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 どこで見たのか、埋もれた記憶をゆっくりと手繰り寄せて行く。やがてまだ幼い自分とシェラフィリアの姿が浮かび上がった。


 あれは十年ほど前だろうか。

 背伸びをしてみたくて、ほんの少し色気づきはじめた少女の大半がそうであるように、ティエラディアナも母のドレッサーが大好きだった。目元を飾る為の色鮮やかなパウダーに心を弾ませ、一本の口紅に心をときめかせる。母のドレッサーは宝箱のようでティエラディアナを夢中にさせた。


 そして引き出しの奥にしまいこまれた一枚のハンカチに気がつき――その状況で誤解をするなという方が無理な話なのだが――母の私物かと思って見せてしまった。若く美しい母は絹で織られた白いハンカチを何も知らず無邪気に差し出す娘から受け取ると、淡い青で丁寧に刺繍されたそれを見せながら自慢気な顔で教えてくれる。


 ――これはね、ティーナ。貴女のお父様を奪われた哀れな令嬢のご実家の紋章なのよ。わたくしが勝利した証の代わりとして今も大切に持っているの。


 七歳のティエラディアナに母の言葉の持つ意味など分かるはずもない。ただ、子供の目から見ても分かるほどに両親が不仲である理由だと悟った。おぼろげでぼんやりとした推察が正しかったと知ったのは、家族三人が揃って観劇に行った以降の話だ。


 母は他にも何か言っていなかっただろうか。

 肖像画を見つめ、さらに深い場所まで思い出そうとしてみても令嬢の名は浮かび上がって来なかった。

 けれど名前も知らないその令嬢は、とある貴族男性の元に嫁いだのだと母が言っていたことを思い出す。そしておそらくは幸せに暮らしていると母は笑った。

 ティエラディアナの記憶にあるのは、そこまでだ。


 あの頃より少しは大人になった身で考えれば、それ以上を話す必要がなかったから話さなかっただけだと分かる。

 シェラフィリアはもちろん、令嬢がその後どうしたのか、今どうしているのかを知っているはずだ。略奪を果たしたことに満足して終わりにするとは思えなかったし、シェラフィリアの目の届かない場所でミハエルと令嬢が二度と会わないという保証はどこにもない。

 何しろシェラフィリアの状況とは違い、彼らは愛し合った末に結ばれようとしていたのだ。結びつきを強引に引き裂かれただけであって互いの愛が冷めたのではないのだから、ほんの小さな芽がどれだけの脅威に育つか、さぞやシェラフィリアを苛んだことだろう。


 それを裏づける根拠になり得るかは分からないが、少し前にあったではないか。ミハエルの愛人問題で張り詰め続けていたシェラフィリアが口元を歪め、めずらしく楽しそうな様子で呟いた日が。


 ――そう。亡くなったの。


 あの時、旧知の友人が不慮の事故で亡くなったと言っていた。

 そしてティエラディアナと出会う一週間前に、馬車の事故で亡くなったというジークハルトの身内。


 心臓が早鐘を打ちはじめた。

 ティエラディアナの中で全てが一本の線に繋がった。

 だがティエラディアナが今この瞬間に知ったばかりのことを、ジークハルトは最初から知っていたのだ。


 ティエラディアナが自分の母親から愛する男を奪った、恨んでも恨み足りない女の娘であることを。

 ティエラディアナが自分の母親を簡単に捨てた、憎んでも憎み足りない男の娘であることを。


「そう……だったの……」


 不思議と涙は出なかった。一つの事実がティエラディアナの胸に落ち、そのままするりと染み込んで行く。


 これは恋人を裏切ってしまった父の罪。

 これは自分だけを愛した母の罪。


 何よりも……何も知らずに、知ることから目を背けたティエラディアナ自身の罪。


 ――あの男はやめなさい、わたくしの可愛いティーナ。


 家を飛び出す前の、母の言葉を思い出す。

 当たり前のことだがジークハルトについて調べた母は、彼の母親が誰なのかを知っていた。

 だから事実を知った時にティエラディアナが傷つかないように、まだ比較的傷の浅い今のうちにこれ以上の深入りをしないことを強く何度も勧めたのだ。


 母の性格を鑑みれば、自分にとって不都合な過去を今さら思い出したくはないという理由がなかったとは言い切れない。

 それでも、母としてティエラディアナの心配をしてくれたことも、きっと事実であることには違いないのだろう。


 肖像画を前に言い訳も謝罪もできないまま、どれだけの時間を過ごしていたのか分からない。だが玄関の方から物音がして、ジークハルトが帰って来たことは分かった。


「ティーナ?」


 ジークハルトが名を呼ぶ声がする。

 おそらくは帰って来てもティエラディアナが姿を見せないから探しているのだろう。


 早くこの部屋を出て、何も知らない振りを続けなければ。


 そう思うのにティエラディアナの身体は見えない強い力で抑えつけられているかのように動けなかった。

 ティエラディアナは悟る。


 ――この幸せな生活も、もう終わりなのだ。


 ティエラディアナはジークハルトと過ごした二週間を自らに刻み込むよう目を閉じて、開け放たれたままのドアの向こうにジークハルトがやって来るのをじっと待った。

 少しずつ近づいて来る足音が、不自然に開いているドアに気がついたらしく止まる。審判の時が来たのだと息を飲むティエラディアナの前に、ジークハルトが顔を見せた。ティエラディアナの震える手の先にある額縁に目を留め、その顔を一瞬曇らせる。


