海とファンタジー
車に乗ってから45分ほど経っただろうか。もう辺りは、寿也たちの住んでいる都会とは、かなりかけ離れた風景になっている。
車を持ってから、自分の運転で色んなところに行くようになったが、まだ海は行ったことがなかった。夕日が綺麗というのは、この前テレビの東京絶景特集か何かで知った情報だ。それを見てから、一度春花と訪れたいと思っていた。
「あっ! 潮の匂いがする!」
隣にいる春花が叫んだ。
「ほんとだ」
寿也も大きく息を吸い込み言った。
「ほら、左手にもう海が見えてるよ!」
春花は今にも開いた窓から身を乗り出しそうだ。ウェーブのかかった髪が風に吹かれてゆらゆらと揺れている。寿也も、しっかりとハンドルを握ったまま、横目で海を確認した。
そこから1キロほど進むと、視界の前方に駐車場が見えた。駐車場の空き具合からも、今日は人があまりいないことがわかる。
「寿くん運転お疲れ様です。ありがとう~!」
シートベルトを外し、車から降りた春花がぺこりと頭を下げた。
駐車場を出て、ほんの少し歩くと、辺り一面に海が広がっていた。青い空、同じぐらい深い青の海、そして白い砂浜。そのどれもが美しい。 砂浜に足を踏み入れると、さらさらと砂が靴からこぼれ落ちていく。
春花が寿也の袖を軽く引っ張った。どうやら波打ち際まで行きたいようだ。子どものように無邪気に駆けていく春花の後を歩きながら、寿也は大きく両手を広げた。空気をかき集める。そしてもう一度息を吸い込んだ。潮の匂いだ。
波打ち際から見る海は、遠くから見るのとはまた違って、より一層深く濃く見える。それだけ遠くを眺めても、果てしなく海は続いている。自分たち人間が抱えているような小さな悩み事などすべて、どうでも良いよと飲み込んでくれそうな気がする。
「私、海って好きだなぁ」
足下の砂をすくい上げながら、春花がつぶやいた。
「あ、もちろん、外から眺める専門なんだけどね」
「見るだけ? 春ちゃん泳げなかったっけ?」
寿也も合わせて砂をいじる。
「小学生の時に水泳習ってたから、一応泳げるよ」
「じゃあ来年の夏、またここに泳ぎに来ようよ」
「んー、でも入るのは怖いの!」
「怖い?」
「だってさ、おるかもしれんやん……」
「……何が?」
「サメ!」
寿也はきょとんとした顔で春花の方を振り返った。
「だから、サメが怖いねん……」
「何それ!」
言っていることの現実味の無さとは反対に、春花は至って真剣な表情をしている。そのギャップが妙におかしく、寿也は思わず吹き出してしまった。春花との会話では割とよく起こる現象だ。
「ちょっと、私真剣に言ってるのに~」
春花がいじけた顔を寿也に向ける。
「ごめん、でもさ、面白くって」
「じゃあ寿くんはジョーズとか怖くないん?」
「怖くないよ。だって、あれ映画じゃん」
寿也は、春花に悪いとは思っていても、無意識に口角が上がってしまう。2人で春花の家でホラー映画をよく見ていたが、そのときの春花はまったく怖がる様子はなかった。むしろ、寿也の方が怖がって、春花に笑われていたぐらいだ。そんな春花が、サメが怖いから海に入らないと主張するのが何だか面白かった。
「ユニバのアトラクションに、ジョーズあるやん?」
「あー、あのボートに乗っていたらサメが出てくるアトラクション?」
中学校の時に修学旅行で行った古い記憶を思い出しながら聞き返した。意外なことに、かなり鮮明に思い出すことができる。足下でしゃがんでいる春花は、子どものように砂の城を作っている。
「そうそう、あれさ、小学校六年生の時までずっと、本物のサメやと思ってて乗られへんかったもん」
「そんなわけないじゃん」
寿也はまた笑って言った。
「もちろん今じゃわかってるよ? 下に線路があることも、銃が空包なことも、ジョーズが作り物のサメだってことも。だけどさ、子どもの時の先入観って怖いよね? 自分がこうだと決めつけたら、それ以外考えられなくなっちゃうんやもん」
春花は、完成した砂の城を見つめながら言った。
「確かに、自分たちの世界はまだまだ狭いのに、子どもの時は、その小さな世界の中だけで、物事を見てしまうし、本当に正しいと信じてしまうのかもね」
寿也は、波打ち際に寄せられた小石を、軽く蹴り返しながらつぶやいた。何だか春花の最期の言葉が、すっと胸の中に入ってきた。
「それに比べて、海ってすごいよね」
春花が大きく両手を広げて言った。もう砂遊びには飽きたのか、視線は海一点を見つめている。
「だってさ、地球の七割を占めてるんだよ? 私たちより遥かに大きなスケールで生きてるんやね」
寿也には、海が生きているという表現になるのかはよくわからなかったが、なんとなく春花の言いたいことがわかるような気がした。
「海を見てたら、私の小さな悩み事なんて、何でもないようなちっぽけなものなんだって思えるの」
春花の言葉に、寿也は小さく頷いた。
「それ、おれもさっき思ってた」
「そうなんだ! やっぱり海には、人の心を癒やす力があるんだよ」
春花は、嬉しそうに寿也に向かって笑いかけた。
「あー! 私も、サメさえ怖くなければ、ONE PIECEのルフィたちみたいに海賊王になりたかったなぁ!」
春花が海に向かって叫んだ。海は、それに答えるかのように、その海面をキラキラと輝かせる。太陽の光さえも、自分たちの世界に染めてしまうのだ。
ふと、春花の悩み事は何だろうと思ったが、そんなことすら、どうでもいいよと包み込んでくれるような海だった。




