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伝説の射手の師

作者: 森とーま

 ここが名前の通り「金の湧く土地」だったのはせいぜいが一昔前までのことで、最初に開拓に入った山っ気の強い連中が竜を狩りつくした後は、長く際限のない開墾の仕事だけが残っていた。一攫千金の噂に飛びついて北上してきた冒険者達は、登録料や手数料という名目でわずかな持ち金を搾り取られ、否応なしにギルドに組み込まれ、パーティを組んで最北の荒山へと向かう。地面からその無数の首を生やす「リュウノコ」を刈り取り、張り巡らされた地下茎を取り除き、土を蘇らせるのだ。


 竜はもういない。竜を一匹斃せば一生遊び暮らせるほどの報奨金が出る、そのルールはいまだ有効だったが、誰も信じてはいなかった。リュウノコ刈りにもそれなりの報奨金は出るが、地下茎でひと繋ぎになっている数十から数百の首を合わせて一株と数えるため、これを片付けるのに関わった人数と日数で割ると一人あたりの手取りはじつに乏しいものだった。リュウノコ刈りは頭を刈り始めてから地下茎がすべて取り除かれるまでにひと月近く掛かる。そして、ひとつ終わればすぐ次が待っている。


 ここでどれほど「武勲」をあげても、丘の上の屋敷に住む最初の開拓者達のような華やかな身分は一生望めないのだと、ハーランはよく分かっていたが認めたくはなかった。自分を蔑ろにしてきた親兄弟達の前で「故郷に錦を飾る」と啖呵を切って飛び出してきた手前、今さら手ぶらで引き返すことなどできない。ここでどうしても成功者にならなければ、もう死ぬ他にないのだ。プライドを引き下げて他の人間と和解するくらいなら死んだほうがましだと、ハーランは常々思っていた。ハーランにとってはこの世の人間にはすべて序列があり、強い意志を持って競い合い、勝ち続けることだけがまともな生き方だった。従ったり和解したりするのは薄汚い「媚び」であり、それは恥ずべきけだものの行いだった。

 しかしハーランにとっての不幸は、この高潔で芯の強いプライドに実力がまったく伴わないことだった。


 好戦的で負けず嫌いな性格のおかげで、故郷ではそこそこ剣の腕が立つほうだった。しかしその狭い村の中でも「そこそこ」止まりだったのだ。各地から「金の湧く土地」を目指して集まってきた腕自慢達の一員に入ると、ハーランの序列は一気に下がった。落ちこぼれではないが、どこにでもいる平凡な剣士。何もかも中くらい。誘いのきたパーティも、回ってくる仕事も、得られる報奨も、取り立てて悪くはないが良くもない。普通。中の中。完璧な平均。そして、そのことを受け入れられないハーランのプライドの高さが、彼の評判を引き下げていた。


 最初にいたパーティと二番目にいたパーティをどちらも半ば追い出されるような形で飛び出し、三番目に所属することになったのが射手ルベルトの率いるパーティだった。弓二名、槍二名、剣二名からなる標準的な「刈り」の小隊で、老いた剣士が一人引退して空きが出たところにハーランを充てることになった。


 短期間での二度もの転属、というか事実上の追い出し、とあって、さすがのハーランも焦りを感じてしばらくは神妙に働いていた。


 リュウノコの株は、遠目には枝の無い細木が群生する林のように見える。太さは人間の男の脚程度で、スルスルと天を突くように伸びる。その天辺には鋭い歯を持つ凶暴な頭が付いている。体表面には一定の間隔で輪のような節を生じ、そこから小さな鱗の芽が出てぎっしりと並ぶ。若いうちは全体に薄い緑色だが、歳ふるごとに黒みを帯びる。数十年経つと「開花」して無数の頭同士が共食いを行い、生き残った数本の頭が胴を共有し、土を離れ竜として旅立つ。だから大抵の竜は五から十本ほどの頭を持っていた。丘上の一番広い屋敷の先代の主人は、十八本頭の竜を斃したとされ、その大広間にはその時の伝説的な場面を描いた大きな絵画が飾ってある。が、あれはだいぶ誇張された武勇伝だろうとは誰もが小声で噂するところだった。


