現実世界一週間前 その1
愛染小紗世。平凡な会社員。28歳。
たまには、羽目を外すのは必要だ。
そう思い、新宿の片隅にひっそりと佇むバーに来ている。
照明はやや暗めにして、あらゆる場所に置いてある白い百合の花が目立つ。といっても百合は匂いが強いので、入口にある花瓶の2本残してすべて造花という配慮はしてある。
6人座れるカウンターとテーブル席が2つだけという狭い空間は、あまり人とのコミニケーションの苦手な私には遠慮すべき所だが、ここには私の唯一の友、出口胡桃がいる。
出口胡桃はここのオーナーだ。
カウンターの中にいてシェイカーを振る顔が整った金髪のイケメン……いや女だけど……が、私を見つめて笑う。
「それっぽく飲んでるけど、ジュースだからな。お前、酒は駄目だからな、ロクな事にならないからな。で、今日は何?」
「何か用?何か用がなかったら、来ちゃいけないのかよぉ。あんたの綺麗な顔を拝みに来ただけよ。それにさぁ、なーんかつまらなくて、ねえ、構ってよぉ〜。仕事、くっそつまんねー。」
「汚い言葉、吐くんじゃありません。ほら、隣にいる鈴木さんも気分を害するでしょ。すいません。この子、ストレス溜まってる見たいで。」
「いいよ、いいよ。胡桃ちゃんの彼女だしね。」
「違いますよ。誤解ですよ。」
カウンターの私の隣にすわるグレーの髪に目尻の皺は目立つがかなり顔の整った40代後半といったイケオジは、私の頬を摘み上げる胡桃に笑いながら言った。高級スーツが如何にも会社の重役だ。私とは2、3回会ってるので顔見知りといっても良い。鈴木文哉さん、実はちょっとだけ憧れてます。でも、ここはボケよう。
「オス●ル様はわたくしのものでごさいます。」
胡桃はその容姿から、オス●ル様と呼ばれていた。古いっ。
まあ、見た目そのまんま某人気漫画、アニメの主人公だからな。
「そのネタ引っ張るといいことないぞ。ただでさえマスターモテるからな、女の子に。で、どっちなんだ?」
「コイツだけはないですよ。営業的にはどちらでもってことで。」
「店内にこれだけ百合飾っておいてそれはない…って痛い、鈴木さん、客に暴力を振るったよ。」
私の頭に胡桃は拳骨を喰らわす。事実だろうが、あんたがレ……に思われてる事は。
いい加減認めてしまえ。
まあ、わたしとカップリングだとただのお笑いなのでこんなこと冗談で言えるのだけどね。
「お前は客ではなかろう。」
「酷い。お金落としてるじゃない。このポテトサラダ絶品だよ。今日の夕食にぴったり。」
「ここを定食屋とは、思ってはいるよな。」
「まあまあ、私もマスターの一品料理のファンだし、今日みたい日はマスターもいいんじゃない?天候が荒れてて、奇特な客だよね、私達。2人だけだし。というか、帰りが大変じゃない。こんな日に長居したら悪いかなぁ。」
「大丈夫ですよ。コイツはいつまでも居るつもりですし、私は家が近いですから、鈴木さんは気にしないでいてください。」
あれ?お客様に個人情報宜しいのですかね?胡桃君?
「この年まで独身でいると、寂しくてね。君達みたいな若い子と話すだけで嬉しくて、おじさんはつい長居しちゃうんだよ。……愛染さん……。仕事はどんなにつまらなくともストレスが溜まるものだよね。ああ、いざとなれば、僕の会社を紹介してもいいし。」
素敵な提案をありがとう、鈴木さん……好き。社交辞令だろうけど。
「うーん、もう若いと言える歳ではないかな、小紗世も私も。将来的にはヤバイですよ。いい歳してほとんど貯金ないし、恋人いないし、来るたび仕事辞めると叫んでるし、もう本当にどうするつもりなのか。」
ハァ……と溜息を吐きながら、出来上がったばかりのカクテルを鈴木さんに出す胡桃。
真剣に私のことを考えてくれている友よ。ごめん、私はそれほど真剣ではないのだよ。忙しいとはいえ、一応生活していられるし。
私が二ヘラ〜と笑いかけると、美味しくて私好みのタンドリーチキンを小皿にドンと出す。凄い、いつの間に作ったんだ?でも有難い。
「ありがとう。愛してるよ。大好き胡桃ちゅあーん。」
「簡単に言うよね。」
「ズーーーーっと一緒だよ。」
「あー、ヤダヤダ。」
胡桃は、カウンターを拭いたり、皿をしまったりテキパキと動きながら、答える。長身でバスケを嗜んでいた彼女は、一人で切り盛りする店内でその能力を遺憾なく発揮していた。彼女の片付けスキルに隙は無いのだ。料理のパスも早いし、何処に目がついてるのだろうと思う時もある。
だから余計に私は気になったのだろう。あれに気がつかない事に。