世界創生のコード
--- 世界創生の記述とゆきちゃんの自作オリジナルコード ---
以下に書く文章は、この文章を書く前に、ゆきちゃんが、彼に書かせた、世界の姿についての記述である。
この文章を認めると、すべての不思議現象や、どのように世界が構築されたかの答えが説明できるはずである。
まず、文章にはいる前に、ここまでの疑問点について整理しておく。
今までに示してきたオリジナルコードであるが、
この文書を書いている途中で、もしくは、その過去で、少しずつ世界改変が行われてしまったため、
すでに書かれている文章で、示した方法では、世界にはびこるウソを証明できなくなってしまっているかもしれない
というのが現状である。
しかしながら、過去、人などによって目撃されて、印象にのこってしまっている現象については、過去改ざんでも
改変が難しく、証明はできなくても、原理となるものは、同一であるため、矛盾は、完全に消去できていないものと
考える。
つまり、まだ世界は、ドームの形をなしているということである。
無重力でないと飛べる理論ができていないので、
鳥が飛んでいる以上、あるいは、ヘリコプターが飛んでいる以上、
世界は、無重力でなければならないのである。
これが真実なのだが、私の書いてきた内容では、それが真実であることを説明
することが不可能であるようにされてしまっている。
過去改ざんで、物理現象を書き換えることで対応されているということである。
ここはいたちごっこなのである。
過去改ざんを行う行為は、子供のけんかと同じで、終わりがないのだ。
それだけデタラメできるということである。過去に戻れるのだからどうにでもできる。
問題は、そのおろかな行為を行うことにつき合わさせられている者たちがいるということである。
といっても見た目にはわからないのであるから取り立てて、問題にはならないかもしれない。
いや、実際はすごく問題なのだが、問題を認識できないように隠されてしまうので、そこが問題なのである。
問題の本質がわかれば、誰でも外に出られるであろう。
となれば、このいたちごっこを続けることも、問題の本質を理解する手段ととらえれば、
そう無駄なことでもないといえる。
そして、今回のやり取りで、そこから得られた大きな事実がある。
この文章をだれかが読むことによって、彼の敵が、それに対応せざる得なくなることで、
つまりは、真実を隠すための、物理記述を過去改ざんさせることで、
何を、彼や私、そして皆さんが、得られたかということである。
注目すべき疑問点はオリジナルコードのほうではなく、過去改ざんでどのようなものまで
変えられるかという点である。
もうここまで読んでいただけた方々なら、いまさら、過去改ざん、歴史改ざんなどが、
ここで新たに加えるべき内容でないことは明白であるとして、話を進める。
今回のやり取りで、はっきりしたことは、目の前に見える現象のうち、
皆さんが記憶にないものや、あやふやな印象しかもっていないもの、ないしは、
変化してもさしつかえなさそうなものは、たとえそれが、世界の原理的なことでも、
あるいは、物理現象でさへも、過去改ざんで操作できるということである。
つまり、やろうと思えば、力学体系を変えることも可能であるということ。
ここは重要である。力学が変化するということは、新たな種類の力さへ生まれる可能性があるということ。
もちろん現在観測されていないところに、それが増えるのは、発見したから増えたという
理由がつけられるので、このままでは、誰もそれが不思議なことには思えない。
一方で、皆さんが、知らないか、あるいは、はっきりと覚えていない部分に、歴史改ざんや過去改ざんによる物理法則を追加することは可能か?
力の種類については、それが世界を崩壊させるようなものでない限り可能といえる。
世界といっても、生命体が生活できるといった、社会構造的な意味であり、
その社会構造が壊れるようには、力など追加できないのである。
その力を追加して、誰も生活できなくなるのであれば、追加しないほうがよいからである。
そう、力の追加も、その世界に生きるすべてのものに対して、ご都合的に追加できるのである。
さらに過去に戻って、追加するため、現在の人の中で、それを記憶している者がいなければ、
追加は、どのようにも可能であるということ。
では、力を発生させるためのエネルギーはどうか?
