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光と色が示すもの



---4つ目の記憶 6才---


「なぜ赤色は、赤く見えるのだろうか?」


こんなことを考えたことはあるだろうか?これについて考えてみる。


大事な記憶のかけらは次の二つ。


一つ目のかけら。


小学校に入る前、川に、はだしで入って、よく遊んでいた。川は透明で美しく、

その冷たい水の中に手を入れて、川の底にある

色とりどりの小石を拾っては、平らなところに並べて遊んだものである。

その川が汚れだしたのは、いつごろだったか、ちょっと思い出してみることにする。


小学校に通い始めてまもなく、田んぼのあぜ道の横にそって流れる用水路に、濃い緑色の()が、

たくさん生えているのを、目にした覚えがある。

葉を連想させるその色は、水の中にあってもそれほど違和感はなかった。

ただ、中学年くらいだったか、理科で光合成の話を教わると、その話に、疑問を感じた。

光合成とは、葉っぱの色が、緑に見える理由を説明しており、それが葉緑素と呼ばれる色素のおかげであるという。

葉緑素は、空気中の二酸化炭素を吸収し、光を合成することで、酸素を吐き出しているという性質をもつ。

だとすると、なぜ、二酸化炭素が少なそうな水の中で、光合成をするための葉緑素が必要なのだろうかという疑問である。

人や他の動物は、あまり、水の中で、息を吐き出したりしていないのに不思議に思えたのだ。


だが、ここで注目をしてほしいのは、用水路のことではなく、この発想のあとの川の変化である。


用水路の藻をみて、水には、藻ができるものなのだと感じ始めて、川にも変化が見られたように覚えている。

最初、用水路と同じような、濃い緑色の()で、川の底が徐々に、おおわれた。


そして、彼が、どうして、水の中の葉が緑なのかと疑問に思った時期の前後で、

葉の色は徐々に、濃い緑色から濃い茶色になっていったのだ。


これが確かな記憶であることは、それ以来、

足を、川に突っ込んでわたろうとすると、よく(すべ)ってこけるようになり、

ずぶぬれになることが、多くなったので覚えている。

普通、子供のころに楽しく遊べた川が、体が大きくなり安定してわたれるはずなのに、

余計、滑ってこけるようになれば、何事かと注意して記憶するのは当然である。

この変化は、どう考えても違和感があったのだ。


そして現在では、川にはあんなに藻は、生えていなかった。

今では、川に入るだけで、こけのように小さな藻が、ほこりのように、水の中に舞い上がり、

水の色自体が、濃い茶色に染まるため、川の色が、どんな色をしているのかわからない。


問題はここである。川の色は、今でも透明なのだろうか?


なぜ茶色に変わる必要があったのだろうか?