 リュウノコは普段は静かに直立する木のようだが、外敵が近づくと長い首をうねらせ、鋭い歯のついた大口で噛み付く。無数の凶暴な頭が襲いかかる只中に無防備で踏み込んだ者の末路は悲惨である。リュウノコの足元にはよく獣の死骸や骨が散乱しており、見た目は林のようなのに、小鳥や虫一匹近づかぬ不気味な沈黙の場所だ。

 刈るためには、まず射手が多数の毒矢を射掛けて多くの首を弱らせる。それから槍兵が長くうねる首を躱しながら踏み込み、最後に剣士がその先端の頭を斬り落とす。これを全ての頭が無力化されるまで何日も続け、その後、残った残骸の刈取りと地下茎の処理は別な集団に引き継ぐ。


 それなりに危険な戦闘が伴う地上部の無力化作業は、竜退治の頃の伝統を引き継いでパーティ制が残り、少数精鋭で当たって報奨金をなるべく少人数で山分けするのが習いだ。その一方、残骸と地下茎の処理は、鍬や鉈を担いだ日雇いの老若男女が大人数で十数日かけて進める。戦闘の伴わない単純労働は暇潰しのお喋りと歌と飲み食いの中で進められ、リュウノコの一株が片付くとその日の日当には賞与金が上乗せされる。その臨時収入は仕事に区切りがついた祝いの酒と博打に一晩で消えるのだったが。

 ハーランは彼らを「畑仕事」をするだけの矜恃のない馬鹿どもだと蔑んで、毛嫌いしていた。


 ハーランが属することになった三つ目のパーティは、しばらくは上手く回っていた。が、二、三月もして最初の緊張が解けてくると、ハーランの悪癖がまたぞろ始まった。とかく何につけても人と比較し、そして勝たねば気が済まない人間だった。剣の腕前や戦績だけでなく、その得物のグレードや手入れの知識、鞘の装飾、その他のこまごまとした装備、靴やら上着やらをどこでどのように入手したか、果ては剣技とは特に関係のない生い立ちや四方山話の隅々に至るまで、いちいち自分が上だと主張しなければ落ち着かず、勝つことができないと機嫌が悪くなった。そして愚痴が始まる。俺は一生こんな所で下働き同然の仕事をして生きるのか、こんな老害ばかりの外れパーティに左遷されて不遇だ、どうせ竜殺しの名誉も得られず開拓地の地主にもなれないのなら故郷で燻っていたほうがマシだった、云々。ルベルトを始めパーティの構成員はみんなそれなりのベテランばかりで、ハーランのような青二才の悩みには良い意味で取り合わなかった。それが余計にハーランのプライドを傷付け、いじけさせることになった。かと言って、怒られたり慰められたりすればますますいじけるタチの人間だから、受け流す周囲の苦笑いもだんだん真顔になり、やがて無表情になった。


 ルベルトだけはいつも鷹揚だったが、ある日の出陣前、あまりにも愚痴の過ぎるハーランに「あんたは黙ってりゃ有能なんだから黙って剣を振れよ」と、軽口めかして言った。ハーランは途端に深く傷ついた顔になり、その日一日中拗ねてまともに自分から動こうとしなかった。リュウノコが弓と槍で弱って隙が出来ても、周りにせっつかれてようやく嫌々ながら動くという有様で、結果、リュウノコの頭のひとつに噛まれて左脚を負傷した。


 リュウノコ刈りに危険は付き物だ。ハーランの怪我は実際大したものではなかったが、彼の落ち込みようは激しかった。「俺も射手が良かった」夜営の焚火の前で、苦手な酒をガブ飲みしながら、ハーランはまたひどく愚痴った。「剣士は不遇だ。最後まで出番もなく目立たないのに、一番リュウノコに近付いて一番危険な目に遭わなきゃならない。それで遠くから弓を射るだけの奴と同じ報奨じゃ割に合わない。不公平だ」

