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母は急性アルコール中毒だと診断された。それは倒れた時の様子からティエラディアナにも想像はついたが、しかし次に続いた医者の言葉は想像すらしていないものだった。
「生まれつき心臓の弱い方でしたから、アルコールはお控え下さるよう再三進言申し上げたのですが」
「……母の心臓が悪かったなんて、お恥ずかしい話ですが私は今この瞬間まで知りませんでした」
「奥様は気位の高いお方です。私共も固く口止めされていましたし、ご自身もそうとは思わせない立ち振る舞いを続けていらしたことでしょうから、お嬢様がご存知なくても無理もありません」
うなだれるティエラディアナを気遣うよう、初老の医者は笑いかけた。だからと言ってティエラディアナは自分が許された気にはまだなれなかったが、先程からずっと疑問に思っていることを尋ねる。
「父は……そのことを、母の心臓が弱いことを知っているのでしょうか」
「奥様ご自身が打ち明けていらっしゃらないのであれば、旦那様は未だご存知ないかと思われます」
「そうですか……」
ティエラディアナは深く息を吐いた。
おそらくは父もその事実を知らないに違いない。知っていて、こんな仕打ちをするほど冷酷な人物ではないと思いたいというせいもあるが、母なら打ち明けてはいないような気がした。
ここに来て、また色々なことが見えて来る。
母は自分が平均より長く生きられないことを知っていた。
そう思えば母の行動の数々にも納得が行くような気がする。母には時間がなかった。だからミハエルを手に入れることに必死だったのだろう。
けれど母が自由にできるのは、あくまでも母の人生だけなのだ。どんな理由があったとしても、他人の恋人を権力に任せて奪って良いという免罪符にはならない。
だが母がひた隠しにしていた真実を知ってしまったティエラディアナは、もう母を責めることもできないでいる。
一時的に症状を抑える為の薬を置いて医者が帰ると、家の中は再びティエラディアナとシェラフィリアの二人だけになった。
ひんやりとしたシェラフィリアの手を握りしめ、けれどティエラディアナは生きた心地がしないでいる。
父ミハエルはもう帰らない。
恋人――束の間でも、そう呼べる存在であったとは思う――ジークハルトは自分の手で突き放した。
母の娘時代から仕えてくれていたエバンスとアンナ夫妻は母が解雇してしまった。
そして、周りに残った唯一の存在である母シェラフィリアもまた、ティエラディアナを置いて行こうとしている。
母の実家に連絡をしなければと思い至った。祖父母はすでに領地で隠居生活を送っていたが、王都内にはラドグリス家の全てを取り仕切る伯父が住んでいる。
もちろん彼らはシェラフィリアが心臓に負担を抱えていること自体は知っているだろう。
だから略奪愛という形であろうと彼女の願いを叶えたのだ。
手紙を受け取るなり駆けつけてくれた伯父の計らいでティエラディアナは母と共に、伯父が管理するラドグリス家の別宅の一つに移り住むことになった。
エバンスとアンナもシェラフィリアに一方的な解雇を言い渡されてすぐ、伯父を頼って世話になっていたらしい。シェラフィリアが倒れたことを知り、一緒に来てくれると励ましてくれた。
両親が離縁した話は瞬く間に社交界に広まって行くことだろう。表向きは大恋愛の末の婚姻という形になってはいるが、ミハエルの愛人の問題もある。醜聞の揉み消しという厄介事を押しつける結果になってしまい心が痛んだが、伯父はシェラフィリアの我儘を通した日から分かっていたことだと笑った。
手伝えることがあれば何でもすると申し出てみても、ティエラディアナは自分の幸せをだけを考えればいい、そう言われては引き下がるしかない。
荷物をまとめる際、積み上げられている新聞の束を部屋の隅に見つけ、ティエラディアナは無意識にそちらへ向かった。上から順に日付を確認し、とある日付のものを探しはじめる。
――そう。亡くなったの。
無感動を装いつつも堪え切れない愉悦に満ちていたシェラフィリアの声が頭の中を何度もよぎる。
目当ての新聞を見つけ、震える手で開いた。社会欄の片隅に、欲しかった答えそのものがある。
『フェルドラータ伯爵夫人、馬車の事故により死亡』
――俺はジークハルト・フェルドラータ。
初めて会った日の、自己紹介をするジークハルトの声が蘇った。
答えは最初からティエラディアナに提示されていたのだ。けれどティエラディアナはそれを見ようとはしなかった。ぬるま湯の中で一人、偽りの幸せに浸っていただけだ。