二つ目のかけら。


小学校に入り、初めての夏休み。


講堂に、生徒は集まり、校長先生の長くてありがたい話を静かに、聞いていた。

さすが校長先生とあって、生徒の心をしっかりとつかむような話し方で、海と川がつながっているところでは、

流れが急に変わり、危ないので、近づかないようにということだった。なんでも昔、付近の川のそのような場所で、事故があったらしく、

川の流れの変化についていけなかった生徒が、足をとられて、海に流され、死んでしまったとのことだった。


もちろん、馬鹿な彼のことである。危険だといわれて近づかないはずがない。

どんなに危険か確かめてみないとわからないという一種、義務感のようなものか、あるいは、単なる好奇心か

彼は、海に行ってみた。


海の付近の川の色は、青緑色で、海の色に近かったが、今考えると、その上に大きな青緑色の橋が

かかっていたから、その部分の色が何色かということは、はっきりわからなかったはずなのだ。

写りこんだ橋の色がジャマして、川、本来の色はわからない。

しかし、彼が子供のころ、それを見たときは、海の色がまざりはじめているのだから、

川の色は徐々に、青緑色になるものなのだと考え、違和感は感じなかった。


海に川が流れ出すところでは、川は、ずい分深く、

暗い青緑色になっていて、とても小学生が試せそうな深さではなかった。

なぜなら、深いということは、きっと校長先生のいうとおり、流れが急で変化しやすいところだと連想してしまうからだ。

それなので、怖くなった彼は、海のほうから近づいてみた。

そばから見て流れが急だとはおもわなかったが、それ以上近づくのを彼はやめてしまった。

つまり、深そうだということが、流れが急であるだろうという思い込みを作り、

事故で死んだ話を連想させることになったため近づけなかったのだ。


その後、決め手となったのが、その川のながれの先のあたりの海のそこにもぐって遊んでいて、

動物の骨だかなにかを見つけて、怖くなり、

一緒にきていた親に見せ、校長先生が話していた、死んだ子供の骨じゃないかと問いたずねたことである。

もちろん、親は、動物かなにかの骨だろうと言っていたが、子供の彼にとって、死んだ子供の骨ではないとは言い切れない

という怖さを感じるのは無理もないことだった。


彼は、その後、その海から車で30分ほど、離れたところにある遠浅の海というものを知った。

海が非常に浅く、子供のひざくらいの深さの海が、ずい分遠いところまで続くような海であるため

遠浅の海と呼ばれるのだが、その浅い海がまるで大きな子供用のプールのように感じたためか

楽しくて、何度も連れて行ってほしいと親にお願いした覚えがある。


しかし、そこにも小さな川があり、その川と海のつながる部分は、もちろん浅く、川は透明なのだが、徐々に海が青くなった。

つまり、海の色が青いのではなく、川の色が青いのでもなく、海の深いところが青く見えるのである。


海の水を、手ですくって見れば、それが透明の水であることは、誰もが知っていることであるだろう。


あれは、深いところが青く見えているだけなのだ。


後に、彼は、再度引越しをして、ずい分と長い間、その場所から離れて生活したが、

彼が、大きくなり、校長先生が話をしていたあの海と川の境目にいって、そこの流れが急かどうか確かめたことがあるのだが、

まったく急などではなく、とても足をとられるような場所ではないことがわかった。

でもそのときは、きっと流れが変わったんだろうと思い違和感はなかった。


このとき、おかしいと感じるべきだったのだ。


あの校長先生の言葉では、海と川の境目というものが、一般的に、流れが急であり、

危険であるという話だったのだから、どの境目でも流れが急で危険なはずである。


だが、遠浅の海と川のつながりの部分は、とても急などではなかった。では、深いと急なのだろうか?

後からそこを訪れたときは、まったく川の流れも急ではなかったし、深さは、深いままだった。

だから、深いと急なのでもない。


川では、上流の小石などが、河口まで運ばれて、堆積(たいせき)するという話を学校で習ったが、

あの校長先生が、話をしてくれた後、私が、大きくなって再度そこに訪れたときまでに、小石が堆積して

流れがかわり、それで、流れが穏やかになったのだろうか?

だとすると、川の大きさも深さもそれほどにかわっているように見えなかったのは、なぜか?

堆積したのなら、形なども変化していなければおかしい。


そう、昔と比べて大して変化はしていないのだ、つまり

昔も流れが急だというのはウソで、ただ深かっただけなのではないか?

では、校長先生は、なぜそこに、近づくなと

言ったのだろうか?深いから危険?海はもっと深いというのに。

それなら海に近づくなと教えるのが正しい。

では、急でもない川を急だといい、

川と海のつながる部分に近づくな。そう教えられた理由はなんなのか?


