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 二週間振りに戻った家はまるで人の気配がなかった。


 異変にはすぐ気がついた。ポストの中に三日分の新聞が入ったままになっている。普段なら執事頭のエバンスが毎朝取りに来ているから溜まることなどないはずだが、体調を崩して休暇をもらったりしているのだろうか。

 だが仮にエバンスが休暇中で不在なのだとしても、誰も取りに来ないのはあきらかにおかしい。第一、少なくとも母がいるのだ。主がいる状態で職務を放棄するような、あまつさえ、ラドグリス侯爵家には新聞を取りに来る者さえいないと喧伝しているに等しい行為を取るような人間を雇うはずもない。


 不気味なほどに静まり返った家の中には執事もメイドも、誰一人としてティエラディアナを出迎える者はいなかった。ただアルコールの匂いだけが辺りに充満している。

 一体何があったのか。リビングに近づくにつれ強くなるアルコールの匂いが嫌な予感を掻き立てる。


 カーテンが閉め切られて薄暗いリビングのソファーに母が寛いでいた。ティエラディアナに気がつくと見慣れた美しい顔で微笑む。


 母は変わってはいなかった。

 ――テーブルや床の上に無数の酒瓶が転がっていること以外は、何も変わらない。


「あら、お帰りなさい、わたくしの可愛いティーナ。貴女はちゃんと、お母様の下に帰って来てくれたのね」

「……二週間も、家を出ていてごめんなさい」


 ティエラディアナは窓辺に向かうとカーテンと窓を開け放った。先程まで見ていたはずの陽の光がやけに目に痛い。

 目を細めながら母の元へ戻り、床に転がった瓶を拾い集めていると母に頭を撫でられた。

 そんなことをされたのは何年振りだろう。まるで記憶にない、本来なら親愛を示す行動から反射的に逃げ、母を見つめる。

 しかし母は気を悪くした様子もなく、やはり笑みを浮かべるだけだった。


「いいのよティーナ。貴女が帰って来てくれただけで、お母様はもう何も望まないわ」

「エバンスと、アンナは……?」


 古株の執事とメイドの名を挙げて彼らの居場所を尋ねる。しかしシェラフィリアは赤ワインの注がれたグラスを引き寄せ、中身を一息に煽った。


「皆、三日前に辞めてもらったわ」

「辞めて……っ!? どうして? 何があったの?」

「何もないわ。でもそうね、強いて言うなら辞めて欲しかったからかしら」

「どうして……」


 エバンスとアンナの夫婦はシェラフィリアが幼い頃から勤めてくれていた。シェラフィリアの両親が忙しくて構ってやれない時もシェラフィリアの傍にいて、第二の両親のようなものだと言っていたではないか。

 それも、演技だと言うのか。

 分からない。血が繋がっているはずの母が、こんなにも遠い存在に見えたのは初めてだった。


「お父、様は……? 帰って来てはいないの?」

「貴女のお父様なら、もう二度と帰っては来ないわ」


 シェラフィリアはガラステーブルの上に広げられた紙の端を、まるで汚らしいものであるかのようにつまんでティエラディアナへ差し出した。いつでも美しく整えられていたシェラフィリアの指先のマニキュアが剥げている。

 そこにわずかばかりの違和感を覚えたが、目の前に突きつけられた文字がティエラディアナの思考を奪った。


「離縁願い……」


 破れないよう注意して受け取った紙には、父ミハエルの名がすでにサインされていた。

 ティエラディアナの全身から見る見る力が抜け落ちて行く。

 いつか、そうなることくらい目に見えていたではないか。ティエラディアナが十七歳であることを思えば、逆に今まで良く離縁せずに夫婦としての体裁が保たれていたと奇跡に思えるほどだ。

 けれどもティエラディアナはその、家族三人の繋がりを象徴するかのように薄っぺらい紙切れを呆然と眺めた。


「ティーナ……わたくしの可愛いティーナ。貴女も、ミハエルと同じようにわたくしを裏切るのね? あの忌々しい女と同じ家名を持つ男に誑かされて、わたくしを騙して嘲笑っていたのね?」

「嘲笑うとか、そんな……」

「いいのよティーナ。わたくしは知っているの。わたくしはずっと嘲笑われていたのよ。ミハエルにもあの女にも貴女にも社交界にも。ねえティーナ、知っていて? わたくしはずっと一人で観客のいない、照明も当たらない舞台で踊り狂う惨めな道化にしか過ぎなかったの」


 シェラフィリアと向き合い、ティエラディアナはようやく違和感の正体に気がついた。

 右手首にいつもはめられていた細い金色のブレスレットがなくなっている。父や愛人を詰る時ですら……いや、詰る時こそとても大切そうにしていたではないか。


「お母様……ブレスレットはどうなさったの?」

「捨てたわ、あんなもの。わたくしにはもう必要ないもの」

「捨てたって……いつ、どこへ?」

「さあ、いつだったかしら……。そんなこと全く覚えてないわ」


 そして母はこの場には到底似つかわしくない、夢を見る少女のように可憐な笑みを浮かべた。


「あのブレスレットはね、わたくしが十五歳の時に、とある夜会の最中に壊れてしまったのを貴女のお父様が直して下さったものだったの。わたくしの大切な宝物だった。ねえティーナ、知っていて? わたくしは、あんなものをずっと、ずうっと宝物にしていたの」


