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心当たりと症状

 廊下をゴロゴロと音を響かせながら通る処置ワゴン。患者に検温を促す看護師の声。病室から出てくる患者の足音。これらの音すべてが、朝が来たことを伝える。


 寿也は身体を起こし、両手を大きく頭上に伸ばした。カーテンを開けると、真っ青な空に光る太陽が目に飛び込んできた。昨日の大雨などまるでなかったかのような澄み切った晴天だ。


「桐谷さん、おはようございます」

 ちょうど起こされる番だったようで、看護師が部屋に入ってきた。母が入院していたときには見かけなかった看護師だ。見た目からも、寿也とそれほど年が変わらないような若さを感じる。

「おはようございます」

 寿也は小さく頭を下げた。

「体調はどうですか?」

 看護師は、体温計を手渡しながらテンプレートの質問をする。

「ぐっすり眠れたようで、だいぶ疲れは取れたと思います」

 寿也は手元の体温計を確認し、36度5分と標準値を示していることに安堵した。

「あ、体温計お預かりしますね。ありがとうございます。朝ご飯は、ここで食べますか? それとも食堂にいらっしゃいますか?」

「えっと……じゃあ食堂に行きます」

「わかりました」

 そう言うと彼女は、健康チェックか何かの紙に素早く記入を済ませ、足早に病室を後にした。



 寿也はベッドから降り、洗面に顔を洗いに行った。ドアの向こうからは忙しそうに小走りする音がたくさん聞こえる。きっとさっきの看護師も、他の患者のところに向かったのだろう。寿也のような、点滴もなければギプスもない患者は、割と放任されるのかもしれない。


 

 食堂に着くと、数人の患者が朝食を食べていた。母が食べていたときとほとんど変わらない朝食が出てくる。マーマレードとバターが付いたロールパンに、グラタン、それから具だくさんのスープといった献立だ。飲み物は牛乳であるところからも、小学校の給食が思い出される。


 味は予想通り薄かったが、健康志向そのもののような食事に、胃が洗練されていく気がした。普段から身体に気を遣った食事をしていなことを痛感させられる。

 病院に来ること自体は慣れていたが、こんな風に患者として眺める院内は、いつもとはまた違った風景に見える。点滴のチューブを腕に刺したまま歩く患者や、松葉杖や三角巾をしている患者が側を通ると、自分がここにいるのがかなり場違いのように感じてくる。


 胃袋が満たされ、血の巡りが良くなってきたからか、夜中に目覚めたときよりも、確実に頭が働いている。昨日倒れる前に見た、あの幻影のような記憶について、今なら冷静に考えることができる。

 寿也はマーマレードを塗る手を止めた。まったく体験したことがない事象を、あそこまで具体的に、脳内に生み出すことは可能なのだろうか。可能性はゼロではないが、かなり低いように思う。だとしたら、やはりあれは寿也の記憶の一部だ。しかし、なぜか寿也の記憶からは今まで綺麗に消し去られていた。それに今でも、肝心な続きが思い出せないのだ。


 これらのことを整理すると、一つの症状が浮かんできた。エピソード記憶障害だ。これは、その名の通り、自身の記憶に障害を来すことだ。最近の記憶だけなく、人生に関わる一部の記憶が「抜け落ちる」ように思い出せなくなる。

 実際に、エピソード記憶障害についての学術記述などを読んだことはないが、寿也も多少の知識は持っている。エピソード記憶障害は、認知症以外にも、強いストレスや過労など、精神的な負荷が原因となって起こることがある。

 そして、他にも要因が存在する。それは、病気や事故による脳機能のダメージが原因の場合だ。そう、事故の衝撃から、一部の記憶を失うことがあるのだ。


 嫌な予感がした。最悪の考えが頭をよぎる。あの時の車は、寿也たちの方へと向かってきていた。


「まさか」

 寿也は小さくつぶやいた。バタースプーンが手からこぼれ落ちる。


 しかし、すぐに考え直した。もしあの時、事故に遭っていたとしたら、こんな風に無傷でいられないだろう。隣に春花がいたことから、少なくとも、大学より前の記憶ではない。だとすれば、大学時代に入院していた記憶が残るはずだ。そんな記憶はもちろんないし、仮に、入院中の記憶さえも消えていたとしても、大学の授業にブランクがないことから、やはりこれが、自分が体験した記憶であると認めることはできない。



「あ、寿也くんおはよう!」

 また聞き慣れた声が聞こえた。実和がこちらに向かって手を振っている。

「しっかり朝ご飯食べた?」

「うん」

「そういえば、夕方にはもう退院だって」

「あれ、検査とかは?」

「んー、何にも聞いてないなぁ。昨日の検査で十分って言う判断になったんだと思うよ。良かったね~」

「……そうなんだ。ありがと」

「また退院の時間になったら、部屋まで呼びに行くから、それまでおとなしくしておいてね。暇だったら、テレビ用のカード買えば、ベッド横のテレビ見られるからね。じゃあまた後で!」

 そう言うと、実和は忙しそうに駆けて行った。


 寿也は食器を持って立ち上がり、食堂の奥に視線を移した。この食堂と倉庫を抜けた先に、父が使っている資料室がある。

 本来なら今日、学校帰りにここに寄る予定だった。これは、願ってもないチャンスが訪れたと言って良い。まさか入院することになるとは思わなかったが、これで、病院の中を堂々と見て回ることは可能だ。


 時計の針は、まだ午前9時を指している。寿也は食器を片付け、いったん自分の病室へと歩いて行った。退院まではまだかなり時間がある。何としても、このチャンスを活かして、何か手がかりを見つけたいと思った。


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