左手とバレー
あれは確か、付き合って間もない頃に、大学の近くにあるホテルのバイキングに行ったときのことだ。そのホテルのバイキングは、おいしいと定評があり大学内でも有名だ。少し学生には高いように感じられるが、普段あまりお金のかかるデートをしない寿也たちにとっては、たまに行くぐらいの余裕はあった。
当時の記憶が、寿也の脳内を、写真のコマ送りのように巡った。
「めっちゃおいしそう!」
色とりどりのおかずを前に、春花が興奮した声を出した。ちり一つ逃さないように磨き上げられた銀色のトレイには、一口サイズの食べ物が、まるで宝石みたいにきれいに並べられている。
寿也はプレートを一枚春花に手渡した。
「ありがとう寿くん」
「じゃあおれはあっちの方見てくるね」
春花にそう告げ、寿也は反対側の白米や麺類などが置いてあるコーナーに向かった。ここには、白米からパンや麺類までの主食がそろっているが、寿也は主食の中では白米が一番好きだ。
病弱だった母は、あまり台所に立つことはなかったが、それでも、遠足やバスケの試合の時などは、手作りの弁当を作ってくれた。おかずの中で一番好きなものはだし巻き卵だった。そして、二番目はおにぎりだ。寿也は、冷めてもおいしい日本の米は素晴らしいと心から思う。もちろん炊きたての米はもっと好きだ。
「あ、寿くん! 私、フォークとかお箸とか持って行くから、飲み物入れてきてくれる?」
いつの間にか後ろのサラダのコーナーにいた春花が言った。
「わかった。春ちゃん何飲む?」
「んー、アイスコーヒーお願いします」
寿也は、焼きたてのステーキを手に取ってから、ドリンクバーで飲み物を入れた。
席に向かうと、先に戻っていた春花が手を振っている。春花の皿の上には大量のフルーツが盛られている。
「最初に果物から食べるの?」
寿也は春花のさらに視線を落としながら言った。
「バイキングに来たらいっつもフルーツに目が行っちゃってさ。前はおかずから食べてたんやけど、お腹いっぱいになってフルーツまで食べられへんときがあるから、やっぱり好きなものをお腹空いてるうちに食べとこうと思って」
そう言った春花はとても楽しそうだ。
「ふーん、味混ざらないの?」
「大丈夫! だって私のパスタやもん」
春花が自信満々に言った。寿也にはフルーツとパスタの味の関係性が良くわからなかったが、本人が良いというなら良いのだろうと納得することにした。
寿也は席に腰掛け、春花の右手側にアイスコーヒーを置いた。
「ありがとう」
春花がその置かれたグラスを自分の左手側に移しながら言った。寿也はそれを見て、あれと首をかしげた。寿也は春花が取りやすいように右手側に置いたつもりだった。
「あ、私こっち側なの」
春花が寿也の視線に気がついたのか、気を遣った素振りを見せた。
「春ちゃん右利きじゃなかった?」
「右利きやけど、飲み物だけ左手なの」
「え、どうして?」
「私、朝はパン派なんだけど」
春花がまったく脈絡のなさそうなことを言った。
「利き手の右手でパンを食べると、どうしても右手にパンの粉がつくでしょ? そしたらその手のまま、グラスを持つのは嫌だなぁって思ったら、左手でグラス持つようになっちゃってさ。なんか毎朝左側にグラス置いてたら、パンじゃないときでもいっつも左で飲むのがすっかり癖になったんよね」
「ははっ、なにそれ」
寿也は春花の話におかしさを感じずにはいられなかった。
「あ、あとあれかな。昔一回右手首の手術をしたことがあって」
「手術!?」
「そんな大きい手術ちゃうから」
春花が顔の前で手を横に振る。
「中学の時に、試合中に怪我しちゃったの」
「春ちゃん、中学校も高校もバレー部だよね?」
「そう。バレーの試合中に、ボールをひろいに走ってて、夢中で壁に気づかなかったの。そこで転倒して、地面に思い切り手をついちゃって、体制が悪かったから全体重が手首にかかったんよね」
「うわっ、痛っ!」
寿也は顔をしかめたが、春花は涼しげな表情だ。
「バレーしてたら手首とか指の怪我なんて日常茶飯事やから」
「それでも聞いてるこっちは痛いな。で、症状は?」
無意識に症状名を知りたくなってしまうのは、もはや環境のせいだろう。
「三角線維軟骨複合体損傷やった」
「TFCC損傷? あれって、タオルを絞ったり、蛇口をひねったりする日常生活の行為でも痛むって聞いたな」
三角線維軟骨複合体、通称TFCCとは、手首の小指側の位置に存在する、橈骨と尺骨と呼ばれる二本の骨を繋いでいる靱帯や、腱、軟骨などの軟部組織によるネットワーク構造のことだ。寿也は自分の右手首をさすった。
「そうなの。実際後からとても痛くなって、最初は固定するだけの予定やったんやけど、あまりにも痛みが引かないから手術することにした」
「思ってたより大怪我だよそれ」
寿也は眉間にしわを寄せた。
「かもね」
春花は、本当にそう思っているのかと聞きたくなるような屈託のない笑顔を見せた。
「そのときに、右手が一ヶ月ぐらいギブスだったから、お箸も一応左手で持てるの。まぁ、飲み物の方は、もうすっかり癖になっちゃって、左手で持ってるっていう意識の欠片もないんやけどね」
「へぇ、じゃあ今度から左側に置くよ」
寿也はご飯を飲み込んで言った。
寿也はふと我に返った。
隣には春花がいる。そうだ。今日はレンタルした映画を見るために、春花の家に来ていたのだ。
そして、もう一度春花に視線をやった。明らかに鼓動が早くなったのがわかった。やはりコーヒーカップは春花の右手にある。
寿也は冷静を装うため、いったん小さく深呼吸した。「左手から右手に変わったぐらいで何をそんなに焦っているんだ」と頭の中で自分の声がした。しかし、「無意識の癖が急に変わるものなのか」と言う心の根底にある声が前の声を覆い隠すように聞こえた。
そういえば、確か最初に妙な違和感を覚えたのは、カフェで食事をしたときだ。あの時はどうだったか。寿也は必死に記憶をたどった。だが、濃い霧の中を探しているようで、はっきりと思い出せない。
春花はそんな寿也の様子にはまったく気がついていないのか、テレビを見ながら声を出して笑っている。