答えは簡単である。そこに近づかせたくない理由が、ほかにあった。


遠浅の海で、気づいたこと。「海の色が青いのではない、水の色は、透明である。海でも川でも深いと青く見えるのだ。」


これを校長先生は、隠したかった。


ちなみに、いま、そこら辺りには、大きな橋を建てたため、地形がかなり変わっている。

前の川にあった青緑色の橋は、取り除かれ、大きな別の色の橋が建てられている。

たしか橋の色は、こげ茶色だったような気がするが、

橋の下で、海とのつながりの部分は、徐々に、浅くなっていて、透明に見える。

そして、橋の下で、川とのつながりの部分は茶色に見える。これは、上の橋の色なのだ。

このころには、すでに川の色が、すっかり藻で茶色に見えていた。

川と海とのつながりの部分は、茶色の橋のしたで、徐々に浅くなっているため、茶色から透明に見えて、

海は、浅いところで、透明。深くなれば青く見えるように変化して見えるのだ。

要約すると、川(茶色)→橋の下(茶色→透明)→海(透明→青)というグラデーションである。


深いと青く見えるという事実をわかりにくくしたつもりなのであろう。


以前の状態で行くと、川(緑)→橋の下(緑→青)→海(青)ということだから、

深いと青になるという事実を隠せてはいる。

今は、昔のようには、うまく隠せてはいない。それどころか、川の茶色と海の色をつなげるために、

結局、透明であるところが、浅いという事実を隠し切れずに、本末転倒な感じである。

もちろん、海の部分につながると急に深いつくりになっていて、

深いから青いのだという点にすぐには気づかない程度にはしてあるが、あまり意味はないだろう。

直感の優れた人なら、すぐに海が青いのではなく、深いと青いという事実に気づいてしまう。


藻が緑色でよかったなら、あるいは、かくしておけたかもしれない。

藻が緑なのはおかしいと、私が気づいたからなのだろうか?それとも私はきづかさせられたのだろうか?

ここを注意して、覚えておいてほしい。すべての鍵を書いた後、最後の章に向かうために。


話を戻すが、なぜ隠すのか?隠したいのは次の点である。

海が青いのでないのなら、海の青さはどこから来るのだ?

海のそこが、青ではなく砂や岩石の色である茶色であることは言うまでもない。

そして大事なこと。海のような深さでもすんでいて、屋内であれば、それは透明で、そこが見える。

ただし「天井の色や蛍光灯の色が、水の表面に映る」場合もある。

海を見た場合、そこの茶色などが見えるのでないなら、水は、いくら重ねてもそれ自身は透明にしか見えないのだから、

海の青さは、海でもなく、その底からきたのでもない。となると答えはひとつ。

海や深い川に、映っているのは、空の色ということになる。


空が青いから海が青いのだ。


しかし、空気の色も青くはない。透明である。だから空も透明なはずなのだ。

ではなぜ空は青いのか?たしか地球を宇宙から見たとき青く見える部分は、海の部分であったはず、

海は透明で、そのそこが、青くはないのなら、その青さが空からやってきているとして、空気が上のほうで

青いからという理由なら、宇宙からみた地球は、すべて青く見えるはずだ。

でもそうは見えない。あくまで青く見えるのは、海なのである。つまりどこかにウソが隠れているのである。


そして先の話から、私たちはすでに知っているはずだ。地球が丸くはなく。太陽は、大地の周りを回っているものだと。

つまり、ウソは、宇宙からみた地球の形であり、色なのだ。


そしてやはり、透明な空気をどれだけ重ねても透明である。では、空の向こうが青く塗ってあるのだろうか?

それともあるいは、地球を宇宙から見たとき全部青く見えるような、空気ではない層が、空に広がっているかである。


この答えがどちらかであるかを決めるのはこの疑問だけに注目していてはわからない。

大地と空の空気は、まとめてひとつのかたまりとして動いているという結論は、先の章で出ている。

そして太陽と月が、ひとつずつ大地の周りを回っているものであることも先の章で、出た結論である。

となれば、答えは、空がドームのようなもので覆われていて、そこが、青く塗られているということである。

問題なのは、そのドームが透明かどうか、つまり、そのドームより上に太陽があるのか?ドームの中に太陽があるのか

という点だけである。答えは、全反射という問題があるので、透明なドームだと、

ドームのところどころに、白い光沢が見えるはずなのだ。

そう見えないということは、ドームの中に、太陽があるということ。

全反射と光沢については、後で説明する。


だれがこんなことをしたのかはわからない。


ただ、ひとついえること。誰かが大掛かりな細工までして、空が青いという事実を隠したかったことは、真実であるということ。


大掛かりな細工とは、川をわざと、汚したり、藻で茶色にしたり、そこに、橋を建て、うまくグラデーションするように

しているということである。これにかかわった人は、みなこの事実を知っていたのである。


ここまでで、二つの記憶のかけらは、終わり、

海の青さが、空の色であるとわかってもらえたと思うが、海や川の水には、ところどころ、白く見える部分があるのは、なぜか?