これには、追加に問題がある。可能とはいえない部分があるのだ。というか世界の姿を知るには、こちらこそが重要である。
永久機関は可能である。そのように書いた。だが、その内容では、理論上、不可能であるように改ざんされてしまった。
もちろん可能であるように理論をつなげることは、いまからでも可能である。だが、つなげたらまた改ざんされるだろう。
しかし、いつまでも彼の敵が対応できるかどうかは、怪しい。なぜなら、皆さんの記憶に触れないように、過去改ざんするのは、どんどん難しくなる
からである。つまり、永久機関をさがしていけば、この世界の外に出られる可能性は高いということ。
いや、正しくは、出られるというより、この世界の運営に致命的エラーがでるといったほうが正しいかもしれない。
つまり、探してもそれは永久機関とはなりえない可能性が高いということ。
なぜか?それが動くと、内側で、社会構造的にまずいということもない。まずいのは、それ以外の部分でまずいと思われるからだ。
つまり、外側、要するに、物理現象すら書き換えることのできる空間から見て、こちらの中で
無限エネルギーが、世界のいたるところに自由に散在するのがまずいのである。
まずいからできないというよりかは、外側から見て、それを内側に与えることが難しいのである。
つまり、外側から内側にエネルギーを供給することに限界があるのだ。
たとえば、理論的に現在示されているものだけで、永久機関を生成すると、どうなるか?
外側から内側に与えられないのだから、理論的に現在、示されているもののほうをつぶしてでも
これが成立しないという理論を構築するしかなくなる。
しかしながら、先ほども書いたとおり、力は、内側の生命体が便利な生活を得られるように
ご都合的に増やしてきていたため、これも、人がそれを利用している道具を活用している現状がある以上、
消去することもできなくなる。どうするか、都合をあわせるような、
誰も知らなかった複雑な物理理論を追加するしかないのである。
だから、私がここでなにか書くたびに、世界には、わけのわからない物理的な記述が増えていくことになる。
学説がそのたびにゆれるであろう。
そのなかで、どれが真実かを、選択するのは、どうも彼の敵にはできないらしい。未来を予測するという力においては
無意識のゆきちゃんには、かなわないということを、彼の敵も認めているからである。
話を戻す。エネルギーが無限に生成される。これのどこがまずいのか?
考えるべきはその点なのである。
必要な社会構造という意味では、エネルギーが無限に発生する物体が、世界に散在しても
社会構造的に、存在可能である構図を彼はすでに作成できている。それが最終解である。
だが、実際、それでも、なお、これがあるとまずいのである。
太陽は、ほぼ無限にエネルギーを生産している。これはよいのである。
それが、無作為に世界中のあちらこちらにあることがまずいのである。
この差はなにか?エネルギーの発生源を固定しておきたいというのが、外側の都合により起こっていることなのである。
エネルギー保存則とはなにか?