 シェラフィリアの告白はティエラディアナに強い衝撃を与えるには十分すぎた。

 今の母が身につけるには幼いデザインのブレスレットは母が十五歳の時のものだった。

 ティエラディアナは今までずっと思い違いをしていたのだ。


 母シェラフィリアは、父ミハエルを愛してなどいないと思っていた。

 ただ自分の思うようにならないミハエルが憎くて、自分の幸せな結婚生活を捨ててまで結婚したのだと。結婚してもまだ思うようにならないミハエルが憎くて憎くて、離縁はしてやらないのだと。


 でも真実は違った。

 シェラフィリアはミハエルを愛していたのだ。

 誰よりも深く、強く。

 ただ、誰よりもプライドの高かった母はそれを伝える術を知らなかった。


 シェラフィリアは女優だ。

 ずっとミハエルを、ティエラディアナを欺き続けていた。

 そして――おそらくは、シェラフィリア自身をも。

 シェラフィリアこそが女優だと分かっていて、ティエラディアナは分かった振りをして何も分かってはいなかった。


 ブレスレットなんてシェラフィリアの立場ならいくらでも、もっと高価なものを好きなだけねだることができただろう。ミハエルだって、夫婦仲が険悪であろうと装飾品の一つや二つ、プレゼントしたことがあるはずだ。

 にも拘わらずシェラフィリアが大切にしていたのは、おそらく初めて出会った時の思い出の品だった。


 ――違う。値段の問題なんかではない。


 ティエラディアナは首にかけたままのペンダントをワンピースの布地の上から強く握りしめた。

 ジークハルトが露店で買ってくれたそれを、ティエラディアナだって大切に思っているではないか。それと全く同じことだ。

 いちばん幸せで、いちばん美しい思い出を象徴するものが大切なのは誰だって変わらない。


「――貴女のお父様は、ミハエルは、最後までそのことに気がついてはくれなかった」

「お母、様……」


 ぽつりと呟く母の頬を、一筋の美しい雫が伝う。

 叶わぬ恋を誰にも気づかれることなく一人で抱え続けて来た母に、ティエラディアナは自分を重ねずにはいられなかった。

 いつかジークハルトが他の女性と幸せになったと聞いた時、ティエラディアナは正気を保っていられるだろうか。

 嫉妬に狂い、不幸になってしまえばいいと願わずにいられるだろうか。


 そんなことは無理に決まっている。


 ――そう。亡くなったの。


 ずっと忘れられないであろう母の表情と声が何度も脳裏をよぎった。

 それは、数年後にはティエラディアナの顔で上書きされる可能性も十分にあるのだ。


 自分から一緒に歩く幸せを投げ捨てたのにジークハルトの幸せを願いながらも、同じかそれ以上の強さで不幸になればいいと、すでに思ってしまっている。あれだけの愛情をもらっておきながら、ティエラディアナは最低な女だ。


「ティーナ……だからわたくしは、あの男だけはダメだと反対したのよ」


 本当に望むものだけは手に入らない失望を覚え、そう遠くない未来に自らと同じ場所に立つことになるかもしれない娘に慈しむような視線を向け、シェラフィリアは新しく注いだワインを煽った。

 さすがに飲み過ぎだとティエラディアナが止めようとした時、シェラフィリアの手からグラスが滑り落ちた。それから、シェラフィリア自身も重い音を立ててソファーに倒れ込む。色を失った顔に大量の汗が浮かび、危険な状態であることは一目で見て取れた。


「お母様……っ! 誰か、誰か来て! エバンス! アンナ!」


 咄嗟に大きな声で呼んでから、もうこの家にはティエラディアナ以外誰もいないと気づいた。

 一刻も早く医者を、呼ばなくては。

 震える足を叱咤して立ち上がり、玄関へ急ぐ。何度も足をもつれさせて転びそうになりながらも必死で門を開けて通りへ出た。


 でも誰に助けを求めればいいのかさえ分からない。早くしなければ母の命が危ないと分かっているのに、誰に縋るべきなのか分からなかった。

 ラドグリス家の威光を纏ってもなお、ティエラディアナを守ってくれる人物は現れない。


 どうしたらいいのか途方に暮れ、しかしすぐに首を振った。

 ティエラディアナはラドグリス家の娘として生きて行くほかはない。そして今やらなくてはいけないことは自分が置かれた境遇を悲観することではなく、母を助けてくれる人を探すことだ。


 徒歩で十分ほどかかる距離に、以前診てもらった医者が開業していることを思い出す。

 今のティエラディアナが唯一頼れるであろう希望の光を見い出し、固く唇を引き結んで歩きはじめた。



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