第21話 絶望の淵、舞い降りた女神
晴太はただ無心でその炎の揺らめきを見つめるしかなかった。
目の前の光景が現実の出来事だと信じられず、ゆえに憎しみの感情も、悲しみの感情も湧かなかった。
「あーはっはっはっは! やりましたよ、優子様! 邪魔な淡雪草を始末しました!!」
「ふふっ。ご苦労……」
今まで近くの物陰に隠れていたのか、小柄な女が鬼灯の背後から現れた。
女はぶかぶかなパーカーのフードを被り、枝葉が黒く染まった淡雪草と思わしき植物の入った鉢を抱き抱えていた。
「その女は私がクロの力を使って洗脳した。お話がしたいと言ってクロの葉を混ぜたお茶を飲ませたらイチコロだった。ちょろすぎた」
「ということで今の私は優子様の忠実なる下僕なのよ。残念だったわね、広橋くん」
「私が行っては警戒されるから代わりにこの女に命じてあなたの淡雪草を始末させた。品評会は私のクロが優勝する、邪魔はさせない。せいぜい指を咥えて見ていればいい。私の同類さん」
女のねっとりとした喋り方から、攻撃的かつ自己中心的な性格が垣間見えていた。
それでも晴太は女の歪んだ口元を一目見て、どことなく親近感を感じていた。彼は目の前のこの憎むべき女から、確かどこか自分に近しい部分があると本能的に感じ取っていた。
しかし彼にとってはゆきを失ったショックのほうがそれとは比較にならないほどに大きく、去っていく二人の背中を追いかける気にはなれなかった。
「なあゆき、俺は一体これからどうしたらいいんだ……」
晴太がそう呟いたのは女と鬼灯が居なくなってから相当な時間が経過した後だった。
いくら嘆いてみたところで、相棒が燃やされたという事実は覆らない。
ゆきとの別れは一応心のどこかで想定しているつもりではあった。
しかし、まさかこんな形で訪れるとは夢にも思っていなかった。
僅かに残った灰に覆い被さるように跪いたまま、晴太は立ち上がれなかった。
虚無感と絶望感がひたすら胸を支配し、なにをどうしたらいいか分からず、またそれ以前になにもする気になれなかった。
ゆきがいなければ女の凶行を止める術もなく、当然この世界から元の世界に戻る方法も分からない。
見知らぬ地にて突然降りかかった孤独を前に、晴太は文字通り為す術がなかった。
なにか動かねばと一応考えてはみるものの、これまでゆきにどれだけ依存してきたかを思い知るばかりで具体的な行動案はなに一つ思い当たらない。
彼はこのまま永遠に立ち上がれずに自分は死んでしまうのではないかとも思った。
商店街を行き来する通行人たちはしばしば彼を不思議そうな目で見てはいたが、足を止めて声を掛けたりするものは当然いなかった。
晴太は誰かの声を欲していた。
深い闇に呑まれ、心細くて仕方のない心に希望の光を灯す、誰かの暖かい言葉を欲していた。
「――こら。こんな道のど真ん中で倒れ込んでいたら駄目だゾ」
甘く優しく、それでいて大人の色香の漂う声。
その声は晴太が三年間、確かに毎日聞いた声だった。
ゆっくりと、晴太は顔を上げた。
「ありゃひどい顔。よっぽど辛いことがあったんだね。先生に話してごらん」
鬼灯やてふてふならまだしも、さすがに“彼女”がこんな場所にいるはずがない。
そんな理屈はもはや彼にとってはどうでもよかった。
島谷美波がそこにいる。
それが例え幻覚であってもなんでもいい。
やがて島谷は手を伸ばし、ゆっくりと晴太の頭を撫で始めた。優しく円を描くように、髪に触れるその手の感触に、晴太は思わず涙した。
「先生………先生……ッ! ううう……っ」
「よしよし。いくらでも先生に甘えなさい」
島谷は包み込むように晴太の肩を抱き締めた。
その暖かくて柔らかな体の感触と、母性溢れる大人の女性の匂いは危うく彼をそのまま大泣きさせるところだった。
しかし、彼はすんでのところで冷静さを取り戻した。
「…………先生じゃないですよね。先生はこんなことしないです。てふてふさん」
「ありゃバレた? その態度の落差は傷つくな」
メリメリメリッ。
島谷の外見だったものは自らの皮を剥ぎ、一気にポニーテールの少女へと変身した。
晴太が白い目で見るなか、てふてふは悪戯っぽく舌を出して誤魔化そうとした。
「どうしてわざわざ先生に変装して出てきたんですか」
「しょげている様だったから君にエールを送ろうと思ってな。この方が喜ぶだろう?」
「……本当は面白半分のくせに。まあ、お蔭で少しいい夢が見れましたよ」
「そう拗ねるなよ。真面目に何があったか教えてくれないか? 紅ちゃんからの定期連絡が途絶えたので心配になって今来たばかりなんだ」
晴太にはちょうどこの胸を締め付けるようなやるせなさを吐き出す相手が必要だった。
彼はまるで堰を切ったかのようにこれまでの出来事を洗いざらい話した。
* * * *
「なるほど。しかし紅ちゃんめ、あっさり洗脳されるとは忍者の風上にも置けないな。彼女の代わりにわたしの方から謝罪させてくれ。すまなかった」
てふてふは深々と頭を下げ、謝罪の意を示した。
しかし晴太は首を俯かせたまま、うんともすんとも言わなかった。
実際声に出して吐き出してみても彼の鬱々たる気持ちは晴れなかったようで、それどころか彼の頭は言葉を発する度に刻々と垂れていっていた。