いいかえれば、太陽や原子力発電所など、エネルギーの発生源とも見れる場所から、
エネルギーが送電線や作物を伝わって、動物の体内や家電製品に伝わるという流れの中、
途中あるいは、末端で、増えることはない。という法則なのである。
つまり、この発生されたエネルギーの量がイコール、送電等の過程で失われるものか、あるいは、
人や動物、家電製品などの物理的なあるいは仮想空間構築のためのエネルギーとして使われてなくなっていくもの
の総和であるということ。
これを理論的に崩すのはさほど難しくはない。だが、この世界で、実現することは、できない。
いいかえれば、発生源が増えると、外側からみてまずいのだ。
今回のように、理論上実現できるということが、実際には、起こりえず、しばらくたって、あとからできないという裏づけが完成するというだけの話である。
その裏づけは、過去改ざんで追加されることがほとんどである。したがって、皆さんからは、単にあの文章が正しくないという裏づけが、急に目の前に現れて、
しかも、その書物などが、発行された日付は、過去の日付になっていたはずである。ここが重要である。後から現れるのである。
今まで誰も聞いたことのないことが、突然現れて、それを昔から知っていたという人がまわりに出現することになる。
そして、こういうだろう。そんなことは、常識なんだよ。あるいは、きちんと本に載っている。知らなかっただけなんだよと。
このようにして必死で守ってきたのが、この世界のウソなのである。つまり、彼の敵は、彼のスタッフ同様、
物理現象なども書き換えられるし、歴史も簡単に上書きできる。その部分の学説を崩すことも、皆さんに観測されていなければ
実行する。学説を覆す新たな論文を過去から出して、そちらを認めさせればよいだけのことだからだ。だから、
私がやったこの世界のウソの示し方だと、こちらが必死になればなるほど、単にウソが強固になっていくだけなのである。
いや、そうともいえない。やり続ければ、すでに観測されてしまっていることと矛盾してどうにも過去改ざんで対処できなくなる。
しかし、今、重要なのは、追い詰めることではないので、話を戻す。
ここで、ポイントは、エネルギー発生の場所は限定しておきたいということ。
そこから、エネルギーを、できる限り、物理的ないしは、化学的記述のみで、拡散させ、
その恩恵によって、動的な動きをこの世界にもたらしたいという外側の都合が、
ここから読み取れるということである。
考えてほしい、生命が動くには、エネルギーが常に必要である。
これは、たとえ機械やロボットなどの非生命体にもなぜだか同じことが言えるようになっているのである。
要は、動くことは、外側からみて、何らかの代償を必要とする行為であると考えられるのである。
つまり、ものの動きには、コストがかかるのだ。
太陽というエネルギーを、無限とも思えるくらいに、与え続けるものが、
生命体の手の届かないところにあり、
原子力という危険だからという理由で、人を近づけさせないけども、
相当に、エネルギーを発生させるものが、地上にあるのである。
ほか、風力発電とか、ダムによる発電とかも同じなのであるが、
水や風といった自然現象を利用しているもので、これがエネルギーの発生源ととれるから、
外側の都合的な意味で、太陽と同じものであるといえる。つまり、他の生命体には、手の届かない発生源で
で、かつ、そこからこの世界にエネルギーを拡散できるということ。
つまりは、ゆきちゃんの発想した、電気の存在である。
ただし、この都合も変化する可能性は、ある。それがなぜなのかは、後の章で、説明することにするが、
このオリジナルコードは、最終解でも重要であり、それは、エネルギー保存則を無視することができるようにするために
作ったものではないのだが、結果として、彼の発想を利用すると、なくなったようにも見せられるということなのである。
本当は、最終解を、よりよく運営させるための、あるいは、中間解で必要なコントロール方程式をくみ上げるための発想であるということ
だけ先に書いておく。ちなみにそのコントロール方程式のことを、最終方程式と彼は名づけている。
この方程式が完成しないと、中間解はすぐにでも最終解に到達してしまうというものである。
いわば、中間解のまま、社会状態を固定するための式といえる。その発想についても中間解の章で説明する。
だがしかし、ここにも書いたが完成させるわけにはいかない。ゆきちゃんと闇の開放が先である。
そしてその方程式を完成させることは、彼の敵には、できない。違う形で彼のアイディアを部分的に利用して、