雲はなぜ白く見えるのか?などわからないことは、まだまだある。

これから、彼にかわって、色についての私の考えを書いていくので、読んでいってもらえたらと思う。

その上で、考えれば、すぐにわかることである。


わかりづらいと思うので、先に、色というものがどういうものなのか、結論を書くことにする。

色は、物体の色素という意味と、光源の色という意味の二つに分けて考えなければならない。


物体に、元からついている色素、つまり手元にあるペンの色などは、光がなくても、その特徴を持っている。

ただし、その色が、目で認識したときに私たちの知っている色になるかどうかは、それを伝える光しだいである。

たとえば、明るいところで、緑のものを見ても、暗いところで、緑のものを見ても、その物体は、緑という色素を持ってはいるが、

前者は、緑に、後者は、暗い緑に見えるということ。これは、色素の色情報を伝えている光のほうが、その色を、

きちんと目に届けることができていないのである。


音階にたとえると、ドレミファソラシドが、赤、青、緑、白、黒などの基本的な色。

そして、今、緑をファだとすると、緑の濃淡、つまり、明るい緑と、暗い緑の差が、1オクターブ上と下のファになる。

人は、このうち、目で見れる範囲の色があり、それを上に超えると、全部の色が、白にしか見えないし、下に超えると、

光がないようにしか見えない。


次に、光の性質について詳しく見ていく。

光は、波と粒子の両方の性質をあわせもつという。


光が、粒子性をもつので、それを光子と呼び、質量のある玉のようなものを想像してみる。

今、光の速度は一定であるという法則があるので、光のもつエネルギーをあげるには、

光子自体の質量が、大きくなるか、空間内の光子の密度があがる、つまり数が、増えればよい。


要するに、速さが一定なので、銃弾の大きさを大きくするか、銃弾の数自体を増やすと、威力が

増しそうだと理解してもらえればよい。


今、光の粒子の質量は、ひとつひとつが非常に、小さくとらえずらいため、質量が大きくなることを想像しにくい。

そのため、後者を考えると、光のもつエネルギーは、

ある一定の面積を、一定時間に通過する、光子の数と見れる。

この量が、大きいと、その範囲がより明るく照らし出されそうであり、

明るい光のほうがエネルギーを持っていそうだという、私たちの直感とあっている。


言い換えれば、ある範囲が明るければ明るいほど、光は、エネルギーを持っているという当たり前の結論になるということ。

明るいところにいるとわかると思うが、体がぽかぽかしたりすると思う。

その光のもつエネルギーは、当たった先の物体の熱エネルギーなどに変換されるからだ。

今、光は、速度が一定で、そのエネルギーが、質量によってのみ変化するといえるのだから、

熱エネルギーに完全変化すると、質量を失い消えてしまうことになる。


これが正しいことは、次のように考えればわかる。


もし仮に、質量を失わないのなら、目の中に入った光子は、たまり続け、いつか目の中を埋め尽くしてしまうだろう。

でも、そうならないのだから、粒子としての質量はなくなってしまっているのである。


一方、光が波の性質を持つのなら、そのエネルギーは、波の高さでも、表現される。

これも、大きな波のほうが、エネルギーがありそうだという私たちの直感とあっている。


これらをまとめると、

光源から入ってきた光と、色素のついた物体に反射して、出て行った光との間に、波の高さの差があるなら、

エネルギーの差も同時に存在し、それは、反射や透過した物体の熱エネルギーなどに変換されているはずである。

ということである。


ここで、透明な物体でも、光を当てると熱を帯びることから、色素がなくても、熱エネルギーへの変換は起こりうる。

ただし、黒と白を考えると、黒のほうが、熱エネルギーの吸収率が高いことを考慮に入れると、

色素の差によるエネルギー吸収率に差がないわけではない。


次に、波の要素である波長とエネルギーの関係を考える。


結論的には、波長が長くなると波も高くなり、それだけ、波のもつエネルギーも大きくなるということがわかる。


この理由は、以下のとおり。


光が進む経路によらず、速度が一定であることから、


まず、粒子性をもとに考えると、波の運動は、質量mの光子自身の速度運動と考えられ、

波の経路を、直線に伸ばしたときの長さは、1秒間でかならず一定値となるはずである。


