癖と理由
寿也はベッドの中で寝間着を脱いだ。寝不足のせいか、頭が痛い。カーテンの隙間からこぼれた日差しに目を細める。枕元にある時計の針は十一時前を指している。父はとっくに仕事に出かけている時間だ。一体何時間寝ていたのだろうか。なかなか眠りにつけなかった記憶はあるが、その記憶が途絶えた瞬間は覚えていない。
寿也はテレビを付け、それから、一枚だけ残っていた食パンをトースターに入れた。昨日は、あの後すぐに帰った。別に、寿也が帰りたいと言ったわけではない。春花が次の日が早いと言ったからだ。
寿也は、昨日わかった春花に対する違和感の正体について、自分自身がどう思っているのか、正確に判断できていない。春花の癖が一つなくなったぐらいで、何をこんなに動揺しているのだろうか。自分だって、知らない間に変化した癖の一つや二つぐらいあるかもしれない。しかし、この言い表せない妙な違和感は、本当にこの出来事のみから来るものだとは思えない。
元々ずぼらな性格というわけではないが、あまりこだわったり深く考え込んだりするたちではない。それなのに、この違和感だけは、寿也の頭に焼き付いて離れない。
「じゃあ一体どんな理由だったら納得できるんだ?」寿也の脳内で声が響く。確かにそうだ。
癖がなくなった理由───ただ単に右手で意識して持つように変わっただけか? こんなことならさりげなく昨日のうちに本人に聞けば良かった。あの時はなぜか、聞くなと自分の心がブレーキをかけた。それ以上に、見てはいけないものを見てしまった時のような居心地の悪さを感じた。しかし、時間が経ったからなのか、今思い出してみても、それほどの緊迫した気持ちは蘇らない。
「君は……本の世界から来たの?」
焼き上がったトーストが跳ねる音と同時に、テレビの声が耳に飛び込んできた。昼のワイドショー「マヒルナンデス~!」に、例の映画の主人公役とヒロイン役の俳優がゲストとして来ているようだ。この映画の予告を一日一回は必ず見るのではないかと思うほどの人気ぶりだ。
徹に聞いて大体のあらすじを知っている寿也は、番組のワンコーナーを使ってまでの大がかりな番宣に、あまり興味が湧かず、そのまま台所に戻ってヨーグルトを取り出した。朝食にヨーグルトを食べるのが寿也の日課だ。
「ずばり、この映画の見所はどこですか?」
予告VTRが一通り終わったのか、司会の三戸アナが主演俳優たちに質問する声が聞こえる。
「えぇと、やはり、橋本さん演じるヒロインには、秘密があって、その秘密が少しずつわかっていくところですかね」
主人公役の菅田匠海が爽やかな表情で答える。
「なるほど……その秘密気になりますね」
「気になる方はぜひ劇場でご覧下さい!」
ヒロイン役の橋本美波も、さすがの女優スマイルで視聴者の関心を引きつける。
「みなさんはどんな秘密だと思いますか?」
「パラレルワールド的な何かですかね……」
「んー、ぼくは最近流行の転生系かなと思いました」
スタジオの観覧席からは、気の抜けたうなり声が聞こえる。
「転生」……確かにこの頃、この手のジャンルの小説や映画をよく目にする。昨日も春花とその話をしたところだ。転生なんてあるわけがないが、そのミステリアスな設定が、きっと多くの読者や視聴者を虜にするのだろう。もし自分たちが生きているこの現実世界でも、転生物語が存在したらどうだろうか。ふとそんな考えが頭をよぎった。
「春花の癖がなくなったのは……転生したから」
寿也は自分でつぶやいておきながら、あまりのおかしさに咳き込んだ。やはり疲れがたまっているようだ。いつもの寿也なら、こんな非現実的な考えすら思い浮かばない。
「はぁ、まさかな」
自然と言葉が漏れた。一人だけの静寂なリビングに、寿也の吐いた言葉が行き場を失ったように漂う。
寿也は服を着替え、鞄に荷物を詰めた。荷物といっても、財布や携帯ぐらいしかないのだが、このどこから来たのかわからない憂鬱な気持ちを晴らすには、外に出るのが最適だと思った。
またいつも通り、学校の図書館に行こうか。それともせっかくの夏休みなのだから、どこか遠出でもしようか。そんなことを考えているうちは、さっきのような自分らしくない馬鹿げた考えをしなくてすむため、心がいくらか軽くなる。
家のカギを鞄に入れようとしたとき、鞄のポケットの中からぐしゃっと何か紙のようなものが折れ曲がる音がした。取り出して広げると、この前春花と行ったカフェの割引券だった。オープンしたばかりということで、その日は来店客全員に配っていた。寿也は折れ曲がったその割引券を丁寧に手で伸ばした。今日の行き先が決まった。