「おい、本気で言ってるのか」ルベルトは焚火の向かいからじっとハーランの目を覗いた。

「俺は本気ですよ。いつも本気ですよ。俺も弓が良かった。こんなこと不公平だ、剣士なんて馬鹿げてる」

「じゃあいいぜ、明日からお前が弓をやれよ」ルベルトは後ろに休ませていた自分の武器を持って来て、ハーランに差し出した。「ほら、お前の剣と交換だ」

「えっ、いや、……」

「大丈夫だって。やり方は教えてやるしお前ならすぐ覚えられるだろう。リュウノコは弓のマトにしちゃデカくて鈍重だし、初心者でも中てられる、毎日やってりゃすぐ上達するさ」


 ルベルトは本当に翌日からハーランに弓を持たせて指導した。ハーランはルベルトが決定的に怒ってしまったのではないかとひどく怯え、自分のプライドの許す範囲内で控えめに謝ったが、ルベルトは「まあ、それはいいから」と流して指導を続けた。他の構成員も特に反応は無かった。ルベルトがハーランの弓の指導に付いたため、一時的に弓三、槍二、剣一という偏った構成になったが、もう一人の剣士ルノーの立ち回りと槍の二人のサポートでそれなりに進められた。自分の剣はこのパーティには必要なかったのだと感じて、ハーランはまた落ち込んだ。


 しかしルベルトの慧眼だったのか、それとも単なる幸運だったのか、ハーランは剣よりも弓に適性があった。何をやっても人並み程度のハーランだったが、弓だけは驚くほどめきめきと上達した。狙った頭にただ中てるだけでなく、眼や節のきわの柔らかい部位にしっかりと矢を刺し、素早く毒の回る致命傷を負わせることができた。リュウノコが激しく暴れるときや、風のある日、視界の悪い日にもきちんと戦果を出せた。ほんの少しの訓練で、自分で期待した以上の上達が返ってくる。これが「才能」か。俺にもそれがあったのか。生まれて初めての手応えにハーランはしばらく夢中になった。ルベルトは基本的な指導を済ますと、約束通りハーランの剣を譲り受けてその後は剣士として働いた。


 面白くなかったのはもう一人の射手のエーレヒトだった。エーレヒトも射手としてそれなりのベテランだったが、馬鹿げた理由で剣を捨てたハーランにあっという間に技量で追い付かれ、気分の良いはずはなかった。しかもハーランは相変わらず、持ち前の敵愾心と無駄なプライドを隠そうともせず、ことあるごとに自分とエーレヒトの技量を比較して自慢や卑下を繰り返した。エーレヒトは気にしていないふりをしてしばらく淡々と仕事を続けていたが、ある日、故郷で縁談の話が来たからと、隊長のルベルトにだけ告げて去ってしまった。


 その穴を埋めるように次々と新しい射手が入ったが、誰もがハーランの自慢と卑下と過剰な愚痴にうんざりして、長続きしなかった。ハーラン自身も、新しい射手が来るたびに自分の技量が見劣りしないかと怯え、行き過ぎた対抗心を持て余して荒れ、射手が呆れて出て行けばやはり自分のせいだと落ち込んだ。心の休まるときが無かった。それが自分の撒いた種だと分かっていたし、他の構成員もそれを分かっていながら大目に見てくれているだけなのだと感じていた。惨めで仕方なかった。リュウノコ刈りでどれほどの戦果をあげ、お前の弓は素晴らしい、射手に転向させて正解だったと、何度褒められても心の底の不安と居心地の悪さが癒えることはなかった。彼はずっと自分の不幸は才能の無さ、あらゆる能力の平凡さ、それを認めることのできないプライドの高さから来るのだと思っていた。だがいざ、弓の才能という待ち望んだ宝を手に入れてみて、どうだろうか。惨めさは増し、ここでの居場所は日に日に狭く息苦しくなっている。「才能が無いせいだ」という言い訳すら奪われたハーランは、ますます気難しく意固地になり、それが他の構成員達を困らせ、その結果ますます自己嫌悪に陥るという悪循環に嵌っていった。


