解除とブラックホール
病室に置いてきたスマホを取り、ズボンのポケットに入れる。パジャマみたいなこの病院服は、生地が薄く、スマホの重みでズボンにかなりの重力を感じる。
朝食の時間も過ぎたからか、廊下や食堂にはあまり人影はない。みんな病室にこもっているようだ。時々近くの病室から、患者の声が聞こえてくる。病室は、意外と年齢によって分けられているわけでなく、高齢者から中年のおじさんまで、様々な声がする。
一概には言えないが、入院歴が長い患者ほど、看護師たちに対して横柄な態度を取る傾向にある。これは母のお見舞いに来ていた頃から思っていたことだ。患者たちは、いかに自分たちが辛く苦しい思いをしているかを、看護師たちに力説するのだ。もちろんそれだけなら良いのだが、中には、不平不満を看護師にぶつけ、彼らの指示に従わないこともある。
しかし、看護師も看護師の方で、こういった事態には慣れているのか、ベテランの看護師ほど、問題の患者に対しての扱い方を心得ている。
今もある部屋の中では、患者の怒号が飛んでいるが、対応している看護師は至って冷静なようだ。
「皆さん、痛いのは同じですからねぇ。そんな文句ばっかり言わないの。川北さんも、早く退院できるように頑張りましょうね」
こんな声が聞こえてくる。寿也の知っている限り、看護師たちは経験を積むにつれ、一般的に思い描かれる、可愛く柔らかな雰囲気のナース像からはかけ離れた印象になる。しかし、テキパキと動き、患者たちに振り回されない姿に、寿也はかっこよさを感じる。実和もこんな風になっているのかなと考えれば、何だか面白かった。
再び食堂まで出ると、さっきまでの騒がしさは一切消え、周りを見渡してみても、寿也の他に患者も看護師もいなかった。まさしく今が絶好のチャンスだ。寿也は食堂を抜け、さらにその奥の倉庫も通り過ぎた。
予想通り、資料室のドアは開いていた。2回目にもなると、最初の時とは違って、もはや罪悪感はほとんどなくなっていた。こんなことで春花の苦しみがなくなるのなら、むしろたやすいものだと思った。
2回目のメリットは、気持ちの面だけではなかった。家具の配置や、目当ての机の位置が、あらかじめ頭の中に入っているため、前回よりも少ない時間で、ロックのかかった机までたどり着くことができた。スマホのライトを、パスコードの付いた引き出しにかざす。
なぜ父がこの古い机を未だに使っているのかを、寿也は知っていた。以前、父の部屋でアルバムを見つけたとき、最初の方のページに、この机と父と母が映った写真があったのだ。
あの時は運動会の写真に気を取られ、軽く目を通した程度だったが、今思えば、あれは母が父にプレゼントとして贈った時に撮られたものに違いなかった。何のプレゼントかはわからないが、きっと仕事熱心な父のために、母が選んだのだろう。
だから父は、古い机に、わざわざ電子ロックを取り付けてでも、これを使い続けているのだ。
寿也は、電子ロックの表示板を眺めながら、小さく息を吐いた。ここが開かなくては何も始まらない。しかし以前とは違って、寿也には多少の自信があった。
汗ばんだ指先で数字を入力する。
0……2……1……9……ENTER
カチャッ
エンターボタンと同時に、中の鍵が外れた音がした。全身に武者震いが走った。確証はなかったため、心のどこかでは、一発で開かないと思っていたのかもしれない。しかし、そんな杞憂は必要なく、今寿也の目の前には、ロックの外れた引き出しが一つあるだけだった。
寿也が入力した4桁の暗証番号は、母の誕生日の数字だった。確信はなかったが、例のアルバムを見ているときに、ふとそうなのではないかと思った。自分の親に対して思うことではないのかもしれないが、あの写真を見れば誰だって、父が母に惚れ込んでいることがわかる。
そして、母の誕生日を打ち込んだのは、アルバムの影響もあったが、本心では、そうであって欲しいという願望からだったような気もする。
母の最期に間に合わなかった父の、本当の気持ちを、こういった形でも良いから知りたかったのだと思う。
久しぶりに、身体の芯の方から押し寄せてくるような、湧き上がる興奮を思い出した。マンションの別室の鍵を見えるところに置いたり、パソコンにパスワードを設定していなかったりと、決して几帳面とは言えない父が、ここまでして厳重に管理していたものとは一体どんなものなのだろうか。
寿也は、好奇心と少しの怖さの混じった気持ちで引き出しを開けた。
寿也の目に飛び込んできたのは、薄い青色の表紙をした、一冊のフラットファイルだった。よく見かけるような、紙のバインダータイプのものだ。父の部屋で見たファイルと同じ種類だった。
寿也はそれをゆっくりと持ち上げた。あまり厚みは感じない。背表紙に何かが書いてある。その文字を見た瞬間、寿也の心臓が大きく波打った。
【記憶転移システム・NOVA 合同研究 vol.1】
そこにはそう記されていた。寿也は危うく握っていたファイルを落としかけた。やはりこれらの二つは繋がっていたことに確信を得た反面、中身を見るのが、どこか果てしなく広がるブラックホールに飛び込むような恐ろしさを感じる。
寿也があの日拾ったUSBに入っていたデータはきっとこれに違いない。梅澤博士は、父にUSBを渡し、父はそれを紙媒体に移し替えたのだ。寿也が拾ったときにはすでに空になっていたのはそういうことだ。
パソコン上に保存すると、外部からのハッキングやウイルスの懸念をしなくてはならない。デジタル時代だからこそ、本当に重要なデータは紙媒体にして残すというのを聞いたことがある。
寿也はファイルの側面に親指をかけた。
ここから先は未知の世界なのだ。たかだか20年で培ってきたような、寿也の脆くて弱い常識など、一切ぶっ飛ばしてしまうような世界かもしれない。
静かな部屋の中で、寿也の心臓の音だけが激しく耳に響いた。




