第1話 晴太とゆき
四月から始まる新生活も多くの人間はだいたいゴールデンウィークが開ける頃には慣れが生じ、勝手が分かってくるものである。そして同時にその頃になると手探り状態だった人間関係もある程度固定化され、そのコミュニティ内での各々のキャラ付けがはっきりしてくる。
一年三組のクラス内における広橋晴太の立ち位置は言ってしまえば「地味だがいい奴そうな奴」であった。
最低限の人付き合い程度は出来る彼は決してクラスで孤立してはいないものの、お世辞にも自分から積極的に人と関わるタイプではなかった。
ゆえに彼の友人は多くはなく、言ってしまえば彼はあまり目立たない存在だった。
しかし本人にとってはそのことについての不満は一切なく、と言ったら嘘になるが、少なくとも彼はその自分のポジションを当然のことのように受け入れていた。
「起立。礼――」
号令とともにこの日の学校での一日が終わりを告げた。
憧れの美人担任教師、島谷美波を囲う男子生徒たちの輪に今日も入れず、晴太はゆっくりと帰り支度を整えた。
この日は特に友人と街に寄る約束もなく、帰宅部である彼は真っ直ぐ家に帰るだけである。
彼はふと廊下の途中で足を止め、なんとなく外の景色に目を遣った。
大きなガラス窓越しに彼の瞳に写っていたのは、校庭の中庭で作業をしているジャージを着た数名の生徒たちの集まりだった。
彼らはなにやら和気藹々と雑談を交えながら、花壇の周りの雑草を毟り取っていた。
「あれ広橋君。園芸部が気になるの?」
咄嗟に声を掛けられ、晴太は振り返った。
ベージュ色のスーツに肩口までかかる栗色の髪。
甘く優しく、それでいて大人の色香の漂うこの声の主は紛うことなき彼の担任の島谷美波その人である。
彼がこのように彼女から個別に声を掛けられたのはこれが初めてのことだった。
「い、いえ。なんとなく見ていただけです」
「そう。でも谷町さんが感心していたよ? ああ見えて広橋君は植物の育て方とかに凄い詳しくて、きっとそういうの凄く好きに違いないって」
「あー、そう言えばついこの間そんなことがありましたね。柄にもなく熱弁してしまって」
「園芸部に入るつもりはないの? 私、君を見掛けたら勧誘するようにって谷町さんに強く頼まれちゃったんだけど」
吹奏楽部の顧問を受け持つ島谷の右脇には楽譜のプリントの束が抱えられていた。
晴太はおそらく部室に向かう途中で偶然自分を見掛けたものだから単なる気紛れで声を掛けたのだろう、と冷静に状況を分析していた。
「それだったら勧誘したけれど強く断られたと言っておいてください。では先生。また明日」
晴太はお辞儀をすると折角の島谷との会話の機会を速やかに切り上げ、スタスタとその場を立ち去った。
植物への知識が豊富であっても、彼が園芸部に入るつもりがないのにはれっきとした理由がある。
彼は自宅に帰るとすぐさま二階の自室へと上がり、ベッドの上に鞄を置いた。
そして机に腰掛け、いつものように相棒に話し掛けた。
「なあゆき。俺さ……。今日島谷先生に二人きりで話しかけられちゃったよぉおおお!」
返事の言葉はない。
彼が「ゆき」と呼び、さも親しい友人のように話し掛けているのは鉢に植えられた一見なんの変哲もない観葉植物でしかない。
無論それは傍から見れば痛い独り言に他ならないが、しかしゆきと呼ばれた植物は次の瞬間、茎を大きくうねらせ、青々とした葉を上下に振ってみせた。
「良かったねって? そうだよっ、なんか知らないけどもの凄いいい匂いしたんだよ! いややべーよあの人は!」
ゆきは不思議な植物であり、晴太が話し掛けるとこのように茎や葉を揺らして意志を表現する。
そしてその意味が分かるのは世界でただ一人、晴太だけであった。そして晴太はこうしてゆきとコミュニケーションをしているときにこそ、最も豊かな表情を見せた。
「いやあ、なんていうか今日は全体的にツイてたね。まず一限目は英語だったんだけど、俺の前の席の太田がさ……」
そのまま晴太はその日学校であった出来事をすべて、ゆきに事細かに伝え始めた。
ゆきはその都度反応し、彼に多様なリアクションを見せた。
彼はそんなゆきの葉を撫でたり突いたりしながら、終始ご機嫌な様子で長話に耽っていた。
彼が園芸部に入るつもりがない理由、それは彼がゆき以外の植物に愛情を注ぐ気が全くもってないからである。
そう、これは地味で目立たない高校生広橋晴太と不思議な植物ゆきの、心温まる物語である。
* * * *
異界植物・淡雪草。
それがゆきの種としての正式名称、なのかは分からないが晴太にゆきを譲ったとき、彼の叔父は確かにそう呼んでいた。
晴太の叔父、宮下鋼鉄は自称異界をまたにかける凄い冒険家であり、この世界とは異なる世界、つまり異界とこの世界を自由に行き来出来る能力を持っているという。
彼曰く、異界は数多く存在し、それらはすべて冒険し甲斐のあるロマン溢れる世界であるらしい。
鋼鉄は風来坊のような人物であり、ある日突然音信不通になったかと思えばその数ヶ月後に晴太の前にふらりと現れ、新たに冒険した異界の話をよく話し聞かせていた。
そしてこれまた自称ではあるが、彼は異界では相当にモテていたらしく、その話の大半は毎度違う異界女性とののろけ話であった。
