2章
年度末の忙しさの狭間に、俺は溜まった有給を消化するべく休みを取ることにしていた。
本来なら、ユズと少し遠出でもして過ごす予定だったのだけれど、生憎今回は彼の急な仕事が入ったため都合がつかなくなったので、仕方なくひとりで過ごすことになった。幸いなのはうっかり旅行を計画して宿を取ったりしていなかったことぐらいだ。
とはいっても、ただぼんやりとするにはもったいない気がして、予報でも天気のいい日が続くという事なので、溜まった洗濯物や人を呼べない程に散らかった部屋を片付けることに充てることにした。身体を動かせば少しは独りで過ごす味気ない気持ちが紛れるだろうとも思ったからだ。
休日だけど出勤するのと変わらない時間帯に起きて、軽い朝食を済ませてから、まずは洗濯をした。ベッドのシーツも風呂場のマットも洗ってたちまちにベランダは洗濯ものでいっぱいになった。
それから掃除。トイレや風呂などの水周りにベッドの下は勿論、テレビの後ろ、床なんかも自分なりに綺麗に拭いたり掃いたりしたら、雑巾代わりにしていた古いシャツが表も裏も真っ黒になっていて、こんな汚い部屋に寝起きしているのか、と、自分でも軽く退いてしまった。
一通り部屋を片付け終わる頃には、まだコートもいるような時季なのに、上はTシャツ一枚になるほどに身体が熱くなっていた。ベッド横の時計を見ると、もうすぐ昼の1時になろうとしていた。随分と掃除に熱中していたらしく、時間を認識した途端に腹が鳴った。
今日は給料日までまだ日があって、ちょっと懐が寂しい所だったのだけど、掃除を頑張ったご褒美と、折角磨き上げた台所を汚したくなかった気持ちが勝ってしまって、俺は外で昼食をとることに決めた。
ウチの近所にはコンビニがあって、ユズの家との間にもスーパーがあるけれど、折角わざわざ外に出るんだったら店で食べようと思い、店が多い駅前まで出てみることにした。
「さて、何食おうかなー…」
なんとなく、先日最後にユズのところで食べさせてもらったメニューを頭に思い描きながら通りの店先を歩く。ちなみに、この前食べたのは鰤の照り焼きだった。あと、ゴマ塩味のこふき芋。
この前の溶き卵の入った味噌汁も美味かったっけなぁ…なんてことを考えていたら、急激にユズの作ってくれるメシが恋しくなった。
逢えなくて今日で三日。コンビニ弁当が三日。つまり、人が作ってくれる食事らしい食事にありつけない日が三日も続いているというワケだ。それも、今日で終わりの予定ではあるのだけれど。
ユズにメシを作ってもらうようになってから、ヒトが作ってくれる食事の有難さをひしひしと感じている。
例えば同じ煮物でも、全然美味さが違う気がする。作り手の顔を知っているからだろうか、一口一口が身体にも心にも沁みるようだった。
だからこそ、美味しいって心からユズに言えるし、言われた時のユズもまた心から嬉しそうな表情をしてくれる。そのやり取りがまた、料理を美味くしてくれるのかもしれない。
当然だけれど、相手のない食事にはそれがない。ただ黙々と、時にはテレビをつけて垂れ流したまま、儀式の様に、誰がどこで作ってくれたかもしれないメシを食う。義務的に腹を満たすだけのそれは、最近なんだか少し味気なく思えるようになっていた。
いくつかの店を見て回っていると、ふと、一軒のカフェのウィンドウに眼が留まった。ガラス越しに見知った顔を見かけた気がしたからだ。
立ち止まって、目を凝らして店の奥をよく見てみると、確かにそれはよく知っている人物だった。それと同時に、なんで、その人物がそこにいるのかが判らず、俺は不自然なほどその光景を凝視してしまっていた。
「―――…ユズ…と、馬越、くん?」
珍しい取り合わせだな、というのが第一印象だった。俺と、馬越くんの恋人である鹿山くんとはもう友達と言える程度の知り合いではあったから、お互いのパートナー抜きに顔を合わせることだってあり得ると言えばあり得る話だった。
実際俺だって平日は職場が同じ学校の体育教師である鹿山くんとつるむことが多くて、時々一緒に昼食をとることだってあるぐらいだ。
