鍵があかない
左隣に住んでいるおばさんは、ちょっとお金持ちで、気の強い人だった。
大きなガレージのある家に一人で住んでいて、毎年やってくるツバメの巣を見せてもらうたびにふんの掃除をやらされていた。
「ここまだ汚れてる、ちゃんと擦っといて!」
「はい。」
ツバメ見たさに、ずいぶん長い事、掃除役を買って出ていた。
「今年はツバメ見ないの。」
「……見てもイイかな。」
ツバメを見ることに飽きても、ずいぶん長い事、掃除役をやらせていただいていた。
大学三年生の春、いつもの様に水道をひねって掃除をしていたら、おばさんが大きな車で帰ってきた。
車の音に反応して、ツバメたちがぴいぴいと鳴いている。
私は掃除の手を止め、駐車の様子を見守る。高級外車に、ホースの水がかかったら大変だ。
「ありがと!ちょっと待っててねー!!」
ガレージの右端に車を停めると、おばさんは玄関へと向かった。
こういう時、お菓子か缶ジュースを私に手渡してくれるのが常だった。
掃除の続きをしつつ、おばさんの来るのを少しだけ心待ちにする。
おばさんのくれるものは、大体において高級品で、ご褒美感がすごかったのだ。
今日は何をくれるのかな、この前貰った外国のホワイトチョコはおいしかったな、そんなことを思いつつ、掃除を完了する。
デッキブラシを洗って、立てかけてもおばさんは私のところに現れなかった。
今日は何もくれないのかな、そんなことを思いつつ家に帰ろうとしたら、おばさんが玄関先でごそごそしているのが見えた。
もしかしたらカギでも落として、入れなくなっていたりするんだろうか。
心配になって、近づいてみると。
「なんかカギが入んないんだわ!」
おばさんが、財布を鍵穴にぎゅうぎゅうと押し付けながら、怒っている。
「全然入んない、カギの業者、呼んで!!!」
「ちょっと、カギかしてもらっても、良い?」
おばさんの財布の中から、カギを取り出し、玄関を開ける。
「ああー!良かった!あんたすごいねえ!!!」
当時、ちょうど福祉分野の授業で、痴呆について学んだばかりだった私は、明らかにおかしい事に気が付いた。
鍵をあけることはわかっているが、カギというものが理解できなくなっているのだ。
「はい、これ今日のお駄賃!またよろしくね!!!」
「ありがとう。」
車の運転も、お駄賃を渡すこともできる。
……だが。
玄関の向こう側に、夥しい量のごみを見た。
整理整頓、掃除をきちんとするおばさんであったはずなのに。
明らかに、おかしい。
市役所の福祉課に電話をしてみた。
ぴいぴい泣いていたツバメたちが巣立った頃、おばさんの娘さんが嫁ぎ先からやってきた。
おばさんはどこかに引っ越して行った。
おばさんの家は、だれも住まなくなった。
水が止まっているから、次の年のツバメの巣の掃除はできなかった。
汚れ切ったガレージを見て心が痛んだ。
次の年、私は就職をして家を出た。
……ずいぶんぶりに、実家に向かった私は、使い慣れない鍵をあけ、最後のチェックを済ませた。
「じゃあ、これカギなので、お願いしますね。」
「わかりました。作業は三日で終わる予定です。」
実家は今から更地になるのだ。
慣れない解体作業の打ち合わせ、書類作成、各種手続き、近所へのあいさつに市役所への届け出……。
実家と私の家は、車で片道三時間の距離。
連日時間に追われ、気の休まる間が、ない。
だが、解体が終われば、ひと息つけるはず。
私は、停めておいたマイカーに、乗り込もうと。
鍵を、取り出し。
……カギを、取り出し。
そのカギが、自宅の鍵であることに、驚いた。
……今、私。
……カギを、間違えたよね?
疲れがたまっていて、勘違いしただけだよね?
つい、うっかりしちゃっただけだよね?
かつて隣に建っていた、おばさんの家の玄関前で起きた事件をありありと思いだした。
……私は、もしかして。
……私は、もしかしたら。
不安が過る。
不安が、渦巻く。
この不安な気持ちすら、すぐに忘れてしまうのでは?
この不安を呼んだ出来事すら、すぐに忘れてしまうのでは?
……恐ろしさを抱えながら、この話を、記してみた、次第。