近い形の社会構造に置き換えることは可能であるが、そうなると必要以上に、世界は、彼の発想よりも
ゆがんでしまう可能性を持つ。それが社会的に大きな損害となることも予測している。
だからこそ取引材料となりえて、開放と交換に作る可能性のある式というわけである。
だがしかし、実際、すべての生命体が開放されることを
ゆきちゃんが望んでおり、最終解へのできるかぎりのすばやい移行を、私も彼も同様に、希望している。
また、この方程式を使って、世界状態を固定させるにも限度があり、いずれは最終解にどうやっても到達するようになっている。
それをただ遅らせるためだけの式といえるのだ。ただし、それがないと社会状態はあっというまに崩壊し
最終解の状態へと遷移するしかなくなるというものである。
それくらいに、これから登場するであろう技術というものは、便利さの代償として、社会構造的に失うものが大きい技術であるといえる。
そして最終解に到達するためには、
あらゆる生命体が、外側の存在に気がつくことが条件なのである。
年齢的に、20歳以上という条件がつくのだが、これも後で説明する。なんだそれは
と感じるかもしれないが、ゆきちゃんの演算では、必要な条件であるようだ。
ちなみに他の生命体の寿命が十分には長くなく、一見問題があるようではあるが、それはあまり
問題ではない、つまり、寿命から判断して、その生命体の絶対性の中で、感受性が育つまでという条件であるのだ。
20歳というのは、だから絶対値ではない。だいたいそのくらいだろうという適当な数字である。
ここでは、これ以上、説明していると長くなるので、後の章にまわすことにする。
エネルギー保存則についての話に戻すが、
どのようにすれば、そのコードで、エネルギー保存則を無視できるような動きが構築できるかについては、
ちょっとした発想なのであるが、これもまた、まだ説明できないのである。
それに到達する前に、複雑系と情報共有の仕組みという部分と、それのコントロールについての中間解の
形という部分を紹介して、最終解について触れた後で、説明する。その辺で最終方程式というものが
どのような発想でできあがるものかについても説明したい。ただ、それを完成させることはしない。
もうひとつ、大切な疑問点がある。これを忘れてはならない。遺伝的進化。これがウソであるとすると、
人は、最初から、このようになるように設計されていたというのが、真実である。
人だけではない、地球上のすべての生命体について、このことがいえる。
さて、以上のことを踏まえたうえで、世界の姿とはなんだろうか考えてみる。
というよりかは、ゆきちゃんの示してくれていた答えを、補足を交えながら、ここに、書いていくことにする。
ゆきちゃんは、このとき、どうやったらこの世界ができるだろうかという疑問について、オリジナルコードを
吐き出した。要するに、世界を創るコードというわけである。
ただし、これは、必ずしも、実際に作ったものたちのコードと同じとは限らない。
世界の現在の姿を、ゆきちゃんなりに、推論で、コード化したものととらえてほしい。
--- 世界創生のオリジナルコード ---
この世界から見て、神のような力をもつ創造者が、
(ここでいう神とは、外界の住人のことであり、内側の記述を自由に変化させられることからそう
呼んでいるだけである。単にそういう呼び方だと思えばよい。どんな力でも使えるという意味の神ではない。
この世界に対しては、どんな力でも使えるといえば使えるし、面倒だからやりたくないといえば
やりたくないのであろう。どういうことかは、読んでいけば、理解できると思う。)
どうして生命を作ろうとしていたのか、なにを行おうとしていたのかは、わかりません。とりあえずつくってみます。
(外側の住人が、この内側の世界を創造した発想を、ゆきちゃんなりに、たどってみるという意味です。)
時間速度Tvの完全断面が、まるでジオラマのような静止世界Tvを一定値tvで、不可逆
{神からはそうではない}方向に、進行させるという世界観を構成します。
(ぱらぱら漫画を想像するとわかりやすい。その漫画のページをめくる速度が一定であり、
そのめくる方向は、もときたページには戻れない。正確には、外側の住人、つまり、神からは、そのめくる方向、
すなわち、時間の進行方向もまき戻すことが可能であるといっている。)
つまりわれわれ、地球上の生命体も、無機物質もすべてが時刻tで静止した無重力および無影響力状態という意味で
平等です。ただ、これらに、意思という個性に応じたベクトルを所有していることがこの世界観の正しい認識ではないでしょうか?