 このパーティはこれ以上は続かないかもしれない、と誰もが思い始めたとき、不思議な巡り合わせが起きた。それはルベルトにとっては大きな不幸であり、ハーランにとっては一瞬の幸運だったのかもしれない。ルベルトが故郷に残してきた妻と義父母が立て続けに病死し、身寄りのなくなった一人息子のフリッツが父を頼って「金の湧く土地」へ来たのだ。フリッツは数えで十三だった。


 ルベルトは悩んだが、ギルド長の口添えと協力もあり、自分のパーティに息子を入れることにした。ここで数年鍛えてからもっと実入りのいい若いパーティに転属させれば、自分の食う分くらいは稼げるようになり、気の合う同年代の仲間にも出会うだろう。故郷の村は伝染病にやられたようで、戻ってもろくな暮らしができないのは目に見えていた。


 パーティはフリッツを気さくに迎え入れた。皆、ルベルトが息子に剣か弓の指導をするものと思っていたが、ルベルトは「親が師匠では気まずかろう」と言って何故か息子の指導者にハーランを指名した。ハーランは戸惑い、「子供に弓ではかわいそうだ」と言った。「弓は一番に攻撃を始めて、皆が闘い終わるまで腕が下ろせない。待ち時間の多い剣の方がまだ楽では?」

「いや、離れたところでしか闘わなくていいから一番安全だ」ルベルトは笑いながら言い返した。


 ハーランは気乗りしないままフリッツに指導を始めた。フリッツは一人っ子で、平和な山村でのびのびと悩み無く育った子供だった。父のルベルトに似て賢そうではあったが、情緒面では歳のわりに幼く、おまけに母親と故郷を失って随分不安定でもあった。靴が壊れたの虫に刺されたのと些細なことでメソメソ泣いて駄々をこねる少年にハーランは手を焼き、他の者達はガキがガキの世話などできるのかと心配した。


 しかしどういうわけか、この手の掛かる弟子を取って以来、ハーランは驚くほどの胆力と辛抱強さを見せるようになった。野営地で明日使う毒矢の準備をしているとき、急にぐずり出したフリッツの振り回した腕がハーランの肘に当たり、持っていた道具がすべて地べたに飛び散ったことがあった。この二時間近くの作業が無駄になったハーランがさすがに少年を殴るか、もしくは例によって拗ねたりするのではないかと皆は思ったが、驚いたことにハーランはいきなり笑い出してフリッツの頭をガシガシ掻き回し、「意外と豪胆なところあるんじゃねえか」と言ったのだった。


 フリッツは半年余りで見違えるほど背が伸び、それと共に情緒も落ち着いていった。また父のルベルトに似たか、それとも師匠が良かったのか、弓の腕前もすくすくと伸びた。


 フリッツはハーランを兄のように慕い、非番の日も「ハーラン」「ハーラン」としつこく付いて回った。ハーランはこの「金の湧く土地」の主要な街路と建物を案内して回った。少年の興味を一番引くのは、やはり、丘の上に建つ幾つもの豪奢な屋敷だった。

「あれは『竜殺し』の英雄達の家だ」とハーランは言った。「昔はこの辺りに竜がたくさんいて、一匹斃すごとに一生遊べるほどの金が貰えたんだ」

「今はいないの」とフリッツは聞いた。

「ああ、もういない。リュウノコ刈りにも報奨は出るが、そんなに多くはないしパーティの取り分は四割。六割は後始末と地下茎の掘ったり切ったりをする百姓達の雇主が持っていく」

「ふーん。なんだかずるいな」

「だが俺達はその四割を六人で山分けだが、百姓達は五十人からいるし、山分けじゃなくて掘りに参加した日数分しか貰えないからな」

「そうじゃなくて、竜殺し達はずるくない? あいつらが先に来て良いものは全部取っちゃって、そんで後から来た俺達をこき使って自分達だけ良い暮らししてるんだろう?」

「まあ、そうだな」ハーランは少し目を細めて丘の上を見上げた。「だが、あり得なかった人生を羨んでもしょうがねえ。人生とか世の中とか、途方も無いもの考える前に、てめえの今日と明日を楽しくすることを考えなきゃな」