それが事実なのか盛られた話なのかはさておき、晴太はその話を聞くのが嫌いではなかった。
そんな叔父から晴太が土産と称してゆきの種を譲り受け取ったのがちょうど十年前のことである。
また、それが晴太にとって叔父を見た最後の日でもあった。
実を言うと晴太があらゆる面において慎重な性格になってしまったのは、その鋼鉄行方不明事件が大いに関係している。
弟が帰って来なくなって以来、晴太の母は息子が二の舞にならないようにと、徹底的に鋼鉄を反面教師にして彼を育て上げた。
叔父ちゃんのような地に足のついてない根無し草にだけは絶対になるな――彼が今まで耳にタコが出来るほど聞かされた言葉である。
人生一寸先は闇、石橋は叩きまくって渡れ。
それが今の広橋晴太の座右の銘であった。
「どーだゆき、気持ちいいか。お、ここか? ここがええんか? うりうりうりうりぃ」
晴太がピンクの象を象った可愛らしいジョウロで水をやると、ゆきは気持ち良さそうにピクピクと小刻みに葉を揺らし、葉先をくるんと丸め込んだ。
毎朝学校に行く前に、こうして晴太はゆきに話し掛けながら水をやっていた。
それは晴太にとって、ちょっとした癒しの時間でもあった。
水やりは寒い冬場以外は毎日必ず行われ、夏の暑い日には朝だけでなく夕方にもやることがあった。
ゆきの生育には普通の植物と同じく土、水、光、肥料を必要としたが、意思疎通が出来るおかげで晴太がその加減を大きく間違えることはなかった。
「ああそうだ、今日は火曜日だったな。お前の好きな例の漫画が連載されている週刊少年プルルートの発売日だ」
晴太が話題を振ると、ゆきは大きく頷いた。
ゆきが晴太に見せる意思表示のジェスチャーはなにも喉が渇いたとか、暑い寒いといった生命に関わるものだけではない。
晴太と一緒に読んだ漫画や観たテレビ番組、スマホで観た動画の感想を500字程度の長文にして語ることすら可能であった。
人間でいう目にあたるものがないこの植物の一体どこに視覚があるかは不明であるが、晴太がなにかを見せるとゆきはちゃんと分かったようなリアクションをした。
ゆえに自宅にいる間、晴太は本当に退屈することがなかった。
「帰りがけに買ってくるから。大丈夫、先に読んだりしないから。はは、こないだは悪かった。それじゃ行ってくる。いい子にしてるんだぞ」
晴太は鞄を持つとゆきに手を振り、部屋を出た。
自宅から一歩外に踏み出してしまえば、晴太の世界はどこにでも転がっている至って普通な高校生活になり下がる。
しかし彼は面倒だと思うことはあっても、学校を休もうと思うことはなかった。
教室に着き自分の席に座ると、今日も晴太はある男に呼び掛けられた。
制服のブレザーの下にパーカーを着込んだ茶髪の男子生徒は白い歯を覗かせながら、いきなりスマホの画面を晴太に見せつけてきた。
「はいここで抜き打ちテストです。美少女双子ユニットのフェリファロちゃん。どっちがどっちでしょーか」
「……こっちのピンク髪のほうがフェリちゃんで、青髪の方がファロちゃんだろ?」
二人の美少女キャラが横に並んだCGイラストを吟味しながら、晴太は自信なさげにそれぞれを指差した。
「ブー逆でーす。はぁー……まだまだ布教が足りてないかぁ。フェリファロめっちゃ可愛いんだけどなあ。よっしゃ、んなら今日は幼女Vチューバー講座だ」
「はいはい。ご教授おねがいしますよ佐藤先生」
晴太は冗談で丁寧語を使うと、佐藤に軽くお辞儀した。
彼、佐藤大智は晴太の数少ない友人の中でもとりわけ仲の良いクラスメイトであった。
スマホゲームとVチューバーにハマっている今時の高校生で、よく喋り、そしてとにかく調子がいい。
二人は特別趣味が合うわけでもなかったが、席が近く、また黙って話を聞いてくれるのが心地良かったのか晴太はよくこの佐藤に絡まれた。
おかげで晴太の退屈な高校生活が多少賑やかになったのはいいのだが、いかんせん彼は聞き役ばかりにされていた。
「……だから俺が常々思ってんのはさ、中の人なんていないんだよ! いやいるけどさ、このCGと声でもうフェリファロちゃんっていう独立したキャラが完成されちゃってるのよね。それはもうリアルの人間じゃない。んでもって特にこの二人はVチューバーの中でも異色で、例えばこないだの配信なんかは……」
目を爛々と輝かせ、好きなものについて語る佐藤は一度スイッチが入ると止まらない。
晴太は時折その内容について行けなくなったが、それでも終始笑顔で頷きながら佐藤の話を聞いていた。
なぜなら例え内容について行けずとも、彼には実在する人間でないキャラクターに夢中になる佐藤の気持ちを理解することが出来たからである。
加えて彼はVチューバーとゆきを勝手に比較し、より近い距離で接することが出来るという点において謎の優越感を感じていた。
「どうした広橋。なにさっきからニヤついてんだよ」
「ああ。フェリファロちゃんって超高性能アンドロイドって設定なんだろ?」
「そうだが、ってそれ一番最初に言ったやつじゃねえか!」
「いいよな。人外ヒロイン」
「お前、そこ食い付くのか? 人外っても色々ジャンルがあるが、もしかして広橋ってケモナーだったりする?」
「いや、俺のタイプはもうちょっとアブノーマルかな」
晴太は平然と言ってのけた。なお、勿論それは彼の本心からの言葉であった。