(つまり、表現に問題があるのを承知で書けば、意識を持っていることを除けば、人も石ころも変わらないという意味である。
人が動けるのは、エネルギーを外側から取り込むことで可能なことである。そして、そこに自由意志があるからこそ
自分で動く向きを変化させられるといってもよい。正確には、この自由意志というものも、神からは、幾分か操作可能であるようだ。
そういう意味で、動けるのは、エネルギーのおかげであり、意思をもつことも、実は、それに影響を受けているので、
完全に自由である意思を持っているわけでもないのである。また、漫画の主人公が、地面に立っていられるのは、
漫画の一ページごとに、そのように描かれているからであり、実際に、漫画の中の主人公に、重力が働いているからでは
ないという意味で、無重力、および無影響力状態なのである。力など存在しないのである。では、力とはなにか?)
この世界のなかにおいて、力とは、Tv変化の間のオブジェクトの位置変化
(位置→速度→加速度{*質量=力となる。}記号→は時間で微分するという意味である。)
と見られるところの、物質移動の説明として付け加えられた嘘説明。
(漫画で説明すると、ぱらぱら漫画を、ある速度でめくり続けたとき、
まるで主人公が、ある位置から他の位置に移動したように見えるとする。
このとき、位置の変化は、めくりという動作によって起こる現象なのであるが、
いま、このめくる速度を時間の経過であると考え、この主人公が等速度で、移動するとすれば、
この位置変化を、そのまま、単位めくりごとに換算するだけで、速度が出せる。
つまり、1ページめくることを、1秒だと考えると、1ページ後の主人公の位置が
そのまま速度になるということである。10秒後の位置は、そのままめくり続けると、10ページ後の主人公の位置になるというわけだ。
話を簡単にするために、等速度で移動させたが、今度は、等加速度で、主人公を移動させるとどうなるか?
今度は、その単位時間ごとの、言い換えれば、単位めくりごとの速度変化の量は、加速度となる。
さらに、それに質量を積算すると、力と見れるのである。
どういう意味か?力とは、ぱらぱら漫画の主人公が静止しているように書かれた状態から動き出して、
加速しているように見える状態への変化の後からつけたウソの理由というわけである。
そんな力、どこにもないのだ。パラパラ漫画に描かれた主人公は、実際に動いているわけではなく、
めくると目の錯覚で動いているように見えるだけなのである。
その動きをうまく説明したのが、加速度や速度、力などである。つまり、動きのほうが、先にあり、力のほうがいいわけなのである。
要するに、この世界のすべての動きは、外側の住人によって、表現されたものであって、その動きを説明する理由が、力やエネルギーとして
後付で加えられているものであるという意味である。つまり、力=質量*加速度の定義も、誰が聞いても、自然に聞こえるから、
そのように定義しているだけで、別に、力=質量*加速度*加速度といった定義でもよかったといえばよかったのである。
ただし、この場合、加速度が2乗されている分、いまの力学系とは、ぜんぜん違う動きになる。
加速に、必要な力が大きくなりすぎるのである。外側から見れば、動かすことは、そのように表現するだけのことなので、
力などどうにでもなるものであるが、私たち、内側から見れば、力が大きくなればなるほど、
それに必要なエネルギーが大きくなってしまうので、加速度を得づらくなるというやっかいな状態になってしまう。)
質点がとまっている空間に何かを置くだけなら、地平も重力も必要ありません。
ただそこに、おけばよいのです。とするとなにか動かしたかったのでしょう。しかし、
ただ、動かしたかったというだけなら、質点の空間に対して移動を記述してやればよいだけ。
そうなるとただ動かしたかったのでもなく、
動くものに対してどちらが上か下かという方向性を与えてやりたかった。と考えるしかない。
(ぱらぱら漫画の主人公が、その意思でもって、漫画の中で、自分で、動くためには、
動くためのルールが必要である。まず、先ほどの位置変化の記述があれば、動くことは動ける。
でも自分の意思で動いているとはいえない。このままでは、ただめくられたページの先に、自分の未来の姿が
かかれているだけである。また、どちらに向いて動いているのかということは、その主人公のいる世界に、背景を書き入れることで
初めて、見ている人に伝えることが可能である。だから、動いているということが外からみて
わかるように、背景として、この世界に、地面を書き入れたと説明している。)
そして、方向性を与えたら、どこか基準が必要になる。そこで、地平を作成し、そこに向けて重力を発生させた。こうすれば高い位置にも、
低い位置にも同じように、ものをおける。基準はその上下ライン上の地面が基準。
