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違和感と乙女心

 寿也は突然自分の中に現れた違和感の正体が何かわからなかった。ただあの瞬間、春花を見てなぜか胸がざわめいたのだ。そのざわめきは、いつも感じるような心地よいものではなく、どこか不吉な胸騒ぎがするような感覚だった。

 しかし、あれ以降、カフェであの妙な違和感が襲ってくることはなかった。

 



 春花は午後からバイトが入っているらしく、春花とはカフェで別れた後、寿也は一人で大学の図書館に向かった。

 寿也は授業のレジュメを机の上に広げた。本棚から数冊の医学書を取り出す。寿也がこの大学の医学部に入ってから一年半が過ぎた。一年次は、入学前の想像とは違って、一般教養の授業が圧倒的に多く、あまり医学部生としての実感がなかった。

しかし、二年に上がってからは、解剖学や基礎医学の実習などが始まり、さらに試験内容も一年と比べるとはるかに難しくなり、最近は多忙に感じることが多い。

 寿也は勉強自体は嫌いではなかった。むしろ、自分の知らないことを知り、知識を吸収することは楽しいとさえ思う。

 寿也が医学部を目指したのは、誰かの役に立ちたいとか、人の命を救いたいなどの高い志からではなかった。

 父の桐谷真太郎はこの近くにある総合医療センターの院長を務めている。その父の影響が大きかった。別に、医者になることを父に強要されたわけではない。しかし寿也は、中学生の時、ある人と父を超える医者になることを約束したのだ。




「おーっす寿!」

 机の上にかばんがどさっという音を立てて置かれた。

「ここ図書館だから」

 寿也は口の前で人差し指を立てた。

「それが~なんと! 今図書館にいるのはおれたちだけでーす!」

 ハイテンションな声が静かな館内に響いた。

 その声の正体は柏木徹だ。徹は寿也や春花と同じ医学部の学生で、寿也の親友だ。

 少しノリが軽いところが玉に瑕だが、普段はヘラヘラしていても、試験や実習の成績は常に寿也と同じく上位をキープしている秀才だ。

「徹……あのさ」

 寿也は少し考えるような素振りをしながら言った。

「ん、どうした?」

 徹は参考書を鞄から取り出す手を止めた。

「徹って、今まで付き合った彼女に対して、なんか違和感を覚えたこととかある?」

 徹は一瞬きょとんとした顔をした。

「え、なになに、もしかして倦怠期か?」

 今度は明らかにニヤニヤした顔で言った。

「いや、それはない、ない、ぜったい」

 寿也は慌てて否定した。

「だよなー。焦ったわ。寿のとこに限ってそんな心配はないよな。じゃあどうしたんだよ?」

「違和感なんてそんな大げさなもんじゃなかったかもしれない……」

「あれだろ、たまに、ん?ってなるあの感覚だろ」

「えっ、徹もそういうことあんの? なんの違和感なんだろ」

「それはつまり……清水さんがイメチェンをしたんだろ」

 徹が渾身のどや顔で言った。

「え……?」

「はぁ……これだから恋愛初心者は困るんだよ。いいか? 女性という生き物は日々進化し続けるんだ。」

 今度は寿也がきょとんとした顔をした。

「寿が清水さんに違和感があったのは、彼女のどこかが変わったからだよ。いつもと違うところ思い出せないか? 髪の毛を巻いていたとか、ネイルをしていたとか、普段よりメイクをしっかりしていたとか」

「……そういうことだったのかな。ダメだ。ぜんぜん思い当たらない。」

「ったく……清水さんもほんと苦労してんだろな。女性は些細な変化にも気づいて欲しいもんなんだよ。特に好きな人や彼氏には」

「そっか……おれぜんぜん乙女心とかわかってないかも」

「そうだな。寿には医学の勉強よりも乙女心の勉強が必要だな」

 寿也はもう一度今日の春花の姿を思い出してみたが、やはり徹の言うような変化はわからない。思わずため息が漏れた。

「まぁ、そういうちょっと鈍感なところも寿の良いところだけどな」

 徹が明るく笑いながら言った。きっと徹なりの励ましの言葉のつもりなのだろう。




 結局図書館での勉強はあまりはかどらなかった。

 寿也は家に帰って風呂に入りながら今日のことを思い出した。自分でも、なぜここまであの違和感にこだわっているのかわからない。もしかすると、本当に徹の言うとおり、春花の

見た目がどこか変わっていたのかもしれない。

 寿也は元々、論理的思考と対極的にある直感的思考というものをあまり信用していない。しかし、頭ではまったく論理的でないと理解していても、今の自分を最も悩ませているのがその直感なのだ。

寿也は何事も答えが明確に決まっている方が好きだ。白か黒、一かゼロにはっきりできるものは綺麗だと思う。

 数学の答えは、正解か不正解かのどちらかだ。証明問題は、様々な正しい解答があるが、そのすべての解答方は誰が見ても正解だと言えるものだ。

 しかし、国語の記述解答はどうか。参考書によって答えがまったく異なる場合もある。そして、その異なる解答たちは、数学の解答と違って、まったく納得できないものもある。だから寿也は国語が苦手だった。公式もなければ完璧な解答もない。

 今は、そんな国語の難問記述を目の前にしているような感覚だ。




 風呂上がりに、冷房が効いた部屋で食べるバニラアイスは最高だ。寿也は上半身裸のまま、リビングのソファに腰掛け、カップの中のバニラアイスをすくった。

 父はまだ帰ってきていない。これはいつものことだ。最近は、新たな医療事業を開拓しているとかで、病院の定休日でも常に仕事をしている。

 父の専門は脳神経外科だ。寿也も大学院を卒業して、本格的に専門分野に分かれたら脳神経外科に行きたいと思っている。もちろん父の影響もあるが、寿也自身、未だに謎が多い人間の脳の研究をしたいという気持ちがある。




 寿也は疲れた体を無理矢理動かしながら、歯を磨き、着替えを済ませた。ベッドに身を投げる。冷房の風邪で寿也の前髪がなびく。寿也は、心に晴れないモヤモヤを残したまま瞼を閉じた。


二話目を読んでいただきありがとうございます!

水曜日もぜひお願いします。

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