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あの日と約束

 昼過ぎに食堂に入り、午後から図書館で勉強するのが、一年からの夏休みのルーティンだ。高校時代の友だちは、夏休みには、海に山にキャンプにバーベキューに楽しんでいるが、寿也たち医学部生にそんな暇はない。

 久しぶりに会って、全身日焼けした友だちを見て羨ましくなることもあるが、なんやかんやで今の自分の大学生生活もわりと気に入っている。

 

 冷房の効いた図書館でも、窓の外から聞こえてくる蝉の声で夏を感じる。

 寿也は、食堂での徹との会話を思い出した。さっきは友人の手前、かっこを付けて、「父さんの仕事に憧れて脳神経外科医を目指している」などと言ったが、本当は憧れなんてかっこいい理由からではない。あの時の約束が、寿也をここまで連れてきてくれた。


 

 寿也は死んだ母のことが好きだった。だから、仕事を理由に母の最期を看取らなかった父に対しては、今でもあの日のことを思い出すと胸に黒いもやがかかったような気持ちになる。


 母は元々体が弱かった。急に入院することが頻繁にあった。それでも、病室に会いに行くと、母はいつでも元気な様子だった。そして、決まって、お見舞いの果物をむいてくれた。

 寿也は果物を片手に、学校での出来事を母に話して聞かせた。母はどんな話しにも、優しく微笑みながら楽しそうに聞いてくれた。

 幼い寿也は、母はすぐに元気に退院できると思っていた。




 良くなるのには時間がかかるのに、悪くなるのはあっという間だった。

 寿也が中学二年の時だった。担任の先生が真っ青な顔をして、授業中にも関わらず、自分の名前を呼んで教室に入ってきた時のことを、今でも鮮明に覚えている。


 病院に着くと、主治医の先生が寿也に一礼した。先生はなかなか顔を上げなかった。

 「ご家族の方は最後のご挨拶をお願いします」

 看護師の手塚実和が目に涙を溜めて言った。彼女は、母が入院する度に、いつもお世話になっていた看護師だ。寿也も、「実和さん」と呼んでいて、年の離れた姉のような存在だった。看護師になって間もないらしいが、若くて元気な雰囲気から患者たちに好かれていた。

 「もう香奈恵さんたら、常連さんなんですから」「えぇ、ちょっとここの病院食がおいしくって、また来ちゃいました」 こんな風に、母と冗談を言い合えるような人だった。母も、彼女と話しているときは、普段よりも明るく見えた。


 「寿也くん、お母さんの最後の言葉を聞いてあげて」

 実和が、寿也の肩を優しく包みながら言った。その手は小刻みに震えていた。

 病室に通された寿也は自分でも驚くほど冷静だった。ベッドに横たわる母には、まったく生気がなかった。具合が悪い人の顔は、土色だったり、赤かったり、色がついている。生きている人間の顔は、さっき教室に駆け込んできた先生みたいに青色になったりする。

 母の顔は何色でもなかった。透明でも肌色でもない。白でもない。


 「寿也くん! お母さんが!」

 実和がぐしょぐしょにぬれた顔で寿也の方を振り返った。

「寿……ごめんね」

 母は色のない顔で言った。

 その言葉で初めて実感が湧いた。「あぁ、母さんは今から死ぬんだ」そう悟った。その瞬間、緊張の糸が解けたように、寿也は泣いた。

「母さん、死なないで!」

 気がついたら叫んでいた。頭の中では理解していても、感情がどうしてもそれを認めようとしない。矛盾だらけの言葉でも叫んでいないと自分も壊れそうだった。

「本当にごめんね……」

 母の右腕がピクッと動いた。寿也はその手を握った。本当は、小さい頃よく頭をなでてくれたように、もう一度して欲しかった。でも、母の体はそれさえもできないほど弱っていることを嫌でも突きつけられる。

「ありがとう……」

「母さん!」

「寿のお母さんになれて本当に良かった……」

「しゃべっちゃダメだ!」

「寿……お父さんのこと、よろしくね」

 これが母の最後の言葉だった。




 どれぐらいの時間が経ったのだろうか。時計の針は午後八時を回ったところだ。ほんの数時間前に母は死んだ。駆けつけてから死ぬまであっという間だった。

 寿也は自分の両手を見つめた。未だに母の最後の手のぬくもりが残っている。


 「寿也」

 後ろから声がした。その声を聞いた瞬間、火花のような怒りが全身を駆け巡った。

「おせーよ!!!」

 普段は使わない荒々しい言葉が飛び出した。

「すまない」

 背後にいる父はどんな顔をしているのかわからない。

「なんで来なかったんだよ! 仕事なんかどうだっていいだろ!」

「……そうだな」

「そうだなってなんだよ!」

 寿也は父の胸ぐらを掴んで叫んだ。父は抵抗しなかった。

「いっつもいっつも研究と仕事ばっかで……それでも母さんは最後まで父さんのことを考えてた。それなのに、父さんは来なかった。医者である前に、あんたは母さんの夫じゃないのかよ!」

 寿也は右手を振りかぶった。

「やめて! 寿也くん!」

 実和が寿也の振り上げた右手にしがみついた。

「お母さんが最後に握ってくれたその手をそんな風に使わないで!」

 息が切れている。寿也の声を聞いて走ってきたのだろう。寿也の肩から力が抜けた。

「桐谷先生」

 実和が呼吸を整えながら顔を上げた。

「私は看護師として、桐谷先生のことを尊敬しています。しかし、香奈恵さんの友人としては、あなたのことを許すことができません」

 実和は目に涙を溜めて言った。

 父は何も言い返さなかった。




 寿也は実和の車で家まで送ってもらった。父といっしょに変える気分にはなれなかった。

「勢いのままに、お父さんにひどいこと言っちゃってごめんね」

 実和の言葉に、寿也は首を横に振った。

「実和さんが止めてくれなかったら、どうなってたかわからないから……」

 実和が少し微笑んだ。

「寿也くんは、ちゃんとお父さんと仲直りしなきゃダメだよ」

「なんで?」

 寿也は不満げな表情をした。

「お母さんはよく、楽しそうに学校に行ってる寿也くんの話と、仕事熱心なお父さんの話をしてくれたの。お母さんは、そんな二人が好きだったんじゃないかなぁ。だからお母さんは、寿也くんとお父さんが喧嘩してるのを知ったら悲しむ気がするな」

「……じゃあ実和さんは?」

「あははっ私は仲直りできないかもしれないなぁ」

 実和は明るく言った。

「ずるい」

「そうよ、大人ってずるい生き物なの。自分に都合が良いことばっかり言うんだから。でもね、寿也くんはまだ中学生でしょ? 学生のうちは、ずるくなっちゃダメなの。これは大人の特権だから」

 実和の開き直った言葉に寿也は思わず笑った。

「それにね、お父さんは、お医者さんとして本当にすごい人なの。今してる研究も、私はよくわかんないんだけど、医療界に革命を起こすものかもしれないんだって。その研究が、将来多くの人の役に立ったら素敵でしょ?」

「……じゃあ、おれも父さんみたいな脳神経外科医になったら、母さんは喜ぶかな」

 寿也は小さくつぶやいた。

「それすっごい素敵!」

 実和の声が車内に響いた。

「おれ、脳神経外科医になって、父さんを超えたい」

「うん、何にだってなれるのが、子どもの特権なんだから」

 根拠のない言葉でも、寿也にとっては信じられる言葉だった。

「じゃあ寿也くん、お父さんと仲直りすることと、脳神経外科医になること、2つとも私との約束ね!」

 実和がミラー越しにウインクした。

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