように叫んだユズの眼はとても怯えていた。猛獣の前に突き出された小動物のような眼が、俺を見据えていた。
震えて怯えていながらも、俺に向けられた眼差しには凛としたものが宿っていた。それが、彼を疑ってかかっている俺の憎悪――隠し事をされた、ただそれだけの事でこんな感情を抱いている自分の器のちいささに欠片も気づかずに――にも似た感情を怯ませた。
彼を疑うことが間違いであるかのような感覚に戸惑いすら抱いた。いつの間にか俺は、自分がユズから傷つけられた被害者の面をして彼と対峙していた。まだ何も本当の事は何一つ明らかになっていないのに。
「聴いてやるよ!いくらでも!ユズが本当のことを言う気があればの話だけどさ!」
怯んだ自分を奮い立たせるように口を吐いて出た言葉は、事の真相を追及するのに最も効果的でありながら、最もユズを傷つけてしまうものだった。向けられた眼差しをも振り払うような、無碍な言葉の刃を、俺は彼に付き返していた。
ユズは、俺の言葉にちいさく目を見開いて、俺からの遠慮のない言葉の衝撃に明らかに傷ついていた。そして一瞬、微かに表情を苦く崩した。
元々はユズが馬越くんに口止めしてまで何かを隠していることから来ている。けれど、それについて俺がユズを怯えさせるほどに怒鳴りつけてまで知ろうとする権利なんてあるのだろうか。しかも、ひどく厭味ったらしくあてつけるような言葉を吐いて。
自分の底意地の悪さを垣間見た気がして、身体の中がひどく冷たくなっていくのを止められなかった。