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映画と現実

 バタン。積み上げていた参考書が倒れる音で目が覚めた。

 図書館で勉強をしているうちに眠ってしまっていたようだ。母が死んだ日のことを夢で見ていた気がする。実和との約束があったから、寿也は今まで頑張ってこられた。

 寿也はふぅと息を吐き、もう一度参考書を開いた。これぐらいの勉強で眠ってしまっていては、父を超えることなんてできない。


 今日は、この勉強が終わったら、春花の家に行くことになっている。二人で映画を見るのだ。二人とも映画鑑賞が趣味で、一年の時はよく映画館に行ったが、最近は忙しく、時間を見つけてはレンタルで見ることが多い。

 寿也はこのあとの楽しみを胸に、勉強を再開した。




 「寿くん、いらっしゃい~!」

 春花が家のドアを開けて笑顔で出迎えた。

 春花は大学の近くの学生マンションで一人暮らしをしている。今時の女子大生らしく、白を基調としたその部屋は、清潔感が漂う中に、かすかに柔らかく甘い香りが漂う。

 一人暮らしの女子大生の部屋というだけで、男には入ってはいけない聖域のように感じられる。寿也は、今まで何度か部屋に行ったことがあるが、未だに最初の一歩は緊張してしまう。


「コーヒーでいい?」

 台所から春花が聞いた。

「うん、ありがとう」

 寿也はソファに腰掛けた。ソファは春花のこだわりだった。1LDKのこの部屋は、ベッドとテレビとクローゼットだけで、かなりのスペースを占める。それでも春花は、ソファが欲しかったらしく、二人がけの小さいサイズを見つけて、この狭い部屋に置いた。


 テレビの横には、写真立てが置いてある。これも春花のこだわりだった。テレビの横に置けば、毎日一回は目にできるからだと言う。

 写真は、去年の秋、二人でディズニーランドに行ったときのものだ。寿也は人生初めてのディズニーランドに、大学生の男ながら、遠足に行く子どものように気分が高揚したのを覚えている。意外にも自分は絶叫マシンが苦手なことを初めて知った。この写真は、シンデレラ城の前で、キャストさんに撮ってもらった。春花はダッフィーのカチューシャを付けている。寿也も春花とおそろいで買ったのだが、恥ずかしくて結局付けなかった。


 「どうぞ~」

 春花がコーヒーとマカロンを運んできた。寿也は立ち上がり、台所に残っている春花の分を取りに行った。

「じゃじゃーん! このマカロンめっちゃおいしそうでしょ?」

 春花がマカロンの入った皿を並べながら言った。

「これね、駅前のケーキ屋さんのやねんけど、今日は寿くんが来るから奮発して買っちゃった」

「へぇ、ありがとう。おいしそう」

 寿也はピンク色のマカロンをつまみ上げた。

「あっ、これ高級なんやから、ちゃんと味わって食べてよね」

「わかってるって」

 寿也は笑って答えた。


 「これでいい?」

 春花はDVDを指さした。映画の題名は、「アスクレピオスの杖」と書かれていた。

「アスクレピオスの杖? 聞いたことないな」

「私も初めて。これ、三十年以上前の映画やからね」

「そうなんだ」

「アスクレピオスって知らへん?」

「んー、わかんないな」

「アスクレピオスは、ギリシャ神話に登場する名医で治療の神様で、そのアスクレピオスが持っていた、蛇が巻き付いた杖は、医療・医術の象徴として世界的に広く用いられてるの」

「へぇ、詳しいね」

「だって、WHOのロゴマークにもなってるやん」

「知らなかったな」

「将来お医者さんになる人としては、これぐらい知っとかへんと~」

 春花が茶化した口調で言った。



 映画の内容は至ってシンプルなものだった。神の手を持つと言われるほどの名医である主人公は、その手でたくさんの人の命を救ってきた。そんな中、ある日、膵臓がんを患った患者のMRI画像が届く。直ちに手術に移るべく、主人公は患者の元に行く。しかし、そこで主人公は信じがたい事実を目の当たりにする。その患者は、主人公の恋人だったのだ。

 

 隣で春花の鼻をすする音が聞こえる。

 主人公は手術を試みるが、がん細胞はすでに周辺領域のリンパ節への転移が見られ、すべてを取り除くことができなかった。

 クライマックスでは、自分の無力さに打ちひしがれる主人公に、彼女はただ一言、「あなたは最高の名医よ」と言い、目を閉じた。


 今でこそ、癌は治る病気と言われているが、三十年前の当時では、今よりもはるかに恐ろしい病気だ。現在では、膵臓癌の治療には、外科治療、薬物療法、放射線療法などがあるが、標準療法の1つとされるこの放射線治療は、医療の歴史から見れば、ごく最近誕生した技術だ。

 どんな主人公のような名医であったとしても、科学技術や医療技術の進歩がなければ、その手だけでは救えない命がある。寿也は、三十年後に見たことで、この事実を突きつけられたように感じた。




 「医者って神様じゃないんだよな」

 寿也はつぶやいた。春花がハンカチで目頭を押さえながら、寿也の方を見た。

「恋人が死ぬところ、母さんが死んだときと重なっちゃってさ。おれが医者になったら、おれと同じ思いをする人が減らせるのかなとか思ってたけど、やっぱりそんな簡単なことじゃないんだよな」

「でも……たとえアスクレピオスみたいな神様にはなれなくても、名医にはなれるよ」

 春花が言った。そのときの春花の目は、あまりにもまっすぐだった。

「だから寿くんは、たくさんの人を救えるお医者さんになってね」

「おれだけじゃなくて、春ちゃんも、でしょ?」

 寿也は何気なく言った。

 しかし、「そうやね」と答えた春花の顔は、心なしか、少し元気がないように見えた。




また、胸の中に妙なざわめきが起こった。

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