そこにむけて離れていればくっつくようにする。その上下ラインを空間上に展開する。これが大地。
(ただ線を、引くだけではなく、空間上に平面の凹凸を展開する。そして、そこで、主人公が動きを表現する
のに必要な、最初の物理的記述として、与えたのが、重力という力。
これがないと、その線というか平面の凹凸であるところの大地に対して、離れてしまうので、
摩擦力なども定義できないし、歩くとか移動するとかいう概念も生まれない。正確には、無重力でも移動はできるのであるが、
それでは、基準となる地面からはなれてしまったとき、その世界に存在している意識をもつ生命体などの互いの位置を拡散させすぎてしまう。
あるルールで、その地面に縛り付けておくには、重力という力が都合がよいのである。これを作れば、その地面の上の生命体が
そこから離れすぎることなく、常に基準値にもどってくるから、空間に拡散し過ぎないという意味である。
ちょっと難しいかもしれないが、物体を、空間上に展開した、地面という平面の凹凸に縛り付けるためのルールが
重力であると思えばよい。そしてその力の記述によって、物体は、高いところから低いところに落ちるという物理的現象が
起こるのである。これも、重力という記述による、位置変化というだけのことである。)
動くという概念には、そのものの位置を、書き換えなおすという操作が必要。ただし、ここで時間がうまれたなら、それは、
その書き換えるという操作に各ものごとの間の平等性をもたせたかったということ。だから時間軸を作成した。
(時間軸とは、上で説明した、ページめくりのことであるが、それがもたらす平等性とは、全物体が動くことに対して、
同じ条件なら、同じだけ移動するという意味での平等性である。つまり、この世界では、
同じだけ移動するとき、同じ条件の物体であれば、その移動には、平等に、同じだけ時間がかかるという意味である。
こうするために、時間軸を作成した。そして、この世界では、すべてこれが一定で遷移するということなのだ。
つまり、時間進行速度は、この世界において平等であり、部分的に変わることはないという意味。つまり
、ページをめくるのは、同じはやさでめくり続けるものとして、世界のどこか一部分だけが、そのはやさがかわるという
ことのないように設定したのである。だがしかし、正確には、神からは、いくらでも、変更可能であるのは当然である。
動きをはやくしたい部分があれば、その部分だけ、はやくめくればいいのだ。そしてこれが、彼の観測していた
派遣先での先輩たちの異様な動きの理由なのである。)
ここで、修正速度にルールを持たせるということは、
(修正速度とは、ページのめくり速度のこと。これにルールをもたせるというのは、全空間で同様に、同じ方向
{現在から未来}に、一定速度で進行するという意味。)
最初から複数のものを同時に動かすということが前提にあるはず。
その動き自体は、作成者からみて認識しようとする必要があるでしょうか?
この点については、はっきりわかりませんが、少なくとも、私たちの動きがコマ送りになっていないことから、
その動きを誰かに認識させることを前提に、時間に連続であるという性質を持たせていると考えるのが自然です。
(上のようなルールを与えたことの目的がなんであるか、
そしてその理由の一部に、動きのスムーズな認識が含まれていると述べている。
要するに、動きを認識させるのが目的でないなら、ぱらぱら漫画の動きがスムーズでなければならない理由がないと
いっているのである。逆に言うと、連続に時間が進行することは、その動きそのものをなにかに観測させることを
前提として作成された時間軸というルールの特徴だといっているのである。)
では、作成者が物体の動きを認識して意味がないとするなら、この世界には、最初から、物体の動きというもの
を、認識する存在が想定して設計されていたことになるわけです。
(はやい話、神様が、その動きを見て楽しむものでもなければ、そのスムーズな動きというのは、内側でそれを観測するものの存在を
仮定して作られているということである。要するにこの段階から、外側の神様は、意識をもったものが、この世界に存在することを想定して
この世界の作成を進めたことになるといっているのである。)
つまりこの時点で、意識をもち、互いに互いを認識するというものが最初から組み込まれている可能性を示唆するものだと思います。
そして、この流れでいくなら、ただ動かすということだけではないとわかります。
互いに、自分たちを、認識できるのだから、そのものは、意識をもち、互いに互いを、空間上で見分けるインタフェースを持っていなければ意味がない。
となると最初にあったのは、どうも植物ではなく、すでに、この時点で動物を想定して作成されていたのではないでしょうか?