 それが、どんな言葉よりも明確な答え合わせなのだと思った。



「知って、たのね」


 ジークハルトが何も知らなければいいなんて、虫の良すぎる期待はいともたやすく打ち砕かれた。主語もなく、問いかけとも言えないような呟きに対し、ジークハルトは頷いて見せる。


「母本人からは聞いてないけど、母方の祖父母からね。母は可愛がられていたし、親としては許せないだろうと思う」

「……そう、でしょうね」


 それは当然の感情だろう。

 ティエラディアナはしっかりと拳を握りしめた。そしてジークハルトを見た瞬間、たちまち散らばってしまった覚悟を掻き集めるように大きく深呼吸をする。


「母が……いいえ、両親がジークのお母様にひどいことをしてしまって、本当にごめんなさい」

「それが事実だとしても、ティーナが謝るべきことじゃない。君が俺の母に何かしたわけではないのだから」


 ジークハルトはどこか苦しそうだった。

 それはティエラディアナが謝ってしまったからなのだろう。


 何もしていないティエラディアナがシェラフィリアやミハエルの代わりに謝罪をしたせいで、ジークハルトは彼の母が受けた仕打ちの一部を許さざるを得なくなったのだ。

 ティエラディアナは謝るべきではなかった。だが、知ってしまっては謝らないではいられない。それならば知るべきではなかった。

 そうして突き詰めていけば、たった一つのことに行き当たる。


 ジークハルトに縋る為に、ここへ来るべきではなかった。

 何も知らないなら知らないまま罪を重ね続け、いつかジークハルトに断罪される日を待つべきだったのだ。


 今となってはそれも叶わない。ならばティエラディアナは、それがたとえ自己満足の行いでしかないのだとしても、自らに罰を与えるしかないのだろう。


「一つだけ、聞かせて欲しいの」


 最後に聞いておきたいことがあった。ティエラディアナが声を振り絞れば、ジークハルトは何を、とは聞き返さずに答える。


「母は、とても優しい人だったよ。いつも笑っていて幸せそうだった」


 記憶を手繰っているのか、どこか遠い場所を見ながら語るジークハルトの顔は穏やかなものだった。

 初めて会った時、ジークハルトは亡くしたばかりのフェルドラータ伯爵夫人を追悼する為にバイオリンを弾いていた。失われた彼女が優しい人だったから、彼女の死を悼む優しい人にティエラディアナは恋をしたのだ。


「……それなら良かった」


 真実がどうであれ、ティエラディアナたち三人の罪が軽くなるわけではない。だがフェルドラータ伯爵夫人は幸せな状態で安らかな眠りにつけたのだと、そう思っていてくれただけで救われた気がした。

 何もかもが自己満足だと分かっている。


 その、幕引きも。

 ジークハルトからの断罪を恐れ、逃げるのだ。

 一転した憎悪の感情をぶつけられたくないという、その一心で。


 だけどいつか忘れられるなら、いっそのこと憎まれる方が良かった。最も奥深い場所にいられるのであれば、誰よりも強く憎まれることすら喜んで受け入れられるだろう。

 そんな自分勝手な願いを抱いてしまうくらいに、愛しい。


「私……家に、帰ります。今までありがとうジーク。短い間だったけどすごく楽しくて……誰よりも幸せでした」


 言われる前にと自分から別れの言葉を告げた時、初めて涙が頬を伝った。


「ティーナ……黙っててごめん、でも、俺は……」

「大丈夫だから、私のことはもう気にしないで」


 ジークハルトの言葉を遮り、ティエラディアナは涙を拭いもせず笑顔を見せた。

 自分でも何が大丈夫なのかは分からない。

 だけど最後は笑っていようと思った。


 もう泣かないと、たった今決めたのだ。

 彼以上に愛せる人は、この先二度と現れない。

 彼以上に自分を愛してくれる人も、同じように現れはしないだろう。

 だから恋を失った痛みに泣くこともこれが最初で最後だ。


「――さようなら、ジーク」


 自分の幸せではないから、そう願っても許されるだろうか。


 お幸せに、愛しい人。



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