大阪と東京
「桐谷先生、ありがとうございました。おかげですっかり元気になりましたよ」
患者は、家族に迎えられながら、病院の入り口で笑顔を見せて言った。
「いえいえ、本当に良かったです。でも、大きな手術だったんで、ご自宅でもしばらくは安静にしていてくださいね」
「桐谷先生もそう言ってはるんやし、ちゃんと見張っとくからね」
今度は娘と思われる若い女性が言った。口調はたしなめるようなものだが、顔にはやはり喜びが溢れている。患者とその家族は、何度も笑顔でこちらを振り返りながら車の中へと消えていった。
この病院に来てから早くも三年が経っていた。始めはわからないことだらけだったが、前の病院で鍛えられていたこともあってか、今では主治医として手術を任されるほどになった。
どれほど経験を積んでも、やはり医者として一番嬉しいことは、患者の期待に応えられたときだ。どんなに難しい病気でも、近年では医療技術が発達してきているため、希望を持てるものが多くなっている。さっきの患者も、脳腫瘍が見つかったのだが、見事に全摘することができた。
笑顔で感謝の言葉を告げられた時、心からこの仕事に就いて良かったと思う。医者を目指したきっかけは、未だに不確かなものだが、それでも自分の選択が間違っていなかったと日々感じることができる。
「すみません、桐谷先生、ちょっと良いですか?」
看護師が小走りで駆け寄ってきた。寿也は腕時計を確認した。本当はこの後、東京の都立総合病院で行われる研修に参加する予定があった。新幹線の時間が迫ってきている。
「十分ぐらいしか時間が取れないんですが、大丈夫ですか?」
「はい、ありがとうございます。302号室の患者さんなんですけれど、先ほどから異臭がするから部屋を替えてくれって……」
「異臭?」
「ですが、部屋は清掃していますし、私が部屋に入った時には何も匂いませんでした」
看護師は困り切った表情をしている。この様子だときっと、しつこく何度も言われ続けているのだろう。
「ちょっと見てきます」
そう言うと寿也は、エレベーターの方へと走った。
「澤村さん、失礼します」
病室のドアを開けると、すぐそこにパジャマ姿の患者が立っていた。周りの看護師たちが必死になだめようとしているが、まったく言うことを聞かないでいる。
「君! ここの病院はどうなってるんだ! 私は日本鉄道協会の会長だぞ。この私が部屋を移してくれと言っているのに、それができんというのか!」
「そんなに興奮すると傷口が開いてしまいます。ベッドに戻ってください」
担当看護師が必死に会長を説得している。澤村会長は、つい先日、盲腸の手術をしたばかりなのだ。ここは、この病院の中でも一二を争うほど立派な個室であるが、匂いが気になるため、別の個室を所望しているようだ。しかし、他の個室はすでに埋まっている。
寿也は部屋の空気を吸った。看護師の言うとおり、何も違和感はない。もしかすると、会長は消毒の匂いが苦手なのかもしれない。
「澤村会長、失礼ですが、どういった匂いでしょうか?」
寿也はさりげなくベッドの方に誘導しながら尋ねた。
「あぁ……だから……なんて言うか、タバコみたいな……いや違うか、腐った卵かもしれん」
どうやら消毒の匂いに敏感になっているわけではないらしい。嫌な予感がした。すぐさま備え付けの受話器を手に取り電話をかけた。
「すみません、桐谷です。至急、MRIの準備をしてください」
「えっ、MRIって……」
騒ぎを聞きつけてやってきた杉内医師が、驚いた表情で寿也を見た。彼は寿也の後輩にあたり、先ほどの脳腫瘍の手術で、第一助手を務めてくれた医師だ。寿也は手招きして、部屋の外に杉内医師を連れ出した。
「まだ断言はできないけれど、もしかしたら脳に異常があるのかもしれない。脳腫瘍のできた位置によっては、嗅覚障害を引き起こすことがある。澤村会長も嘘をついているようには見えないし、念のために検査しておこう」