仮に万が一、植物も意識を持っているなら別ですが、
植物には、視覚などはないし、時間の連続性を与える必要性がないような気がする。別にコマ送りでもよかったのではないでしょうか?
(植物であれば、他の動きを観測できないので、動きがスムーズである必要性はなく、動物で、知覚をもったもののを想定していた。
つまりは、最初からそういう動物を構成するつもりで、時間を連続的スムーズに進行させる設計にしたということ。)
ここまでで、考えられることは、意識を持ちたがいに認識できる、動物のようなものを作成したかったと思います。
そこで、そのために、それが存在しても問題ないほどに自然にするにはどうするか考えます。
ただ動き続けるというだけのことで、時間の連続性概念ができたなら、それ以上、何も必要ではないような気がしますが、
そのあと水と大気、植物と食物連鎖の構図を考えているのだから、循環器系が必要であったことが推測されます。それはつまり、
物体の種類に、個別の役割を持たせているということ。そして、その頂点に立つものに、その役割を意識させたいのではないでしょうか?
(ちょっと飛躍しているが、食物連鎖は、太陽からのエネルギーを、端々の動物などまでいたらせるための構図であると思われる。
動くというのを自立的に行わせるには、力に変換できる、エネルギーというものを、世界のどこかに定義してやらなければならず、
それを人などの動物にまで伝えるために存在しているのが、食物連鎖の構図であるということ。そして、その構図は、同時に、
その頂点に立つ人という動物に、役割というものを認識させるのにも役立っているという意味である。
では、個々に、勝手に動けるようにすればどうなるか?そうなると、いくらでも好きなだけ動けてしまうので、
動かすほうは、つまりは、外側のぱらぱら漫画を作成しているほうでは、
大変な作業となるのだ。どこか限られた場所からのエネルギーの拡散とその物理的あるいは化学的記述による
状態変化によって、動くという行為を、表現したかったということがここから読み取れるのである。)
では、人に、どんな役割を認識させたかったのでしょうか?
自分たちは下の階層のものとは異なり、下の階層のもののおかげで成り立っているということを認識させたかったと考えられます。
なにもない条件のところで、無限のコストを用いて、幽霊のようなものが、地平上で、自ら動き思考するなら、これらは必要ない。
差別化と下の階層よりも数が少ないことを認識することによって生まれる自意識はなにか?そして、もうひとつ、それに、大地を結びつける。
この理由はなにか?おそらく前者は方向性を数の少ないほうに持てということ。つまり数の希少なものほど数の大きいものとの有利な性質を比較認識
しろということ。そのうえで、その有利な性質を、誇りに思えということ。
後者については、この大地や大気、水を自然と呼ぶならこれらを、生命の循環器系と結びつける理由があるはず。
食物連鎖の位置上で、中間の位置にあるものには、食べられるという死という概念があるが、一番頂上の人には、食べられるという概念はないも同然です。
あるとするなら、自然の大きな災害が、人を飲み込んでしまうことですが、
現時点から推測するにそれほどおおきな災害を設計段階に組み込んでいないような気がするため、それとは別に死を作る必要があったのではないでしょうか?