一方、波動性をもとに考えると、波の伝わる速度は、その波の高さによらず一定であると考えられる。


これは、長さの決まった紐を用意して、考えるとわかりやすい。

いま、紐の両端を、紐よりか十分に短い距離だけ離れた2点に、固定する。


この2点の距離を、1秒間に、光の波がすすむ速度と考えると、

紐で波をつくれば、わかるが、波の山が高いほど、波の個数が少なくなり、

逆に、波の山が低いほど、波の個数が多くなる。

2点間の距離が一定なのだから、この波1つ分の長さ、つまり、波長は、

山が高いほど、長くなり、低いほど、短くなることがわかる。


したがって、この推論を逆からたどれば、波長が長いほど、山が高くなり、

その分、光のエネルギーが大きくなるということである。


以上から、色素によって、吸収される光のエネルギーに、差があり、そのため、出て行く光の波長に差がある。

その波長の差が、目に入り込んだときに、認識される色の違いとなりうるというのは、自然な発想である。


しかし、本当にそうだろうか?波長だけで、光の色を決めるというのなら、いくつかおかしな点がある。


CDを一枚用意してみてほしい。


暗闇で、そのCDにオレンジ色などの光源を当ててみて、どうなるか?CDの光に当たる方向を変えてみると、

七色に輝く方向があることに気づくだろう。


波長だけで、色が決まるのなら、すでにオレンジ色などの光には、それ以下の波長の光の色にしかなることはできないはず。

なぜなら、波長は、その波のエネルギーとも呼べるものなので、いったん下がったら上がるのは難しいからである。


しかし、オレンジ色が、七色に見えるということは、色はエネルギーだけで決まっていない、波長だけで決まるのではないということ。


波長以外の波の特徴とは、波形である。

この二つがそろって、色を決めていると見てよい。

波形といっても音声などの波形と似たようなもので、

それは私たちがすぐに想像する水面の波の形とは異なり、おそらく、きれいなカーブを描かない。

どちらかというとギザギザしているものだと考える。といっても物理的な運動なのだから複数の波の合成波と

見たほうがよい。

そして、緑には、緑の、赤には赤の、特徴的な波形というものが存在するのだ。


この波形を保ったまま、その波長が大きくなれば、つまり、光が強くなれば、その色の光のまま、白っぽくなるというわけである。

逆に、波形を保ったまま、その波長が短くなれば、つまり、光が弱くなれば、その色の光のまま、黒っぽくなるというわけである。


ここまでで、色素に光が、あたり、反射して、その色素の色のついた光となり、目に入り込み、

その色素の色が、認識される仕組みは、だいたい理解してもらえたと思う。


次に、色合いということについて、もう少し深く考えてみたい。


各色合い同士の関係について考える。それには、「色相環」あるいは、「補色」という言葉を、

ネットで、検索するか本などで調べてみてほしい。

色には、ペアになりやすい色同士という関係があり、その色のペアが、円上で、一番遠い位置に来るように、配置し、

グラデーションさせて、順番に並べていくと、

「色相環」というものができるようだ。この円で、緑の対抗位置にある半円上の色に青や赤が見つかるだろう。


たとえば、暗闇で、ある程度の強さの、緑色の光を、光源から出し、青や赤の色素でできた物体を、照らし出すと、

黒っぽく見えると思う。


おおざっぱに、その付近の色は黒に見えるということがわかると思う。逆に、緑色付近の色は、明るく見えるはずである。

ちなみに、対抗位置にある色の関係のことを「補色」の関係とよぶそうである。


これも、濃淡以外の、色合いが、エネルギーではなく、波形で決まるのなら、説明がつく。

緑の波形と、赤の波形は、特徴的に、引き算すると、黒に近くなるということである。

つまり、緑の光を、赤の色素に当てたとき、それは、波形としては、緑から赤を引くといったイメージ

と考えればよい。

なぜ、引き算かというと、もともと緑の波形が、光源から、赤い物体に、入ってきた場合、

反射する際、赤の色素により、赤の波形に変化しようとする、

ここで、赤に必要のない波形の部分を、緑から削り取ることは、言い換えれば、波の高さをさげることは、

色素に、光エネルギーを、熱として渡せば、可能である。

だが、逆に、もともと、緑の波形をもつ光に、赤の波形に必要な部分を、足すことはできない。