 そのリュウノコの刈りが始まった初日、夕暮れを前に急に天気が崩れた。暴れる首の群れは雨を吸ってますます勢いを増し、奇妙な唸り声をあげた。もうかなり黒ずんできて「開花」の近い、凶暴な株だった。これほど育った株は今のこの土地には珍しいが、険しい岩場の陰に上手く隠れていて今まで手付かずだったのだ。

 足場が悪く、パーティが落ち着いて展開できる場所は限られていた。ハーランとフリッツも、射手にしては普段よりもだいぶリュウノコの足元に近い場所にいた。毒の効きも悪く、槍と剣は苦戦していた。

 初日だから、この先何日も続く刈りの前哨戦として、小手調べ程度に済ませて早めに撤収しても良かった。だがルベルトは珍しく粘った。雨が降るとリュウノコは活気付いて次々と首を増やす。刈っても刈っても一晩で回復して増え、いつまでも終わらないことすらあった。だから、今日のうちにできるだけ多めに刈りたい、という気持ちに傾くのは道理だった。


「おい、いつも通りな」ハーランは雨で身体を冷やし震え始めたフリッツを横目で見て、静かに声を掛けた。「雨でも風でもおんなじだ。おんなじにやれなきゃいかん、射手は。振れ幅が大きいだけで、真ん中はいつも一緒だ」

 フリッツは黙って小さく頷いてから、「なんだか、怖いね」と言った。


 リュウノコの唸り声と岩場に吹き荒ぶ風の音が混じり、不吉な和音をなしていた。雨はほぼ横殴りで、岩場を踏み締めるハーラン達の不安定な足元を掬い取るかのように叩き続けた。黒ずんで節の盛り上がったリュウノコの首は、うねうねと不規則に、荒々しく波打っていた。槍のヒルデウスとオルヴィン、そして剣のルノーとルベルトは、見事な連携を取りひとつひとつ頭を斬り落としていった。ハーランとフリッツも弓を構え続け毒矢で援護した。

 不意に空が一瞬白く光り、遠くで銅鑼を転がすような雷鳴が響いた。雷が来たなら、今日はこれまでだ。ルベルトが斬り掛かって逃した首を諦め、撤収の合図を出す。ハーランはまだ警戒して弓を構えながらも、肩から大きく力を抜いた。すっかり身体が冷え腕がこわばっていたフリッツは、知らず腕を下ろしていた。そのとき、ルベルトの剣を逃れたリュウノコの頭がひとつ、首をピンと伸ばし恐ろしい勢いで岩場に倒れ込んできた。

 力の緩んでいたハーランは弓を放つのが瞬きひとつ分だけ遅れた。矢は狙いを逸れてよく刺さらず、リュウノコのおぞましい口はフリッツの下ろしかけた腕を噛み、途端にその首は天高く跳ね上がってフリッツの細い身体を釣り上げた。フリッツは声をあげなかった。少年の身体はそのままリュウノコの群生地の只中に引き込まれ、落ちて行った。無数の首がそれを追って曲がりくねり、自身の足元の獲物を噛み砕こうと大口を激しく開け閉めした。雷鳴が一気に近付き、耳を塞ぐほどに轟き渡る。リュウノコの足元に飛び込んで行こうとするルベルトを、ルノー達が三人がかりで組み付いて引き戻す。その光景をハーランはぼんやりと立ち尽くして眺めていた。

 彼の束の間の充足と幸福が、永久に終わった瞬間だった。


 野営地代わりの拠点にしていた山小屋に、どうやって戻ってきたのかハーランは記憶になかった。気付けば身体を拭いて着替え、いつもの習慣で道具を並べて手入れを始めていた。刈りは初日だ。明日からもしばらく続く。全ての頭を斬り落とすまでは、ここに泊まり込んで日中は刈り続け、夜は仮眠し、翌朝また早朝から出て行って刈る、その繰り返しだ。一株終わればまた次がある。終わらない開墾の日々。すべき事は無限にあり、身につけるべき技も際限がない。もっと正確に、もっと早く、もっと強く。