だから、ユズと馬越くんが、例えば一緒に昼食をとったり、お茶したりいているのがおかしいとは言えない。ただ、自由業のユズと、塾講師で夜型の勤務の馬越くんとがこんな昼間に街中に一緒に居るっていうのが珍しいだけで。
俺や鹿山くんを抜きに2人が逢う事だってあるだろう。料理という共通の趣味もあることだし。それでも俺が2人の姿を凝視してしまったのは、今日、ユズが俺と出掛けられないって言ったのが、仕事があるからって言っていたからだ。
ユズは仕事に掛かりきりになると滅多に外に出ない。出てもせいぜい近所のスーパー止まりだ。外出するような気力があるくらいなら1行でも多く書きたいという考えらしく、当然食事や風呂さえもままならなくなる場合もなくはないとも聞いたことがある。
俺は素人なので、一般的な(そういう括り方ができるのかはわからないけれど)小説家が、一つの作品を仕上げるのにどれぐらい時間を要するのかは知らないし、そもそもどれぐらいの頻度で作品を書いているのかもよくわからない。
わからないけれど、知名度や筆の運びの差が大きいだろう事や、それがそう簡単にヒトと比べられるものではない事ぐらいは解っているつもりだ。
こう言ったら失礼なのは承知なのだけれど、ユズは、「かつて有名だった作家」だ。新人賞を獲って華々しいデビューを飾った若手作家のひとりだ。
それから数年。多少のスランプを乗り越えつつ、時々単発で小説の短編かコラムを書いてどうにか作家をしている。だいたい月に1度くらい締切があって、その直前は作品に掛かりきりになる。
今回みたいに急な依頼を受けたりして、そして極々たまに、本を出版したりもする。俺が、作家・阿藤柚樹について知っているのはこの程度だ。
料理上手で儚げで、可愛くて時々ちょっとエッチな普段の姿とは違った彼のもう1つの顔を、足掛け4年近くなろうかという付き合いにもかかわらず、俺は知らない。
仕事をする日は、ユズから伝えられる。当たり前だけど。今回みたいに逢って直接伝えられる時もあれば、メールでいついつだから明日とか明後日とかから逢えなくなるかも、と、伝えられることもある。
どっちにしても、日にちが知らされると、俺はそれに従わなくちゃいけなくなる。強制されているわけじゃないけど、いくら恋人だからと言って、存在がユズの執筆に悪影響が出てはいる意味がないからだ。過去の失敗から痛いほど学んだ教訓だ。
だから当然、俺は逢えない間、ユズは部屋に篭ってせっせと執筆しているものだと思っていた。たまに気分転換しに外に出ることはあるかもしれないけれど、基本的にはそういうもんだろう、と。
――――じゃあ、いま、あの店の中にいて、知らない誰かと楽しげに笑っているのは、誰なんだろう?
しかも今目の前にいるユズはコンタクトをしている。執筆中であれば、彼は、必ずメガネをかけている筈だ。外出も食事も渋るような彼なら、こんな駅前まで出てくることも、ましてやコンタクトに付け替えることなんてしないはずだ。服装も、部屋着のままでは当然なかった。
だけど、何よりも俺の眼を釘付けにしたのは、仕事中なのにわざわざコンタクトにしているユズの姿ではなく、彼と馬越くんの傍らに、俺が全く知らない若い男がいたからだ。
男は、見た感じ、俺やユズ、馬越くんとさして歳が変わらなさそうで、きちんとした仕立ての黒に近い濃紺のスーツを着て、明るい黄色のネクタイを締めていた。清潔そうに整えられた髪に、ユズか馬越くんの言葉に感じよく頷いたり笑ったりしていた。
そしてユズの様子はどうかというと、馬越くんという見知った存在があるからなのか、特に臆することなく話をしているように見えた。ユズは人見知りの気があると本人から言っていたから…きっと、ある程度見知った相手だろうとも考えられた。
冷静にここまでを観察しながら、3人が、特にユズがどうして今この場にいるのかが気になって仕方なかった。
まず、こんな平日の昼間に駅前にいるどうしているのかという事。それから、どうしてそれが馬越くんと…俺の知らない誰かなのかということ、だ。
彼は編集者のような仕事の関係者なのかもしれない…そこにたまたま馬越くんがいて…そう、考えなくもなかった。だけどそれにしてはユズも馬越くんもその男と親しげに見えた。