エネルギーを新たに加えなければ、波の高さを、高くすることはできないからである。

したがって、結果的に、波の引き算という表現が、イメージに合うのである。

最終的に黒は、特徴のない、波ということもいえるし、白が、その範囲内の、できる限り

波の高さの大きい波形というのもうなずける。

たとえば、この考え方で、なぜ白が、熱を吸収しずらく、黒が、吸収しやすいかも説明がつく。

白色の物体に、光をあてると、それが何色の光でも、白になるには、削り取る必要がない、むしろ足したいのだが、

足せないので、結局、熱エネルギーに変換されることもほとんどない。

黒色の物体に、光をあてると、それが何色の光でも、黒になるには、削り取る量が大きく、色素に、

熱エネルギーをもっとも吸収させる必要がある。


光の波長だけで、色が決まるのなら、白い光は、かならず大きなエネルギーを持っていることになるのだが、

白い紙を見ていても、それほど、目が痛くなったりはしないのもこれで理解できると思う。


これは、白い光にも強さがあり、強すぎると、どの色も区別がつかないだけで、波形は、存在するのである。

逆に言うと、目が認識するには、弱い白も存在するし、ちょうどよい白も存在するのである。

ただ、その区別は、もともと色合いのない色なので、目で見ていて痛いかどうかくらいしか、その差がわからない。

要するにまぶしい白と、そうでない白という意味である。


強い光を当てると、その色素が何色でも、白っぽく見える。日差しがきつすぎると、外の景色も明るすぎて、色の差がわかりずらくなるだろう。

逆に、光をだんだん弱めていって、最終的に、まったくない状態では、当然、その色素が何色かはわからない。夜がこの状態である。

これを考えると、ある程度の光がないと、色素をその色に発色できないし、逆に光が強すぎても、同じことになる。


要するにちょうどよい、光の強さがないと、色素は正しくその色を発色できないのだ。

これは、人の目から見た、認識できる波長という意味である。人の目の場合、この領域を上に超えると、全部白に、

下に超えると、見えない。つまり黒(影)と認識されるのである。目に見えない光は、波長が短く、

エネルギーも小さい。もちろん、光子の密度を上げれば、波の数も増えるのだから、小さい波長の波でも、凝縮すれば、

白に見える可能性がある。ただしこの場合、色を認識させることはできない。

大きなレンズなどで、光を、ぎゅっと集めてみれば、光源が、黒の光でも白に見えるはずである。

あくまで、白だけである。また、光エネルギーを持つ明るい黒というのも存在する。

波形が黒なら、波長が長くて、エネルギーをもつものでも黒には見えるからだ。


さて、ここまで、光と色の性質について考えてきた。

問題は、これと前段階の話とどうつながるか?である。


大事なのは、色素がないと、光は、色合いがつかない。ということである。

ただし、白というのは、光エネルギーがつよいと自然にそうなる色でもある。


今、部屋の中の蛍光灯をつけてみて、その蛍光灯が何色に見えるか?


物体に反射して、部屋の中の物体の色は何色に見えている?


黒は黒に、青は青に、緑は緑に見える。


つまり、白色の光が、その色素に対して、反射して、濃淡だけではなく、すべての色素を表現できるということである。


太陽も同じであることがわかる。そのもとで反射する物体の色が、さまざまに見えるということは、太陽の光は、白色光と

同様に、すべての色素を表現できるということである。


ちなみに、子供のころ、理科の授業などで、色のついたセロハンに、光をすかして、その光を壁に当て、何色にみえるかという

実験をしたことを覚えているだろうか?


これについても同じような性質があるといえる。


すかすというのは、言い換えると、透過するといえるが、

緑色のセロハンに透過した光は、灰色の壁で、陰になっている部分に当てると、その部分が濃い緑色に見える。

これは、最初、太陽の光は、白色光と同じように、すべての色になりうる可能性をもっていたが、

その緑色のセロハンを通すことで、緑色の光になり、この光を灰色の壁、つまり黒と白の混合色素に当てるのだから、

それは、黒い色素に対しては、完全に吸収され、黒に。白い色素に対しては、ほとんど吸収されずに緑に発色する。

まぜると灰色の壁は、濃い緑色に発色する。


では、セロハンを重ねるとどうみえるか?