「まあ、暗い顔をするなと言っても無理な話だな。気休めにもならんかも知れないが、取り敢えずわたしがいれば君は元の世界に帰ることは出来る。帰ったら墓でも作って供養してやるといい。優子とかいう淡雪草使いの件はわたしの方でなんとかするから気にするな」
「なんとかするって、どうするんですか」
「殺すしかないだろう。紅ちゃんが護衛についていようがわたしの方が何倍も格上であるからして問題はなかろう」
「そんな、殺すって……」
ここでようやく晴太は顔を上げ、てふてふの表情を覗きこんだ。
あくまでも真顔で、てふてふは口にした。
「慎重な性格でなかなか尻尾を掴ませてくれなかったが、彼女は過去にも間違いなく何人か気に入らない人間を淡雪草の力で消している。君はここ二、三年、君の街の近辺で謎の行方不明事件があったことを知らないか? おそらく彼女にもう更生の余地はない。彼女の淡雪草が品評会優勝で更なる力を得たとすれば大惨事は免れないだろう」
「でも、だからといって命を奪うのは」
「ならば君が代わりになんとかしてくれるのか」
「それは、無理ですよ……。ゆきがいないと俺はなにも出来ませんから」
地べたに這いつくばるように灰を握りしめ、晴太は弱々しく答えた。
情けないと自分で分かっていながらも彼にはこう言うしかなかった。
すると少し間を置いて、てふてふが言った。
「残念ながら数あるわたしの能力でもこの状態のゆきちゃんを復活させてやることは出来ない。だが、可能性がないわけではないかも知れんぞ」
「えっ……?」
晴太は目を大きく見開かせた。
「わたしがこのグラスワールドに来たのは二回目でな。十二年前に一度鋼鉄たちとともに冒険したことがある。だから言えるのだが、この世界には途轍もなく凄い力を持つ植物が多く存在しているのだよ。なかにはそんな奇跡を起こせるようなものもあるかも知れない、という話だ」
「もしかしたらそれでゆきを……。でもそれは確かな話じゃないんですね」
「ああ保証は出来ない。だがもし君がその僅かな可能性に賭け、この世界を冒険すると言うなら最低限の力は貸すぞ。ゆきちゃんが戻って品評会で優勝すれば、わたしも彼女を殺さなくて済む。一石二鳥じゃないか。まあ、わたしはどちらでも構わないが」
晴太は彼女の提案を呑むかどうか迷っていた。
そして同時に、この期に及んで即答出来ない己の不甲斐なさにも苛立ちを覚えていた。
「俺も、万が一でもゆきを取り戻せるかも知れないんだったら、その奇跡のような可能性に縋りたいです……。でも、正直言って怖いんです。ゆきなしでこのグラスワールドを歩くことが」
「やれやれ、こういう場合鋼鉄だったら喜んで博打を打つんだがな。迷ったらやれ、が君の叔父さんの座右の銘だったぞ」
「俺は叔父さんとは違いますから。でも……、やります! この十二年、ゆきには助けて貰ってばっかりだったから、今度は俺がゆきを助けないと!」
晴太は両手でバチッと頬を叩き、気合いを入れ直した。
その決意の籠った表情を見ててふてふは目を細め、そして頷いた。
「とりあえずタイムリミットは品評会が始まるまで、つまりおよそ半日だ。それが過ぎたらわたしはその優子とかいうのを問答無用で暗殺しにいく。それこそ忍者の如くな」
「半日って。それしかないんですか?」
「そこは半日もある、だろう?」
「そうですね。駄目だ! 前向きに考えないと」
晴太は灰をブレザーのポケットに入れ、ゆっくりと立ち上がった。
彼は自分自身に鋼鉄のような度胸がないことは知っていたが、ここで動かなければ後で後悔するだけであることもまた分かっていた。
「タイムリミットまでの間、わたしは微力ながら君に協力させて貰う。適宜助言もさせて貰うし、ピンチのときは君を守る。まあ君の好きなゲームでいう一時的にパーティーメンバーに加入するゲストキャラみたいなものだ」
「大変心強いです」
「よし、基本的に行くところは君が決めてくれ。なんだか二年前を思い出すな。さあ何処へ行く? リーダー」
「ええっと、どこに行けばいいんでしょう」
てふてふはまるで昭和のコメディアンのように盛大にずっこけた。
「おいおい。言ったそばからわたしに聞いてどうする」
「す、すみません」
「調べ物の基本、まずは聞き込みから始めてみてはどうかな。幸いここに人は多いし、こちらの世界の言葉は分かるようになったのだろう?」
「なるほど。ありがとうございます。それであの、てふてふさんは」
「わたしは見ているだけだぞ。まあ悪いのに絡まれて喧嘩にでもなったら手を出すが」
「了解しました。それだけで十分です」
晴太は改めて周囲の景色を見回した。
道幅十メートルほどの商店街は相変わらず多くの異界人でごった返している。
先程ゆきと二人で見ていた時とは違い、晴太は途端に彼らからプレッシャーを感じるようになっていた。
「いきなり話しかけられて迷惑がられるかもしれないな。というかそもそもやれるのか、俺のコミュニケーションスキルで……。いや、迷ってる場合じゃない」
晴太は拳を握りしめ、そこから一番近い出店へと真っ直ぐに向かった。