ティエラディアナが名乗った時、ジークハルトはどんな気持ちだったのだろう。憎い男と女の娘がのうのうと現れ、吐き気がするほどおぞましかっただろうか。それとも、母であるフェルドラータ伯爵夫人の仇が討てると喜んだのだろうか。
見たくもない顔を見て、向けたくもない笑顔を向け、呼びたくもない名前を呼び、囁きたくもない愛を囁き、抱きたくもない女を抱く。
ティエラディアナと過ごした日々は、ジークハルトにどれだけの苦痛をもたらしていたのか。考えるだけでも心が凍りつきそうになる。
時折、ジークハルトの表情が曇るのはティエラディアナが持つラドグリス家の名に後ろめたさを覚えているせいだとずっと思っていた。だが本当はラドグリス家そのものではなく、ミハエルとシェラフィリアの影がそうさせていたのだ。
それを何も知らずに、愛があるのなら家柄の差なんか二人で乗り越えられると思い込んでいた自分は、どこまでまやかしに目が眩んだ愚かな娘だったのだろう。
「……ふふ」
ティエラディアナの唇から思わず笑みがこぼれた。
かつて――おそらくは今も――母が憎悪した女性の子息にどうしようもなく惹かれ、かつて父が愛した女性の子息を愛した自分は、紛れもなくあの二人の間に産まれた子供なのだと思うと逆におかしかった。
フェルドラータ伯爵夫人によってラドグリス家は支配されていて、母の略奪劇から約二十年後にラドグリス家は崩壊した。
ティエラディアナはジークハルトを苦しめただけだった。在りし日のシェラフィリアと同じだ。自分の愛情だけが全てで、相手の気持ちを省みることすらしようとしなかった。
どれだけの言葉を並べて詫びようと償いきれるとは思えない。けれど、もう二度と目の前に現れたりしないから想うことだけは許して欲しい。
この期に及んでもティエラディアナは、ジークハルトへの想いを捨て切れなかった。
空気も良く静かな土地での暮らしは荒れ切ったシェラフィリアの心を癒し、以前のような華やかさはなくとも母娘二人で落ち着いて暮らしている。
ティエラディアナが戻って以降、シェラフィリアはアルコールを口にすることはなくなった。倒れたことも原因の一つではあるのだろうが、ここ最近の穏やかな顔つきを見ればアルコールに逃避する必要がなくなったことが最も大きな理由なのだろう。
母が捨てたと嘯いたブレスレットも家を出る前に見つけ出していた。突き返されるかもしれないと心配した母のかつての宝物は、再び母の右手首を飾っている。
やつれてはいるが、まるで憑き物が落ちたかのように佇むシェラフィリアはまさに白百合の名に相応しくとても美しかった。ミハエルもこの姿を見ていたらきっと愛を育むことができただろうに、もしもを思うと残念でならない。
両親はどこでボタンを掛け違えてしまったのだろう。
最初から、なのだろうか。
けれど両親がボタンを掛け違えていなかったなら、ティエラディアナはきっと生まれてはいなかった。仮に生まれていたとしてもジークハルトと出会うことはなく、今頃は有力貴族の元へ家同士の繋がりの為だけに嫁いでいたに違いない。婚姻の相手としてジークハルトと巡り合えるなんて、仮定でも想像することはできなかった。
どちらが、より幸せだったのだろう。
そんなことをふと考えてみたところで答えは決まっている。
ジークハルトに会えなくても両親が幸せそうならその方が良かっただなんて、恋に狂った後のティエラディアナには思えなかった。
親不孝な娘だと思う。
一方でその身勝手さも、ティエラディアナが紛れもなく両親の娘である証拠の一つのような気がするのだ。
月に一度のそれが来た時、ティエラディアナは軽い絶望を覚えてしまった。本来なら迎えているはずの時期を過ぎても来なかったから、もしかしたらと淡い期待を抱いていた。
だが、ここ最近続いていた心労の影響で遅れていただけだったようだ。
ジークハルトの子供を身籠っていて欲しかった。
けれど、これで良かったのだろう。愛情を注いでくれるはずの父親がいない寂しさはティエラディアナがいちばん分かっている。自分の我儘で、愛する男との間に授かった子供に辛く苦しい思いをさせてはいけない。
知らないところで自分の血を受け継ぐ子供を勝手に生まれても、その子供と会うことはなくともジークハルトだって困るだろう。
でも、それでもと未練がましく下腹部に手を当てる。彼の子供をこの身に宿すことができたなら、どんなに幸せだったことか。
ジークハルトに別れを告げた時、もう二度と恋を失うことはないのだから泣かないと決めた。
だけど同じ恋を二度失ったら、どうしたらいいのだろう。それは決めてはいなかった。
その場にしゃがみこみ、ティエラディアナはさめざめと泣き濡れた。
これで本当に終わってしまった。ティエラディアナとジークハルトを繋ぐものはもう何もない。
忘れなくては。
忘れられなくても、忘れて生きて行かなければ。