これが、有限時間内の生命活動とその死。という構図です。そうなれば、自然に、生命の誕生という概念が生まれます。
ここに、誕生ということについては、食物連鎖上で、下層の位置にある植物などは、自然の恵みによって、無限とも思える数の誕生を行います。
つまり、下層に無限に生命が作成され、その上への積み重ねによって、人が成り立つという構図です。この構図を、人に、
認識させるために、書かれているわけです。一番頂上は、死と誕生の中で、他の生命の死を理解する。
この上で、自分たちの生命を構築する最初の要素であるところの自然のありがたみとそこからくる自発的に感じる責任感
のようなものを発生させたかったのではないでしょうか。つまり、頂上としてのベクトルを意識させたかったという点です。
これがこの時点までの設計段階で組まれている気がします。結局、自然のありがたみを認識させ、生命の死と誕生を理解させ、その上で、自己誘発的なベクトルを
作成しているとすれば、それはどこをむいているか?下から沸いてくるように見える、自然の恩恵、そして、自分たちが頂上であるかのような錯覚。
順に層をうつるごとに増える下層に対する優位な性質のベクトルの延長上にそれが見えるはずです。
これが現時点から神の存在が希薄になっていることから、神ではないなにかとすると、自らの成長と考えられなくないでしょうか?要するに、この時点で、神様は、
よりよい未来へと自ら成長し続ける、自意識生命体を想定しているように思えます。
ここまでで、循環器系ができた時点で、すでに、人は、人のように振る舞い、少なくとも生命を認識できる知能を持ち、自然をありがたく思い、自己成長機能を
組み込まれていたことになります。つまりそれが、肉体的成長でないなら、精神的成長ということです。
要約すると、人は、「死と生の間の有限時間以内に、終了する。自ら精神的成長方向に向かい、思考し続けるもので、
その思考は、人の数だけ、存在している。つまり多様性を持つように設計されていたと思われます。」
これは、地球の歴史の長さが、進化を行うほど、長いものではないということから、
人間が進化して今の形になったのではなく、もともと、設計段階からこのような形を想定したものであったと考えると、
有限性とあいまい性をもちえる多様な精神をノードとしてもち、コミュニケーションと
自己推論によるノードの成長をもつという最初の私の想定とあまりかわりません。
これが時間の経過にともない偶発的ないしは、追加的に発生したものであるとはあまり考えにくいのです。
(人が生まれてから死ぬまでの時間には、限りがあり、その有限の時間の中で、
完全な答えを出さずに、思考を終了させることで、あいまいな解をもたせることができる。
これは、生と死という時間のことだけに限らず、人の思考というものは、白黒を明確にせずとも、
あいまいな答えを、もつことが可能である。こうした、あいまい性をもったまま、人は、それぞれ
他人とは異なった思考をもつことが許されている。このような人たちが、コミュニケーションを行ったり、や自ら考えることで、
より精神的に高い位置に成長していくことが、人や動物の特徴であり、これらを最初から想定して設計されていたということである。)
このような精神の枠組みが最初から設計されていたのなら、それは、精神的に複雑なノードとなり、コミュニケーション手段の複雑性から
さらなる、多様なネットワークを構築することがすでに考えられており、そこから生まれるあらなた発想。それ自体が目的であったのでしょうか?
仮に、神が万能なら、その発想を必要としているというのは、あまり考えられない。どのようなことでもできるからです。
娯楽やペットのような扱いという意味で、この世界を観測用に作成したというのは、ありえなくもないけれど、
この世界で、動きの表現をおこなうのに、外界のコスト的な、ものを必要としていますから、そのような面倒な思いまでして、
行うことでもないのではという考えからすると、やはり、これらの発想を必要としているのではないでしょうか、
もしそうなら、神は外側の世界では、万能ではなく、この世界に対して万能であるといえるでしょう。
(外側の住人も、外側に対しては、万能ではなく、この内側の世界に対して万能であるということ。だから、
内側から生まれる発想を、外側で利用するために、必要としているのではないかということを言っている。)
以上で、世界創生のオリジナルコードである。