夏と出会い
桐谷寿也が彼女に初めて出会ったのもちょうどこんな夏だった。灼熱の太陽の光がコンクリートに跳ね返る。前を歩くサラリーマンも、歩きスマホをしている女子高生も、みんな溶かしてしまいそうな夏の日差しだった。
山手線のホームから発車音が聞こえる。寿也は階段を飛ばしながら走った。普段は寝起きが良いのだが、今日だけはなぜか目覚ましの音が聞こえなかった。そのせいでいつもより遅れている。これを逃せば大学の授業に間に合わないだろう。一年のうちから遅刻癖を付けるわけにはいかない。階段を駆け上がる脚に一段と力が入る。
「あっ、すみません!」
その声とほとんど同時に寿也の鞄が宙に飛んだ。肩に強い衝撃が走った。
「ほんまにごめんなさい!」
若い女性の声がした。彼女は寿也の鞄を拾いながらもう一度謝った。
「私そそっかしいってよく言われるんです」
彼女は申し訳なさそうに言った。
「いや、俺の方こそぜんぜん回り見てなくて……すみません」
「お怪我はないですか」
彼女は鞄と寿也を交互に見ながら言った。
「はい、そちらこそ大丈夫ですか」
寿也は鞄を受け取った。その女性は寿也と同じ年ぐらいに見える。少し童顔だがとても整った顔立ちだ。茶髪のショートボブが肩の上で揺れている。
「平気です。私おっちょこちょいなんですけど、その分体は頑丈なんです」
彼女は、力こぶを作るポーズをしながら茶目っ気たっぷりに笑った。
「ねえ、寿くん聞いてる?」
向かいの席から声がした。
「あぁ、ごめん」
「心ここにあらずって感じやってんから」
そう言って少し頬を膨らまし言ったのは、寿也の彼女である清水春花だ。
「さっき何考えてたん?」
春花はアイスティーをかき混ぜながら不思議そうな表情で寿也を見つめる。
「おれたちが初めて会ったときのこと思い出してた」
寿也は窓の向こうの日差しに目を細めた。
「えー、どうしたん急に」
春花は少し照れたように言った。
「なんかあの日もこんな暑い夏の日だったなって……」
「確かにあの日は暑かったね。けど、このカフェめっちゃクーラー効いててそんなに暑くないやん」
春花は笑いながら言った。
あの後すぐにわかったことだが、ぶつかった彼女は寿也と同じ大学で、学年も学部も同じだった。「清水春花です。」と名乗った彼女は、大学受験を機に、大阪から上京してきたと言う。
会話の中に混じった春花の大阪弁は、テレビでよく聞くがさつな印象とは違い、寿也には心地よい響きに感じられた。大学までの道中、春花はずっと楽しそうに寿也に話しかけてきた。会話の内容は、実家のことや、好きな漫画や、趣味など、たわいのないものだったが、どれも寿也は聞いていて飽きなかった。
寿也は春花と話しながら、自分の胸の辺りがざわめいているのを感じていた。こんな感情は今まで経験したことがなかった。それに、相手はついさっき初めて会ったばかりの人だ。自分でも動揺しているのがわかった。
寿也はこれまで、付き合ったことがなければ、好きな人がいたことさえなかった。別にモテなかったわけではない。むしろ、高校時代はバスケ部のエースとして、女子からの人気は高い方だった。バレンタインの時など、鞄に入りきらないほどチョコレートをもらったこともあった。
それでも恋愛経験がないのは、ただ単純に、恋愛に興味がなかったからだ。高校生にもなると、周りの友人たちは、「誰がクラスで一番かわいいか」、「誰のことが好きか」などの恋愛トークで盛り上がることが多くなった。寿也自身、友人たちのこういった会話を聞くのはおもしろかった。しかし、いざ自分に話題が振られると、どこか現実味がなく、恋愛というものに実感が湧かなかった。
友人たちは、冗談交じりに、「イケメンの無駄遣い」だとよく言った。だが実際には、恋愛に関心がなくとも、友人は多かったため、不自由だと感じたことは一度もなかった。
そんな自分だからこそ、初対面の春花にここまで胸が高鳴っていることに驚かずにはいられなかった。
大学一年生の夏、寿也は人生で初めて恋をした。
「駅の階段で、私が寿くんにぶつかっちゃって……それが初めましてやったんよね」
春花が懐かしいとつぶやきながら言った。
「そうだよ。あの時おれは春ちゃんに一目惚れしたんだ」
寿也はアイスティーを一気に飲み干した。
「なぁに、寿くん急に~ そんなこと言ったって何にも出やんからね」
春花が照れ隠しするように目をそらして言った。
「実は私もそうだったりして」
今度はいたずらっ子のような表情をした。
「私も寿くんに一目惚れしてた」
ガラン。グラスの中の氷が溶ける音がした。
今度は春花は、目をそらさずにまっすぐに寿也を見つめていた。
寿也は、“胸が痛い”という感情にこんな嫌じゃない痛みの種類があることを、春花と出会って初めて知った。春花と会う度に新しい自分に気づき、昨日以上に春花のことを好きになる。
タイトな制服を着こなした店員が寿也たちの前に料理を並べた。
「お待たせいたしました。エッグスラットとロコモコでございます。ご注文は以上でよろしかったでしょうか。ごゆっくりお過ごし下さいませ。」
春花が店員にペコッと頭を下げた。
寿也の後ろには大きな川が流れていて、春花側の席からはその景色を眺めることができる。隠れ家的なこのカフェは春花が見つけた。春花と出会っていなかったらロコモコが何か一生わからなかったかもしれない。
春花が目の前のエッグスラットを眺めながら、おいしそーと小さく声を上げた。そして、右手に持っていたアイスティーのグラスをテーブルに置き、フォークを掴んだ。
その瞬間、寿也を得体の知れない違和感が襲った。
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