高層マンションとおにぎり
寿也は、部屋の明かりを付けた。廊下の奥まで一気に光が広がる。その照明が描く軌道は、この閑散とした部屋を、より一層濃く表しているように感じる。
ここ1週間ほどは、家で一度も父の姿を見かけていない。1週間前だって、寿也が帰宅したのと入れ違いに出て行ったのを見かけた程度だ。父が家に帰ってこないことを寂しいと思ったことはない。むしろ、一人暮らしをしているようで楽だと思っている。
それでも、高層マンションの31階から、一人で夜の景色を眺めていると、たまに思うことがある。
自分の目線と同じ高さにある、夜空に灯る高層ビルの人工的な光よりも、下を歩く人々の方が、どことなく輝いているように見える、そんな風に感じるのだ。
腕を組みながら歩く恋人、仕事が終わって家族の元へ帰るサラリーマン、単語帳を片手に持った学生。31階から見える人々は、みんな棒人間だ。しかし、なぜかそんな風景が見える。そして、無性に彼らのことが羨ましくなることがある。
寿也は、リビングに寄ることなく、自室へ向かった。今は外の景色を見たくなかった。
ズボンのポケットに手を入れる。確かに感触があったことに、安心する気持ちと同時に、また例の背徳感が押し寄せる。寿也の指先は、USBメモリをしっかりと握っている。
病院で、父と春花の声を聞いたときは、もちろん動揺した。しかし、このUSBメモリを持って帰ってきたのは、動揺から咄嗟にポケットに突っ込んでしまったというわけではなく、確実に寿也の意思だ。
上手く言葉にすることはできないが、何かが自分の周りで起こっている、そう漠然と感じるのだ。
寿也は、大学で使っているパソコンを立ち上げた。そして、迷うことなくUSBメモリを差し込む。さっき拭いたばかりの手が、また湿気を帯びている。
ファイルの自動再生をオンにしているため、すぐにファイルフォルダが開いた。
「ない……」
寿也は画面を凝視したままつぶやいた。ファイルの中は空だった。寿也は、頭に手を当てため息をついた。勝手に裏切られたような気分になった。
しかし、冷静に考えると当然だとも思う。重要なデータを、そのまま机の上に起きておくようなことはしないはずだ。
それなら、このUSBメモリは、一体何のためにあるのだろうか。もしかすると、何らかのデータがUSBメモリに保存されていて、すでにどこかに移行した後だったのかもしれない。そうだとすれば、やはり、元々のデータは、あのロックのかかった机の中にあるはずだ。そのためには、何としても、あのロックを解除しなければならない。
寿也は時計を見た。時間は八時半だ。マンションの父の仕事部屋にもう一度行くことを考えた。しかし、今日は水曜日だ。病院で寝泊まりしているんじゃないかと思うほど、仕事に明け暮れている父だが、水曜日だけは定期的に休みを取っている。
今日は出勤していることを知っているが、うかつに今から仕事部屋に行くのは危険だ。早く帰ってくる可能性が高い。
明日は、実習は午前中に終わる。その後すぐに家に帰って、父の仕事部屋に向かう方が確実だ。水曜日以外の日中なら、父は病院にいるはずだ。
寿也は、今すぐにでも調べに行きたい気持ちを抑えて、USBメモリを筆箱の中にしまった。中身はないが、何かの役に立つかもしれない。
ベッドの上に仰向けになった寿也の腹が鳴った。そういえば、朝ご飯を食べてから、何も口にしていない。実習後すぐに病院へ向かったため、昼ご飯のことなどすっかり忘れていた。本当なら、今日も食べる予定だった、食堂の揚げ出し豆腐のことを思い出すと、より一層お腹が空いてくる。
台所に何かあるだろうか。寿也は、暇なときは自炊するが、必要な分しか食材は買わない。父が自分で作って食べるとは思えないし、自分もいつ残りを消費できるかわからないからだ。大学生になると、昔に比べて、外で食べて帰ることが増えた。だから、冷蔵庫の中に、めぼしい食材があることは期待できない。
でも、カップラーメンぐらいはあるかもしれない。寿也はリビングの方へ向かった。
リビングの電気を付ける。殺風景な室内が一気に明るくなった。
それと同時に、寿也の視線が一点に釘付けになった。
「え……?」
思わず気の抜けたような声が漏れた。寿也の視線は、リビングのど真ん中にあるローテーブルの上に注がれている。寿也は近づいて、大げさに目をこすって確認する。
テーブルの上には、おにぎりが3つ置いてあった。それは、いびつな形をしていて、お皿の上に無造作に並べられ、上から丁寧にラップをかけられている。
もちろんこれを握った人は一人しかいない。寿也はそっとラップを剥がした。おにぎりはとっくに冷めている。
今日は午後出勤だったのかもしれない。それで、変な気まぐれでも起こったのだろうか。
素直に受け止めることができない。自分たちは仮面親子だと思っていた。これでは、なんだか普通の家庭のようだ。どこから何が湧き上がってきたのか、胸の奥の奥が熱くなっていく。
寿也は、一番大きいおにぎりを掴んだ。口に運ぶ。おにぎりとは思えないほど硬いが、味は悪くない。中に梅干しが入っていた。その瞬間、昔、母が作ってくれたおにぎりを思い出した。寿也は、おにぎりの具の中で、梅干しが一番好きだった。まさか、父はそのことを覚えていたのだろうか。
急に身体が熱を帯びたのは、まだ夏の名残が続いているからに違いない。寿也はカーテンを閉じた。今日はやはり外を眺める気分にはなれない。
いつもの無味乾燥な部屋が、今夜は少し暖かい色味を帯びているように感じる。開いた窓から、ひんやりとした風が吹いた。カーテンが静かに揺れた。