「なるほど……確かに脳腫瘍の片鱗の可能性がありますね。でも、桐谷先輩、今日はこの後東京に向かうんですよね」
「うん……そうなんだけれど、もし脳腫瘍だった場合、大きさによっては緊急手術になるからなぁ。今回は諦めるよ」
寿也はもう一度腕時計を見た。もう少しで新幹線が出発する時間だ。今から病院を出たところで間に合わない。
「でも……都立総合病院って、先輩の憧れている病院ですよね。今回も、大阪の脳神経外科医として、研修に選ばれてあんなに喜んでいたのに……」
「こればっかりはしょうがないよ。おれたちの仕事は患者の命を救うことだろ。研修なんて毎年あるんだから、来年また行けば良いよ」
寿也はそう言うと、杉内医師の肩を優しく叩き、部屋の中へと戻った。
寿也の話を聞いた会長は驚いていたが、命に関わることかもしれないとわかると、さっきとは打って変わっておとなしくなった。そして、素直に今すぐMRI検査を受けることを承諾してくれた。
診療放射線技師から受け取った画像を見た寿也の表情は固まった。鼻腔の上方の嗅上皮に、白い影が映っていた。
「嗅神経芽細胞腫……」
これは、非常に稀な腫瘍だった。年齢は問わず発症するもので、放っておくと、腫瘍は硬膜下から脳内に浸透してくるため、今すぐにでも治療が必要だ。幸い画像を見る限り、まだ脳内への侵入は見られない。しかし、すでに嗅覚に障害を来しているため、腫瘍が増大していることも事実だ。
看護師にオペ室の空きを確認すると、まだ余裕があると伝えられた。通常の脳腫瘍の手術であれば、二、三時間で終わる。しかし、寿也はこの腫瘍のオペをしたことがなかった。何時間かかるかわからない。決して若くない会長の身体に、大きな負担をかけてしまう恐れがあった。寿也は最善の選択肢を必死に探した。
「桐谷くん」
そのとき、扉が開いて、背中の方から声がした。
「岩泉先生……お疲れ様です」
寿也は椅子から立ち上がってお辞儀した。岩泉医師は、脳神経外科医として、かなり業界でも有名な敏腕医師だ。寿也も何度も指導を受けている。
「君は午後から都立総合病院で研修があるんだろう?」
岩泉医師は時計を確認しながら言った。
「そうなんですけれど、澤村会長のMRIを取ったら、嗅神経芽細胞腫の可能性が出てきましたので、オペを優先します」
岩泉医師は、メガネのフレームを指先でつまんで上に押し上げた。目の奥が面白そうに笑った気がした。
「君はこの手術をしたことがあるのか?」
「……いえ」
心の中を見透かされたような気がして間を作ってしまった。
「医者は君一人ではないんだよ」
岩泉医師は、今度ははっきりと口元に笑みを浮かべて言った。
「これは非常に珍しい腫瘍だ。言い換えれば、手術内容が、経験値によって大きく左右される。そして、私はこの手術を何度かしたことがある」
「でも、さっきまで他のオペをしてらっしゃったんじゃ……」
寿也の言葉に、岩泉医師は威勢の良い声を出して笑った。
「私は三十年も医者をしている。立て続けにオペに入ることなど、たくさん経験してきた。それに……君は都立総合病院に行きたいんだろ?」
岩泉医師の目線が少しドアの方に動いたのを寿也は見逃さなかった。
「杉内……」
彼は、形程度に申し訳なさそうな雰囲気を出しながら部屋に入ってきた。
「桐谷先輩、ここは僕たちに任せて行ってきてください!」
図々しいのか素で言っているのか、大ベテランの医師を自分とひとくくりにして、彼は胸を張った。寿也は、思わずその堂々ぶりに笑ってしまった。
「桐谷くん、行ってきなさい」
岩泉医師はまっすぐに寿也の目を見て言った。
「……はい。お願いします!」
勢いよく頭を下げた。
そして、振り返らずに病室を飛び出した。新幹線の時間はもう過ぎているが、研修には間に合うかもしれない。いや、間に合わなくても途中から参加できれば十分だ。
すぐにタクシーを拾い、新大阪まで向かった。




