第9話 迫りくる非日常、だがいつ来るかは分からない
鬼灯による夜這いならぬ襲撃から、四日あまりが経過していた。
「おはよう広橋くん」
「ああ。うん、おはよう……」
鬼灯の座席の周りに取り巻きの女子たちがいたお陰で、今朝も交わされた言葉は互いに一言ずつの挨拶のみだった。
しかし晴太は彼女の笑った瞳の奥に潜む、バチバチとした敵愾心を確かに感じ取っていた。
あれ以来、鬼灯は授業中に隙を見ては彼を頻繁に睨みつけるようになっていた。
一応万が一学校で襲われたときのための保険として、晴太のポケットにはゆきの葉が一枚忍ばせてある。
これは彼の身を案じたゆきからの提案であり、服用すると一時的に刀を装備した鬼灯と対等に渡り合えるほどの身体能力を得られるという。
とはいえ、鬼灯が本気でかかってきた場合は彼がそれを取り出して口にするまでにやられてしまいそうでもあるが、いまのところはまだ直接主だった衝突は一度もなかった。
鬼灯は学校にいる間は正体を隠すどころか、学園生活を楽しんでいるようである。
その証拠に、ちゃっかりチアリーディング部に入部していた。
顔立ちのよさと愛想のよさだけでなく、抜群のプロポーションまで備えた彼女がその部活に入ったことによる反響は主に一部男子の間で凄まじく、男子禁制であることを承知の上で尚練習の様子を見に行こうとするものが後を絶たないらしい。
お調子者の晴太の友人、佐藤大智もその一人だった。
「放課後こっそりチア部の部室観に行こうぜぃ。川嶋のやつがいい方法見つけたんだよ」
「俺は行かないよ。というか犯罪めいたことはやめとけよ」
「なぁんだよノリがわりぃな。あそうか、広橋にとっちゃ鬼灯さんは目と目で語り合う仲だから俺の女に触れるな的な?」
晴太はさすがに少しだけイラついた。
鬼灯があまりに頻繁に彼のほうを睨んでいるため、二人の関係性を怪しむものは今や佐藤だけではない。
晴太は仮にも自称忍者の系譜の組織の一員ならば、もう少し人目を忍んでして欲しいと注文を付けたいところであったが、かと言って文句を言いに行くわけにもいかなかった。
「いやだからそういうのは絶対あり得ないって。彼女の視線に本当に心当たりはないけど、もし覗きに行ったのがバレたりしたらますます睨まれるだろうし、なるべく関わり合いたくないんだ」
「お、おう。まあ慎重派のお前だから最初から冗談のつもりで誘ったんだが、思わぬほどのガチ拒否りだな」
このように晴太の方から鬼灯に関わりに行くことはまずあり得ない。
学校が終われば彼は即帰宅し、前回と同じ轍を踏まないよう窓を締め切った室内でゆきと二人、ひたすら引き籠っていた。
それでなんとかこの四日間は凌げていたのだが、それで警戒が十分であるかと言われたら怪しいとしか言いようがない。
しかし他にこのことを相談出来る者もいるわけがなく、彼の精神は見えない恐怖にさらされ続け、確実にすり減っていた。
そんな日の午後の授業中、晴太も少しずつ鬼灯からの理不尽な視線に慣れてきた頃合いのことだった。
「広橋くーん。ふふん、鬼灯さんからの伝言だよん」
勘違いしているであろう小金沢のにやついた目とともに、彼の机上に二重に折り曲げられた紙切れが置かれた。
鬼灯は現在、前を向いて真面目に授業を聞いている。
晴太は恐る恐る、紙を開いてみた。
『コンヤ オソウ カクゴ シロ』
短文で一言、それだけが書かれていた。それから放課後までの間、彼は生きた心地がしなかった。
彼は放課後全力ダッシュで家に帰るなり、父親の部屋から拝借したゴルフクラブとヘルメットを装備し、部屋に立て籠もった。
もちろん唯一の侵入経路である窓は閉め切り、ゆきとともに常時窓方向を監視し続けた。
「今日来るのは鬼灯とは限らない。例の組織とやらの人間の誰かかも知れない。相手がガチな忍者だったら窓の鍵なんて楽々開けてくるよな。いや、親に化けて普通に一階から上がってくるってこともあるか」
彼は忍者だの組織だの自分で言っていて嫌になったが、今はもう認めるしかないことも分かっていた。
ピリピリとした張り詰めた空気の中、刻一刻と時間ばかりが過ぎていく。
しかし、七時を過ぎても八時を過ぎても一向に刺客が現れる気配はなかった。
晴太たちが持つ情報は鬼灯の紙から知らされたたった一文のみである。
誰がいつ、何をしてくるかまでは分かっておらず、ゆえに晴太は常に想像で不安を膨らませながら待ち続けるしかなかった。