 ハーランの篭っていた小部屋の戸がいきなり荒々しく開き、ルベルトが戸口に立った。ルベルトの顔は喜怒哀楽の全てが一緒くたになって歪み、滝を浴びたようにその両頰が濡れていた。ルベルトは弓に矢をつがえ、それをハーランの心臓に向けていた。

「ハーラン!」ルベルトは吠えた。「ハーラン! なぜ……なぜ……」

「ルベルト! やめろ」ハーランは叫んでから、自分もまた弓に矢をつがえルベルトに向けていることに気付いた。

 危険を感じたとき咄嗟にそちらに矢を向けるようになっていた。その癖がついたのは、フリッツが来てからだ。フリッツを守らなければならなかった。

 射手はリュウノコから最も離れた場所で働くが、それでも危険が無くなるわけではない。「刈り」は、やはり、「狩り」でもあり、負傷や死とも隣り合わせの戦闘だった。リュウノコの首が思わぬ方向へ伸び、その口と歯がフリッツに少しでも向くたび、ハーランはそちらへ矢を向けて警戒してきた。誰に頼まれたわけでも、教わったわけでもない。そうするのが当然のことだと初めから分かっていた。この少年にどう接して、何を教え、どのように守るべきか、ハーランには言葉ではなく直感で全て分かっていた。そのためにこそ、より早く矢をつがえ、より正確に狙いを付け、より強く撃ち込めるように、いっそう鍛錬し技を磨いた。

「ルベルト、俺にあんたを殺させないでくれ!」ハーランは奇妙に掠れた声で叫んだ。

 ルベルトの手にある弓と矢は、フリッツの物だった。ハーランにとっては、自分の腕よりも見慣れた道具だった。フリッツにその扱いを教え、共に弦を張り、矢尻を磨き、毒液を仕込み、矢軸のくるいを直し、フリッツの手癖に合わせて重さを調整したのは、他ならぬハーランだった。


 俺は俺の磨いた弓と矢で、貫かれて死ぬのか。


 ルベルトの手元はぶるぶると震えて定まらなかったが、仕込んだ毒が残っていれば擦り傷だけで致命傷だ。あの巨大なリュウノコを痺れさせるほどの猛毒だから、人間が食らえば数秒で泡を吹いて昇天する。ハーランがルベルトに向けた矢にも、同じ毒が仕込まれている。

「ハーラン! なぜフリッツを……うう……俺は全部! 全部を! あの子に、俺の息子に……ハーラン、なぜ……!」ルベルトの言葉は途切れ途切れで、支離滅裂だった。きちんと意識があるのかどうかも定かでない。

「ルベルト! 武器を下ろしてくれ」ハーランも、自分が何を言っているか分からなかった。「俺に、させないでくれ……ルベルト、お願いだ」まだハーランの構えた武器も、ルベルトに向いたままだった。


 両者は互いの心臓に向けたものをいつまでも下ろさず、泣きながら睨み合い続けた。



 翌朝は嘘のように雲ひとつない空だった。

 ルベルトは憔悴し、血の気が失せて黒ずんでいるようにすら見えるほどの顔で、ルノー達三人の前に現れた。三人が何かを聞く前にルベルトは口を開き、ハーランは別なパーティへ行くことになって先に山を降りた、と告げた。刈りは続行された。射手二人が欠けたパーティでルベルトが再び射手を務め、ヒルデウスとオルヴィンの槍、ルノーの剣で、半月がかりで岩場のリュウノコは斃された。


 ハーランが別なパーティへ行くことになったというルベルトの言を他の三人は信じてはいなかったが、実際にハーランはその後、別のパーティの射手の空きに入って半年ほどリュウノコ刈りを続けていた。そのパーティはハーランが剣士だった頃には実力不足で入ることのできなかった、有名なエリートパーティのひとつだった。彼の弓の腕はそこでもかなり認められたが、やはり他の構成員との揉め事が絶えず、結局は例によって居辛くなり出て行くことになった。その後はリュウノコの残骸処理と地下茎掘りの日雇い仕事をしていたがそれもすぐ辞め、長屋の家賃が払えなくなって引き払い、以前から彼を知る者の目の届くところには現れなくなった。少し離れた町の酒場で昼間から飲んだくれていたという噂も何度か聞かれたが、どこまでも噂どまりで、確かな話が聞かれることは二度と無かった。