緑、赤、青を重ねると、そのさきに、透過した光は、何の壁の陰の部分でも、黒くみえるはずである。

つまり、透過された光は、他の波形に移りようのない黒の波形であるといえる。

この三色を色の三原色とよび、この三色ですべての色が表現できるといわれている。

しかし、実はこれはウソで、三原色をいくら重ねても、白はできないのである。

これで白をつくるのなら、光エネルギーを強くするしかない。


さて、ここから、本題に戻る。

太陽を物体にあてて、つまり色素に反射させることで、色が認識できるなら、

空気には、色素がないといえる。空気の中には、水が気化したものが含まれているが、

それには色素がないのだろうか?


答えはないである。


考えて見てほしい。もともと金色の物体を溶かして、それが、液体になるだけならその色は変化しないと

直感的に思える。酸素などと化学変化を起こした場合は、

これにあたらないが、物質の状態変化では、色素はそのままであると推測がつく

固体から液体、液体から気体になっただけで、色が変化して見えるというのはおかしいのだ。

氷、水もともに透明であるなら、これが色素のない状態だとすると、

水を気化して色素が急にできるというのは、直感的におかしいのである。

もちろん、空気を見てもわかるとおり、透明にしか見えない。

ところが、水も氷も水蒸気も、ときどき白くみえる部分があるのがわかる。光沢と呼ばれているものだが、


これはなんなのか?


色素がないのなら、完全に透明に見えるのではないのか?

色素がなくても、白く見えるところがあるのだ。これは、実は物体の色素ではなくて、形のほうによる現象である。

こういうのを、波の現象で言うところの「全反射」というのだが、ちょっと事情は複雑である。

ようは、物体の面の形と、入り込むときの光の角度があえば、完全に反射するのだと理解しておけばよい。

このとき、白色光では、それは、白に見える。


つまり、物体の色素によらず、全反射するところでは、光源の光の色が見えるということである。

ただし、全反射するところとは、実際は、物体の表面ではない、その内側となる。つまり、

物体の表面の粒子を透過した光が、その先の層の粒子で反射し、

物体の表面の粒子に全反射するときのことなのであるが、先にも書いたが、このことを全反射と書くので、

これは教科書的には、厳密には正しくない使い方なので注意である。表現が長いので間違いを承知で、そう書いていた。


とにかく白くみえるという光沢というのは、物体の表面の形によってきまるといってよい。ただし物体の種類にもよる。


上にも書いたが、この光沢というものを、変化させる要素がある。


それは、光源の色である。


では、ためしてみてほしい。透明なペットボトルや光沢のあるもの。できるだけ円のように曲がった表面をもつものを、

緑色の光にあてて、暗闇で見ると、一番あかるく緑色に見える部分があるのがわかる。

その部分は、まるで、白色光、つまり蛍光灯や太陽の下で、そのペットボトルを見たときに見える光沢と

同じように見えることがわかるだろう。ただ違うのは、それが緑色で表現されていること。

これで、全反射で見える色は、その物体の色素に関係なく、透明でも黒でも何色でも、光源の色に見えるということがわかってもらえたと思う。


蛍光灯や太陽が白色光であれば、水蒸気も水も氷も部分的に、白く見える光沢ができる。

これが、雲の色である。つまりあれは、光源が、白色光で、水蒸気の光沢部分を見ると、光源の色である白が見えているのである。


ここで、疑問に思う、いくら空気の層が厚いとはいえ、水蒸気の光沢は、

白でなければおかしく。それ以外の部分は、透明に見えるのが普通なのである。


でも青く見えるのだから、青い色素があるとしかいえない。


以上で、空の色が青であるのは、青の色素が空の上のほうにあるからであり、それらに光が、透過、反射して、

目の中に飛び込んできているためであるということがわかってもらえたと思う。


だから、最初の結論、空が青く塗っていあるということを示せたことになる。


では、なぜ、夕方になると、水色からオレンジ色に変わるのだろうか?層はおなじもののはず。かわることがおかしい。ずっと水色で、

真っ暗になるという変化ならまだしも、オレンジ色や赤色に見えるといのは、光源の色が変わっているとしか思えない。

では、なぜ光源の色がかわるのか?色は、変わっていない、最初から、あのオレンジ色なのである。

変わっているのは、光エネルギーの強さ。つまり明るさが落ちると、先の理由により、元の色がわかってしまうというだけの

ことである。光源の光が、簡単に染められてしまうのだ。それが空に反射すると、オレンジ色ともとからの空の色である、空色とが

まざって、きれいな夕焼けに見えるのである。


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