【06】
それから一年経って今に至る。
結局あの作品を賞に応募することはなかった。パソコンのデータはとうに消してしまったが、あのクリアケースは今も机の奥に眠っている。今はもう読み返す気にもならない。一度でもページをめくろうとしてしまえば、ごみ箱に叩き込んでしまいたい衝動に駆られるだろう。だからこの先も読むことは無いと思う。
その作品のデータの入ったフロッピーディスクも手元には残っていない。どうやら一年前のあの日、コンピューター室で印刷した後に回収するのを忘れていたようなのだが、それに気付いた時すでに私は大学に所属していなかった。取りに行こうかとも思ったが、だらだらと先延ばしにして今日までその行動は起こしていない。恐らくもうどこにも無いのだ。そう信じたい。
一年前から作家になりたいと言う私の気持ちは変わっていない。いや、むしろ一年前よりも強いほどだ。
約二ヶ月前、つまり山本氏に会った日から約十ヶ月後、私は新たな作品の執筆を開始した。十ヶ月の時間をかけてできることは全てやった。小説家という夢に対してどこまでも現実的で地道な方法で向き合い、自分なりに濃密な時間を過ごした。
そして今度こそ渾身の一作を血を吐く思いで書き上げた。ジャンルはもちろん魔法の剣や杖が登場するファンタジーだ。自分にはそれしか書けない。それがたった今、飽き果てるほどの推敲の果てに完成した。
最後の仕上げとして最初のページのタイトルに付いていた(仮)を削除する。そのときふと少しだけ迷ったが「幻愁院盛悟」という恥ずかしいペンネームは結局そのまま使うことにした。
一年前のように自画自賛し陶酔することはない。現時点でのベストは尽くした。断言できるのはこれくらいだ。今私が感じているのは心地よい疲れとささやかな達成感でしかない。
私はマウスを操作し、印刷を開始した。買ってから一度も動いたことのなかったプリンターが重低音とともに私の作品を用紙に印刷して吐き出す。一定のリズムで用紙が流れ出てくる。それだけのことだが見ていて楽しかった。最後の一枚が印刷されるまで私はそれを見続けていた。
印刷が終わり、私はまだ少し温かい紙の束を手に取る。そういえば一年前は感動でしばらく立ち尽くしていたな、と苦笑した。
この作品こそは賞に応募しようと思っていた。しかしその前に私にはするべきことがあった。
私はこの作品を書いている最中、たった一人の読者だけを意識して書いていた。そう、山本氏だ。私は常に「山本氏ならどう反応するだろうか?」ということを想像しながら作品を書き進めていたのだ。
あの日の怒りはとうに風化していた。それどころかいつの間にか批判に饒舌な山本氏を唸らせることこそが私の目標になっていた。この作品の最初の読者は山本氏だと最初から決めていた。だからペンネームも変えなかった。幻愁院盛悟は山本氏の言葉を糧として成長して見せた。それを認めさせてやる。
私は紙の束を新しいクリアケースに入れた。
さて、と思う。山本氏に会おうにも私は山本氏の住居や連絡先など知るわけがなかった。大学に問い合わせようにも私は山本氏のフルネームを知らないので名簿照会も難しいだろう。山本氏に会ったのは大学の講義室だ。ならばとりあえず大学に向かうのが一番だろうか。
しばらく考えて私はクリアケースを鞄に入れて部屋を出た。時間は正午を回ろうかという頃合いだった。
そして一年ぶりに大学の前に来た。ここにはいい思い出がない……と言うより思い出自体がほとんどない。
講義に出席するべき時間は小説執筆かアルバイトに充てていた。入学当初は勤勉に通っていたが、作家を本気で志してからは教わる必要性を元々感じていなかった講義に全く意味が見出せなくなり、出なくなった。別に作家を志さずとも遅かれ早かれ結局は中退していただろう。私にとってはそんな大学だった。
だから私は構内に入ろうとして、踵を返した。山本氏に会うのはここではない方がいい。そう思った。
その足で私は一年前山本氏と別れた喫茶店に向かった。実は最初からこちらに用があったのだ。ここに山本氏は来る。何故だかわからないがそんな確信があった。当然根拠はない。
ただ、あの窓際の席で待っていれば山本氏が現れる気がした。あえて根拠を挙げようとすれば、非科学的な表現を使用せねばなるまい。
私は喫茶店の扉を開けた。カランカランとあの日と同じ鐘の音がする。見回しても当然山本氏はいない。
私は窓際の席に座り、いつの間にか好きになっていたアイスコーヒーを注文した。
――日が暮れるまでは現れるだろう。
勝手にそう思って、私はここに来る途中に買った「世界中で読まれている超有名ファンタジー小説」の第四巻を読み始めた。