 ※



 雪解けを終えたばかりの山の、中腹の小峰を少し回り込んだ谷間、深い森の入口に崩れかけた小屋があり、その前にひとりの老いた男が、小さな樽を椅子代わりにして座っていた。


 少女は足を緩めず一定の速さで、真っ直ぐに近づいて行った。老いた男の目の前まで来ると、少女はぴしりと立ち止まり、しばらく無言で相手を眺めた。


「俺に用かね」老いた男はつまらなそうに、ひどく面倒くさそうに聞いた。

「あんたに弓を教わりにきたんだ」と、少女はやや低めの張りのある声で言った。華奢だが芯のあるしなやかな手足で、くりくりした目が好奇心に輝き、はちきれんばかりの期待と若さに溢れていた。

 男は渋面になり目を逸らした。「人違いだよ、お嬢さん」

「そんなはずない。あとオジョーサンなんてやめて」少女は勢いよく言い返した。「あんたで間違いないよ。聞いた通りだ」

「誰に聞いたんだ。ルベルトか」

「誰だっていいだろ。教えてくれるのくれないの」

「急に来て何だってんだ。俺は忙しい」老いた男は俯いたままぼそぼそと言った。

「そう。教えてくれないのか……」少女はひどく落胆した顔になり、来た道を心細そうに振り返った。

「誰に聞いたんだよ」と、男は言った。「ルベルトかよ。なぜ今さら……」

「誰にって、みんなだよ」

「みんな?」

「そう、みんなだよ。酒場でも、あ、あたしは飲んでないことになってるよ、まだ十五だからね、まあそれはいいだろ、酒場とか、ギルドの集会とか、パーティ再編の交流会とかでもさ、どこでも誰かが言ってたよ、あたしみたいなチンチクリンが一流の射手になりたいなら伝説の師匠にでも弟子に取ってもらうんだなって」

「俺は伝説なんかじゃねえ。俺はただの……」

「いーや伝説だね。ずっとみんなあんたの話、してるもん。伝説の弓の師匠だったって。昔一人だけ弟子を取って、そいつが箸も自分で持てないチンチクリンだったのを一流の射手に育て上げたって……」

「そりゃ尾鰭が付き過ぎだ」

「尾鰭が付けられるくらいの伝説だってことだろ、そんなことあたしだって分かってる、あんたが、うーん……」少女はそこで少し言葉を切って男を眺めた。「……まあ、教えてくれないんなら、自分で練習するから、いいよ」後ろの方はとても意気消沈した声色になった。

 少女は思い切りよく来た道に向き直り、歩き出そうとした。


「待て」老いた男は、顔を上げて呼び止めた。


「何? 教えてくれるの?」少女はまた目を輝かせて振り向いた。

「立ってみろ」と男は言った。

「立ってるよ」

「もっとちゃんとだ」

 少女はキョトンとした顔で背筋を伸ばした。

「駄目、駄目」男は樽から立ち上がり、少女の側へ行ってその背中の真ん中を指で突いた。「ほらすぐ重心がブレるだろ。背筋を伸ばすのと胸を反らすのは違う。身体の芯を意識して隅々まで両足で支えるんだ、弓を持つ前にまず立ち方から覚えなきゃならん。射手をやるなら体格も腕力も二の次、まず姿勢と呼吸だ。どんな時も、意識していてもしていなくても、何を持ってても、息を吸った時も吐いた時も、まったく同じ姿勢を保てなきゃならんぞ、芯がブレないように。ブレは射手の大敵だ。そして大事な相棒でもあるんだ」

「大敵が、相棒?」

「そうだ、自分のブレを知り尽くして、使いこなすんだ……」

「あたし、筋がありそう?」

「無いだろうな。まあ無くたってしばらく教えりゃ少しはモノになるだろう」

「やったあ。伝説の師匠だもんね」

「ああ……そうだな」


 老いた男は、雲ひとつない空を目を細めて振り仰いだ。



(了)


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