そんな彼を想ったのか、ふとゆきが彼の頬を優しくなぞった。
「俺はもう休んでいいって? いや、そういうわけには行かないだろ。起きたら知らないうちにお前がいなくなってたとか絶対嫌だからな」
途中、島谷からインペリアル・コードの内容についてのメッセージが届いたりもしたが、悠長にやり取りしている場合でないと、晴太はこの日はじめて返事を即しなかった。
そして午後0時。とうとう精神的疲労が限界を超えた彼の瞼が重くなりはじめた頃だった。
「なあゆき、俺が寝たら葉っぱでグサッと刺してくれよ」
「もうお眠かな? なんならわたしが刺してやろうか」
「え……?」
その“あり得ない”少女の声は晴太の眠気を一気に吹き飛ばした。
声の方向は上、つまりは天井である。
晴太が見上げると、天井の壁紙がはらりと剥がれ落ち、仰向けに張り付いている小さな少女の姿が現れた。
「お、お前っ……。い、いつからそこに!」
「ずっと前からだよ。君が学校から帰ってくるずっと前から、わたしはここで待機していた。そこの淡雪草に気付かれないようにこっそりとな」
晴太はゾッとした。
ミニスカートの忍装束にポニーテールの少女の外見はどこからどうみても十歳前後の小学生女子であり、可愛らしい。
しかしだからこそ逆に鬼灯をも凌駕する、計り知れない威圧感があった。
「いつ気付くかと思って様子を伺っていたが、もうほとほとストーキングにも飽き飽きた。晴太君、それから淡雪草のゆきちゃんも我々のもとへ来て貰おう」
「そうはいくか、ゆきっ!」
先日のときと同様、ゆきは即座に無数の枝を少女目掛けて伸ばした。
前回と違うのはそれらの先端があまりにも呆気なく少女の全身を貫通したことである。
思いも寄らぬ展開に晴太は絶句しかけたが、彼がその瞬間まで少女の体だと思っていたものはよく見るとただの布切れであり、少女本体は既に床に着地していた。
変わり身の術。
日本人なら誰でも知っているこの忍術を晴太はこの瞬間、はじめて現実のものとして目にしていた。
しかし当然、彼がそのことについて感動している余裕はない。
晴太は向かってくる少女の動きに対応するため、懐からゆきの葉を取り出した。
「ふむ。遅いな、晴太君。それでは横からの不意打ちに対応できんだろ」
「え、横……?」
バァン!
突如、奥のクローゼットが勢いよく開いたかと思うと晴太の眼前を何かの物体が高速で通過し、彼の手元から頼みの綱の葉を掠め取った。
「オレの名は月影。人呼んで爆炎の月影。そいつは起爆札。淡雪草、動いたら貴様ごと爆破する」
クローゼットから聞こえたのはインペリアル・コードのキャラ音声と聞き間違えるほどに色気のある、二十代後半くらいの青年の声だった。
ゆきの鉢のすぐ手前に突き刺さったクナイのようなものには確かに怪しい紋様が書き記された札が貼られている。
彼はこの瞬間、状況が詰んでいることを悟った。
「畜生、まさか最初から二人潜んでいただなんて。どうなってんだようちのセキュリティ」
「なに失望することはないさ。我々は普通の人間を軽く超越しているからな。さて君とはいろいろ話したいことがある。今からうちの事務所まで来てくれるかな」
少女は勝ち誇ったかのように両手を大きく広げ、これ見よがしに丸腰であることをアピールした。
「それってもちろん断るなんてことは出来ないんだよな」
「別に構わないぞ、断っても。まあ、それだったらこうするだけだがな」
「えっ? ちょっと、なにを……」
少女は晴太の懐までゆっくりと歩み寄り、悪戯っぽく笑った。
その吸い込まれるような大きな瞳と風呂上がりの髪のシャンプーの香りのようないい匂いは、自分はロリコンではないと断ずる晴太の理性すらもほんの一瞬だけ揺らがせた。
「おっとゆきちゃん。彼に手荒な真似はしないから。動くんじゃないぞ」
そう言ってゆきに牽制をかけると少女は素早く晴太の袖を掴み上体を引き寄せ、そして口づけをした。
「え? ……ん……あっ」
少女の柔らかい唇の隙間から滑り込む、暖かく甘美な舌の感触が晴太の口内を這う。その強烈な感覚は快楽という名の電気信号に変換され、彼の脳の奥深くへと送り込まれた。
そしてやがて麻酔を打たれたように、彼の意識は刈り取られた。
「事後になるが謝っておくよ。これ、口と口同士じゃないと効かないんだ」
次に目が覚めると彼はゆきの鉢を胸に抱え、見知らぬ事務所の中に立っていた。




